2012-03-31 06:27:10 balkrishnaの投稿
さる3月27日、静岡インド哲学塾でギーター仲間が集った。
インドから久しぶりに帰国したインド人のSさんや、海外で生活しているMさんと、そのお友達も初めての参加となりました。
ここに参加する人達は、私がここで書いているこのアメーバーブログを通して、インド哲学バガヴァッド・ギーターの教えを学び、教えに沿った生き方を実践する為に集っているのです。
ここでの重要なことは、自主自律、独立自尊の精神を、各自が樹立する事を尊重していると言うことです。
そしてここで学ぶ事は。
1−自己とは何か、魂とはどんなものか。
2−何のために生きるか、その目的は何か。
3−全ての大原因である、創造主神クリシュナはどの様なものか。
4−その創造主神クリシュナと、自己との関係はどうなっているか。
5−物質次元と精神次元の違いとはどんな事か。
6−物質次元の三様式の存在とは何か。
7−生命体のカルマの法則とは。
8−物質宇宙と精神宇宙の存在について。
9−神々の存在と役目について。
10-創造主神クリシュナとの愛の交流とはどんなものか。
この様な、人間として生きる上で基本となる真理を学ぶ事であり、またその実践を通して、仲間と共に啓発し合うのです。
それは、物質次元から生起される、自己の苦しみの解放であり、輪廻を解脱してクリシュナに対する永遠の歓喜(サッチダ−ナンダ・ヴィグラハ)を目指すものなのです。
この集いで、海外で生活しているMさんとそのお友達は、久しぶりの再開であったようでした。
このMさんには、私は週2回定期的に4ヶ月ほど、ギーターを指導してきたのです。
その時、Mさんも人生の生き方を、色々と模索していた時でした。
それだけに、私のギーターの話を、驚くほど素直に聴き入れてくれたのです。
その甲斐があったのでしょうか、久しぶりに再会した友達の方が、明るく元気になられたMさんに、すごく驚き歓ばれたのです。
また、友達の歓びにルンルンしている姿を見たMさんも、更に元気をもらったとの事で、お互いが共感し合っていたのです。
また、インドから帰国して参加してくれたSさんも、塾長の鈴木さんが3か月前に会った時よりも、凄く元気に明るくなっている姿に大変驚いたと、感想を述べてくれました。
この様に私とギーターの話を聞いた人は、その人が気が付かなくても、自然と周りの人が気付くくらいに、元気になるようです。
この集いを通じて実感した事は、クリシュナのエネルギーは凄いものがあるのだな〜と、言うことでした。
そしてもう一つ、毎回参加しているS君は、私とクリシュナの話をしていると必ず、手の甲が熱くなり赤くなってしまうと、不思議がています。
この様に、クリシュナのエネルギーはいろいろな驚異を、実感させてくれるのです。
2012-03-30 07:46:59 balkrishnaの投稿
平成9年を境に、我が国の自殺者数が一気に3万人台に激増し、その後も3万人台を維持していると言った、異常事態が続いています。
この一気に3万人台に激増した年をみると、山一証券や大手銀行の破たんがあり、経済的に大恐慌に突入した年でした。
その後も、3万人台を割ること無く推移している事は、経済的には厳しい状況が続いている、と言うことなのです。
端的に言えば、生きて行くことが非常に大変な時代に突入した、と言うことを物語っていることなのです。
今の時代は貨幣経済であり、お金を稼ぐために仕事をしなければ生活できない時代となっています。
国がまだ一次産品国の経済で回っていた時代では、肉体労働でまじめに働いていれば、仕事にもありつけ生活はできたのです。
しかし今の時代は、企業自体も世界の企業を相手に、低賃金国との価格競争をしなければならず、結局そのしわ寄せが末端労働者に来ていると言うことなのです。
そのため、就職するのには非常に厳しい生存競争を余儀なくされてしまうという訳です。
そのうえ今では、高度な技術社会になっている為に、高度な知的や技術を必要とする労働か、逆に誰でも簡単にできる単純作業に労働形態が変わっているのです。
ここに学力格差による就職の壁と、生産技術の向上やOA機器の進歩によって、パートや派遣社員で十分であると言った、非定期低賃金労働が主流となってしまったのです。
一言でいえば、生活をしていくのには非常に厳しい時代となってしまった、と言うことなのです。
当然、高度な仕事に付いても、単純作業に付いても、いずれも精神的ストレスにさらされ、厳しい生存競争をさせられる状況になっている、と言うことです。
なぜ自殺してはいけないなのか、それは魂の修行をする為に与えられた肉体だからなのです。
人間は、魂の修行をする為に肉体と言う道具を与えられた訳で、その道具を自ら壊して、魂の精神修行を放棄する事になるからなのです。
自殺をしてしまう、という背景は色々あると思います、そしてその人達を救おうとする人もいます。
しかし、他人を救おうとする人も、同じ精神次元での救助であるならばそれは、一時的であり根本的ではないのです。
例えて言うならば、大海原で泳ぐのを諦めて溺れる人を、助ける人も同じ海で泳いでいるという事であり、その救助を精神的観点からすれば、物質文明の激しい大波にのまれての一時的な救助でしかないと言うことなのです。
この様に、社会全体が高度な物質文明であること自体がすでに、自殺者を救うことが非常に難しい世の中である、と言うことなのです。
その根本的解決を図るには、自分の考え方を物質次元から、精神次元の視点に変えての行動しかない、と言うことになるのです。
その精神的知識を得る為には、インド哲学バガヴァッド・ギーターを学ばなければ、それは不可能なのです。
2012-03-29 07:14:20 balkrishnaの投稿
悪魔的人間を二つに分けると、悪人と魔人に分けられるのです。
先ずは、悪しき行為はいろいろありますが、行動的なものとし表に出てくるものと、内面的なもので分かりにくいものとに大きく分けられます。
1−行動的悪しき事 暴力、盗む、威張る、怒る、貶す、罵る、咎めだてる、認めない、
2−内面的悪しき事 嘘をつく、騙す、妬む、憎む、怨む、欲張る、出し吝しむ、
行動的で表に出て分かりやすい悪しき行動をとる人を悪人と言い、内面的で分かりにくい悪しき事をする人を魔人と言うのです。
悪しき行為が、肉体的行動か心で思念する意志的かによって、悪人の行為なのか魔人の行為なのか、その判断基準となっているのです。
また人によっては、この両方を使い分けて、時と場合とによって悪人になったり、魔人になったりして、悪魔的行動は起こされるのです。
この比率が大きい性質によて、その人は悪人か魔人か、はたまた両方を持つ悪魔の人なのかが決まるのです。
また、これら悪しき行為は無自覚に行われるものと、意思を持って自覚して行うものとがありますが、今回は意志を持って行動するケースとして話を進めます。
魔人は一見分かりにくい存在ですが、その行動は潜行的で、魔人が悪しきたくらみを政治やマスコミを通して行なえば、社会全体に大きな悪影響力を及ぼす事ができるのです。
魔人は非常に頭の良い人たちで、自らの存在を分からなくする様に隠密に行動し、非常に策略的でずる賢いのです。
人々の心を蔭で操る事に頭を使い、その為には政界や財界や科学界や芸能界などに財力をもって、暗躍するのです。
この様に悪人と魔人の比較をすると、悪人よりも魔人の方が陰湿であり、また人々に対する悪影響力も非常に大きく、精神的進歩において大きな阻害になる訳で、その罪悪は悪人よりも魔人の方が遥かに罪深いものとなるのです。
その最大の罪悪は、戦争や民族紛争であり、それに巻き込まれた人々は最悪の悲劇となってしまいます。
これらを引き起こす悪魔的人間の行動は、その奥に秘められた領土や資源争奪の物欲が原点になっているのです。
2012-03-28 07:06:47 balkrishnaの投稿
悪魔たちの欲望は飽くなきものであり、常に増加し続ける。
彼らの魅力の対象は、性的快楽と富の蓄財、ギャンブル、飲酒、肉食であり、これら不浄の習慣(アシュチ・ヴァラターレ)なのである。
富と権力を持つ悪魔的人間たちは、科学、文化芸術、スポーツ、映画などに、○○賞と言った虚偽の栄誉を仲間たちに与え、物質文明社会をどんどん助長させていく。
彼らは地獄に向かって堕ちつつもあるのだが、逆に彼らは向上しているのだと思っている。
そして独自の神を創りあげ、自らマントラをねつ造し、勝手にそれらのマントラを唱えあっている。
人間文明に最も必要なのは、感覚満足であると彼らは信じているので、死に至るまで彼らの不安は計り知れない。
幾百幾千の欲望の網に捕えられ、情欲と怒りに浸りきり、彼らは感覚満足の為には不法な手段を用いても金銭を確保しようとする<バガヴァッド・ギーター16章11&12節>
悪魔的人間は、感覚満足こそが人生の究極目的であると、死の瞬間まで持ちつづける。
また彼らは、カルマの掟を信じていない為、肉体の死後に様々の生物体に生まれ変わる事を知らない。
そんな彼らは当然、自己の魂に寄り添うパラマートマーの存在も知らぬため、彼らの行為がすべて子細に見られているにもかかわらず、感覚満足の為にありとあらゆる罪を犯す。
この様な神の存在を信じない悪魔的人間は、来世はどの様な姿に生まれ変わるか、それを決定するのは至上主神バガヴァーンである事を知らない。
肉体の死後の個別魂は、優位の監督下のもとで特定の母体に入れられ、相応した境遇に生まれ変わる。
悪魔的人間の魂はくり返しくり仕返し悪魔の胎内に入れられ、最後には忌まわしい獣の体に移されていく。
クンティーの子よ、悪魔として転生を繰り返す彼らは決して、私に近づくことができない。
彼らは次第に堕ちていき、ついには最も忌まわしい存在となるのだ<バガヴァッド・ギーター16章20節>
これらは、インド哲学に書かれており神の定めた真理なのですが、それ故バガヴァット・ギーターを学ばなければ理解は不可能と言うものなのです。
2012-03-27 08:26:09 balkrishnaの投稿
クリシュナは人間の魂の発展の為に、四制四住期(ヴァルナ・シュラマ・ダルマ)を定めました。
四制(カースト制)とは、人間が仕事を通じて魂の修行をする為の職業区分であり、決して身分制度ではないのです。
この四つの区分は、肉体労働者(シュードラ)、商業、工業、農業などの経営者(ヴァイシャ)、軍事、行政、政治に携わる人達(クシャトリヤ)、科学者、設計者、文学者などの知識労働者(ブラーフマナ)に分けられ、おのおの仕事を通じて全ては、他者に奉仕と貢献することが義務付けられているのです。
その究極の目的は、この四つの仕事を通じて、社会や人々に奉仕と貢献することで、謙虚さや寛大さ、誠実さや忍耐の心を養う、精神修行をする為なのです。
この四つの、シュードラ、ヴァイシャ、クシャトリヤ、ブラーフマナの区分にも入らない、階層外階級がアウトカーストと言われ、野蛮人の位置づけになるのです。
一見、悪魔的人間は野蛮人と思われますが、それは違うのです。
悪魔的人間はこのアウトカーストの人たちではなく、ヴァイシャとクシャトリア階層にある者たちで、無知と激情に囚われている人たちなのです。
悪魔的人間は神の教えに逆らい、恣意的に自分たちの教義をつくり人々を支配し、感覚欲望を限りなく求める為に、社会に組織をつくりマスコミをコントロールして世の中を支配し、科学技術の発展に猛進するのです。
その為には、神の教えさえ利用して、人々を集め金を集めて権力の増大を図ることもするのです。
彼らは頭が良く、賢く動き回ります。
今の世の中は、人間の価値基準を、高学歴であると言うことを人間の価値基準としているところに、現代の混迷と矛盾をはらむ社会となってしまっているのです。
今の時代は、道徳や倫理、宗教心などの精神知識がないがしろにされていますが所詮、人間がこの世で生きる為の物質次元の知識は、肉体の表面に施す化粧に過ぎないのです。
魂の修行である人間性を養うのは精神的知識を得て、他者と社会に奉仕と貢献することであり、自己の欲望の為に、人々を搾取したり束縛したりすることではないのです。
しかし、今の時代は、過度に物質文明を発展させている為に、経済戦争に自然と多くの人々を巻き込み、苦しめているのが現状です。
物質文明がどんどん発展すればするほど、人間の心は神の世界からどんどん離れて行く、それが神が定めた厳格なる物質次元の掟なのです。
人間の不幸は神から離れる事にあるのです。
その掟を熟知した悪魔的人間は、その掟に完全に逆らって、人々を神の世界からどんどん遠ざけ、人々に激烈なる生存競争をさせ苦しめるのです。
そんな物質文明社会をどんどん推進し、人類を不幸にさせる人間こそ、悪魔的人間の本質なのです。
これらは、インド哲学に書かれており神の定めた真理なのですが、それ故バガヴァット・ギーターを学ばなければ理解は不可能と言うものなのです。
2012-03-26 09:37:16 balkrishnaの投稿
今日は、クリシュナの世界と対極にある、悪魔的(アシュラ)人間について書きたいと思います。
悪魔的とは一言で言うと、経典(ヴェーダ、マヌ・サンヒター、ウパニシャドウ)の教えに逆らう人間を言うのです。
その様な悪魔的な人の特徴として、矜持、自負心、尊大な態度、無知、怒り、この様な性質を持っているのです。
ここで言う無知とは、精神知識を持っていない事を言うのであり、他人に対する優しさ、寛大さ、謙虚さ、誠実さ、といった性質を有していない、と言うことなのです。
学校で教える一般教養や処世学をいくら身に付けていても、それは物質次元の知識であり、精神的知識とは全く関係ないのです。
精神的知識とは、道徳心や倫理観のことであり、これこそが人間として、完璧に身に付けなければならない性質なのです。
今の世の中は物資文明が高度に発展しており、優秀な成績をもって出世する人は、この悪魔的存在に陥りやすい危険があります。
彼らは、自分の教育程度や財産を自慢にして尊大であり、人から賞賛され尊敬される事を望んでいる。
世の人々の為に何をなすべきか、何をすべきではないのかを彼らは知らない。
何事も、自分中心の自分勝手であり自己保身を優先し、自分の思うように行動する。
この様な人間は、胎内にいる時からこれら悪魔的性質を備えていて、誕生して成長するに応じて、これらの不吉な性質が現れてくる。
クリシュナの精神指導は、人を解放に導き、悪魔的な性質の人は、人を束縛へと導く。
神聖なる人々は経典の教えに従い、悪魔的な人間は経典の教えに逆らい、逆に彼ら独自の教義を創りあげ、それに従って反社会的行動をしてでも、富と名声を求めようとする。
その様な教義に従って、正気を失い、知性も持たない悪魔たちは、世界を破滅に導く活動に携わる<バガヴァッド・ギーター16章9節>
またこの様な人たちは、感覚満足の為に常に発明を続け、物質的発明が人間の進歩だと錯覚している。
その発明の結果として、人々はより暴力的になり、他の動物に対しても他の人間に対しても残虐になる。
悪魔的人間は、他の生命他に対しても、また他の人々に対しても、どの様な行動をすべきか全く知らない。
そして最後は、人類が破滅するような物を発明し、人類を脅かす行動へと突き進む。
これらは、インド哲学に書かれており神の定めた真理なのですが、それ故バガヴァット・ギーターを学ばなければ理解は不可能と言うものなのです。
2012-03-25 07:45:46 balkrishnaの投稿
クリシュナの精神指導者とは、人々に精神知識の修得や真理に気付かせることにより、精神的に覚醒させ、物質次元の桎梏(しっこく)や、欲望からも解き放たせ、最終的にはクリシュナのもとに帰還させる指導をしてくれる人なのです。
逆を言うなれば、これらの事を完全にマスターしている人でなければ、人々を精神的に指導し、物質次元から解放させるはできない、と言うことなのです。
禁煙の出来ない人は、他人に禁煙の指導できないのと同じです。
この精神的指導の基本中の基本は、その人間性において、純粋(サッドワシュディ)、清浄無垢(パヴィトラム)の質性を有している、と言うことに尽きます。
それは精神的知識をどんなに沢山持っていても、それを行使する心根が歪んでいては、つまり欲望に囚われていては、正しく人々をクリシュナの精神世界に導くことは出来ないのです。
精神世界に導くとは人々に解放を与える事であり、指導者自身も当然、全ての物質次元から解放されていなければならない、と言うことです。
つまり食欲、性欲、物欲、名誉欲、支配欲の五欲からは、完全に解放されていなければならないのです。
その見極めとしては、人を集めて名声を得ようとか、布施を求めてお金を集めようとか、不純異性行為をしたりとか、この様な行為は絶対にあってはならない、と言うことなのです。
つまり、俗であってはならないと言うことなのです。
この純粋、清浄無垢の質性こそは持って生まれてくるもの(アビジャータスヤ)と、言うものであり、これは天性なのです。
本物のクリシュナの精神指導者は、クリシュナのもとに帰還させる為の使命を持って、クリシュナから使わされて降臨してくるのです。
それだけにこの、純粋、清浄無垢の質性はクリシュナの精神指導者を特徴づける、指導者としての得質そのものなのです。
丁度、シマウマのしま模様があるからこそシマウマと言うのと同じで、それなくしてはそのものとして認める事ができないほど、重要な要素なのです。
しかし、シマウマの場合は一目で普通の馬でなくシマウマと分かりますが、人間の場合は、指導者の知識の豊富さの方に圧倒され、肝心な純粋、清浄無垢の質性の方はマスキングされてしますのです。
しかし肝心な点は、人を集め、金を集め、不純異性行為などを、していないかを観ることであり、これらどれ一つとっても、その気がある人物は決して、クリシュナの精神指導者たる人物では無い、という見わけは付くのです。
また、男性指導者の場合は特に、家庭生活において夫婦円満であることが見極めの条件となります。
自分のいちばん身近な一番世話になっている女房を幸せに出来ない者が、他人を幸せにできるはずが無いからなのです。
本物の精神指導者像とはテーマ:私のエッセー
2012-03-24 08:01:42 balkrishnaの投稿
私は13年前、50歳の時にバガヴァッド・ギーターに出会いました。
それまでは、30歳の時から仏陀の世界、老子の教え、密教の世界と、三つの宗教を20年間学んできたのです。
その時までは、密教の教えが最高の教えだと信じて、ただ学ぶだけでなく、密教のお経である理趣経を毎日10年間あげ続けて、すべて暗記するまでに到ったのでした。
しかし、バガヴァッド・ギーターに出会った時に、その仔細にして深い真理の教えに、驚がくしたのです。
やっぱりそうであったか!、そうなんだよ!と感嘆の連続でギーターに読み入り、没頭しました。
どの宗教でも説かれていない、物質自然の三様式(トリグナ)の存在や、人間の緻密なる24要素の分析、魂に関する詳細な知識、そして創造主神クリシュナの御姿、御言葉、遊戯(リーラ)、神秘力と、その他まだまだ沢山ありますが、それらの深遠なる教えに、たちまち執りつかれてしまったのです。
バガヴァッド・ギーターは全ての宗教で諭している教理が包括されており、逆にいかなる宗教でも教えていない深遠なる真理が説かれているのが、魅力的なのです。
その時に稚拙ながらも、ギーターの勉強会を月二回のぺースで、5〜6名のメンバーで教え始めたのでした。
私は、教えに対する基本姿勢として、仏陀が説いている僧伽(さんが)の精神を基本としたのです。
その基本姿勢は、人間の正しい生き方の真理を、熱意を持って求めようとする善き友の集まりにあるのです。
人々を集めて組織をつくって拡大を図ったり、お金を集めて教会を造ろうとしたり、この様な目的は断じて持ってはならず、ただただバガヴァッド・ギーターの真理を学び、その教えに沿った生き方を共に目指す、善き友の集まり(サットワ・サンガ)としたのです。
そこに集まる人々を、真理に沿った生き方に立つ自主独立の精神と、自ら自身を尊敬する自尊の境地に導いてあげるのが、本物の精神指導者像なのです。
そして肉体にまつわる欲望から、また人生の桎梏(しっこく)から解放してあげ、自由な境地に導いてあげるのも精神指導者の責務なのです。
このブログ内検索で、精神指導者と検索しますと、20項目のブログがヒットされます。
それぞれのブログに書かれている、精神指導者のあるべき姿勢がたくさん記述されてますので、非常に重要な事ですから、ぜひ精神指導者と検索してみてください。
私の、精神指導者にたいする考え方の全てが、網羅されていると思います。
人を集めず、金(布施)を求めず、去る者は追わずテーマ:私のエッセー
2012-03-23 07:30:23 balkrishnaの投稿
人間の生き方における、重要な教えであるインド哲学バガヴァッド・ギーターを修得する事は、音楽再現における超低域の再生と同じくらい、ベーシックで非常に大事なことである、と言う事を昨日書きました。
ここで重要な事は、重低音の音は聴くのではなく感じる音である、と言うことです。
当然、重低音の低域部分はもう耳では聞こえている筈はないのです。
しかし、重低音がベースに漂っている事を感じるさせる音を耳は捉えているのです。
そして聞こえない音を感じているのです。
「聞こえない音を感じとる」この様に真理や奥義と言うものを言葉にしようとすると、しばしば矛盾した表現になってしまうものなのです。
この感じると言うことが非常に重要であり、言葉自体の意味もさることながら、その言葉を聴いての理解だけでなく、その人が教える深い教えを感じとることが大事なのです。
当然、言葉を聴く事において、スピーカーやヘッドフォーンの媒体を通して聴くのと、直接言葉を発する人から聴く場合と二つがあります。
言葉を媒体を通して聴くのと、直接その人の肉声を聴くのでは、その感じ方に格段の違いが出てきます。
特に真理について聴く場合と、単なる日常用語として聞く場合では、その違いが顕著に表れるのです。
つまり真理について、直接その人から聴く場合は、言葉の意味だけでなくその人自身が発するオーラに包まれながら感じとる事になるのです。
人間にはこのオーラの輝きを感じ取る直観が、備わっているのです。
当然、その直観も鋭い人と鈍い人がある訳で、これもその人の精神性の高さと非常に関係が深いのです。
精神性が高ければ高いほど、相手の言う真理の深さを感じ取ることができるのです。
それに言葉からだけでなく、その人の身振り手振りを含めた表現力やオーラからも、いろいろな想いや人間性を感じ取ることができるのです。
教えとは、教えを説く人の人間性そのもの、なのです。
究極的には、どんな教えを受けても教えを説く人の人間性に直接触れなければ、心底からわき起こる信頼性は生まれては来ないのです。
真理は言葉だけではないのです。
それだから精神指導者が必要なのです。
インド哲学バガヴァッド・ギーターはそれを解釈する人によって、どの様にも生徒を誘導できる危険も含んでいます。
それだけに最後は、精神指導者の欲を持たない純粋なる人間性が、ベースとならなければなりません。
私はその、欲を持たない純粋性を維持する為に、ブログの最後のほうに常に、次の言葉を宣言しています。
私の主義は人を集めず、金(布施)を求めず、去る者は追わず。
私はその人の、自主独立、独立自尊を求めます。
音楽再現の基礎はベースにありテーマ:私のエッセー
2012-03-22 08:24:26 balkrishnaの投稿
私はオーディオメーカー山水電気(株)に昭和42年に入社し、平成4年に退職するまで、25年間勤務してきました。
工場でステレオアンプやオープンデッキ等の製造と外注の指導管理を7年半、そしてサービス、セールス、そして所長と営業畑で17年半、体験してきました。
この営業時代に、スピーカーの最高峰である、アメリカのJBLの卓越なるクラフトマンシップに、触れることができたのです。
このJBLのスピーカーは山水電気が既に、昭和30年代から代理店契約を結んでおり、オリンパスやパラゴンがオーディオ・マニアには有名でした。
このJBLの音質の素晴らしさは、音楽表現力に富んでいると言うことに尽きるのです。
オーディオの世界は楽器の原音や音場を、如何に音楽性豊かに再現するか、にあります。
その音楽再生に一番重要な音域に、豊かな重低音(ベース)の存在があるのです。
低音部のベースは基本のベーシックと同意語でもあり、音楽再生の一番重要な音域であり、また一致番、音源のエネルギーを出す部分なのです。
この低域の再生能力に抜群の技術を持っていたのがJBLなのです。
重低音の再生におけるスピーカユニットは、アルニコマグネットの採用、エッジワイズ巻き・リボンコイル、特殊ダイキャストフレームを使用、独自のパルプコーン紙の開発と、ユニットの各部位における素材からオリジナル技術まで、全てに吟味し尽くされた情念が伝わってきます。
この低域には、重低音の音楽表現だけでなく、高域部の音楽表現に非常に大きな影響力を与える、高調波エネルギー成分が含まれており、この高調波成分によって超重低音の感じる音を醸し出すのです。
これはスペックには顕われてこない、聴感上のおける音楽再生技術の世界であり、これこそがJBLの魅力なのです。
当然、音楽構成の中音域や高音域の音質や音場表現力は言うに及ばずでが、しかしそれも低域再現における高調波処理の秘技があるからこそ、中高域の音楽再生が光り輝くのです。
一度、4ウェイシステムの最高級スタジオモニター4350のウーファー(低音スピーカー)を駆動せずに聴いた事がありました。
そしたら小型のスピーカーシステムの貧弱な音での表現力しかなかったのです。
例えて言うならば、ノートパソコンで音楽を聴くようなものでしょう。
再度、低域アンプの電源を入れたら、今度は度肝を抜かれるほどの大迫力の臨場感あふれる、音楽性豊かな再現力となったのです。
私はこの様な体験から、私たちの生き方にも共通した真理があるのではないかと思うのです。
それは、人間の生き方のベースである、万古不易のインド哲学バガヴァッド・ギーターの真理を学び身につける事こそ、光り輝く人間の生きる姿が出てくるのではないかと思うのです。
音楽場再現において、重低音は控えめで目立たない存在ではあるが、この目立たない存在があるからこそ、他が際立ってくるのです。
その一例ですが、重低音(ベース)が全体を浮き上がらせる 素晴らしライブのYOUチューブ がありました、これを聴いて私はこのブログを書いたのです。(全体に重低音のベースの効果が出います。特に3分5秒からのベースが凄く良いです)
<注ーパソコンについているスピーカーでなく、音質の良いヘッドフォーンでお聴きください>
聖なる意志にクリシュナの采配を観るーマ:私のエッセー
2012-03-21 08:03:48 balkrishnaの投稿
私は現在63歳と2カ月が経ちました。
私は時々過去を振り返り、今の自分を創りあげてくれた出来事や人との縁起を思い出し、今迄の軌跡をたどることで、これから先の自ら果たすべき使命を確認するのです。
この過去を振り返る事により、今時点で自分が目的とする道を正しく歩んでいるかどうか、今迄の縁起を十分生かしきっているかどうかを、しっかり認識する事ができるのです。
その使命の一つとして、私はバガヴァッド・ギーターの教えを多くの人に諭し、人々を物質次元の桎梏から解放してあげ、精神世界の自由で歓喜に満ちた境地に導いてあげるのが、一番大事な使命と思っています。
そして、人々を精神的解放に導くだけでなく、私の教えをどんどん広めてくれる精神指導者を育成するのが、最終目的なのです。
その為に私は、平成23年の5月16日、結婚記念日でもあったこの日を機に、このブログを毎日書く事を決意したのです。
このブログは、バガヴァッド・ギーターの教えを分かりやすく解説しており、また私の人生体験によるエッセーがその柱となっています。
そしてまた、インド哲学塾の教材として使うようにと、意図しているのです。
このブログを書こうと思ったのは、バガヴァッド・ギーター無料指導で検索をしたところ、ある方がこのアメーバーブログで、ギーターの指導を希望されていたので、それでこのブログで書くきっかけとなったのです。
このブログを書くことは、私の毎朝の修行となっています。
この様に、毎日ブログを書きつづる事や、スカイプでギーターの指導をしている事や、インド哲学塾を始めた事や、またバガヴァッド・ギーターを深く学ぶきっかけを得た事も、全て人の縁によって導かれている事であると実感しています。
この様に、世の中の出来事は全て、「因により縁が生じ、縁により果が生ず」の因、縁、果の縁起の法則で、成り立っているのです。
この中で一番大事な要素は因であり、自ら奮い起こす正しき生き方を求める聖なる動機なのです。
この自ら精神的に向上しようとする聖なる動機がなければ、人間は習慣と惰性と事象の反応で、振り回されて生存している犬、猫、猿と同等の動物に過ぎないのです。
どんなに勉強して一流大学をめざし、また一流企業に就職していても、自己の精神的向上にその努力が向けられないのであれば、それは単に肉体を維持する為の、動物本能の保身行動に過ぎないと言うことなのです。
この精神的向上の聖なる意志こそが、バガヴァッド・ギーターに出会える重要な要素となるのです。
超卓越なる技はクリシュナそのものテーマ:私のエッセー
2012-03-20 08:11:08 balkrishnaの投稿
来る3月27日に行う、静岡インド哲学塾に参加される生徒さんの中に、私と
20年以上も友達関係にあるMさんと言う方がおられます。
Mさんはその頃すでに、絵画や水墨画を永年趣味としてやって来られており、それから間もなく仏画も描き始められたのです。
その永年の努力と才能によって、去年9月に第51回静岡県芸術祭の最優秀作品に選ばれたのです。
<第51回静岡県芸術祭の最優秀作品>
この仏画を描くと言うことは、普通の絵画とは違い、神仏に対する
深い信仰心がなげれば、描こうとする気持ちすら起き得ないのです。
仏画を描いている時は、仏様と自らの内なる仏様が感応しあい、雑念をはらって妙心の世界に没頭する境地から、描かれるからなのです。
この仏様を描こうとする想いは、敬虔なる信仰心がなければならず、それは芸術的才能と同じく本来持って生まれてくる天賦の才能なのです。
そしてその才能が、いろいろな縁に触れてある時に触発されるのです。
この縁は、自らの生き方によって良い方にも悪い方にも展開する訳で、そこにその人の生き方に対する姿勢が問われるのです。
私の体験からすると、自分がその道に励もうとすれば必ず、その努力に応じた人間関係が構築されていく、と言うのが私の確信なのです。
この「努力に応じた」が非常に大事な事で、この分部が普通の人は足りないのです。つまり、結果を伴わない努力は努力とは言わない、と言うことなのです。
逆を言うなれば、善き境遇を得ている者は、それなりの努力を積み重ねて来た人である、と言うことなのです。
しかし、ここでもっと大事な事は、善き境遇とは、お金や健康や名誉を得たと言う、この世的幸せを言うのではないのです。
それは自分に与えれれた、この世で果たすべき使命を果たす為の善き境遇を言うのです。
当然、果たすべき使命を自覚していない人にはそれはなく、善き境遇を得る事もない、と言うことになります。
芸術祭最優秀賞を受賞されてから後日、Mさんから私を描いてみたいと写真の借用依頼が来ました。
最優秀賞を受賞した自信なのか、また記念になのか。
私は楽しみにその完成を待っていましたが、その作品はやはり想像を超えたもので、人間味ある深い妙相を描き出してくれているのです。
Mさんが描いてくれた肖像画
模写した写真
私は、この
超卓越した技にクリシュナを観ることができます。
それからこのMさんによって私は、インド人のSさんや、塾長の鈴木さんとの御縁を持つ事ができ、そこにもクリシュナの采配を感じるのです。
2012-03-19 05:45:05 balkrishnaの投稿
いよいよおひざ元の静岡で、インド哲学塾の開講となりますので、ここにご案内申し上げます。
去年の6月に駿東郡清水町で始めた、ウォータービジョン主催の清水町インド哲学塾も毎月続けておりますが、このほど地元静岡でも開講する運びとなりました。
当日は、インドから帰国するSさんに合わせて、27日の夜、18時から行う予定です。
またこの日は、海外からも毎週二回スカイプ講義を受けているMさんの参加もあり、グラウンドでの初対面となります。
またこのMさんを紹介してくれた、私のサラリーマン時代からの友達のKさんも同行して下さるとの事で大変楽しみにしているのです。
それに6年ほど前まで、Sさんと共にバガヴァッド・ギーターを学んでいた生徒さんも3名参加してくれる事になり、私を含めて女性6名、男性3名の予定となります。
私はバガヴァッド・ギーターを指導してから13年になりますが、7年ほど前に一度、解散をしました。
その原因は、私自身にバガヴァッド・ギーターを十分指導できるほど、知識が熟成されていなかったと言うことに尽きるのです。
しかしその直後に、インド人のSさんから個人指導を頼まれ、それがきっかけで猛勉強する歯目となり、私も自信を持って指導できるほどに、成長させられたのです。
多分Sさんとの経緯がなければ、今の自分はなかったと思っていますし、これもクリシュナの結びつきであると確信しています。
今でもSさんに対しては、このブログを教材としてスカイプで講義を続けてますが、もう完璧に一人り立ちができるまでになっており、今は世界にギーターを広める事を目標に頑張ってくれています。
現在行っている、インド哲学塾の進め方としては、私が書いているブログの中から、生徒さんに好きなもの選んでもらい、それを解釈したり質問を受けたりする、と言う形をとっています。
ここで大事な事は、私のブログを生徒さんが自分で読んで理解するのと、私自身が声を出して読んであげるのでは、その理解度が全く違うと言うことなのです。
それは不思議な事ですが、私が発する声のエネルギーが、その様な作用をするのだと思うのです。
真理は、聴くと言うこと事が非常に大事であり、目からの自分だけの読解では、深く理解ができなかったり、また誤った解釈になったりするのです。
バガヴァッド・ギーターの真理を熟知した、そして人生を通して真理を体得した精神指導者から、直接声を聞きながらの指導が重要、と言うことになるのです。
静岡インド哲学塾のご案内
時 平成24年3月27日(火)PM18:00〜20:00
所 静岡市
会費 ¥1000(教材、会場費、飲み物)
お問い合わせ 090−7161−6358(塾長 鈴木)
助けられるべき者は助けられるテーマ:私のエッセー
2012-03-18 06:58:32 balkrishnaの投稿
昨日、生徒さんの旦那さまが、非常に珍しい病気である脳表ヘモジデリン沈着症
で手術をしたので、その御見舞いに行ってきました。
既に退院もされていたので、自宅にお伺いをしたのです。
そしたら旦那さんと一緒に出てこられ、笑顔いっぱいにその歓び表し、元気な姿を見せてくれました。
この病気は大変珍しく、去年の十月に入院したのですが、入院後すぐに検査検査の連続で大変だったようです。
それに症例が非常に少なく、静岡神経医療センターから浜松医大へ転院して今年の2月23日にやっと手術となったのです。
またその手術の先生も、名古屋医大から専門の先生が来られ、全てが連係プレーでの経過をたどっての手術だったそうです。
静岡神経医療センターでその緻密な検査結果があり、浜松医大の優秀な外科の先生がいて、名古屋医大の脳表ヘモジデリン沈着症に詳しい先生の応援があり、これらの連携があったからこそ、難しい病気も克服でき、正に奇跡だと言っておりました。
このような経緯となったのは、静岡神経医療センター神経内科の,小尾智一,
溝口功一、両先生が、医療2001年 55巻 11号 に、脳表ヘモジデリン沈着症について寄稿されていた事を見つけ、そこでこの静岡神経医療センターを私が紹介してからの始まりとなったのです。
私の女房も23年前に、第五腰椎すべり分離症で、奇跡的な手術をした事がありました。
この時も三つの病院を回っての末、巡り会うように素晴らしい先生に出会って手術をしてもらいましたが、今も完璧な術後となっています。
お見舞いでのお話を聞いても、自分たちの経験を思い出しても、私たちは何かをしようとしていても、結局それは自然に運ばれて行くものだと、つくづく思うのです。
助けられるべき者は助けられるように、完璧に事が運ぶように出来ているのです。
自分で努力して出来たのではないのです、全て神の裁可なのです。
しかし、当然そこには、その人が行ってきた人徳陰徳が積まれていなければその裁可は得られない、と言うものなのです。
2012-03-17 07:39:40 balkrishnaの投稿 自己覚醒(ブラフマ・ブータ)は自己完成への基礎であり、入り口なのです。
またこの自己覚醒に到るには、その全段階として解脱(モークシャ)の境地になっていなければ、この自己覚醒には至らないのです。
更に、この解脱(モークシャ)に到るには、徳行(ダルマ)、実利(アルタ)、享楽(カーマ)、解脱(モークシャ)の順序を踏んでこなければならないのです。
1−徳行(ダルマ)道徳倫理を知り身につける事。
2−実利(アルタ)道徳倫理を実践し、それを踏まえて実社会で富を得ること。
3−享楽(カーマ)その財を得た富で、欲望の快楽を味わう事。
4−解脱(モークシャ)欲望の快楽は本物の享楽でない事のむなしさを悟り、輪廻の宗教観を身につけ、肉体欲望から解き放たれ、魂の歓びである精神的世界に旅立つ事。
この四つの事は2011-08-18 宗教の救われ方 でも記述しております。
この様に、自己覚醒に到達するにしても、四段階の厳しい修行を果たしてこなければ、誰でも簡単に自己覚醒に到る、と言う事はあり得ないのです。
そして、この自己覚醒に到る体系の存在は、バガヴァッド・ギーターを学ばなければ当然、知ることすらできないのです。
ここまでは先日記述した、自己覚醒から自己完成への補足説明です。
さて、自己覚醒すると言うことをまとめてみますと。
1−肉体にまつわる快楽や歓びは本当の幸せではなく苦しみの種であることを悟り、精神的知識を得る本物の歓びに変わっていく。
2−自己の本質は肉体ではなく魂であると確信する。
3−この世の物質次元(マーヤー)はすべて、創造主神クリシュナの物質自然(トリグナ)の掟によって厳格に管理運行されている事を悟る。
この三つの真理を悟る事ができるのです。
そして更に、自己完成への深い真理に覚醒して行くのです。
1−自己の魂は創造主神クリシュナの分霊(ママイヴァーン・シャハ)であり、人間を含めたすべての生物は同じ分霊であるとの認識を持つ事ができ、そこで全ての生命は平等であると言う、平等観の悟りを得るのです。
2−この世は、物質と精神、明と暗、暑い寒い、苦しみ快楽、幸福不幸、と言った二極対立、二極相対(ドヴァン・ドヴァ)に構成されている事を悟り、二極に偏ることのない中庸と平静の境地を得るようになる。
3−この世の物質次元は、未顕現意識と言われる物質自然の三様式(トリグナ)の掟によって、生物の活動は完璧に自動制御されている事を悟り、物質次元から解放され、創造主神クリシュナの基に帰還する崇拝帰依の境地に向かう。
この三つの境地を得てこそ、人間修行の悟りの工程を修したと言えるのです。
そこで大事な事は、最後のクリシュナへの崇拝帰依の境地を得なければそれは全て修行の途中である、と言うことなのです。
2012-03-16 07:13:37 balkrishnaの投稿
カラスと白鳥は鳥は鳥でも、羽の色が違うだけでく、その心根がちがうのです。
物欲、名誉欲、支配欲をもとめて激情的に生きる人は、カラスに例えられます。
一方、人間が持つ欲からすべて解き放たれ、バガヴァッド・ギーターの教えに沿って生きる者は白鳥なのです。
カラスは都会のごみ捨て場に歓びを見い出します。
それは、快楽を飽くなく追求する者が、酒や女性やグルメやギャンブルの快楽をむさぼるのと同じです。
白鳥は、自然が美しい蓮の花に飾られた澄んだ泉に遊び、カラスが遊ぶような場所は決して歓ばないのです。
人間は、くりかえされる輪廻によって醸成された性格や、この世に生まれて来た境遇や生き方によって形成された、それぞれの心根を備えているのです。
違った心根の持ち主が、仲間になる事はありません。
逆に類は友を呼ぶ、または朱に交われば赤くなるの例えのように、同じ心根同志が交わり合うのです。
カラスはカラス同志で、白鳥は白鳥同志で同じ嗜好を楽しむのです。
ここで、カラスと白鳥の見わけで一番肝心なものは、どんな書物に興味を持つかと言うことです。
カラスの様な人々に悦びをもたらす一般書籍は、感覚的な快楽にまつわるものばかりであり、精神知識を向上させるものではないのです。
しかし、激情に生きる現役生活者(グリハスタ)は生活の為には、物質次元の知識を獲する事は必要です。
それと同じく、生活の為ではなく、人間の精神的成長の為には、精神的知識が絶対必要なのです。
精神的に向上しようとする段階の人は、世俗的な書物には関心が無くなってきます。
物質次元とは、一般教養を含めた知識の修得や、心を豊かにする芸術鑑賞や観光旅行や、肉体欲望を満足させる快楽の全ての世界をさします。
これらに係わる書物は全て、カラスが好む俗書であり、精神的向上を図る精神書物ではないのです。
精神書物と俗書の大きな違いは、いくら読んでも何回読んでも絶対に飽きない、これがその判断基準なります。
精神書物は、その人が読むごとに感動する言葉が違ってくるので、絶対に飽きることはないのです。
奥深い真理を説いたバガヴァッド・ギーターのような高度な精神書物は、いくら読んでも何回読んでも絶対に飽きないのです。
バガヴァッド・ギーターは、インドのマハトガンジーが生涯指南書として携えた神聖なる書物です。
この生涯携えることができる書物こそが精神書物であり、これこそ白鳥がこよなく愛べき書物なのです。
2012-03-15 08:10:39 balkrishnaの投稿
私たちは全て、物質次元(マーヤー)と言う幻想の世界に生きているのです。
例えば、全ての物質を素粒子レベルまで分析すれば同じような構成となり、それでも更に分析したとすれば、マイナス10の何十乗分の一と言った、人間の意識レベルまで行き、更にその先は神の神妙なる意識まで到達するのです。
つまりこの世の構成はすべて、創造主神の意識の波動の荒い分部として物質自然(トリグナ)が構成されていると言う事であり、突き詰めれば創造主神の神妙なる意識そのものであると言うことなのです。
この世における物質は全て神の細胞であり、全てが創造主神の管理のもとに運行されているのであり、人間は結局、神が創られた物質自然(トリグナ)の掟には逆らえないと言うことです。
当然、人間が意として造られた物は、人間の役に立つように、また目的に沿って使われるように、その物質が作られた役目を果たすのです。
その役目が正し方向に使われれば、それは人間の歓びや幸福につながるものであり、逆に悪い意識に使われれば、それは苦しみの不幸の結果をつくってしまう、と言うものなのです。
この様な物質自然の構成のメカニズムをしっかり理解しないで、自由勝手気ままに生きていてもそれは神が管理した法によって、厳格なる結末をむかえると言うことなのです。
それを表す言葉に、「天網恢恢、疎にして漏らさず」や「非理法権天」と言った格言があります。
もう一方、今度は自分自身と言うものを分析すれば、自己とは肉体ではなく魂であると言った、自己を自己と認識する意識や、主体的に行動する信念や精神知識のような、目に見えない手で捉える事の出来ない存在なのです。
つまり結論としては、自己自身は肉体ではなく魂と言う意識であり、また自己の外界である物質自然(トリグナ)は神の意識そのもであると確信する事が、正しい精神知識を身につけた、と言うことになるのです。
しかし、魂が閉じ込められている人間肉体には、動物的本能である食欲、性欲、保身欲があり、また人間だけが持つ物欲、名誉欲、支配欲によって、魂は肉体そのものであると錯覚させられてしまうのです。
更には、自分では気付かない物質自然のトリグナ(無知、激情、徳性)の質性によって、その行動を余儀なくされてもいるのです。
このトリグナによって、快楽を求めようとする欲望が生じ、その欲望が満たされない事によって怒りがおこり、その怒りによって無知の状態におちいりその結果、妄想と狂気で犯罪を犯してしまう事もあるのです。
肉体におけるグルメやセックスの快楽はほんの一瞬のことであり、また快楽の欲望には進行性と常習性があり、この快楽を次々と求めようとすると、結局は苦しみの世界に落としこめられてしまうのが、肉体的快楽の掟なのです。
つまり肉体にまつわる快楽や歓びは、一瞬のものであり本物ではない、と言うことなのです。
肉体にまつわる快楽や歓びは本物ではない事と、自己は魂であるとの確信と、物質次元は全て神の神妙なる意識で運行されている、この真理を完璧に理解する事が自己覚醒(ブラフマ・ブータ)なのです。
この様な、自己覚醒(ブラフマ・ブータ)の境地が確立できなければ、次の段階である自己完成に進む事は出来ないのです。
2012-03-14 07:31:21 balkrishnaの投稿
最近は凶悪な事件が多く、その凶悪さと頻繁さにも驚かなくなり、あ〜又か!と言った感じすらなってしまっています。
これは、物質文明の発展による社会の複雑さとスピード化が、その様な現象を顕著に起こさせているように思えます。
物質的に豊かになると言うことは、端的に欲望の対象が多くなると言う事であり、スピード化の本質は便利さにつながり、我慢する忍耐力が社会全体に養われなくなる、と言うことになるのです。
とは言え、まるで何かに強制されているかのように、教えにそむくような背教的行動を平気で犯したり、時には自分の意志に逆らってまで凶悪的な行動をとってしまうのは何故だろうか?
アルジュナ問う、人は自らの意志に反してまで、罪深い行動に走る場合がありますが、それは何の力によりるものですか<バガヴァッド・ギーター3章36節>
それは貪欲と渇望なのである。
貪欲とは、自分が欲するものに執着して飽きることなく、非常に欲深い事を言うのです。
さらに、欲望の対象ががどんどん増えていくのが渇望であり、のどの渇きが水を激しく求めるようなところから、その語源が来ているのです。
この貪欲と渇望が、人間を強制するがごとく、罪深い行動に突き動かしてしまうのです。
さらにそこへ無知なる要素が加わる事により、欲望が満たされないと憤怒に変わり、抑制のブレーキが利かなくなってしまうのです。
その怒りから犯罪を犯し、その犯罪がエスカレートして凶悪犯罪までいってしまう、と言う図式なのです。
バガヴァーン語る、アルジュナよそれは貪欲と怒りなのだ、物質の激情に触れて欲望が生じ、それは憤怒に変わる、まことに貪欲こそこの世の大敵である<バガヴァッド・ギーター3章37節>
生物が物質と言う激情の対象物に触れると、それを激しく求めようとするする欲望が生じるのです。
更に、人間の感覚は、対象物とじかに接触する事を、激しく求めるようになるのです。
それを愛着と言うのですが、それは本来創造主神クリシュナに対する崇拝帰依の愛着でなければならないのです。
このクリシュナに対する信仰心のない者の欲は、必ず物資至上主義になって、物を追い求める貪欲と変質してしまうのです。
人間は本来クリシュナの分霊(ママイヴァーンシャハ)であり、それは純粋な精神的なものなので、物質的汚濁とは無関係であり、世俗的な罪には染まらないのがほんらいの相なのです。
しかし、物質自然と接している事によって欲望が生じ、それが渇望に変わり、更にそれが満たされなければ憤怒に変わって無知の状態となり、最後は罪深い行為を平気でやってしまうのです。
感覚の対象を見、また思うことで、人はそれに愛着するようになり、その愛着より欲望が起こり、欲望から怒りが生じてくる<バガヴァッド・ギーター2章62節>
怒り狂った無知の本質は妄想と狂気であり、常識では考えられない罪深い犯罪は、この妄想と狂気からすべて引き起こされているのです。
これらは、インド哲学に書かれており神の定めた真理なのですが、それ故バガヴァット・ギーターを学ばなければ理解は不可能と言うものなのです。
2012-03-13 08:24:57 balkrishnaの投稿
クリシュナは精神次元(マハータットワ)の中に、非現実なる(マーヤー)を創造されました。
それはカーラナ海という海で、その海に横たわり、物質次元で現象する全ての生物や物質自然を、創造されたのです。
私たちは、そのカーラナ海という物質次元と言う海に浮かんで、泳ぎながら生活をしているのです。その海に浮かんで生活をしている者に、泳ぎを知らない者、知っている者、更には船に乗る事を知っている者、と言った三者がいるのです。
カーラナ海は穏やか時もあれば、荒れ狂う時もあります。
またどんな状態にあっても、海の冷たい状態からは逃れられない、と言うものです。
その冷たい海水は、肉体を維持する為にこの世で生きる、生存競争そのものです。
泳ぎを知らない者はアップアップしながら、海に漂う姿が想像できます。
また泳ぎを心得ている者は、溺れずにスイスイと泳ぐ事ができます。
また船に乗る事を知ったものは、海水にもつからずに済む事ができます。
泳ぎを知らない者は、道徳や倫理をしらない野蛮な生き方をしている人に例えられ、道徳や倫理を心得た人は泳法を知っている人であり、船に乗る事を知っている人は宗教心を得た人に例えられるのです。
道徳や倫理を身につけて実社会で立派に生活をしている人、また宗教心を得て、自己の本質は肉体ではなく魂である、とまで悟る事ができ、肉体からの苦しみを抑制できる人。
しかし、いずれの人も物質次元と言う荒れ狂う海からは、逃れられないのです。宗教心を得て船に乗る事が出来た人でさえ、船酔いの苦しみからは、抜け出せないのです。
この物質次元と言う、カーラナ海から逃れられるただ一つの方法が、クリシュナに救われる事なのです。
人間の本質は肉体ではなく魂である、と言った程度の悟りでは、真の永遠の歓喜には到れないのです。
それは、永遠の真理と魂の歓喜を保証してくれるクリシュナの御言葉に触れることなしには得られないのです。
そしてその教えを確信し、クリシュナに崇拝帰依し、その教えに服従し没頭する事が求められるのです。
私を崇拝して、すべての行為を私の為に行い、逸脱することなく私に全てをゆだね、崇拝帰依して常に私を瞑想し、私の教えに没頭する者たち、私は速やかに彼らを生死の大海から救い出す<バガヴァッド・ギーター12章6節)
この様にクリシュナの教えを忠実に守り実践すれば、クリシュナは物質次元と言う苦しみの世界から、歓喜の世界に救いあげてくれるのです。
これこそが本当の、クリシュナの救われ方、と言うものなのです。
2012-03-12 08:24:39 balkrishnaの投稿
私たちは迷うことなく、創造主神、最高の支配者、クリシュナに崇拝帰依すべきなのです。
それは、私たち魂の産みの親であり、帰るべき目的地であり郷であり、永遠に安らぐ事のできる憩いの家だからなのです。
私はすべての目的地であり、保護者、主、目撃者である。そして慰めであり、最も親しい友である。私は創造であり、破壊であり、万有の基礎である。私は憩いの家であり、永遠の種子である<バガヴァッド・ギーター9章17節>
しかしその目的地を目指そうとするには、非常に厳しい精神修行が必要になるのです。
この世の物資次元での正しい物質次元知識と、精神次元を含めたすべてを統括支配している、最高支配者(イーシュワラ)クリシュナに関する精神知識が、絶対に欠かせないからなのです。
その最高支配者、クリシュナの御言葉と形容されているのが、このインド哲学バガヴァッド・ギーターなのです。
私たちはこのクリシュナの御言葉に、ただただ不惑、確信、崇拝、服従、没頭すればいいのです。
しかしそれは言うは易く行うは難しであり、魂がこの物質界に下生してから、気の遠くなるような数多の生物の輪廻を繰り返し、最終的に人間に生まれ変わって更に、厳しい修行を積み重ね、精神性を高めて行かなければその素地すら出来ないのです。
ほとんどの人間は、動物的本能と欲望に突き動かされ、人生に翻弄されている為にクリシュナの存在すら知らないのであり、こればかりは致し方ない事なのです。
しかしそれでも、人生の生き方を真摯に求めている人や、一生懸命に努力しながらも苦しみの境遇のある人は、クリシュナの恩寵にあずかることができ、一筋の希望の光を見い出すチャンスを得る事ができるのです。
この希望の光を得たならば、今度は仲間と共にクリシュナの御言葉を学び、教えの確信を深めることです。
この確信が非常に重要であり、この確信を深める為に我々の肉体には、物事を判断したり記憶したりする優秀な頭脳があり、目、鼻、耳、舌、皮膚の五つの感覚器が備わっており、それらから生じるそれぞれの感覚で心に強く想いを抱く事ができる、確信ができるようになるのです。
これらの機能をフルに使ってこそ、心にクリシュナを抱き、クリシュナの教えに迷うことなく確信を深め、その教えに服従し、没頭できるようになるのです。
これらの事を頭だけで理解する段階が、ジュニャーナ・ヨーガの段階であり、これだけではダメなのです。
また、身体を使って修行するのがカルマ・ヨーガの段階ですが、またこれだけでもダメなのです。
この二つのヨーガを経て初めて、クリシュナの御言葉に共鳴できる精神性が培われる、と言うものです。
私に崇拝帰依する程度に応じて、私は人々に報いる。プリータの子よ、すべての生物は、あらゆる方角から私への道を進んでいるのだ<バガヴァッド・ギーター4章11節>
二つのヨーガは、クリシュナへ到達する為の修行ですが、クリシュナの道にたどり着くだけでも、人間としての躾を身につけ道徳心を養い、倫理を実践し、正しい宗教心を持たなければ、クリシュナへの道の入り口にすらたどり着けない、と言うものなのです。
それほどクリシュナへのスウィートロードへたどり着くのは、難しく厳しいものなのです。
これは、クリシュナへの道の科学なのです。
これらは、インド哲学に書かれており神の定めた真理なのですが、それ故バガヴァット・ギーターを学ばなければ理解は不可能と言うものなのです。
2012-03-10 22:02:37 balkrishnaの投稿
バガヴァッド・ギーターで説かれている至上主神クリシュナは絶対なる支配者バガヴァーンと言われ、全ての存在の原因の大原因であり、全ての創造主神であるとなっています。
そのクリシュナの分霊(ママイヴァーンシャハ)として、私たちの個別魂と言うものが存在し、それは主従関係にあり、絶対服従の賞賛と奉仕する立場にある。
しかし、私たちの魂の産みの親である創造主神クリシュナを、絶対信仰とするに到るには、非常に困難を極めるのです。
それは、私たちが信仰する神々は、その人の精神性の高さによってのみ、受け入れることができる神々と言うものがあるからなのです。
1−御利益神々を信仰する段階。
2−ブラフマン(宇宙に遍満する、非人格神的光輝)を信仰する段階。
3−パラマートマー(ハートに魂と寄り添う、至上主の偏在)を信仰する段階。
4−バガヴァーン(至上主神クリシュナ)を信仰する究極の段階。
1番の御利益神に信仰を持つのは、この世の物質欲望や名誉欲などに、強く囚われている人々なのです。
2番のブラフマーを信仰する人は、ジュニャーナ・ヨギーの段階であり、哲学的経験知識で神を理解する段階の人です。
3番目の人間の魂に寄り添うパラマートマーを信仰する人は、ディヤーナ・ヨギーの段階であり、アシュタンガ・ヨーガによってハートに住むヴィシュヌ神を瞑想する人です。
4番目のバガヴァーンクリシュナを信仰する人は、バクティー・ヨギーやヴァイシュナヴァと言われ、人間の姿をしたクリシュナに崇拝帰依する究極の信仰段階の人なのです。
このクリシュナは本来、二本腕の人間の姿(シャーマスンダラ)そのものである為、ほとんどの人は至上主神として受け入れることができないのです。
つまり、「最高至上主神の神様が人間の姿だなんてそんなバカな」と、侮ってしまうのです。
人の姿で私が降臨する時、愚かな人々は私を侮る、彼らは万有万物の至上主である私の超越的質を知らないのだ<バガヴァッド・ギーター9章11節>
クリシュナは一人の人間のように見えても、決して普通の人間ではないのです。
宇宙の全現象における、創造、維持、破壊を司り、全ての物質の素粒子から宇宙普遍相の巨大な現象まで、有限のものから無限のものまで全てを同時に支配し、しかもそれから離れている。
この超越的なるクリシュナの力をヨガム・アイシュヴァラムと言い、正に想像を絶する驚がくなる神秘力なのです。
全宇宙秩序は私の支配下にある、私の意志によって、全ては自動的にくり返しくり返し現象し、私の意志によって最後は破壊する<バガヴァッド・ギーター9章8節>
またクリシュナの身体は人間のような姿をしていても、永遠不滅、至高至福、全知全能(サッチダーナンダ・ヴィグラハ)のエネルギー体なのである。
それから、私たちの魂もクリシュナの分霊であるゆえ当然、クリシュナと同じく永遠不滅、至高至福、全知全能の質性を持ち合わせているのです。
死後の世界の精神世界においては、この世での修行次第によって、クリシュナと同じ様な(サッチダーナンダ・ヴィグラハ)のエネルギー体まで、上り詰めることができるのです。
しかし、そのエネルギーの大きさが、無限と有限の差となっているだけなのです。
例えて言うならば、太平洋の海水をスポイトで一滴垂らした海水も、その成分は全く同じであっても、一滴の海水には、大海原のような働きは出来ないのと同じ事です。
この様に至上主神をクリシュナと認め、クリシュナに崇拝帰依する境地になる為には、相当高い精神性がその条件となり、それは数多にわたる輪廻の過去性における、厳しい修行の経緯がなければ、今生だけの修行では到底無理なことなのです。
したがって、このインド哲学バガヴァッド・ギーターを学ぼうとする人は、このブログを読んで下さっても、百万人に一人程度の割合しかないのです。
しかし、今その貴重なるめぐりあわせにある事も確かな事なのです。
是非とも勇気を出して、スカイプで私をコールしてみてください。
スカイプでインド哲学の精神指導を無料で致します。
生き方にお悩みの方、お気軽にコールしてください。
スカイプアドレス balkrishna75
2012-03-10 06:37:16 balkrishnaの投稿
私達の目的はクリシュナを知り、その教に迷わず確信を持って服従し、その教えに没頭してクリシュナに崇拝帰依する事にあるのです。
その為には、完全なる純粋な精神指導者(グル)に出会う幸運が絶対必要であり、共に自己完結の真理を目指そうとする、善き同志との巡り会いも必要となるのです。
独学ではダメなのです、必ず正しくギーターを解釈し、分かりやすく教えてくれる純粋な指導者が絶対必要であり、それと同時に、共に学び共に励まし合う同志が、どうしても必要となるのです。
純粋なる指導者の判断基準としては、人を集めず、金を集めず、去る者は追わず、受け入れられぬ者は去れ、を厳しく徹底的に守り抜く姿勢を持っている人です。
また、善き友の集まりこそがサットワ・サンガであり、この善き友と集うことが持続向上の情熱を奮起させるのです。
そして、この二つの貴重なる境遇を得た者は、日々バガヴァッド・ギーターの教えを聴聞し、繰り返し繰り返し読みかえし実践し、身体に染み込ますのです。
そして、クリシュナに愛される為の具体的生き方とは、次の様な生き様であり、これらに向かって努力する者こそが、その資格を得るのです。
全ての生き物に対して非暴力であり、親切な友となり、私の物と言った偽りの所有欲をすて、自己を肉体と観る偽我識をすて、幸福不幸を等しく平静に受け入れ、常に寛大で満足し、自己を抑制し、決意を持ってクリシュナの教えを学び、知性と心を教えに固定し実践する者。
俗的に汚れた仕事をせず、純粋な心で熟達した技術か芸術を身につけ、誰をも困難に貶めず、誰からも乱されず、気苦労せず、暑さ寒さやひもじさや人間関係の苦しみを克服し、結果を期待した骨折りをしない者。
ここで重要な事は人間は生涯役に立つ熟達した技術か芸術と言った具体的な能力を身につけることが大事であり、決して高学歴と言った、知識を持つだけではダメである、と言うことが分かります。
どんな事物に対しても有頂天にならず落ち込まず、ああなって欲しいとも欲しくないとも思わず、吉凶禍副の事象を放棄する者。
友も敵も同じように扱い、暑さ寒さ、幸不幸、名誉不名誉、賞賛非難に囚われず、汚れた交際をせず、常に静かに満足し、住所住居に執着せず、クリシュナの教えを守り、その教えを実践する者。
クリシュナに崇拝帰依し、クリシュナを至高の目的とし、完全に確信を持って教えを実践する者。
この様な生き方をする者を、クリシュナはこよなく愛するのであり、またこの様な人物こそ、常にクリシュナを崇拝帰依している者であり、それは互いに相思相愛の関係となっているのです。
この相思相愛の関係こそが非常に大事なことであり、この関係になればクリシュナから必要なものは与えられ、大事なものは保護される関係となり、人生において全てに無欲、無恐怖、無執着の三無の境地になれるのです。
そして常にクリシュナの臨在を感じ、事あるごとにクリシュナを観ることができるようになるのです。
これは私の、今の実感そのものなのです。
これらは、インド哲学に書かれており神の定めた真理なのですが、それ故バガヴァット・ギーターを学ばなければ理解は不可能と言うものなのです。
人間性、人格向上の道とはテーマ:私のエッセー
2012-03-09 07:24:18 balkrishnaの投稿
先日、今年度最後の学校講演を、静岡市立中島学校の全校生徒300人を対象に、体育館で行って参りました。
これは静岡市教育委員会主催事業の、次世代育成プロジェクトの講師として、派遣されたものです。
私の講演では、津軽三味線の音響装置を使わない完全な生演奏と、津軽三味線にまつわる語りを演奏を交えて行う、邦楽器の音楽鑑賞的なものと、私の生き様としての道徳について話を交え、それから最後に日本人の大和魂を彷彿させる、平敦盛の弾き語りをふくめて、約一時間半のぶっ通しの講演なのです。
私は道徳について、相手に対して行うべき事を三つ、それから自分自身が行うべき事を三つと、それぞれ特に重要と思われる言葉を、必ず記憶してもらうように、しつこく何回も何回も言ってきています。
相手に対して行うべき事として。
1−優しさ、思いやり、相手の立場に立って考える惻隠の心。
2−過ちを許してあげる寛大な心。
3−認めてあげる賞賛の心。
自分自身に対して行うべき事として。
1−正直、率直、素直の直のつく態度。
2−礼儀、しきたり、規則、約束事などを守る順守の態度。
3−我慢する事の忍耐を身につける。
この3番の忍耐には、したくてもしてはいけない克己心を養う我慢と、したくなくてもしなければならない責任を果たす我慢と、それぞれ二つの我慢する忍耐があるのです。
以上のように相手に対して行うべき事と、自らがしなければならない態度や行動をあげているのです。
しかし、自分の小中学校時代を思い起こせば、これらの事はほとんど出来ていなかったように思えます。
それよりも自分では良くない事と分かっていても、身体がどうしても悪戯や迷惑行為をやってしまっていたのです。
ちっとくらい先生にびんたを張られても、仕置きを受けてもどうしても、性懲りもなくじっとしていられなく、身体がどんどん動いてしまうのです。
悪戯が盛んな子供時代は、そのようにいくら怒られても自由奔放に動き回ってしまうものだと思います。
でも陰湿ないじめや、盗みと言った反社会的な事は絶対いにやらず、それと告げ口をされて先生にびんたをくらっても、仕返しをしたりなどはしなかったのです。
当然泣きもせず、親にも黙っていおり、潔く説教も受け、反省の心を芽生えさせながらも、全て自分だけの世界として体験していたのです。
ここで大事な事は、性質と言うものは持って生まれてくる領域が多く、良否善悪の判断は子供ながらにも十分出来るものであり、それが出来るか出来ないかも、それ自体が生まれながらの質性である、と言うことなのです。
また、家庭における理想の環境も、一口にこういう環境が良いのだ、と言うことは出来ません。
一見、貧しく劣悪な境遇と思えることも、それが逆にその境遇がその人を耐えさせるものとなっている事もあるのです。
どんな境遇にありながらも、その中で最善を見い出す事が賢明なる事であり、その賢明さが人間性を高めるものなのです。
賢明なるものは、最悪の中からも最善をみつけ、毒の中からも不老長寿の薬を、不浄な場所においても黄金を、貧困の家庭の中にも善き妻たる女性を、卑しき者からも善き教えを、これが賢明なる者の心がけなのです。
その賢明の原点は、相手に対しする尊厳と、自己に対する謹厳の態度から生れるものであり、それこそが道徳にあるのです。
この相手に対する対応と、自己を律する姿勢こそ、人間性や人格の向上には欠かせない、二つの大事な側面なのです。
人間性とはその人の温厚、素直、正直という様な性質的な事であり、人格とは場面場面における対応する態度や姿勢を指しており、それらは全て人との係わりにおいて影響力を発揮するものなのです。
2012-03-08 06:49:27 balkrishnaの投稿
インド哲学バガヴァッド・ギーターに出会うには、クリシュナの恩寵が必要である、と昨日書きました。
それは、このバガヴァッド・ギーターはクリシュナの御言葉そのものだからです。
信仰とは、宇宙や自然界の偉大なるもの(サムシング・グレード)や、仏陀、キリスト、マホメットなどの大宗教家の教義に、御利益を与えてくれる神々に、それに偉業を遂げた人などに、その人の精神性の高さによって、また必要に応じて、それぞれの存在を崇めたり教えを堅く信じることなのです。
しかし、これらの宗教心は全て、信仰対象の最高峰であるクリシュナの教えに出会う為の過程に過ぎないのです。
それはどんな宗教にも、インド哲学バガヴァッド・ギーターを乗り越える深い真理の教えが無いからなのです。
バガヴァッド・ギーターには五つの主要項目について、詳細に体系的に説かれています。
1−宇宙の創造主、支配者、監督者(イーシュワラ)について
2−あらゆる生物(ジーヴァ)について
3−物質自然界(プラクリティ)について
4−宇宙の存続期間(カーラ)について
5−生物の活動や業報(カルマ)について
この様に、あらゆる宗教の教えはバガヴァッド・ギーターの中に全て説かれています。
宗教はあくまでも、哲学に入る為の基礎づくり(ファンデーション)なのです。
教義を守る宗教を卒業し、この世の全てを創造した創造主神クリシュナの御言葉を学ぶ事こそ、人間として果たす課題なのです。
この世の出来事は全て相応の理によって、厳格に運ばれています。
これは、普通の人は気付かないかもしれませんが、重要な真理なのです。
簡単に言えば、その人が想っている、また行っている事に、相応しい事が起きると言うことなのです。
自らの生活の中に、真理を求めようと努力する真摯な生活態度が無ければ、決して真理の扉にはたどり着けません。
逆を言うなれば、真理を求めようと努力している人こそ、クリシュナの恩寵を受けることができる、と言うことなのです。
その為の生活は謹厳なるものでなければならず、行動や言葉それに心の持ち方が、その基本となっています。
行動における謹厳は、崇拝、清浄、率直、禁欲、非暴力であり、言葉による謹厳の本質は人の心をみださない、人身不乱の誠実なる言葉であり、心においては足ることを知る知足を心がけ、正直、厳粛、自制、浄化などの心の持ち方が必要となるのです。
心がけずに生きてしまう生き方で一番障害となることは、名誉を求めることと感覚欲望を満たそうとする行動が、謹厳生活おける一番厄介な存在となってしまいます。
最近のように物質文明が発展すればするほど、親も子供も生存競争にさらされ、人生で一番大事な子供の時の躾、道徳の教えまでも、おろそかになってしまっています。
それはその後における、社会生活で身につける倫理にも悪い影響をおよぼし、そのひと自身にとっても苦労や不幸となるのです。
この様に、今の世はカリの時代と言われ、信仰心が全く育たず、唯物主義がはびこり、享楽的社会となり、競争、戦争、残虐、狂気の世の中にどんどん落としこめられて行く、その様になってくのです。
つまり物質文明の発展の成れの果てが、今の社会のような競争と退廃の様相となっているのです。
この様な社会にありながらも、私のブログでインド哲学バガヴァッド・ギーターに出会ったことは、非常に貴重な機会を得た、と言うことなのです。
これらは、インド哲学に書かれており神の定めた真理なのですが、それ故バガヴァット・ギーターを学ばなければ理解は不可能と言うものなのです。
2012-03-07 07:29:33 balkrishnaの投稿
私達の魂の最終目的は至上主神クリシュナを知り、クリシュナの教えに崇拝帰依する事にあるのです。
それは私達の魂は、クリシュナの分霊(ママイヴァーンシャハ)であり、絶対服従の主従関係にあるからなのです。
そして、創造主神クリシュナの基に帰還してこそ、全知全能、至高至福、永遠不滅の境地(サッチダーナンダ・ヴィグラハ)を得ることができるのです。
その教えはインド哲学であるヴェーダ、ウパニシャドウ、スムリティ、ヴェーダンタスートラなどに示されていますが、それらの精髄を集めたのがインド哲学バガヴァッド・ギーターであり、このギーターを修養する事が崇拝帰依の第一歩なのです。
しかし、このインド哲学バガヴァッド・ギーターに出会いその秘法を手中に収めるには、三つの困難があるのです。
その難しさの第一は、その気にならないと言う自分自身の問題があります。
つまり、バガヴァッド・ギーターを勧められても、学ぼうとする意志を持つこと自体が、非常に難しいと言うことなのです。
いわゆる、猫に小判、豚に真珠、と言うものであり、通常の人にはその精神的価値がまったく感じられないのです。
それはその人の精神性の次元がまだ動物次元にあるからなのです。
一番良い例が、衣食足りて礼節を知るの例えと同じで、生活に追われている人は、先ず無理なのです。
これと同じく、この世の物欲、名誉欲、支配欲に囚われて、激しく活動している人も物欲次元の人であり無理なのです。
第二の難しさは、例え興味をもってバガヴァッド・ギーターを読んでみても、その意味する事が全く理解できず、一つ一つ文節の意味は理解できても、全体として何を言っているのかが解らない、文節理解、意味不明、と言った状態となってしまう人です。
それは、人間としての道徳心を持ち、人生を生き抜いて身に付けた倫理観を持ち、正しい宗教心を持ったなければ、ギーターを学び理解できるまでの精神性が熟成しないからなのです。
つまり、その人がギーターを理解できるまでの、人間性が出来ていないと言うことなのです。
最後に最も難しことは、ギーターを正しく指導してくれる、精神指導に出会うことの難しさなのです。
このバガヴァッド・ギーターを指導できるような人は、独学でギーターを修養する事のできる人物であり、その様な人物は既に、その使命をもってこの世に遣わされてきた降臨者(アヴァターラ)なのです。
この降臨者(アヴァターラ)から精神指導を受けなければ、クリシュナの基へ帰還する正しい修行は出来ないのです。
それは物質界での修行は、アマゾンの密林を探検しながら、本筋のアマゾン川を経て大西洋に出る難しさに例えられます。
精神指導者は正しくナビゲートする為のグーグルアースの目を持っているのです、つまり宇宙から見渡す様な高い次元からの精神的知識と精神的視野を有していると言うことなのです。
先ずは、クリシュナへの郷に帰還する為の、魂の案内書であるギーターに出会うことは非常に稀な貴重なことであり、そして次の、正しく導いてくれる精神指導者に出会う事こそが一番難しチャンスなのです。
このチャンスは本人の生き方の努力だけでなく、そこにはクリシュナに認められるクリシュナの恩寵がどうしても必要となからなのです。
2012-03-06 08:40:44 balkrishnaの投稿
結局私たちは、真理を知らなければ、苦しみの世界で、右往左往しながら、色々な生物の輪廻を繰り返し、物質次元で放浪の生活を永遠にすると言うことなのです。
その放浪の旅を脱する為には、創造主神クリシュナから与えられた真理を知らなければなりません。
1−自己の本質は魂であると言うこと。
2−魂は、自らを主体的に行動する意志であり、信念であり、精神知識であり、それは、生まれることはなく、当然死ぬこともなく、老いることもなく、病になることもないと言うこと。
3−魂は過去の業報(カルマ)によって、そのカルマに相応しい、完璧にカスタムメイドされた生体ロボットとして物質界(マーヤー)に現象していると言うこと。
4−人間と言う自律する生体ロボットは、食欲、性欲、睡眠欲、保身欲、と言った自律する為の、強い生命活動で突き進む本能を持っていると言ういこと。
5−更に人間は魂のカルマによって、物欲、名誉欲、支配欲、に囚われた生き方をしていると言うこと。
6−魂が物質界に人間として生まれると、魂は必ず、無知、激情、徳性と言った物質自然の三様式(トリグナ)に囚われて、その質性に突き動かされしまうと言うこと。
7−しかし、魂は本来創造主神クリシュナの分霊(ママイヴァーンシャハ)であり、クリシュナと同質の純粋なる質性であると言うこと。
8−その純粋なる魂はクリシュナの光子として、物質界(マーヤー)に放たれその結果、生命体の輪廻が始まったと言うこと。
9−この物質界で、苦しみの輪廻の放浪の生活をしない為に、魂の故郷である、クリシュナのもとに帰還することが、魂の最終目的であると言うこと。
10-その為にクリシュナは、物質界を司るヴィシュヌ(クリシュナの直接拡張体)を瞑想し崇拝する、ヴィシュヌ信仰を義務づけたと言うこと。
そのヴィシュヌ信仰を深める為に、10項目の供犠(ヤグニャ)が定められているのです。
1ー神々を崇拝する事
2−宇宙原理を哲学的に学ぶ事
3−独身においては純潔を保つ事
4−家庭においては祖先の供養と子供の精神教育をする事
5−暑さ寒さや人間関係などの苦しみに耐えること事
6−感覚欲望を抑制する事
7−他者や社会に奉仕と貢献をする事
8−精神的知識を養う事
9−ヨーガの修行をする事
10-四制四住期(ヴァルナ・シュラマ)の宗教義務を果たす事
ヴィシュヌ信仰とはヤグニャそのものであり、ヤグニャの生活こそクリシュナの基に還った生活なのです。
またこのヤグニャを実践してこそ、物質界の苦しみから救われる、根本的な解決策なのです。
これら10項目の供犠(ヤグニャ)は、確かに欲望を抑制する苦しさを伴います。
欲望には、まやかしの快楽があり、その幻想から逃れるには非常につらい忍耐を要求してくるのです。
ヤグニャの意味は犠牲を捧げると言う意味であり、苦しみを我慢する忍耐を捧げると言うことです。
強い決意と忍耐を以って、そのまやかしの快楽から逃れれば、本物の魂の歓喜を味わう事ができるのです。
しかし、現実には一番大事な思春期において、精神知識をないがしろにし、純潔を軽んじる性の快感に溺れる現実は、非常に危うい精神的危機であると思います。
人間には元来、神々に対する崇拝の心を、天性として持っているのです。
その、人間にとって最も高貴な崇拝する心が、物質界で生きる為の苦闘によって、抹殺されてしまっているのが現状なのです。
魂の奥底に秘めれれた、創造主神クリシュナに対する高貴な崇拝の心は、船が港に戻る羅針盤であり、渡り鳥が故郷に帰る帰巣本能なのです。
これらは、インド哲学に書かれており神の定めた真理なのですが、それ故バガヴァット・ギーターを学ばなければ理解は不可能と言うものなのです
もまれながらも不惑不動で、生きながらにして死ぬテーマ:私のエッセー
2012-03-05 07:13:13 balkrishnaの投稿
創造主神クリシュナは、精神世界(スピリチュアル)の中に物質次元(マーヤー)を創りました。
それは青空に、湧きあがった雲の様なものなのです。
雲自体の本質は空中の水分が霧となって、ただ真っ白く包まれていると言うだけなのです。
その霧の濃淡が雲の状況をつくり、霧の状態が濃い入道雲や、薄い状態の筋雲やうろこ雲などがあります。
しかし、その雲も自然と無くなったり、またつくられたりと、大空ではそんな雲の生滅が繰り返されているのです。
私たちが生活している物質次元でも、全ての宇宙で起きる現象も、この様に素粒子レベルの粒子の集まりが、私たちの肉眼でも見ることができたり、手で触ることができる状態まで固まっているのです。
この様に物質自体も素粒子の固まった状態であり、いろいろな物質も結局は、素粒子の配列によって物質を特徴づけているだけなのです。
つまりあらゆる物質の素粒子を究極まで観察すれば、それはクシローダ・カシャーイー・ヴィシュヌの意識にたどり着く、と言うものなのです。
この解釈が「色即是空」の、あらゆる物質は全て空であるの意味となるのです。
しかし厳密には、空ではなくクシローダ・カシャーイー・ヴィシュヌの意識と言うことになります。
このクシローダ・カシャーイー・ヴィシュヌ、は全ての原因の大原因である創造主神クリシュナの直接拡張体(統合的部分体)ですから、クリシュナ意識そのものとなるのです。
つまり私たちの本質である魂は、クリシュナの意思によって創られた「創造物の中で魂の活動をしている」、と言うことを理解しなければならないのです。
当然、この宇宙の構成としても、物質次元と精神次元の両方が存在しているのですが、魂が肉体の中に入れば、人間肉体が持っている五感や心や知識で感じる制約された活動しかできない、と言うことなのです。
そして、時が来れば魂は古着となった肉体をはなれ、再び精神世界に戻るのです。
この、魂が肉体を離れてのその後は、その人が死の直前に信念として持っていた意志で、魂が想っていた処に行くことができのです。
しかし、そのような堅い信念を持ち合わせていなければ、その人が生涯で行ってきた諸行により、死後の世界が、極楽、天国、地の国、底の国と四つの世界に、赴かされるのです。
つまり、死ぬ寸前までの生き方が、死後の魂が行くべき処となるのです。
それだけに、還暦を過ぎたならば、毎日を死後の世界に生きる精神的な在り方を学び、この世の肉欲や物欲を克服した謹厳な生き方を、しなければならないのです。
この世でもまれながらも精神知識を獲得して、不惑不動の謹厳なる生活をする、その様な生活自体は既にもう死後の世界に生きている、と言うことなのです。
この「生きながらにして死後の世界に生きる」については2011-10-27 のブログに詳しく書いております。
2012-03-04 07:39:24 balkrishnaの投稿
正しい宗教の道に入るのも、また誤った道に落ちるのも、全ては業(カルマ)の結果なのです。
この業(カルマ)の解釈としては、三つの意味があります。
1−行動、行い、活動、と言う意味のカルマ。
2−職業的階層(シュードラ、ヴァイシャ、クシャトリア、ブラフマナ)における宗教義務としてのカルマ。
3−業の報いとしての業報という意味のカルマ。
この様に業(カルマ)と言う言葉を、それぞれの立場で、それらの状況で、どの様な意味として使うか、十分理解しておく必要があるのです。
私たちの日ごろの行いは、生活をする為の活動があり、また余暇を楽しむ行動があり、そして自己完成を目指す為の精神的活動の三つに分けられます。
これは2月22日に、「人間として生きる修行の実践」として詳しくかいております。
またそれらの活動を更に分析しますと、三つの意味がある活動に分けられます。
1−活動(カルマ) 一般的に言う、行為、行動、活動を意味します。
2−無活動(アカルマ) 業報を生じない経典に沿った精神的活動。
3−誤活動(ヴィカルマ) 経典に反した誤った活動。
日ごろの行いの中での、生活をする為の活動と余暇を楽しむ行動は、一般的な活動(カルマ)であり、そこには必ずその行いの結果、つまり業報が伴うのです。
その業報(カルマ)が大きいのか、また気がつかないほど小さいものなのか、また良い結果なのか悪い結果なのか、その結果は必ず伴っているのです。
また生活をする為には逆に、目的意識をもって何かを達成しようしますが、その活動も当然結果を伴う形でカルマとなっているのです。
二番目の無活動(アカルマ)とは、全くなにもしないと言う意味のことではなく、経典に沿った宗教義務を果たすことであり、目的意識を持たないで日課として果たす活動を意味しますが、これこそが勤行と言うものなのです。
目的意識を持たないと言うことは、ただただ勤めとして行うことであり、また精神知識の修得においては勝手解釈をしない事であり、精神指導者の教えに従うと言う意味なのです。
つまり、無活動(アカルマ)は結果を求めず、無意味であることが意味として捉え、ただただクリシュナの教えに崇拝帰依の精神を養う、その一点に終極することなのです。
この無活動(アカルマ)の活動こそが、活動すべき活動なのです。
この様に秘奥な真理は、言葉にすると矛盾したような捉え方となる為に、精神指導者の解釈が必要となるのです。
活動(カルマ)の諸相はまことに複雑にして神秘であり、これを理解することは実にむずかし、ゆえに人は活動(カルマ)無活動(アカルマ)誤活動(ヴィカルマ)について、正しく学ばなければならない<バガヴァッド・ギーター4章17節>
当然、三番目の誤活動(ヴィカルマ)は経典に反する行為であり、その結果は邪悪なものとなるのは、想像するに難くないでしょう。
これらは、インド哲学に書かれており神の定めた真理なのですが、それ故バガヴァット・ギーターを学ばなければ理解は不可能と言うものなのです。
2012-03-03 07:26:10 balkrishnaの投稿
私たちは物質界(マーヤー)の中で四苦八苦し、動物肉体の状態から、人間欲望に翻弄されながら、魂としての自己完成を成しとげ、魂の故郷である精神惑星の最高峰に住む、クリシュナの基に帰郷する、壮大な輪廻の旅をしているのです。
これが私たちが生きている意義であり、生きる目的の真理なのです。
この、魂の修行をする為に、動物界から人間界に入る入門の教えとして躾があり、言葉使い、挨拶、礼義など、人間としての身だしなみを先ずは身につけるのです。
その次には、学校と言う集団の中で、人との関わりで大事なことである、道徳(仁、義、礼、智)を養うのです。
その次には、家庭を築き先祖崇拝と子供の精神教育をして立派な子孫を残すのです。
その為には、仕事で収入を得る事が必要となり、仕事でのしがらみや人間関係での手かせ足かせの中で、倫理(親、義、序、別、信)を学ぶのです。
人間が生きて行く為には、肉体を維持する為の動物的本能(食欲、性欲、睡眠欲)や人間だけが持つ欲としての物欲、支配欲、名誉欲があり、これらの欲望に突き動かされながら、生活をしていくのです。
人間が持つ欲望にも、魂の向上の為に使われるものであるならば、それは本来の目的に沿ったものなので、その様な欲望は欲望でも良いものなのです。
しかし、動物的本能や人間の物欲、名誉欲、支配欲には快感が伴い、その快感を克服する断固たる決意がなければ、快楽の虜となり、堕落してしまうのです。
その他に、この世は、生まれる、老いる、病む、死ぬ、の四つの四苦や、愛するものとも別れなければならない愛別離苦、逆に怨みや憎しみを抱いた人にも合わなければならない怨憎会苦、欲しいものが手に入らない求不得苦、そして生きること自体が苦しみである五蘊常苦の四つの苦しみがあり、それらを足して四苦八苦があるのです。
また物質界の掟として、全ては二元対立二極相対(ドヴァン・ドヴァ)として存在する、と言う法則があります。
その為には、物事は中庸を保たなければならないように創られており、常に二極相対の両極端に偏らない活動をしなければならないのです。
この様に、この物質界で人間が魂の自己完成をする為にあえて、苦しまなければならないように創られているのです。
欲望を満たす行動には、一時的に快感を与えてくれてますが、この快感を求める行動は結局は苦しみとなり、それが修行の罠として仕込まれているのです。
それでもこの道理が分からず、欲望の快楽におぼれ、物欲や名誉欲の為に、神々の力を求めてゆがんだ信仰をする人が出てくるのです。
また、病や貧困などから救われたい気持ちで、これまた神々に救いを求めてくる人たちもいるのです。
これらの人々の神々に対する信仰は、信仰の歪んだ姿であり、物欲や無智に起因したもので、純粋に神に崇拝帰依する、精神的なものとは違っているのです。
とは言えこれらの神々も、人々の欲望を満たしてあげる為に、また病や貧困からすくってあげる為に、創造主神クリシュナから遣わされた、御利益神としての任務を課せられているのです。
物欲に知性を盗まれた人々は、生まれつきの性格や傾向によって、各種のデーヴァのもとに行って服従し、その宗教の教義や規則に従っている<バガヴァッド・ギーター7章20節>
更にクリシュナの分霊パラマートマーは、その人の希望に相応し、神々への信仰を固めて行くのです。
つまりクリシュナは、その人の個人意思を非常に重要視している、と言うことなのです。
ハートに宿るクリシュナの分身であるパラマートマーは、人がデーヴァを拝む気持ちになると直ぐに、その人に適したデーヴァの信者になるように、パラマートマーはその人の信仰を固めていく<バガヴァッド・ギーター7章21節>
と言うことは、自らの強い意思がなければ、歪んだ信仰からは抜け出せない、と言うことでもあるのです。
正しい信仰の道に入るには、自らの人間性を高め、欲望にまみれた肉体を浄化し、正しい精神知識を身につけ、インド哲学バガヴァッド・ギーターを指導してくれる精神指導者との縁が、絶対に必要であると言う事なのです。
これらは、インド哲学に書かれており神の定めた真理なのですが、それ故バガヴァット・ギーターを学ばなければ理解は不可能と言うものなのです。
2012-03-02 08:03:19 balkrishnaの投稿
人間がこの物質界で生きる目的の、その第一段階は、肉体としての動物次元から、魂としての自己の意識を高めることなのです。
その為には、子供の時分には家庭で躾を身につけ、学校での集団生活では道徳を養い、そしてビジネスをしながら倫理を身につけ、人間性を高める基礎づくりの段階があるのです。
この中で躾と道徳は、人間の自我が固まらないうちに教え込むことが大事なのです。
つまり、「鉄は熱いうちに打て」と言うことであり、教えが教えとして素直に受け入れられる時分に、たたき込む事が大事、と言うことです。
また倫理は、社会に出て生活の為や仕事の為に、やむを得ないしがらみや、手かせ足かせのなかで、親子関係、夫婦関係、仕事での上下関係、長幼関係、友達関係において、忍耐と寛容を養い、謙虚、正直、率直、克己心を身に付けることなのです。
これら、手かせ足かせ、しがらみの中で、好悪、愛憎、善悪、苦楽、賞賛非難、名誉不名誉などの二元対立を、時と場合と相手と程度によって、どの様に自分を対応させるか、それが人間性を高める、カギとなるのです。
つまり修行とは、時と場合と相手と程度、といった環境に応じて、自分をどの様に対応させるか、その術を多様に持つ事なのです。
当然、その為には色々な人生を、体験する事が必要条件となってきます。
しかし、その体験もただ「生活の収入を得る為に」の事だけであったならば、それは単なる保身欲望の活動に過ぎないのです。
そこでの苦労が、自己の人格向上の為の忍耐や寛容や正直、自制心、謙虚さなどを養うもの、でなければならないのです。
この様に倫理をしっかり身につけてこそ、次の段階の正しい宗教の道に入ることができるのです。
宗教は苦しみから逃れたいとか、名利を得たいと言う不純な動機からでは、本当の宗教の道には入れないのです。
倫理の道をしっかり踏み越えてこない、人間性を高めていないそのような人が求める宗教は結局、カルト教団の餌食になってしまうと言うことなのです。
2012-03-01 07:28:30 balkrishnaの投稿
昨日は信仰の段階として、欲望や願いを求めるウォシップと、精神的向上目指すバジャティーがあることを書きました。
その姿勢として、ウォシップは物質次元で求める信仰に対して、バジャティーは精神次元で尽くす信仰であるとする、大きな違いがそこにはあると言うことを書きました。
今日は、この信仰の段階にも二つあることを、書きたいと思います。
一つは、歴史上の偉大な人物の説いた教えや戒律を信仰する教義信仰と、いろいろ願いを叶えてくれる神々を信仰する、神々(デーヴァ)信仰の段階があると言うことです。
仏陀やキリスト、マホメット、孔子、など、歴史上の偉大な宗教家は、創造主神クリシュナから使わされた、人類の為の宣教師なのです。
これらの宣教師が説いた教義や戒律が、色々な形に分派して、さらに多くの宗教が創られていったのです。
その教義とするところを、生活の中で厳しく実践して、自己完成を目指していくのが教義信仰の段階なのです。
この教義信仰の段階をへて神々信仰に行けば、直接魂を救ってれるヴィシュヌ神の信仰に往くことができるのです。
またもう一つの神々信仰は、人々の願いを叶えてくれる為に神々を信仰する御利益信仰であり、ヴィシュヌ神やブラフマー、インドラ神、シヴァ神、ガネイシャ、サラスワティー(弁財天)などが良く知られています。
この直接神々に信仰するのは、御利益を求めての激情心(ラジャス)から出ているもので、要するに人間の希望を直接神々に叶えてもらおう、と言う下心からの信仰なのです。
私たち魂の本来の目的は、物質的や肉体的に恵まれることではなく、物質や肉体欲望から、解放されるのが、本来魂が目指す方向なのです。
私たちが今住んでいる、この宇宙の生物や自然界を創造したブラフマーでさえも、私たちの魂を物質次元から解放する力は持っていないのです。
この物質や肉体欲望から解放する力を持っているのは、物資界やブラフマーを創造したガルボーダ・カシャーイー・ヴィシュヌなのです。
そしてもう一つは、自分のハートに魂と寄り添う、クシローダ・カシャーイー・ヴィシュヌであり、パラマートマーと言われるもので、このパラマートマーを信仰しても良いのです。
つまり、自分の中にも外にも、ヴィシュヌ神(クリシュナ)はおられると言うことなのです。
このガルボーダ・カシャーイー・ヴィシュヌとクシローダ・カシャーイー・ヴィシュヌはともに、創造主神クリシュナの直接拡張体であり、クリシュナそのものなのです。
神々の信仰は、御利益信仰から始まり、徐々にその信仰を、精神的自己完成の方向性に向け、その目的を叶えてくれる、ヴィシュヌ神にたどり着かなければならないと言うことです。
つまり人間の魂の解放は、クリシュナの教えでしかその力はないと言う事であり、神々への究極的信仰はクリシュナにたどり着かなければ、それはまだまだ物質次元の肉体欲望次元の信仰でしかない、自由を縛られた途中の段階であると言うことなのです。
信仰の究極は、物質次元の肉体欲望次元からの魂の解放であり、クリシュナへの崇拝帰依にその境地を持っていくことなのです。
これらは、インド哲学に書かれており神の定めた真理なのですが、それ故バガヴァット・ギーターを学ばなければ理解は不可能と言うものなのです。
2012-02-29 07:45:53 balkrishnaの投稿
肉体を使ってこの世で生活をして行く最終目的は、人間性を高め更に、魂としての自己完成を目指し、生きながらにしてクリシュナと交歓(サッチダーナンダ・ヴィルラハ)する境地を味わうことなのです。
その為に、この世で生きる為の人間性を高める、躾、道徳、倫理を学び、実際に社会で家庭を営むという修行をおこなうのです。
この家庭を築き上げると言うことは、社会的に認められ自律している事であり、自律の為の生活能力が評価されていると言う証なのです。
人間界は犬、猫、猿のような動物界とは違って、身を守る為に経済活動をするように、高度な社会として築かれています。
しかし、他の動物達は身を守る為に、集団を組んで生活をしたり、また敵とは逃げるか戦うかの、いずれの行動でしかないのです。
今は昔と違って、この社会生活を果たすだけでも、非常に厳しい競争社会となってしまっています。
その為の救いとして、宗教の世界があるのです。
しかし、その宗教も救いを求める為の宗教と、自己完成を目指す為の宗教の、二つの道があるのです。
一つは、求める宗教は苦しみから救われる為であったり、実利を得る為であったりの物質次元の信仰であり、もう一方は、自分の魂の発展の為、または自己完成の為、更には最高至上神バガヴァーンクリシュナへの崇拝帰依の境地に到る為の、精神次元の信仰があるのです。
物質次元の信仰はウォシップと言い、精神次元の信仰をバジャティーと完璧に分けられているのです。
ウォシップは物質次元であり、求める信仰に対して、バジャティーは精神次元で尽くす信仰であり、大きな違いがあるのです。
肉体の苦しみから逃れたい、生活の為に名利を得たい、これらは肉体から発せられるものであり、物質次元の希望なのです。
この段階ではまだ、生活の為の宗教段階にあり、精神的信仰(バジャティー)の観点からすれば、これは宗教の歪んだ姿なのです。
とは言え、物質次元の信仰でも、神や仏とか崇高な教えに帰依するとした姿勢こそが信仰であり、精神的信仰へ進む基礎づくりとなっているのです。
この、目に見えないものにも崇拝する、謙虚にして敬虔な姿勢こそが信仰の基礎となるのです。
つまり目に見える物質次元から、目に見えない精神次元へ意識が変容していく段階であり、これこそが宗教心を芽生えさせ育てる、これこそが宗教の世界入ることであり、大事な姿勢なのです。
この宗教心を更に、物質次元から精神次元へ昇華するのが、次の段階であるインド哲学バガヴァッド・ギーターに入って行く道となるのです。
2012-02-28 08:24:50 balkrishnaの投稿
「人生は科学であり体系である」これは私の持論です。
その体系とは、人間が動物次元から魂としての精神次元に昇華する発展段階を体系的にとらえると言うことなのです。
それは躾としての段階から始まり、道徳、倫理、宗教、哲学の五つの段階を経て、完成にいたることなのです。
躾、道徳、倫理を修することは、肉体欲望を超越して、自己の本質は魂であると完璧に認識するを以って、その躾、道徳、倫理の卒業となるのです。
肉体レベルの意識の卒業とは、人間の持つ食欲、性欲、物欲、支配欲、名誉欲の五つの欲から解放されることなのです。
そして魂の修行の為にこそ、人間として持って生まれてきた頭脳、心、意識を、働かせなければならないと、言うことが分かってくるのです。
肉体の持つ欲望を抑制し、正しい方向に知性を向け、肉体の意識から、完璧に魂の存在としての意識を持つに到ってこそ、躾、道徳、倫理を修した、肉体次元の卒業となるのです。
この様な肉体次元を完璧に修した状態を、不動心を得た涅槃(ねはん)の境地(ブラフマ・ニルヴァーナ)と言うのです。
その為には、知性を以って肉体を浄化し、決意により心を支配し、愛憎好悪に執着せず、感覚満足の対象を放棄し、言葉による力や心と身体を支配し、自尊心、怒り、欲望を持たず、常に穏やかなる境地にする、ことなのです。
この境地にいたれば、諸々の欲望からは完璧に解き放たれ、自分は肉体ではなく、魂の存在であると認識するに到るのです。
涅槃(ねはん)とは吹き消すと言う意味があり、諸々の精神的修行の災いとなる欲望を、吹き消すと言うことなのです。
躾は、相手に対する言葉使い、挨拶、礼義と、自分対する身だしなみ、立ち振る舞いと二つに分けられます。
つまり、マナーとエチケットの両方なのです。
道徳は、相手に対する思いやり、許す寛容のこころ、褒める賞賛の心があり、また自分に対しては、正直であること、規則しきたり約束などを守る事、がまんする忍耐を養うことなどが、その修行項目となるのです。
この様に修行とは全て、相手に対するまた自己完成に対する、欲望を犠牲にすることが、その本質なのです。
さらにその自己犠牲を、いろいろな所で奉仕と言う形で、社会に貢献してこそ、涅槃の境地に至れるのです。
つまり自分の行動が、常に奉仕と自己犠牲をともなう行動となっているかが、悟りへの道を歩んでいるどうかの判断基準となるのです。
これらは、インド哲学に書かれており神の定めた真理なのですが、それ故バガヴァット・ギーターを学ばなければ理解は不可能と言うものなのです。
2012-02-27 07:19:13 balkrishnaの投稿
人間が発展する段階として、躾、道徳、倫理、宗教、哲学の五つのカテゴリーを経る必要があります。
それは動物界から人間界に入る為の躾に始まり、自分は精神的存在であると認識する自己完成までの、意識の変容が人生の修行だからなのです。
それは決して頭だけで理解するものではなく、肉体を以って日々の生活をしながら、様々な実践を通して信仰と言う強い信念を、修得するものなのです。
つまり信仰心こそがその終局点となるのです。
とわ言え、何にどんな事を信仰するかで、その人の精神性の程度が推し量れると言うものなのです。
人間は生きる為には現世利益をもとめて、勉学に励んだり勤労したり、また宗教心をもって信仰したり、様々な活動をしています。
それらは全て、幸福を求めての行動と言うことにおいては、誰もその答えには異論はないはずです。
しかし、貴方にとっての幸せはとは何ですかの問いに対しては、様々な答えが返ってくのです。
ある人は財の富裕たることが幸せと思い、病に伏したる人にとっては財よりも健康でありたいと願い、老いたる人にとっては若さが欲しいと願ったり、女性は美しさを願ったりと、その願望は様々となるのです。
つまり、人間にとっての幸福とは、ある状態を指してその幸福とするものではない、と言うことなのです。
一般的に宗教活動するその動機としては、四つの動機からその道に入っていくのです。
1−財や健康や冥利などを求めている人。
2−生き方に苦悩している人。
3−好奇心からその道にいく人。
4−真の道を究めたいと思っていく人。
我々が信仰する宗教には、教えを説いた歴史上の偉大な人物の宗教や、いろいろな神を信仰する宗教が存在しています。
もともと神々は人間が現世で修行する為の光や水や風、その他人々が生活をする為の便宜を与える役を、創造主神クリシュナから託されているだけなのです。
これらの神々は、一時的に人間の生活の為の便宜を図ってくれますが、肝心なその人の精神的解放は出来ないのです。
いわゆる、人間たちの生活の便宜を図る、行政事務次官と言った存在なのです。
この物質界で神々の頂点とするブラフマーでさえ、人間の物質次元の罠から人間を解き放つことは不可能なのです。
ブラフマーは激情の質(ラジョグナ)であり、人間の精神を解放させることができる徳性の質(サトワ)はヴィシュヌ神だけなのです。
ヴィシュヌ神は、クリシュナの物質界における直接拡張体であり、クリシュナそのものなのです。
人間の最終目的は、物質次元からの精神的解放であり、そして精神世界の最高峰であるゴーローカ・ヴェリンダーヴァンに住むクリシュナの元に帰郷することなのです。
つまり、一時的に私たちの生活の為に現世利益を与えてくれる宗教は、真理の道からすればそれは、歪んだ姿なのです。
私たちが学ぶべきものは、宗教を超えたインド哲学バガヴァッド・ギーターであり、ギーターを修してこそ、魂の生れ故郷である、至上主神クリシュナと永遠の歓喜を交わす事ができるのです。
これらは、インド哲学に書かれており神の定めた真理なのですが、それ故バガヴァット・ギーターを学ばなければ理解は不可能と言うものなのです。
2012-02-26 07:52:02 balkrishnaの投稿
人間は「じんかん」であり、物質と精神の中間エネルギー(タタスタ・シャクティー)なのです。
人間として生きる修行とは精神エネルギーを、物質次元の低位エネルギーから精神次元の高位エネルギーに高めることなのです。
従って、一か所に留まっていては駄目であると言うことなのです。
人間は生きて行く為には、修行をする為の肉体を維持しなければなりません、その為に仕事をして生計を立てているのです。
しかし、ほとんどの人は、安定した快適な生活をしたいその程度の思考で留まっており、人生を何のために生きるのか?の意義と言うものを捉えていないのです。
肉体はあくまでも、魂の修行の為に創造された、その人の修行に相応しいカスタムメイドの生体ロボットなのです。
大事な事は生体ロボットを駆使して、ロボットの中に入った魂を磨くことなのです。
その、魂の修行の為にも生体ロボットには、勝手に自立して行動しようとする欲望というプログラムミングも、施されているのです。
この世で生計を立てる為には、躾や道徳そして倫理を身につけ、社会で知力を尽くして経済活動をしなければなりません。
そして、肉体の維持ができるようになれば、その次は肉体の奥深くから自分を動かす何かがある、と気付かなければならないのです。
その気付きが「自己の本質は魂である」との気付きであり、そこからが宗教心の芽生えと言うものなのです。
その宗教心を育てる為に、さまざまな人の欲望に合った、様々な宗教があります。
その宗教は、仏教やキリスト教のように歴史上存在したの人物の教えを教義とする宗教や、神々を崇める宗教、また偉大な業績を果たした人物を崇める宗教、更には地霊や悪魔を崇拝する宗教などもあるのです。
この宗教を経て、更に絶対支配者(バガヴァーン)クリシュナの存在や、人間を含めた生命体、物質自然、時間、カルマ、と言った全ての真理を信仰するインド哲学バガヴァッド・ギーターに到らなければならないのです。
このインド哲学バガヴァッド・ギーターに到れば、自己の本質は魂であり、その行為行動によって来世が決まり、さらに輪廻によって840万種の生物体に生まれ変わる、という真理を受け入れることができるのです。
そして輪廻を脱して、絶対支配者(バガヴァーン)クリシュナの住む精神惑星の最高峰、ゴーローカ・ヴェリンダーヴァンに帰郷し、そこで永遠至福の境地に到ることを目指すようになります。
つまり我ら修行の目的はただ一つ、絶対支配者(バガヴァーン)クリシュナを知り、クリシュナの元に帰郷することなのです。
その事を知らずして、どんな宗教もヨガの境地も、それは修行の一工程であるか、または部分の幻想にしかすぎないのです。
人生はすべてが修行であるテーマ:私のエッセー
2012-02-25 07:03:14 balkrishnaの投稿
「人生はすべてが修行である」これが私の持論です。
しかし、その修行が自分にとって何であるか、と言う事によって、当然その目標物も違ってくるのです。
何のために、何を修行とし、その目標は何か、これらのことはその人の精神的成長の段階によって、目標物も当然違ってくるのです。
また、人によっては、同時にいくつかの目標を立てて、並行して修行していく人もいると思います。
ここで大事なポイントですが、その目標物が生きて行く為の肉体的欲望なのか、自己完成を目的とした精神的な欲望なのかが、一番重要な事なのです。
自己完成とは、自分は魂の存在であり、肉体的な欲望次元から完全に解放され、精神的存在として自己を確立する事なのです。
従って修行の目的が、肉体的や物質的なものであってはならないと言うことなのです。
例えばその目的が健康の為とか、経済的に充実する為とか、名誉を得る為の次元であってはならない、と言うことなのです。
そう言うことからすれば、歴史上の有名な哲学者の言葉でさえ、生活の向上やビジネスの為に実践するのであればそれは既に、物質次元のものとなっているのです。
私はお経をあげ始めた時は、その目的を「人間性の向上」ただ一点に、その目的を置いていたのでした。
それはお経をあげ始めた時既に、人間の最上の幸福とは、健康や富や名誉と言った、ある状態を指して幸福とするものではない事を、仏陀の教えとして悟っていたからなのです。
従ってその時点ですでに私は、人間として成すべき行為行動が生涯通じて出来ることこそ、人間の最上の幸福である、と確信していたのです。
その為には、精神的知識の学びは仏陀の教えから、生涯通じて行う修行の忍耐力は読経を通して養おうとしていたのです。
更にそれと同時に、私には津軽三味線の技の修得があり、この修練も毎朝やり続けて来たのです。
これは芸術の探求と熟達すために技を磨く事であり、そして津軽三味線のルーツを訪ねる精神的な旅でもあったのです。
津軽三味線は、貧しい津軽の飢餓の歴史に埋もれて逝った人々の、鎮魂の音色でありその演奏は供養とての行為でもあるのです。
いわば津軽三味線の演奏は読経でもあるのです。
この様に、毎朝の出勤前の時間は、読経の忍耐と芸術の修練と言う二つの修行をし続けてきたのです。
その結果は今の生活の中に、完璧に無駄なく活かされているのです。
2012-02-24 07:32:24 balkrishnaの投稿
私は30歳の時から、仏陀を学ぶと同時に般若心経を唱え始めました。
その後、法華経の方便品、提婆達多品、寿量品、神力品、普門品(観音経)などを読経していったのです。
そしてその次には、自分の宗派である、曹洞宗の修証義と父母恩重経をあげ、更に密教を学ぶと同時に不動経と理趣経を読経するに到ったのです。
これらのお経の中には、テープを買ってそれになぞって読経したものもありました。
そして毎朝20年間読経し続け、中には暗唱できるお経まであります。
この読経をすると言う行為は、精神統一をする為のものであり、精神性を養う立派なヨーガのなのです。
特に理趣経は全て音読みであり、集中できなければ途中でこんがらかってしまい、最後まで通読できなくなってしまうのです。
つまり理趣経の世界に、没頭しなければ通読できない、と言うことなのです。
一般的にヨガと言われているものは、ヨーガと言い、精神性を高める為の修行ステップの初歩的段階であり、美容やシェイプアップや健康の為のインド体操と言った意味ではなのです。
肉体を使ってのヨガは、精神統一をする為におこなっている、初歩的な肉体統制の段階なのです。
また私はヨーガの種類
として、2011年9月21日から6回に分けて、詳しく記述しております。
このヨーガを全てこなしてきて最終的に、ヴィシュヌを瞑想する三昧(サマーディ)の境地に到るのです。
ここでよく言われるのですが、お経を唱える時、そのお経の意味を知らなければ意味がないと、言われることがあります。
確かに意味を知って読経する方がいいと私も思いますが、しかし、それらの意味を完全に知る必要もないとも、思っているのです。
お経はもともと、インド古代のサンスクリット語で唱えられていたマントラが漢字に置き換えられたものであり、このマントラを発すること自体に意味があるのです。
お経の意味を知ろうとする行為は既にその時点で、この世で生きる為の処世知識として知ろうとする行為となり、その行為は物質次元の行動となっているのです。
精神次元の行動はその行為自体による結果を全く求めない、無目的なものでなければならず、ただただ読経する、と言った神仏を崇拝する直向きな姿勢が大事なのです。
そして、読経をただただ続けるという忍耐力を養うことも、読経の功徳と言うものなのです。
その愚直なるまでの、愚かしく思われる行為こそが読経の真髄なのです。
それは、マントラの究極であるハレー クリシュナ・ハレーク
リシュナの世界に通じる道だからなのです。
これらは、インド哲学に書かれており神の定めた真理なのですが、それ故バガヴァット・ギーターを学ばなければ理解は不可能と言うものなのです。
2012-02-23 09:20:00 balkrishnaの投稿
自己完成をする為には、精神的知識の修得(ジュニャーナ・ヨーガ)と心身の浄化(カルマ・ヨーガ)を絶対に欠かすことは出来ないのです。
しかもそれを同時進行する事が大事なのです。
知識の習得はある意味においては、精神的感動があり快感もあるのです。
それだけに精神知識の修得に関心が向けられ、また知識を豊富に得たことで優越感も持ってしまうのです。
そこで、そう言った優越なる意識を捨てる為にも、身を以って崇高なるものに、畏れ敬う態度、尊敬、恭順、謙虚、などの姿勢を身に付けなければならないのです。
その毎日積み重ねる具体的行動が、ご先祖様や神仏に手を合わせ拝礼する、勤行と言うものなのです。
人間の魂は創造主神クリシュナの分霊(ママイヴァーンシャハ)であり、それは主従関係であり、クリシュナの真理に対しては、絶対服従しなければならない関係なのです。
この服従の態度をもって真理を実践する事によってのみ、魂の目指すべき永遠的で最高な精神的歓喜(サッチダーナンダヴィグラハー)に帰郷することができるのです。
人間はともすると、不遜な態度となりがちです。
この世の物質自然界は全て、人間が享楽する為に利用すべきであると、独善の考え方で人類は資源を開発しまくっています。
最近では海底深くボーリングをしてまで、資源開発をしています。
しかし、この世の物質自然は全てクリシュナの所有物であり、たとえ爪の上の小さな石ころさえ、自分のものではないのです。
この世の物質全てにおける、原子構造の素粒子レベルの電子はクリシュナの精神的拡張体なのです。
と言うことは、私たちは全てクリシュナの手中で生活を営んでいるということになるのです。
この様にクリシュナは、私たちの魂の修行の為に、太陽の光をはじめ自然界の動植物や資源など無償の慈悲を与えてくれているのです。
この真理を知ったならば、人間は絶対に謙虚にならなければならない、と言うことになるのです。
そして最終的には、クリシュナに対する崇拝帰依の境地を持たなければ、魂の完成にはたどり着けないと言うものなのです。
当然、精神的知識の精髄であるバガヴァッド・ギーターをしっかり学んで来れば、この様な真理は書かれており、理解できるものと思います。
魂の完成への第一歩は真理を受け入れることであり、たった今ここに書いた真理などを受け入れる謙虚さを貴方は身につけていますか?の質問にたいする答えで、判断できるのです。
しかし本当に知るとは真理に沿った生き方を実践する事であり、実践をし続けてこそ知った証となるのです。
知識としてでなく、それを肉体を以って実践してこそ真理は理解できるのです。
それだからこそ、この物質界で肉体を使って苦行する人の存在は、尊いのです。
これらは、インド哲学に書かれており神の定めた真理なのですが、それ故バガヴァット・ギーターを学ばなければ理解は不可能と言うものなのです。
2012-02-22 07:48:12 balkrishnaの投稿
人間とは「じんかん」と言い、自己の認識によって、動物と魂の中間に位置する、物質と精神の中間的存在なのです。
つまり、人間として生きるその目的は、動物的存在から精神的存在に昇華することであり、それをなす為に修行の実践と言うものがあのです。
私たちの毎日の行動は大きく分けると、三つの行動を以って生活をしているのです。
1−生活をする為の行動
2−余暇を楽しむ行動
3ー自己完成の為の行動
この中で、生活をする為の行動と、余暇を楽しむ為の行動は、他の動物でも行っているのですが、自己完成の為の行動は、人間だけが成す行動なのです。
厳格に言うなれば、この行動なくしては人間としての存在意義はないと言えるのです。
つまり、宗教心と哲学を修得なければ、自己完成は成し得ないと言うことなのです。
その自己完成をなす為には、「精神知識の修得と心身の浄化」を行うことしかあり得ません。
この両方を修得してこそ、自己完成がなされると言うものです。
しかし、ともすると身体を使っての心身浄化は、頭を使っての知識の習得より面倒臭さや苦痛が伴います。
それだけにどうしても肉体を使う修行を避けてしまうのです。
つまり、肉体を使って修行するよりも、肉体を使わないで手っとり早く、頭を使って自己完成を得ようと求めてしまうのです。
特にこの様な人は頭が良い人で、理解力や記憶力、分析力、統合力、推測力など頭脳能力に長けた人に、よく見られます。
しかしこれは大きな錯覚であり自己満足に過ぎないのです。
例えて言うならば、車の構造を隅から隅まで知り尽くして、それでもう車を自由に乗れると思いこんでいるようなものなのです。
しかし実際には、車を操作してその車の特徴を生かした使い方をしてこそ、車を利用する目的があるのです。
精神知識はあくまでも、修行をするその目的は何か、どの様に修行をすべきか、これら正しく修行をする為の、知識を得る手段なのです。
つまり精神知識の修得は、実践修行の為の手段であって、精神知識の修得だけでは自己完成の達成にはならない、と言うことなのです。
この実践修行の第一歩は、具体的には、毎朝ご先祖様にお水を捧げ、手を合わせお経を唱えることから始まるのです。
この作法は、最も身近で毎日行える修行であり、目に見えないものに対する感謝報恩を、肉体を以って表明す人間として尊い姿なのです。
人間には神から与えられた宗教義務(ダルマ)があるのです。
それを供犠(ヤグニャ)と言い、供犠は自己の精神的発展を促すとともに、神を歓ばす行為でもあるのです。
供犠(ヤグニャ)の供は、供えるの意味があり、犠は、犠牲であり苦しみを意味するのです。
人は何か望を叶えようとする時は、好きなものを断ったりしますが、それも神様にお願いする供犠(ヤグニャ)なのです。
宗派によっては断食の苦しみや、肉体を傷めつる痛みを以って、供犠(ヤグニャ)とする宗派もあります。
つまり私たちは精神的向上の為に、自己の犠牲を捧げる苦しみを伴う行動でなければ、それは供犠(ヤグニャ)にはならない、と言うことなのです。
精神的生き方への道テーマ:私のエッセー
2012-02-21 08:09:44 balkrishnaの投稿
2月18日から精神的について連続して書いてきました。
それは、私たちが戦後ずっと持ち続けてきた価値観、つまり物質文明の発展が人間の幸せにつながると言った盲信が行き詰まり、精神的な生き方こそ必要である、と言った危機感をもったからなのです。
戦前までの日本は、精神的な生き方を非常に大事にしてきた民族でした。
ところが、アメリカにピカドンを一発くらってからはそのショックからか、戦後はアメリカの民主主義、資本経済と言うまやかしの思想によって、日本全体が一気に物質文明至上主義に陥ってしまったのです。
その思想は、世界の工場として猛進してきた経済至上主義だったのです。
しかし、資本主義経済のグローバル化が進み、後進国の安い労働賃金によって、日本の貿易立国としての限界がきてしまったのです。
今や物質文明の発展では、人間の本当の幸せは得られないどころか、どんどん妄想と狂気の社会に引きずり込まれている、と言ったことになっているのです。
奇しくも、福島原発の三号機で再びピカドンが起きてしまいました。
しかも、今もその影響は継続中で、今回の方がもっともっと放射能の影響力が大きく、これも神の啓示ではないかと思っています。
今こそ、これを機会に再度、精神的な生き方に目を向けなければならない、と言うものなのです。
今度のピカドンは、日本人よ目覚めよの目覚めのピカドンなのです。
幸い日本の歴史には、質素で気高く潔い武士たちの見習うべき、精神的な生き様がありました。
そこで私はこれから何回かにわたって、自分が実際に体得してきたその生き方を、過去を思い出しながら書き綴ってみたいと思います。
私が丁度30歳の時、仕事中毒であった私は、仕事と家庭の板挟みとなり、子供の怪我の入院がきっかけで、人間として生きる意義と言うものを考え始めたのです。
人間はなぜ生まれてくるのか?、その意義はなんであり、また死後はどこへ行き、どんなこと事になるのか?
こんな疑問が、仏教の教えに興味を持つきっかけとなったのです。
その時読んだ本が、増谷文雄さんの著書「仏陀」でした。
その後はその本を食い入るように読み込み、その内容に深く感銘を覚えたのです。
その中には「人間の最上の幸福とは」 」と言うもが書かれており、その詩は今でも暗唱することができるほど、毎日毎日読み続けたのです。
そして、仏陀の教えとはどういうものか勉強すると同時に、般若心経を毎日唱え始めたのです。
ここで大事な事は、知識としての学びと、身心を浄化する為の行動の両方を同時に行うことが非常に大事なのです。
つまり運転免許の試験と同じく、学科と実技の両方の修得が必要で、この両輪を同時に回してこそ、本当の修行となるのです。
しかし、普通の人は学びだけで理解して、それで体得したと思ってしまうのです。
体得とは、身体を使って心に感動を生起させる行動なのです。
頭だけで理解したとしても、それは観念として留まるだけであり、心底からの信仰心には至らないのです。
やはり身を以って実践する辛い修行も必要と言うことなのです。
つまり知識として学ぶと同時に、身を以って実践する辛い修行によって心と魂の領域まで精神エネルギーを染み込ませよ、と言うことなのです。
精神的生き方とは?テーマ:私のエッセー
2012-02-20 07:25:41 balkrishnaの投稿
これからは精神的生き方と言うものを意識して、物質次元と精神次元のバランスのとれた生き方を目指す必要があることを、書きたいと思います。
このブログ内検索で「精神的生き方」とか「精神的とは」と検索すると、それぞれ五つ程度のタイトルが出てきます。
それだけ精神的生き方と言うワードは、私のブログ全般にわたって使われている、と言うことなのです。
先ずはこの精神的とはの定義を、しっかり定めておくことが絶対条件となります。
一般的に精神的という捉え方は、心や魂の働きを言い、意志や信念、根気や気力などの、意識的な心の働きをさしております。
また、この精神的に対する対義語として、物質的または肉体的と言う概念があります。
ここで肉体的と言うものは、単に肉体そのものを指すのではなく、肉体から発せられる欲望(食欲、性欲、物欲、名誉欲、支配欲)も肉体的と捉える事が大変重要な事なのです。
この様に、精神的と物質的(肉体的)の違いをはっきり認識する事が、精神的な生き方を目指す第一歩となります。
その次には、肉体欲望につき動かされる行動のほかに、目的意識を持った能動的な行動として、心と魂の作用による精神的な行動があることを、認識することが大事です。
当然のことながらここで、精神的生き方を目指す為には、心と魂の存在をはっきり認識していると言うことが、絶対条件となると言うことなのです。
ここで言う心とは、道徳心(仁,義、礼、知)であり倫理の心(親、義、序、別、信)であり、宗教心(十戒律、八正道、六波羅蜜)を実践すると言うことです。
この心遣いこそが、精神的生き方の原点なのです。
これら、毎日毎日の生活のあらゆる場面において、心の実践を積み重ねてこそ、その人の人格形成となっていくのです。
そしてその成果が、魂に刻み込まれその人の根性となり、その因が来世の縁をひきよせ、生まれ変わりの姿になっていくのです。
この様に精神的生き方とは、その原点は道徳、倫理、宗教なのですが、残念ながら今の家庭や学校では、これら生きて行く為の重要な教えが、ないがしろになってしまっているのが現状ではないかと、思われます。
その原因は皮肉にも、便利で豊かな社会を築いたが、更にもっともっとと発展させようとする為に、毎日が生活に追われる姿となってしまっている、からなのです。
結局、物質次元の生き方に邁進している姿勢が、精神的生き方をないがしろにする社会となって、苦しんでいるのです。
しかし、精神的知識を持ち合わせていないそれらの人々は、その苦しみの原因が自分の無智と激情の質性にあることすら、知りえないのです。
ここに、物質次元にどっぷり浸かって生きている人たちの、救いようのない現状と言うものがあるのです。
経済的に生きる精神的に生きる、その本質はテーマ:私のエッセー
2012-02-19 08:36:36 balkrishnaの投稿
昨日は「経済社会から精神世界へ」と題して記述しました。
そこでは人間は動物の本能に囚われながらも、経済社会のなかで欲望を乗り越えて、人間としての欲望を正しい方向と程度で修行してこそ、この物質次元に生きている意義がる、と言うことを書きました。
現代の日本社会は、物造りを中心とし貿易立国として経済社会を築いています。
そして物質文明を発展させた事により、物に恵まれ生活環境も衛生的で住みやすく、便利な生活を営むことが出来るようになったのです。
しかしその陰として、海外企業との競争が激化し、安い労働賃金によるコストダウンを余儀なくされ、派遣労働の恒常化と言う現象がおき、年収の激減という状態になってしまったのです。
結局、資本主義社会は競争原理がその本質であり、経済的に高度に発展しても最終的には、人間関係もぎくしゃくした、生存競争が激しい住みにくい社会となってしますのです。
経済的に生きるとは、人間の持つ欲望(食欲、性欲、物欲、名誉欲、支配欲)を満たす為に、主に頭脳と肉体を駆使する活動なのです。
一方、精神的な生き方を目指した生活とは、魂的に生きることであり、先ず自己とは魂であるとの自覚から始まらなければならないのです。
それは、自己とは魂であり、意志であり信念であり、自分を主体的に捉える精神エネルギーである、と言うことの認識なのです。
この精神エネルギーをどの様に働かせるかによって その人の人間性と言うものが決まってくるのです。
欲望を満たす為にだけ行動するならば、それは動物次元の存在に留まり、逆に人間としての道徳心、倫理観、宗教心と言うものを、正しく学び実践する生き方をしていたならば、それは立派な魂としての精神的存在となるのです。
この世で、肉体を持って生きて行くには当然、経済的に自立する事は一番大事なことです。
すでに経済的に自律しているならば、その人は過剰な物質次元の欲望は捨てなければなりません。
物質的な豊かさは本物の豊かさではなく、肉体があるこの世だけの一時的で儚いものなのです。
それよりも、来世にまで影響を及ぼす、道徳心、倫理観、宗教心を養う精神的修行を、生涯かけて実践すべきなのです。
とは言え、生存競争の激しい世の中では、生きて行くことにさえ厳しい生活を余儀なくされています。
人間は何のために学校い行って高度な教育を受けているのか、そんな疑問さえ起こす事が出来ないほど、人間は精神的に貧弱な存在となってしまった、と言えるのではないでしょうか。
江戸時代に武士は、武士道や葉隠を学び、武士は死ぬこととみたて候、武士に二言なし、武士は食わねど高楊枝、武士の一分(いちぶん)、これら命をかけても守らなければならない名誉や面目など、精神性の高い潔い生き様をしていました。
また戦争中は、特攻隊の七生報国(七たび生まれ変わり国に報いる)の、愛国精神と言うものがありました。
国の為、何が惜しまん我が命、死して護国の神と化しなん。
七生昭道 菊水特別攻撃隊・・・・行年十八歳
私たちには、先人が遺してくれた尊い精神的財産があります。
それは太古の昔から培われた日本の、肉体よりも精神性を重んじる精神的伝統なのです。
この様な、精神性を重視した生き様こそが、日本の大和魂と言えるものなのでしょう。
経済社会から精神世界へテーマ:私のエッセー
2012-02-18 07:02:33 balkrishnaの投稿
昨日は、「私たちは囚われの中で生きている」につて記述しました。
そこでは先ず、私たちの魂は物質次元であるマーヤーに囚われ、肉体という人間の乗り物の中に入り、そこで動物の本能である、食欲、性欲、保身欲に囚われ、更に人間的に発展するとこんどは、物欲、支配欲、名誉欲に囚われて行く、と書きました。
この人間的に発展するところに、人間として生まれてきた意義があるのです。
普通の動物段階では、本能に依存した生き方でしか、その行動範囲は限られてしまうのです。
しかし、人間は動物の本能に囚われながらも、それらの欲望を乗り越えて、人間としての欲望を正しい方向と程度で修行してこそ、この物質次元に生きている意義がる、と言うものです。
物欲、支配欲、名誉欲も決してそれ自体は悪い欲ではないのです、ただそれがどんな欲なのか、どの程度なのか、その人に相応しいものであるかが重要なのです。
その人の、肉体的観点からも精神的観点からも、成長の発展段階では時として、物欲、支配欲、名誉欲を発揮することも、必要になるのです。
それは、物欲、支配欲、名誉欲も家族を養う為の、仕事における情熱の起爆剤ともなるからなのです。
ここで大事な事は、物質次元の欲望は自己に相応しい欲望の程度に止めておくことなのです。
この物質次元の欲望は人間が生活する為の欲望だけに止め、それと同時に今度は人間としての精神的な発展の欲望に、その情熱を切り替えることが大事なのです。
この人間としての精神的なとは、他人を思いやる優しさ、過ちを許す寛大さ、人を褒めたたえる大らかさ、陰ひなたない正直と率直さ、社会の規律やしきたりを守る順守の心、義務や責任を果たす忍耐の心、これらが精神的知識と言うのです。
一言で言うならば道徳と倫理なのです。
人と人との間で一番大事な道徳(仁、義、礼、知、)は、学校時代における集団生活の中で養われ、倫理(親、義、序、別、信)は家庭を築いて社会生活をしていきながら培うものなのです。
本来ならば、学校教育として子供時代に一番必要な精神知識である道徳こそ、最も重要視して教えなければならない精神知識なのです。
それでも昔は、道徳とか修身と言った時間がとられており、それなりに精神的知識を学ぶ時間もあったのです。
しかし今の学校は、一流大学一流企業に就職する為の処世術としての知識だけしか教えていないのが、現状ではないかと思われます。
つまり子供たちは、学校と言う精神的屠殺場に送り込まれている、と言うことなのです。
今は子供の時から、有名大学を目指しての勉強を強いられ、人との関わりである道徳が軽んじられた社会、となってしまいました。
それは、経済的に恵まれることがそのまま人間の幸せであると言う 経済信仰にとりつかれた国に生きているからだと思います。
国の政治が経済経済と、その方向に突き進んでいる以上、その国で生きる我々も自然に、その国策に囚われるのも必然的、と言うものなのでしょう。
それでも、個人レベルでの生き方の選択は残されているのですから、いつでも気がついた時に 魂としての本当の生き方に目覚め、物質次元の桎梏(しっこく)から解き放たれるべきなのです。
本来ならば、これだけ物質的に恵まれたなら、今度は道徳倫理の心が行き届いた社会を目指すべきなのです。
しかしその方向転換は、今まで驀進してきたエネルギー以上にその努力が必要であり、それはもう破壊と言う過程を経なければ、それは不可能にも思えます。
2012-02-17 07:56:24 balkrishnaの投稿
ともすると、私たちは自由に生きていると錯覚をして毎日を生活しています。
特に今の時代、刑務所に入ってさえいなければ、誰でも生活する為には多少の不自由さはあっても、行動を制約される不自由さは全く感じないと、思っていると思います。
しかしそれは本当の自由と言うものを知らないから、自由だと錯覚しているに過ぎないのです。
人間は本来、魂の存在なのです。
魂の観点からすれば、この世に存在すること自体に始まり、さらに肉体を持って生活をしている事を考えれば、あらゆるものに囚われて生活をしている事になるのです。
その魂の本質は、意志であり、信念であり、自分を主体的に行動する行為者であり、魂の本質を知る精神知識であり、それらはブラフマーから放たれた個別性を持った精神エネルギー(アンタランガ・シャクティー)なのです。
この物質宇宙の創造神であるブラフマーでさえも、物質次元(マーヤー)にまずは囚われているのです。
この物質次元の厳然たる掟として「諸行無常」と言うものがあり、全ては移ろい留まることはない、の大原則に囚われています。
つまり誰でもどんなに幸せと思っていても、何時は不幸に変わり、最後は死ぬことからは免れない、と言うものなのです。
そしてこの物質次元の掟として、トリグナの掟があり人間の魂は物質次元の中に誕生すれば、無知、激情、徳性の三つの性質に囚われてしまうのです。
更に魂は、肉体という人間の乗り物の中に入れば、今度は動物の本能である、食欲、性欲、保身欲に囚われ、更に人間的に発展するとこんどは、物欲、支配欲、名誉欲に囚われて行くのです。
この物質次元エネルギー(バヒランガ・シャクティー)も、創造主神クリシュナの立派な外的エネルギーであり、魂の精神エネルギー(アンタランガ・シャクティー)を取り囲んでいるのです。
人間はクリシュナから与えれれた優秀な?頭脳を持って、生活が豊かに便利にと、色々なものを創りました。
しかしそれが、創造主神クリシュナに対する崇拝帰依を忘れ、自己が享楽する為の独りよがりの行動であったならば、それは必ず人間を苦しめ不幸にする、縄となってその人の魂をどんどん縛りあげて行くのです。
これら自分だけが享楽を得ればよいとのことが、社会風潮ともなれば、その社会全体も生きにくく、苦しみの生活環境となるのは、当然なことなのです。
この世の物質は全て、クリシュナの創造物なのであり、石ころ一つ人間の所有物はないのです。
それらクリシュナの所有物を、人間は拝借して生活をしており、また人間にとって絶対に必要な太陽エネルギーも、クリシュナが太陽に与えたものなのです。
つまりクリシュナは私たちに魂の歓びと修行をさせる為に、この物質次元を創ら得たのです。
その創造主神に対する崇拝の念を忘れた魂はかならず、クリシュナが施した囚われの罠にはまって苦しみ、気付かされるのです。
魂が本当の自由を得るには、これらの真理を知る事であり、クリシュナンに崇拝帰依しクリシュナの真理に服従する生き方をすること、これしかなのです。
これなくして絶対に、物質次元(マーヤー)の囚われからは逃れられないのです。
これらは、インド哲学に書かれており神の定めた真理なのですが、それ故バガヴァット・ギーターを学ばなければ理解は不可能と言うものなのです。
性質、性格、人格の捉え方
2012-02-16 08:05:06 balkrishnaの投稿
人間は、一生を突き動かされて生きて行くものです。
その人間を突き動かすものとしては、肉体である本能、欲望、六つの衝動(食べたい、味わいたい、喋りたい、動きたい、性の衝動、怒りの衝動)があります。
またその他に、人間が意識できない無意識に突き動かされるものとして、未顕現意識(トリグナ)と言う作用があります。
それは生命体が物質次元に入れば、必ずこの未顕現意識(トリグナ)にとらわれる、と言うのがトリグナの厳然たる掟であり、しかもこのトリグナはその人が前世に活動した諸業(カルマ)として持って生まれてくるのです。
その未顕現意識(トリグナ)は無知(タマス)、激情(ラジャス)、徳性(サットヴァ)と言い、無意識にその人の性質として包み込んでいるのです。
性質とは正にこのトリグナを言うのであり、おとなしいか活発か、知的か愚かか、などその人が持ってうまれてくる天性や質性なのです。
このトリグナがその人の基本的な行動様式となり、その人の趣味や仕事がどんなものに興味を持つかが決まってくるのです。
その趣味や仕事を通じて、今度は色々な場面において、その人の持つ未顕現意識(トリグナ)の無知、激情、徳性が現れ、各自の特有のある程度持続的な感情や意志の傾向が性格として築かれていくのです。
ここで大事な事は、自分の性格は創りあげることもできる事に気づくことが大事なのです。
それこそこの未顕現意識(トリグナ)の存在を知り、トリグナの囚われている自己を分析し、それを改善していくところに、人間として生きる修行の目的がそこにあるのです。
人間はじんかんと言い、動物としての肉体的存在に留まるか、また魂として精神的存在に昇華するか、その中間的な位置に存在しているのです。
自らの意志(エネルギー)によって、自分を本能と欲望にまみれて生きる動物次元に止めておくか、精神的知識と実践をもって、魂としての自己を確立していくか、この認識こそが人間として目指べき方向性なのです。
この自らの意思(エネルギー)によってが大事な事であり、この意志こそが魂の自覚の根源なのです。
もしこの意志がなければ、人間は肉体の本能と欲望、それに誰もが気付かない未顕現意識(トリグナ)によって、生まれながらの性質で突き動かされた人生を、ただ送るだけとなってしまうのです。
人生は自ら強い意志を持って、精神的向上をめざし、断固たる決意で実践して自己を創りあげる、これこそが人格として築かれたものとなるのです。
人格とは、人間(じんかん)の実態を理解し、未顕現意識に突き動かされている人生から、自らが主体的に目的をもって、生涯つうじて創りあげる来世の性質の元となる魂の性格なのです。
つまり、性質は持って生まれて来た肉体から発せられ、性格は未顕現意識に作用され、人格は魂の根性として、自らの意思で創りあげるものなのです。
これらは、インド哲学に書かれており神の定めた真理なのですが、それ故バガヴァット・ギーターを学ばなければ理解は不可能と言うものなのです。
芸歴40年を迎えこれからが本番テーマ:私のエッセー
2012-02-15 07:21:17 balkrishnaの投稿
今年は津軽三味線を習い始めて、まる四十年を迎えます。
初めて津軽三味線の手ほどきを受けたのは、当時まだ高校三年生だった民謡歌手の金沢明子さんでした。
結局二年ほどの間で、三人の先生に指導を受けたのですが、どうしても先生たちの指導に納得できなく、オーディオメーカー山水電気鰍ナサラリーマンをしながらも、20年間独学をしてきたのです。
この間にも、青森県弘前市で行われる津軽三味線全国大会に、五回出場してプロの技にも挑戦してきました。
43歳の時に企業リストラがあり、私はあえて希望退職を願い出て、25年間のサラリーマン生活に終止符をうち、津軽三味線の演奏家として新しい道を歩み始めたのです。
そして今年で、脱サラしてから20年を迎える事になりました。
今のところは年金生活をしながらですが、学校講演や各種イベントアトラクションやコンサート、ライブハウスでの演奏活動、そして音楽教室やカルチャーでの指導も行っております。
私は脱サラした時に、一弦供養「祈りの芸人」 をキャッチフレーズに、一本一本の弦の音色で、亡き人々には御霊を供養し、生きている人たちには魂に癒しを与え、現世とあの世の全ての生命の幸せを祈ることを、目指したのです。
それは研ぎ澄まされた音色で、撥で打つ音、ひっかける音、滑らせる音、指ではじく音、それぞれ違った音の味を大事にする事を目標にしたのです。
さらに、演奏においては曲の、強、弱、めり、はり、緩、急、をしっかりつけ、また表現においては、ぎくしゃくぎくしゃく、滑らかに、粘っこく、の三つの違った概念の表現を自然にこなす事も重要視しています。
その為にの撥さばきは、止めて止めて流れるように、押さえて押さえて流れるように、と言った矛盾した言葉の表現が必要になってくるのです。
変化に富んだ味のある演奏表現は、撥さばきで決まります。
私は、その撥さばきを分析して独自に、スナップ打ち、腕打ち、甲打ち、と三つの名称をつけ、それぞれの極意を教えています。
私は、オーディオメーカで培った音に対する感性と哲学によって、音の神秘性を体得してきました。
その答えは、「音楽とは音を楽しむ」が原点なのです。
とにかく綺麗な音色があれば、それは単音でも人の感性に訴えることができると言うものです。
その綺麗に出された音にメロディーが付き、リズムが加わって音楽となるのです。
津軽三味線の表現で一番重要な事はやはり、撥で打つ音、ひっかける音、滑らせる音、指ではじく音、のそれぞれがしっかりと綺麗に表現できているかに、その全てがかっています。
ともすると、速く速く難しい技を駆使する、これこそが津軽三味線の真髄だ言わんばかりですが、それは腕前を争う競技としての演奏技のように思われます。
津軽三味線の原点は、目の見えない乞食と卑しめられた坊様(ボサマ)達が、その日の糧を得る為に、門付けをしながら弾いた三味線のがその原点であり、過酷な運命に対する悲哀感が籠められているのです。
それに、津軽の凶作の歴史に埋もれた餓死者と、貧困によって間引きされた子供達に対する、鎮魂供養が津軽三味線の原点でもあるのです。
芸歴40年を迎えた今年は、津軽三味線の原点をしっかり踏まえ、一弦供養「祈りの芸人」として迷わず確信を持って突き進むことを、私は決意するのです。
2012-02-14 08:07:24 balkrishnaの投稿
私は昨日のブログ、「私は癌とは無縁であるの確信」で、七つの生活習慣を心がけている事を記述しました。
1−食べ過ぎない事と、夜は胃袋を空っぽにする事。
2−添加物に注意し野菜中心の食餌をとる事。
3−晩酌と言う飲酒の習慣を持たない事。
4−夜ふかしをしない事。
5−骨折り(ストレス)となるようなことを欲っしない事。
6−不要な人付き合いはしない事。
7−精神哲学と技芸の自己練磨にはげむ事。
実はもう一つ、とっておきの癌の特効薬を毎朝飲んでいるのです。
私は、癌の発症原因は血液の汚染が最大の原因であると思っております。
その血液の汚染は、四足肉の取り過ぎと添加物食品によって引き起こされるのです。
本来人間は豆類の植物性たんぱく質で十分であり、肉食は必要なく、動物性たんぱく質は、牛から作られる牛乳、バター、チーズがあれば十分なのです。
明治時代以前は、日本人には肉食の習慣は全く無かったくらいですから、それを歴史が物語っています。
それでも腸の働きが活発であるならば、それらの毒素の影響は少なくて済むのですが、腸の働きが不活発であると、腐敗物が腸に滞留しポリープの癌化が始まるのです。
それに血液は腸で創られるという説もあり、腸の活性化は癌の発症に、大きな影響力があることが分かります。
その腸の活発化の為にはとうぜん、毎日の排便は絶対必要な事になるのです。
つまり、毎日の排便は健康な腸の証であり、癌にならない為の絶対なる条件である、と言うことなのです。
その為に私は、毎朝一番に排泄する自分の小水(350cc前後)を一気に飲みほすのです。
すると食後には必ず、腸をきれいに掃除をしてくれるかのように、快便を味わ事ができるのです。
これを始めたのは、8年前に胆石で手術入院した頃からですが、それ以来一日も欠かさず実行しています。
この味は前の日の疲れ具合によっても、そして体調によってもかなり味が違ってきます。
胆石の時は、肝臓から分泌される胆汁が、血液にも紛れ込んでいる為、非常に苦い味がしました。
多分糖尿病の人は甘い味がすると思います。
尿は腎臓で濾過された血液であり、血液の濃度を保つために排泄され、決して老廃物ではないのです。
尿には身体の情報が詰め込まれており、その情報が喉にあるセンサーに与えられ、身体の癌に対する免疫力をあげる作用をするのです。
つまり、生体フィードバック機構がここに施されていると言うことなのです。
釈尊が修行をしていた頃は、その修行時の心得として、その行動は四依(しえ)によると定めれられていました。
1−食については乞食による。
2−衣服は糞掃衣(ふんぞうえ)、すてられた布とする。
3−住は樹下石上の雲水の生活とする。
4−薬は陳棄薬(ちんきやく排泄物)とする。
この四つの心得をもって修行する、とされていましたが、私はこの四番目の薬は陳棄薬(ちんきやく排泄物)とするを迷わず、ただただ確信して毎日実践しているだけなのです。
今では尿療法としてもその実践を広めている人もいますし、その効果は実際に広く認められてもいます。
でも、「あんなものを」と言う人がほとんどである中で、私は迷わず「こんな素晴らしいものを」と思って毎日飲んでいるのです。
神は金持ちにも貧乏人にも分け隔てなく、恵みの機会を与えてくれているのだと つくづく感謝の気持ちがわいてきます。
私は癌とは無縁であるの確信テーマ:私のエッセー
2012-02-13 08:24:17 balkrishnaの投稿
昨日は、癌はなぜできる?発病したらどうしますか?について書きましたが、私は確信を持って癌には絶対にならない、と思って生活をしています。
それは次の事に注意しているからなのです。
1−食べ過ぎない事と、夜は胃袋を空っぽにする事。
2−添加物に注意し野菜中心の食餌をとる事。
3−晩酌と言う飲酒の習慣を持たない事。
4−夜ふかしをしない事。
5−骨折り(ストレス)となるようなことを欲しない事。
6−不要な人付き合いはしない事。
7−精神哲学と技芸の自己練磨にはげむ事。
ここで一番重要な事は1番と7番なのです。
これこそが精神的人間を目指す為の、自己に対する、肉体面と精神面の両面の厳しい修行となるからなのです。
なぜかと言うと、人間は肉体(欲望)と魂(精神)の混合物なのです。
魂の修行の為に、肉体を健康に持つ事と、魂自体が修行をすることの、両方を行ってこそ人間としての本当の生き方なのです。
この両者が正しい方向に突き進んでこそ、健康な肉体がつくられるのです。
ただ単に肉体の浄化を目的とする禁欲だけでなく、更に自己の精神性を磨きあげる自己練磨が伴っている、ということが大変重要なことなのです。
私は、H24年現在で63歳を迎えたばかりですが、私としてはいよいよ「人生はこれからだな」との心境です。
一般的には定年退職をして、残りの人生は気楽に生きようとする風潮がありますが、これこそが大間違いなのです。
人間、死の寸前まで厳しい修行なのです。
私は、今迄の人生で培ってきた、精神知識や津軽三味線と語りの芸術で世間様に奉仕しながら、更に自己練磨を続け、全身全霊の熱意で、堅忍不抜の精神で、断固たる決意を持って、死ぬ直前までやり抜く覚悟で生きています。
この強い決意と実行があれば、癌なんかは全く心配する必要もなく、そんな事を気に掛けることすら忘れている私です。
癌にならないように注意して生活をしている事を、意識している間はまだまだ修行が足りないと言うことなのです。
魂として必要なインド哲学の精神的知識の養成と実践に没頭する事こそが、癌に対する最大の防御策であると、私は確信しているのです。
癌はなぜできる?発病したらどうしますか?テーマ:私のエッセー
2012-02-12 03:33:01 balkrishnaの投稿
ある方からこんな質問がありました。
癌はなぜできるのでしょうか?若し発病しらどうしますか?
私は医者ではないので、医学的な見解はできませんが、個人的な見解で記述をしたいと思います。
まず癌と言うものは、誰でも体質的には持っているものです。
またポリープも癌の一つとすれば、既に誰でもその時点で癌ができてると言うことになるのです。
そのポリープが病としての癌となるか、ポリープのまんまで一生終わるかの違いしかないと思うのです。
そのポリープが病としての癌になるのか、そのままでポリープとして終わるのかは、その人の遺伝的体質が先ずあると考えられます。
その次に、その人の生活習慣がその要因にあげられます。
生活習慣では、食事の取り方と精神的ストレスの二つの原因がありますが、食餌の取り方の方がはるかに影響が大きいと思います。
要するに、食餌の習慣が、その大きな原因であるとの見解なのです。
私は、18年前に大腸癌のため52歳でこの世を去った兄があり、また去年大腸癌で手術をした姉もおります。
この様な事からすれば、私は遺伝的には癌の系統であるとも言えるのです。
しかし私は、癌については全く心配していません。
それは自信を持っての、正しい生活習慣をしているからなのです。
先ず仕事柄、精神的ストレスは仕事で緊張することを除いては、いやなストレスは全くない生活ですので、精神的ストレスが原因となることは全く考えられません。
それでは食生活においてには、保存料、発色剤などの食品添加物が入った加工食品は食べないようにしています。
具体的には、ハム、ベーコン、ソーセージ、イクラ、タラコ、筋子、それに冷凍食品は全て、食べないのです。
この様なことから、当然外食は一切しておらず、遠出の時はお弁当持参です。
また喫煙や飲酒もしていません、そして食事も食べ過ぎないように昼を抜いて一日二食に押さえ、夕方四時以降は食べないようにして、とにかく夜には胃が空っぽになるようにしているのです。
また食事内容は、野菜と魚が中心で肉はほとんど食べません。
その為、現在の体重は、発育盛りの高校一年生の時の体重を保っております。
そして重要な事は、血液検査で全てがOKであると言うことが一番大事な事なのです。
私は、血液の科学物質による汚染が、癌の一番の原因だと思うからなのです。
その血液の汚染はやはり、食餌のありかたから全てが始まります。
今の加工食品は、保存の為や美味しさの為や、食感、見た目の良さを訴える為など、添加物がたっぷりと使われており、それらの加工食品を食べている事で、腸の働きが不活発となり、血液の汚染となっていくのです。
食事は毎日のことであり、そして嗜好的なものは我慢がしにくく、それだけに注意が怠りがちです。
要するにこれらは、満腹感と美味しさの食餌に対する欲望との戦いなのです。
と言うことは、癌に対する処方は、食餌に対する自制の意志が非常に重要な要素になる、と言うことなのです。
ここまで注意して生活しても、癌になって死ぬような事になったら、それはそれでもう諦めるしかない、と思っております。
その時は、「死は安らぎである」と思っている私は、ただただそれを迎え入れるだけです。
人間として理想の存在とはテーマ:私のエッセー
2012-02-11 02:45:31 balkrishnaの投稿
インド哲学を学ぶ者として私は、その生き方の理想像とはどんなものであるか、いつも思念しているのです。
それは哲学を学ぶことは、この世の真理や哲理を学んで知識として蓄えただけでなく、それを生活のなかで実践してこそ、真に哲学を知り身に付けた、と言えるからなのです。
知識として身に付けただけでは、それは全く価値はなく、実際に行動してこそ学ぶ価値があると言うものです。
昔から「論語読みの論語知らず」と言う諺があるように、正にそのような事を言っているのであり、言葉の意味は理解していても、行動としては全く出来ていない、またやろうともしない、と言うことを意味するのです。
それこそ、哲学を修すると言うことは、実践してこそ哲学を知っている、と言うことなのです。
究極的には、毎日毎日どんな生き方を目指し、何を理想として自己を確立するか、そしてそこに行きつく為にどんなことをしているかだ、と思うのです。
人間は、生きて来た様にしか生きられず、今まで生きて来た習慣を引きずって生きて行くのです。
いわゆる惰性と習慣で、生きていると言うものです。
毎日の生活の中に、常に何を求めどう行動しているかと言った、目的に向かっての具体的な生活習慣が、必要となるのです。
人それぞれの生き方の価値観はまちまちです。
一般的に人々が求める生きる価値は、人間の欲望から発っせられる財欲とか、名誉欲、支配欲などの物欲を満たす事にその価値をおくものです。
ここで名誉欲も支配欲も一見、物欲とはちがう欲のように思えますが、人間の心から起こる欲望は、哲学的には全て物欲になるのです。
それともう一つの欲は、これは精神的次元の欲望ですが、これは魂としての自己の精神的向上発展を目指す欲望であり、物欲とは一切関係ないものなのです。
この場合の欲望は当然、自己の肉体と魂を完璧に分離して認識しているうえでの行動となるのです。
つまり、欲望は精神欲望次元と肉体欲望次元の二つがある、と言うことなのです。
それともう一つ大事な事は、その欲望が自分だけの範囲に留まるものなのか、逆に自分以外の人達に与えることなのか、これが重要な観点なのです。
私は自分の精神的向上の努力が、人々に喜ばれ感謝され、更にはその人が精神的向上を目指そうとする奮起を与えるものとなっている、このことが最も価値あることだと思っております。
しかもそれを押し広めようと奮闘せず、結果を求めての骨折りもぜず、ただただ淡々とやるべき努力を積み重ねる、人には目立たなけれども、そんな姿こそ尊い精神的行動ではないかと思っているのです。
その様なことで、私はこのブログを毎日毎日、書き続けている、と言うわけです。
2012-02-09 07:09:47 balkrishnaの投稿
カルマとは、諸業、業報、魂の修行、と言った意味があるのです。
一般的に業とは、行為行動、を意味するのですが、それはただ単に身体で行うものだけでなく、口から発せられる言葉も、そして心で起こす信念も厳密には業となるのです。
これが三業と言われるもので、人間の幸福や不幸をつくる原因となっています。
ここで大事なことは、肉体的に与える暴力だけでなく、言葉による暴力、更には精神的に与える暴力も、立派な業であると言うことなのです。
一般的に、肉体に痛みとして与える身体の暴力は、暴力として認識するのですが、言葉による暴力や、精神的に与える苦痛は、与える方は相手に苦痛を与えていると言う認識すら持っていない方が多いのです。
そう言った意味からすれば、心配を与える不摂生な生活習慣や、やきもちを湧せる浮気も立派な暴力となるのです。
そしてその暴力は、相手に対する暴力だけでなく、自分に対する暴力の方が遥かに、業に大きな影響力を発揮している言うことを認識すべきです。
相手に対してまた、自己に対する暴力の原因は全て、無智なる故から起こされているのです。
この無智を取り除くこと自体が非暴力
と言うものなのです。
逆を言うなれば、精神知識を身につけ人の道に反する事をしない事が非暴力
につながると言うことなのです。
この様に、無智によって引き起こされた災いが原因となり、その諸業を、魂に常に寄り添う神の分霊(パラマートマー)が全て目撃しており、その人が気付かなくてもその人が犯した業にふさわしい、来世が完璧に与えられるのです。
これが業の報いとしての、厳格なる業報(ごっぽう)と言うものなのです。
また業は悪い事だけでなく逆に、自己の精神的成長にふさわしい学びや活動をしてきたならば、今度はその成長にふさわしい、知的頭脳や身体的特徴を授かって生まれ変わるのです。
これらの裁定は、魂に常に寄り添う神の分霊(パラマートマー)によって厳密に行われ、それは寸分の狂いもない公平なるものなのです。
私たちは完璧に、前世に行ってきた諸業を引きずって、再度人間の修行をする為に生まれてきたのです。
それだけに同じ兄弟であっても、このカルマの業報という掟からすれば、全く性格が違うのは当然なことなのです。
そして今、生きている時や所、そして産んでくれた両親との関係、更には自分の容姿や身体的能力などもすべて完璧に、前世のカルマの結果である事を、素直に認識する事なのです。
この様なカルマのメカニズムからすれば、自己と言うものの徹底的な精神的分析をする事こそ大事なことであり、それこそが人生をより有意義に生き抜く、処方箋であると言うことなのです。
これらはインド哲学に書かれている神の科学であり真理なのですが、はやはりバガヴァット・ギーターを学ばなければ理解は不可能と言うものなのです。
2012-02-08 07:51:25 balkrishnaの投稿
今日はある方からの、「なぜ、我々は生まれますか?」と言う、素朴でありながら根本的な疑問に対して、私の考えを記述してみたいと思います。
先ず、その答えとしては、その人が自分をどの様に捉え認識しているかによって、その答えは当然違ってくるという大前提があります。
1−自分を肉体そのものであると認識している人、それを偽我識と言いますが、その偽我識に囚われている人。
2−自己の本質は、人間と言う生物体に宿る魂であると、認識している人。
この二つの、本人の捉え方にまたは認識によって、その答えも様々に違ってくると言うものです。
まず自分は、自分の肉体そのものでり、また肉体が持つ五欲(食欲、性欲、物欲、名誉欲、支配欲)で活動するのが自分と捉えるている人は、誕生と死があると意識するのです。
しかし、自己を魂の存在と認識している人にとっては、その視点を魂を自己として全てを観る事ができる為に、魂の真理から自己は永遠であり不滅であり、それゆえ「生まれることも死ぬこともない」と、その答えが出るのです。
魂にとって誕生はなく死もない、原初より在りて永遠に在り続け、肉体は朽ち滅びるとも、彼は常住し不壊不滅である<バガヴァッド・ギーター2章20節>
私たちが生きていく物質世界では生物は、「誕生、成長、留まり、繁殖、衰退、死滅」の六種の変化をするのです。
つまりこの物質次元では、全てが「諸行無常」というお釈迦さまが説いた真理がある、と言うわけなのです。
私たちは、肉体が自分であると思っている為に、「生、老、病、死」などに苦しんでいるますが、それは自己の本質が魂である事を、認識できないからなのです。
魂の真理は、「不生、不死、不老、不病、永遠不滅」であり、その本質は「意識であり、信念であり、自己を主体的に行動さる行為者」なのです。
つまり、自己を魂であると確信している人には、誕生とか死と言うものは存在しない、と言うものです
そこで今度は魂と肉体の区別を認識したうえで、人間が生まれると言う事はどういう事かを考える必要があるのです。
それは魂が、人間と言う肉体の服を着ると、人間と言う生物としての活動が始まると言うことなのです。
この生物体は食物と生活環境さえ整えば、自律的な思考を持って行動する、動物界では最高の能力を持った生き物なのです。
この様に、魂の修行に最適な人間という生物体に魂が宿ったと言うことが、人間として生まれたと解釈できるのです。
しかし人間として生れても、その行動を余儀なくされる、または突き動かされる動機の根本が、トリグナ
でありカルマ(諸業)なのです。
人間は前世のカルマ(諸業)によって、人間と言う魂の修行にとって貴重な生物に生まれ変わることができ、また人間に生まれたら生まれたで、今度はその人の魂のトリグナ
よってその行動は突き動かされるのです。
つまり人間として生まれると言うことは、魂のカルマ(諸業)によって人間の肉体に入ることができた、と言う事であり、当然のことであるが魂のトリグナ
も、生まれながらに持って生まれてくる、と言うことなのです。
そして前世の修行の続きを、今持っている人間としての身体を最大限駆使すべきであると、気付かなければならないのです。
これが先ずは、今回の質問の「なぜ、我々は生まれますか?」の回答になと思います。
2012-02-07 08:37:09 balkrishnaの投稿
創造主神クリシュナは精神世界に存在しています。
そしてクリシュナも精神的な存在であり、それは、全知全能(チット)、永遠(サット)、至高至福(アーナンダ)、と言われています。
それからクリシュナは精神次元の中に物質次元を創造し、私たち生物や宇宙に存在する全ての物質世界(マーヤー)を創られたのです。
元来、私たちの魂はクリシュナの分霊(ママイヴァーンシャハ)であり、その質においてもクリシュナと同質である、全知全能(チット)、永遠(サット)、至高至福(アーナンダ)、を備えているのです。
その、本来純粋なる魂の質性が、物質次元に誕生する事により、肉体がもつ本能、欲望、衝動の三つの影響を受けて、感覚欲望に突き動かされてしまうのです。
更にもう一つ、私たちを突き動かす根源的な肉体の欲望を超えた、やっかいな無意識と言うものがあるのです。
これを未顕現意識と言い、それがトリグナ(無知、激情、徳性)と言われるものなのです。
このトリグナの存在は、哲学を学ばなくしてはその存在にすら気付かず、宗教の段階の知識では輪廻のカルマからは逃れられず、魂の最終目的地であるクリシュナの郷には到れないのです。
このトリグナは、その人が気付かないうちにその状態に置かれていると言う、厄介なものなのです。
それは、生きていく場面場面における反応として表われ、また日日の習慣として積み重ねられた性質として備わり、そして生涯その生き方を通して魂に刻み込まれた根性として焼き付けれ、来世の輪廻の種となってしまうのです。
先ずはこのトリグナのメカニズムを知り、いろいろな生活の場面場面における自分のグナを自己観察し、いろいろな事象における自分の観察されたグナの性質を自覚し、それを認識したうえでの正しい方向を目指した行動をする生き方こそ、トリグナを超えた欲望に囚われない、解脱(ブラフマ・ブータ)の境地となるのです。
ここで大事なことは、最初にも記述しておりましたが、これら肉体から発せられる本能、欲望、衝動は、人間が生きてい行く為に与えられた必要な性質であり、そのグナの特性自体には善悪と言うものは根本的には無いと言うことです。
たとえ無知のグナであったとしても、たまには緊張をほぐす為に酒を飲んで酔いしれ、全てを忘れる無知の状態になる事も、時としては必要なのです。
また、生活向上の為に目標に向かって奮闘努力する激情も、大事な生き方でもあるのです。
これらグナの状態を自己がはっきり認識して、自覚を持って主体的にグナを活用する姿勢こそが、トリグナを超えた生き方と言えるのです。
そして肝心な事は、その目標が精神的修行の為になっているか、そしてどの程度で行動しているかの程度問題があり、行き過ぎず緩み過ぎずの中庸のバランスも大事な要素になるのです。
このトリグナを自覚し認識し、自己の精神的発展の為に、無知、激情、徳性の特質を適所に駆使する生き方こそ、トリグナを超えた生き方と言うものなのです。
2012-02-06 07:27:02 balkrishnaの投稿
私は今までずっと、人間が精神的成長をする為のステップとして、躾、道徳、倫理、宗教、哲学と、五段階の修行段階がある、と書いてきました。
ここで大事なことは、私たちが物質文明社会のなかで肉体を維持して修行をする、躾、道徳、倫理、の段階から、今度は魂の存在を認識して、輪廻をもってカルマ(シュードラ、ヴァイシャ、クシャトリヤ、ブラーフマナ)の修行をする、宗教の段階があることを知ることが大事なのです。
この輪廻をもって修行をはたす宗教の段階では、仕事の結果に執着すること無く、それぞれの職業で奉仕と貢献をつくして職業的義務をはたす事が、修行となっているのです。
そして輪廻を何回も何回も繰り返しながら、最終的なブラーフマナの境地に上りつめて行くのです。
このブラーフマナの質性を持った人が、次の哲学の領域に入ることができるのです。
そしてこの哲学の領域に入ってから、そこで更に三つ修行に入って行きます。
つまり宗教の知識を身につけただけでは、トリグナの罠からは逃れる事は出来ないと言うものなのです。
この哲学の完成を目指す段階としても、次の修行の三段があるのです。
1−哲学的経験知識(ジュニャーナ) インド哲学バガヴァッド・ギーターを学ぶ。
宗教を超えて、知性と心がブラーフマナの境地になってはじめて、哲学の領域の中でトリグナの存在を知ることができるのです。
2−ディヤーナ(瞑想) アシュタンガ・ヨーガをとおして、パラマートマーとして各自のハートに宿るヴィシュヌを瞑想し、三昧(サマーディ)の境地に到り、自己の感覚欲望全てから解き放たれた(ブラフマ・ニルヴァーナ)に達する。
この瞑想に至るまでのディヤーナ・ヨーガの、具体的な修行カリキュラムがアシュタンガー・ヨーガであり以前書きました、心身の浄化カリキュラム(V)
に詳しく書いてあります。
3−創造主神クリシュナへの崇拝帰依(バクティー) クリシュナへの帰郷を目指し、崇拝帰依に没頭する。
実は、このクリシュナへの帰郷にも、二つの終極があるのです。
それはクリシュナの蓮華の御足に集う終極と、更にはクリシュナに直接吸着する終極があります。
この二つの違いはそのまま、クリシュナに対する捉え方、接し方の違いとなってくるのです。
それは、決して死後に赴いた境地ではなく、今この世で生きている生き方そのものが、その境地なのです。
それこそが、トリグナ(無知、激情、徳性)を超えた生き方、と言うものになるのです。
明日は、このトリグナ(無知、激情、徳性)を超えた生き方について、もう少し詳しくお話ししたいと思います。
2012-02-05 06:20:08 balkrishnaの投稿
人間は欲望の塊であり、その欲望と、何者か分からない無意識に突き動かされて生きているのです。
その欲望は動物としての食欲、性欲、睡眠欲、保身欲であり、また人間だけ持つ物欲、名誉欲、支配欲などの、人間として活動する為の根源的な欲があるのです。
ここでの保身欲は、動物の場合は敵と逃げるか戦うかの単純行動ですが、人間の場合は高度な社会生活を営んでいる為、自己の保身欲は「生活の為に仕事をする」と言うことになります。
その他にも、どうしても行動したい六つの衝動と言うものがあります。
舌の美味しく味わいたい、美食の衝動と、黙っていられない喋りたい衝動。
空腹を満たしたい、食べたい衝動。
じっとしていられない、活動の衝動。
性欲から発せられる、性の衝動。
つい怒ってしまう、怒りの衝動。
この衝動の中で一番厄介なのは、昔から「口は災いの元」と言われているように、口にまつわる三つの衝動と、特に男性の場合は性の衝動なのです。
これら肉体から発せられる本能、欲望、衝動は、人間が生きてい行く為に与えられたものであり、その欲望には善悪と言うものは根本的には無いのです。
これらの人間の肉体における、本能、欲望、衝動は肉体感覚にまつわるものであり、その気になればそれらの現象を、十分認識し自覚できるものです。
しかし人間には、何者か分からない無意識に突き動かされてしまう、本人が気づかない恐ろしいトリグナ(無知、激情、徳性)、と言うものがあるのです。
これに囚われると心持ちや考え方、そして行動までを束縛してしまう、たいへん厄介なしろものなのです。
人間の魂は物質界に入ると、この三つの性質に囚われてしまい、それが原因でその人の特徴がつくられ、それによって840万種ある生物の中を、様々な姿になって輪廻を繰り返すように、この物質世界は創られているのです。
このトリグナを未顕現意識と言い、自分ではなかなか気付かない、自己の潜在的性質として係わっているのです。
またこれは、持って生まれてくるものであり、その後生活環境によっても大きく変わっていくものでもあるのです。
このトリグナの性質としては、以前にも何回も書いておりますが、次のような特徴を持っております。
無知(タマス)は、愚か、怠け、妄想、狂気。
激情(ラジャス)は、欲望、渇望、執着、奮闘、努力、果報的。
徳性(サットヴァ)は、知的、理性的、穏やか、謙虚、宗教心。
これらトリグナの性質も、創造主神から人間に与えられたものであり、それ自体には本能や欲望と同じく、善悪の評価は無いのです。
ここで大事なことは、先ずこの未顕現意識の存在を知ることから始まり、それを今の自分に当てはめて、自分の本質的なグナはどんな状況に置かれているかを、自己を認識することから始めなければならないのです。
そうは言っても、この分析にあたっての知識こそは、哲学を学ばなくしては出来ないものなのです。
しかし、この人間の生き方に一番重要な未顕現意識の精神知識さえ、今の社会では知る機会は無いのです。
そこに、今の社会のように、欲に翻弄され無謀に生きる人間集団の現実があるのです。
明日は、このトリグナを乗り越える知恵について、お話したいと思います。
覚るから悟るへ思うから想うへテーマ:私のエッセー
2012-02-04 08:10:22 balkrishnaの投稿
今日は立春です、九星気学では新年の始まりとなります。
私は九星気学では七赤金星であり、そこで2012年(平成24年)の運勢を調べてみました。
七赤金星の人は今年は運気が上々、人生の目標に向かってチャレンジする良い年であり、長年の夢に向かう時。
仕事も勉強も充実し、行動や言動に活気がみなぎってきます。
積極的に行動することで、評価も上がってチャンス到来です。
長年プランを温めてきた人は、世間に打って出るチャンスでしょう。
援助者や協力者が現れる時でもあり、決断力と実行力で進みましょう。
まあ〜良い事ずくめですし、またその通りに進んでいるように思えることも、出てきています。
その幸先の兆候だろうか、いよいよ静岡市でも念願のインド哲学塾開講の運びとなったことです。
塾長は、去年の10月14日に初対面したS氏さんに務めて頂くことになりました。
Sさんとの御縁も不思議なもので、その日が丁度清水町のインド哲学塾の日でしたが、初対面にも関わらずそれに参加してくれたのです。
それがきっかけでSさんは、私のブログを初めから全て熟読され、そのうえ大事なところは誰でも分かりやすい図表にして下さっています。
これらは、今後の講義においても、非常に役立つ資料となるはずです。
さて、今年は2012年、今までも映画で扱われたり、アセンションとか滅亡とか、いろいろ言われてきた大変革の年でもあるように思えます。
昨日の新聞にもパナソニックやソニーそれにシャープなどその他の国際的な大企業でも、大赤字や大リストラなどの記事が載ってます。
要するに、今迄の所業の結末の清算が、社会的にも個人レベルでも始まった、と言うことなのです。
それ際して「じゃ〜あなたはこれからどうするのですか?」が大事なこととなるのです。
今まではこうでした、また今はこういう状況ですと、そんな自分の外界の事にだけ目を奪われて、肝心な自己の内面の自覚が、つまり魂としての気付きがなされていない、と言うことが問題だと思います。
それに今までは、学校でも企業でも物質文明の発展の為にと、頭を使って記憶したり思ったりする頭脳的に覚ることが重要視されてきました。
その果てとして今は昔と比べ、ずっと便利で豊かな社会になったのですが、競争による格差と貧困が益々大きくなってしまい、皆が中流意識を持っていた社会は、すでに過去のものとなってしまいました。
これは本当の、人間の幸せの姿ではないように思えるのです。
やはり物質文明社会の行き過ぎは、中道の法則からしてもその結果がこの様に、競争による格差と貧困に出てきているのです。
つまり物の豊かさや便利さは、度を越せばそれは人間の不幸に跳ね返ってくるとの証明となっているのです。
そこで大事な事は、こんな社会であるからこそ、魂の本質を見極め、ほんとの生き方に目覚め、魂の悟りを得る事以外には、心底からの歓びは得られない、と言うことに気づかなければならないのです。
それは頭で考えたり思ったりする、物質次元の知識だけでなく、魂として想ったり理解したりの精神的知識を養うことなのです。
そして、頭で理解する覚るから、魂レベルでの理解としての悟りに到らなければならないと言うことなのです。
その為にも私は、精神的知識を広める目的でこれからインド哲学塾をどんどん発展させていくつもりです。
お蔭さまの境地をもっているかテーマ:私のエッセー
2012-02-03 07:22:46 balkrishnaの投稿
私たちは必ず何かのお蔭で生きているのです。
人はそれを、全く感じてもいなく、また意識しもしていないか、言われれば分かる程度か、また認識はしている程度か、さらには完璧に確信しているの、四つの程度があると思います。
信仰を持つと言うことは、最後の完璧に確信をしている境地、でなければ信仰とは言わないのです。
言うなれば、人生はこの、お蔭で活かされていることを完璧に確信する境地に到るまでの、修行であると言えるのです。
人によって、それがお金だったり、仕事だったり、友達だったり、恋人だったり、女房だったりと、お蔭と思うものが色々あるだけなのです。
ここで大事な事は、このお蔭様の正体を物質的なものと精神的なものとに、先ずは分けて考える必要があると言うことなのです。
それは、人間自体が肉体と言う物質的存在であり、また自己の本質は魂と言う精神的存在であるからなのです。
私は、物質的つまり肉体を維持する為の一番重要な存在として、女房の存在を第一としています。
なぜならば、私の健康を一番気遣ってくれ、また心配してくれる、最高の肉体管理者だからなのです。
それは、魂を修行する為の肉体は、この現象界では一番重要なもと、私は認識しているからなのです。
この人間と言う生物に魂が宿る事は、他の動物の中でも最も価値あることであり、その修行においては最高に有益な事なのです。
それは、人間の優秀な頭脳や身体を駆使してこそ、人生の生きる目的や使命を果たす事ができるからなのです。
その次のお蔭様は、精神的存在の全ての原因の大原因である創造主神クリシュナの教えに崇拝帰依すれば全て良いと、確信することです。
この境地に至れば、「必要なものはあたえられ、大切なものは保護される」さらには、死さえ恐れること無く、「死はクリシュナの住む郷での安らぎである」とさえ思えるほど、全くの無恐怖の境地に至れるのです。
従って私のお蔭様の極致は、いちばん身近に私の肉体を管理してくれている女房の存在であり、また精神的には、絶対なる存在としてのクリシュナの教えなのです。
宗教の捉え方(U)テーマ:私のエッセー
2012-02-02 07:34:13 balkrishnaの投稿
今日は、昨日の宗教の捉え方をまとめてみたいと思います。
宗教に関して色々な視点から論じてきましたが、それをまとめてみますと、次のようになります。
1−宗教の定義を、神の教えとか崇高な人の教えを教理としそれを信仰する、と言うこととする。
2−どんな教理も信仰する人にとっては、その人なりの最高の教えとなっている。
3−各宗教の教理の是非を論議する事は、争の元でありナンセンスな事である。
4−その教理がどんなものであっても、信仰することにおいて、その人にとっては
最高の宗教であり、無宗教も確信を持っての信仰であれば、それも立派な宗教心となる。
5−宗教を学ぶにあたっては、集団を求めるか、独学を目指すのか、二つの道がある。
6−集団の宗教には自由の束縛があり、独学は独善や偏狭に落ちる危険性を持っている。
7−宗教は、人生の生き方を問うような人、また生き方に目覚めた人が、自らが自発的に
求める道であり、人から教えを受けての宗教は、知識としての学びの段階にとどまる。
8−宗教は、人生経験を深く積まずに教理に入り込んでしまうと、現実にこの世で
生活をしていく事に、大きな支障をきたしてしまう恐れがある。
9−宗教の最終目的が、創造主神クリシュナへの崇拝帰依と、クリシュナの郷への
帰郷であることを知らなければ、その宗教は真理の部分か途中か幻想に他ならない。
ここで一番重要な事は、第9項目の宗教を学ぶ究極の目的、これを知らずして宗教を
求めても、その結末は、真理の部分に留まるか、途中の段階か、幻想の世界に迷い込ん
でいるかの、いずれの結末になると言うことなのです。
人間の生き方には、聖なる生き方と、聖あらざる生き方があります。
聖なる生き方はヴェーダの経典に沿っての生き方であり、その聖なる生き方をしていても、
物質的な繁栄や享楽を求める人と、物質的必要性は生きていく為のだけに留める人の、
二つの生き方があります。
更には、聖なる生き方において物質的欲望から完全に解脱を目指す人もいます。
しかし、しかしいずれの生き方を求めても、創造主神クリシュナの住む、精神惑星の
最高峰ゴーローカ・ヴェリンダーヴァンを目指す為の、インド哲学バガヴァッド・ギーター
に到達しなければ、宗教を学ぶほんとの意味はないのです。
2012-02-01 07:24:03 balkrishnaの投稿
人間が精神的に発展していく段階として私は、躾、道徳、倫理、宗教、哲学、の五つの段階があると言う事を提唱してきました。
私は、躾、道徳、倫理までは、この世で生きて行く為の身につけるべき精神知識であり、人間の人格向上を目指すことを目的とする段階であると、考えています。
躾、道徳、倫理の修得段階から、宗教へ昇る段階の条件は、この世での肉体をもって生活する視点から、今度は魂の気付きと死後の世界に想いを馳せる、死後の視点に立つ意識をもつかどうかが、その判断基準としています。
さらに大事なことは、魂の最終目的が生まれ故郷の、クリシュナへの帰郷であることを確信しなければ、どんな宗教もそれは、真理の部分か途中か、それとも幻想にすぎないと言うことなのです。
宗教の捉え方は、人によって様々な解釈があると思います。
ある教えに共感して、それを信じる事を宗教と定義するならば、それこそ神の存在や魂の存在を否定する宗教も、死後の世界が無であることや、輪廻はないとする教えも宗教となるのです。
もっと言うなれば、無宗教も宗教と言えるのです。
この様に宗教には悟りへの道として、いろいろな宗教の教理がある訳で、その教理自体の是非を問うことは、論争の元になるだけと言う事です。
宗教を学ぶには、いろいろある教理のなかで、共感した教理を学べばよく、その教えをどうこう言う必要は全くないのです。
つまりそれは、共感した教理がその人の精神的次元である、と言うだけのものなのです。
要は今生でどの教理を学んで、それを実践しながら真理を悟るかが、その人その人の宗教の道なのです。
この様に宗教の観点においては、正しいとか間違っているかの判断は必要ないと言うものです。
それと、集団で教えを受ける場合と、個人で独学していく場合いと二つの宗教の学び方がありますが、この学び方でも、好みにあうか合わないかなのです。
集団での学びには拘束があり、逆に独学では学びの独善の危険を犯しやさもあるのです。
そして、もう一つ大事なことは、宗教はその教義に深く入り込んでいくほど、現実にこの世で生活をしていく事に、支障をきたしてしまう恐れもあるのです。
宗教は、躾、道徳、倫理の修得をなし人格の向上を真剣に求めて生き抜いた果てに、生きる意義に目覚めた人が、自らが自然に求める道なのです。
つまり、宗教を超えた哲学の存在を知らない者は、永遠に宗教の世界に留まるだけなのです。
2012-01-31 08:28:45 balkrishnaの投稿
私たちは毎日肉体の中に閉じ込めれられた状態で、魂の精神的知識を身につける、修行を行っているのです。
その修行とは。
他者に対する事として。
1−生きてくために必要な言葉使い、挨拶、礼義などの躾。
2−他者に対する思いやる優しさ。
3−他人の過ちを許す寛容の心。
4−他者を認めてあげる賛美の心。
自分に対してやるべき事として。
1−嘘を言わない正直さ。
2−決められたことをやる順守の心。
3−やりたくてもやってはならない忍耐。
4−やりたくなくてもやらなければならない義務責任。
これら、人間としての基本的な精神的知識を身につけ、そして次に社会に出てからは、会社の上司や同僚、そして取引先やライバルとの関わりなど、色々な人間関係の中で今度は、倫理を学なければならなしのです。
倫理は、親子関係から夫婦関係、主従関係、長幼関係、朋友関係にわたっての、幅広い人間関係における学びなのです。
この倫理として学ぶ事は、人が見ていようが見てなかろうが、また人に分かろうが分からまいが、自分の生き方として、どこまでなら許され、どこからは止めるべきかの、躾と道徳の自己判断をすることなのです。
一般社会で仕事をすると言うことは、生活を維持して行く為の戦いでもあるわけで、時によっては仕事柄、道徳に反する事もやむを得なくやることもあるのです。
その判断と程度を、実生活の中で実践として学ぶことが、倫理の趣旨なのです。
これらのことは、肉体を維持する為に生活していくうえでの重要な、現世の視点なのです。
これらの人間としての精神的知識を養成していけば必ず次には、自己の本質は魂であると気づき、死後の世界に想いを到らせる様になるのです。
これが死後の視点の始まりなのです。
それには、自己の魂に気付くことが一番肝心な事であり、自己が魂であると言った確固たる認識があってこそ、死後の視点と言うものが生まれるのです。
その為には、自己の活動を魂の浄化と精神知識の養成にむけ、そしてその行動は他者に対する奉仕と社会に対する貢献とし、さらに自己中心の欲望を捨て去る精神力が絶対条件となっているのです。
こうして、死後の視点と言うものを持つことが、インド哲学バガヴァッド・ギーターへの入門許可証となる、と言う事なのです。
立って半畳、寝て一畳、天下を取っても二合半
2012-01-30 10:03:33 balkrishnaの投稿
一般的に、私たちは生れてから先ずは幼稚園や保育園に行きます。
幼稚園の頃の子供は、ほとんど他の動物同じく、食べる事、寝る事、遊ぶ事そのほか暑さや寒さなどの自然から身を守ることを知り、これから生活し行くうえでの躾(挨拶、礼儀、言葉づかい)を学んで行きます。
次に学校生活の規則を持った集団生活が始まり、そこでは友達や先生と関わりながら、こから社会に出ていくための、色々な知識や道徳(仁、義、礼、知)を学んでいきます。
この頃になると、自我と言うものが発達し、動物としての基本的欲求(食欲、性欲、なまけ欲)のほかに人間だけが持つ無色欲(物欲、名誉欲、支配欲)が出てきます。
無色欲とは、仏教で物質的なものを色と言います、有名な「色即是空」の色ですが、物質的な欲でないと言うことから、名誉欲と支配欲を無色欲と言うのです。
この様に人間は生れてから、様々な欲に突き動かされながら、生活を余儀なくされているのです。
まず生きていくために、また子孫を残すために、与えられた肉体的な欲望(食欲、性欲)を満たそうとするのです。
その時、感覚を満たしている間は一瞬の悦楽を得ることができますが、そこには必ず飽きが来るか、更に強い快楽を求めようと渇望を抱くようになるのです。
その次の人間だけがもつ、物欲や支配欲や名誉欲は自己の精神的発展の為の、他の動物には無い高度な欲望なのです。
物質欲によって物質文明が発達し、また支配欲や名誉欲によって、政治や経済や企業活動と言った社会構造が複雑かつ高度に、なっていくのです。
ジャングルの未開の部族達と、私たちの生活とは、全く違った生活様式であることは、色々な社会制度を比較すれば、直ぐ分かると思います。
この様に、欲望はその使い方によっては、人間を他の動物とは違った高度な人間に仕立てる、原動力にも成っているのです。
しかし一方では逆に、物欲や名誉欲や支配欲の為に、人間や他の動物を残酷に扱ったり、自然破壊をしたり、戦争を起こしたり、この様な悲劇もこれまたその欲望が原因でもあるのです。
人間は、欲望の快感に囚われると、この様に残虐となったりもするのです。
この様に、この欲望を自己の為だけにとか、感覚の快楽を満たすためだけとか、自己中心的に囚われるところに、苦しみの原因が生まれるのです。
欲望にはきりがありません、人間は立っているだけなら半畳の広さでしかその広さは必要ないのです、また横になって寝ても、一畳の広さがあれば十分なのです。
そして、天下を取っても一日、二合半のご飯があれば十分生きていけるのです。
これは、完全に精神的に満足しきった境地であり、その人の活動は全て精神的なものだけとなっていて、常に哲学的思考でもって物事を判断し行動しているので、その活動はもはや物質的なものを超越している心境となっているのです。
従ってその行動範囲も精神的な範囲としての意識となり、肉体的に行動する物質的広さは関係なくなり、その意識すら持たなくなってくるのです。
また食事も肉体を維持する為の意識となっており、そこには満腹の快楽も、美味しさを求める美食も無くなるのです。
いやゆる「無欲、無恐怖」の境地となるのです。
これが精神的に確立した人の「立って半畳、寝て一畳、天下を取っても二合半」の解釈なのです。
デジタルとアナログの違いテーマ:私のエッセー
2012-01-29 05:09:23 balkrishnaの投稿
30年前には、デジタルの言葉自体は、あまり使われていなかったのですが、1981年にソニーとフィリップスで共同開発されCDプレーヤーが発売されてから、デジタルの言葉が普及し始めたように思えます。
それまではアナログプレーヤーが主流で、レコード盤が音楽の音源として、一般的に使われていたのです。
しかし今ではアナログプレーヤーは、マニアを除いては全く利用されていないのが、実情となってしまいました。
デジタル技術は、雑音の影響を全く受けなく、また再生の周波数特性もよく、音の幅も雑音のない分だけ広くなり、そして無信号の状態から最大音までの間を、一気に再生と無音状態にできるため、音の歯切れが良く、ダイナミックに富んだ再生が出来るのです。
この様なメリットからオーディオ業界では、音楽のデータをCDやMD、そして最近ではUSBメモリーなどに、デジタルで保存する形になってしまいました。
音楽再生音の優位性やデータ保存、そしてプレーヤの操作性などを考えると、アナログのレコードよりデジタルのCDやMD、USBの方がはるかに便利であることが分かります。
しかしデジタルでは表現できないものがあるのです、それこそがマニアが未だにレコードで音楽を聴く最大の要因なのです。
マニアの人たちが、未だにレコードで音楽を聴いていると言うのは、単なる懐古趣味で聴いているのではないのです。
それは音楽に一番肝心な心への伝わりである、情感、温かみ、柔らかさなどの質感、が違うのです。
特にヴォカルではその人の人間味までが伝わってきます、またシンバルの音などはシャープでありながら柔らかさと音の厚みが出てくるのです。
確かにCDでは音楽表現において、雑音の少なさや歯切れの良さ、一つ一つの楽器の分解能や響きや余韻などの臨場感は、アナログレコードより勝っています。
しかし、人間味の表現力や楽器の質感の味わいは、デジタルオーディオでは得られない、奥深いものがあるのです。
この人間味の表現力や楽器の質感の違いこそが、デジタル音楽とアナログ音楽の決定的な違いなのです。
確かに、保管や持ち運び、操作性、スペック上の優位性、表面的な音楽表現など、これらの観点からは、デジタルはアナログよりはるかに優れています。
また、このアナログとデジタルを比較するなら、文明と文化に比較でき、表面的か内面的かで対比ができ、そして人間味を味わう無機的か有機的か、更には物事の本質は物質次元か精神次元かの領域までその違いを押し広げることが出来るのです。
しかし、その微妙なる違いを味わうには、オーディオマニアのような、研ぎ澄まされた感性がなければ、猫に小判の代物になってしまうと言うものです。
オーディオマニアの人たちは、普通の人達では分からないような、そんな人間味を味わう情感のディテールを楽しんでいる人達なのです。
視覚の世界と聴覚の世界テーマ:私のエッセー
2012-01-28 06:37:51 balkrishnaの投稿
私たちがこの世で生きていくのに、よく使う感覚器は目と耳ですが、やはり一番使うのは目だと思います。
もし目が見えなかったら、自由に歩くことすらできず、ましてや車の運転なんかは絶対に出来もので、その活動範囲は非常に狭められてしまいます。
そんな意味からしても、この物資次元で生きていくには、目と言うものが一番重要になっていると思います。
また情報なども本を読んだり、パソコンや携帯、チラシや広告看板を見たり、やはり視覚によっての情報収集が、耳からの聴覚による情報収集よりはるかに多い事が分かります。
では、耳による聴覚の作用は何かと言うと、聴くことで言葉を理解し行動する事がその一番の働きだと思いまが、そのほか聴くことによっていろいろな状況を判断したり判別する作用がその次にあります。
と言うことで、私たちがこの物質次元の中で活動していくには、活動の面からも情報収集の観点からも、耳の働きよりも目の働きの方が圧倒的に勝っていると言うことです。
しかし、視覚の世界は、そこに光の存在を絶対に欠かすことはできません。
でも聴覚の世界は、真っ暗闇でもその機能はしっかり果たせます、いや逆に、暗い中でこそ活かされるのです。
本来ならば、目では見えない状況でのほうが、聴覚機能はより活かされ感性も鋭くなると言うものです。
例えば、オーディオでの趣味の世界を例にとりますと、よく分かります。
オーディオのリスニングでは目を閉じてじっくり、楽器や声の味を楽しむのが本来の楽しみ方なのです。
もちろん音楽自体をリスニングして楽しむこともそのあり方ですが、やはり楽器の質感や音の臨場感、歌手の肉声の艶や情感などを、音を通じて鑑賞するのがその真髄なのです。
もし、そこの場面に歌手や風景の映像が入ったら、もうそこでオーディオの世界は一気に消滅してしまう、と言うものなのです。
映像がそこに入ると、視覚からの刺激が強くなり、聴覚の作用は情緒楽しむ機能から情報収集という機能に変わってしまうからなのです。
この様に聴覚には、言葉などを聴くと言った情報収集だけでなく、この情緒を感じ取るという重要な働きがあるのです。
昨日、スカイプ仲間の間で、自己紹介をやり合いましたが、その時は映像を使わず、初めて音声だけで紹介し合ったMさんは、相手の人間像をズバリ、「知的で誠実で優しさがあ人ですね」と、その声だけで人柄まで捉えていたのでした。
正にこれこそが、本来使うべき聴覚の、真理を観ぬく精神的機能なのです。
しかし今や、携帯でも動画を見れるような情報化の時代にあっては当然、映像化がどんどん進んできます。
と言うことは、それだけ聴覚による感性は逆に、どんどん後退してしまう、と言うことになるのです。
従って、こんな時代だからこそ、真理を観ぬく聴覚の機能を失わせない為にも、精神的知識をどんどん積んで、聴覚の感性を高めなければならないと言うものです。
2012-01-27 09:12:44 balkrishnaの投稿
今日は芸術を行う、芸術家について少し深く掘り下げてみたいともいます。
一口に芸術家と言ってもその表現方法として、身体全体を使ったり、手先を使ったり、声で表現したり色々あります。
身体全体を使って表現するものとしては、民俗芸能からヒップホップ系の踊りまで含めたダンスや、アイススケートのようなスポーツ系の芸術などもあります。
また手先を使って表現するものとして代表的なものは絵画や書道、工芸品などをつくる手技そして、楽器での音楽芸術の世界があります。
それから、声を出して表現するものとしては、歌唱、オペラ、朗読、語り、などがあります。
ここでまず最初に肉体の強さを必要とするスポーツ系と、肉体的強さは必要としない文化系とに先ずは大別できます。
そして今度は、鑑賞する感覚器の観点からこれらの芸術を分けてみますと、目で楽しむ芸術と耳で楽しむ芸術、それに舌で楽しむ芸術とに分けられます。
つまり芸術と言うものは、目、耳、口の感覚器を楽しませるところに行きつくのです。
しかし、ここで大事なことは、その楽しみを、「何を目的にし、自己のどこの部分にどの様に影響を与えるか」それが一番大事なことなのです。
先ずその芸術目的が、自己の楽しみとしてだけなのか、名利を求めてなのか、伝統芸として継承なのか、などに分けられます。
芸術と言うものは、相手の感覚器を歓ばせ、そして心にその歓喜を増幅させ、その歓喜の味わいをその場だけでなく、長く心や魂に留まらせるものなです。
場合によっては、その人の魂の輪廻のカルマを呼び起しその人の生き方まで変えてしまうほどの、影響力を持つこともあるのです。
それは、芸術の極致は神に捧げる歓喜感謝であり、無事を願う祈りであり、死者を供養する鎮魂であり、それが民族の伝統として永年あいだ培われたことにより、魂の領域まで影響を与えるものとなるからなのです。
つまり、純粋なる芸術は、至上主神神に誓った、自己の魂の純化につながる精神的なものか、死者に対する愛しむ想いでなければ、それは単に目や耳や口の感覚器に快楽を与える娯楽か、金儲けの経済的活動でしかないのです。
インド哲学は超科学であり至上宗教であるテーマ:これからは哲学の時代
2012-01-26 07:52:03 balkrishnaの投稿
今や、宇宙探査、素粒子工学、原子力科学、遺伝子操作、組織培養などのあらゆる分野の科学発展は、人間の五感の能力を超えた、神の領域まで入り込んだ、頭脳の凄さが分かります。
とは言え、これも神から与えられた人間の能力なのですが、しかしこんな程度の科学は、自然界にある真理のほんのほんの一断片に過ぎず、また精神世界の真理の多様性からしたら、この物質次元の真理もほんのほんの一部にしか、過ぎないのです。
つまり我々の生きている範囲は、精神的世界から見ればそれは、非常に狭い狭い世界での生活でしかない、と言うことを先ずは、認識しなければならないと言う事です。
インド哲学には、ヴェーダをはじめウパニシャドウ、スムリティ、マヌサンヒタ、ヴェーダンタスートラ、マハーバーラタ、シュリーマド・バーガヴァタムなどがあり、それらの精髄を集めたのがバガヴァッド・ギーターなのです。
また、このバガヴァッド・ギーターは、マハトガンジーが生涯携えた指南の書でもあり、最近インドの国を代表する書物として認定されたそうです。
ヴェーダは、宇宙の創造神ブラフマーの息吹によって書かれたものであり、そしてまた大叙事詩、マハーバーラタの中には、バガヴァッド・ギーターで語られているクリシュナの言葉、つまり神の御言葉があるのです。
そしてまた、インド哲学を実践とし、創造主神クリシュナへの崇拝帰依によって、最高の至福の境地である歓喜(アーナンダ)へ導くシュリーマド・バーガヴァタムは、クリシュナの御技であると形容されています。
その為インドではごく自然に、ヴェーダやウパニシャドウ、シュリーマド・バーガヴァタム、バガヴァッド・ギーター、の言葉はそのまま真理として、ただただ疑うこと無く実践するのみ、としているのです。
インド哲学の教えは、精神的なるもの故に捉えずらく、また実証不可能な輪廻の時空を超越している教えもありそれを科学的に確認できず、そして個別性があるため全てに共通するものでない故に、インド哲学を科学として承認できないのです。
と言うことは、それほど人間の考えは浅はかであり、不遜であると言うことなのです。
しかし、インド哲学で教えている真理は絶対的なものであり、また人間を物質次元の罠から解放してくれる、処方箋でもあるのです。
またインド哲学は、自己の魂としての気づきを与え、人間を物質次元の罠から解放し、永遠で至高至福の歓びの世界に導いてくれる魂の最終目的もそこにはあるのです。
その崇拝する対象は、創造主神、至上絶対神と言うクリシュナであり、彼の基に還る絶対なる教えなのです。
そうは言っても、このインド哲学の教えに共感し、バガヴァッド・ギーターを学ぼうとする人は、先ずはその人の質性が、徳性(サットヴァ)の領域が多くなければ、それ自体に興味すら示さないでしょう。
金儲けやこの世の冥利に夢中になっている、そんな人は、精神的観点からすれば冬眠している状態なのです。
また今は、学校や家庭ですら、人間の基本である躾や道徳の教えがおろそかになっており、学業ばかりに目が注がれ、勉強さえできればそれで全て良しの風潮もあります。
これらの躾や道徳は、大人になってから、社会に出てからでは遅いのです、「鉄は熱いうちに打て」と言われています。
この超科学であるインド哲学を学ぶ為には、躾と道徳の初歩からしっかり身に付けなければなりません、もしそれさえ出来なければ、その門への到達すら不可能と言うものなのです。
2012-01-25 07:49:45 balkrishnaの投稿
我々は気付かないうちに、多くのものに縛られたり、また突き動かされたりしながら、余儀なく活かされていることに、ほとんどの人は気付いていないのです。
この余儀なく活動させられているという事実を知るだけでも、これからの生き方が違ってくると思います。
そのあらゆる、自分を縛るもの、また突き動かすもの、肉体と魂に関する真理を、分析的に捉えて、知って頂きたいと思います。
先ずは人間は動物であるとの観点から捉えた場合、動物としての本能の存在がありますが、それは食欲、性欲、睡眠欲、防衛本能の四つの本能です。
この四つの本能は人間にだけでなく、どの動物でもこの行動は生きていく上に欠かせない、生命や子孫の維持の為に与えられた、動物の基本的本能なのです。
この中の防衛本能は、動物では敵と戦うか逃げるかの単純行動しかありません。
しかし、人間社会の場合は他の動物より、手先が器用にできいて工作技術にすぐれ、また知的能力も高いため、その生活が複雑かつ高度になっていると言う違いがあるだけです。
つまり、家計を維持する為の就職は本質的には、防衛本能に則しているだけであると言えるのです。
その他、人間だけが持つ欲望として、物欲、名誉欲、支配欲がります。
仏教ではこの世を、色界、欲界、無色界の三界の世であるといっています。
色とは物を意味するもので物欲であり、欲は食欲と性欲であり、無色は物ではない名誉欲と支配欲のことを言っているのです。
つまりこの世は、食欲、性欲、物欲、名誉欲、支配欲の五欲にまみれた、三界の世であると言うことなのです。
その次に、こんどは肉体自身がもよおす、どうしようもない六つの衝動についてご説明します。
先日も書きましたが、先ずは口における三つの衝動、空腹を満たす食の衝動、美味しさを求める美食の衝動、黙っていられない喋りの衝動、性の快楽に対する衝動、じっとしていられない活動の衝動、そしてつい怒ってしまう怒りの衝動など、突き動かされてしまう六つの衝動があるのです。
さて、今迄のものは肉体が催す、自覚できる突き動かされるものでしたが、こんどは自分では気づかない、自分を突き動かしてしまう、隠れた厄介なトリグナと言うものについて書きます。
それは以前にも書きましたが、魂が肉体と言う物質に入り、様々な物質世界と関わりも持つことによって、本来は純粋なる魂が、無知、激情、徳性の三つのトリグナの特性に縛られてしまうと言うものです。
この三つの無知、激情、徳性の性質が、自分ではほとんど気付かずに生活していること自体に、非常な厄介さがそこにあるのです。
この性質を知るには、自分の行動を自分自身で客観的に捉えることであり、色々な場面で自分を冷静に判断しなければ、自分自身のグナの性質を見極めることは出来ないのです。
無知(タマス)の特性は<暗愚、怠惰、妄想、狂気>
激情(ラジャス)の特性は<執着、果報的、果敢、欲望、渇望>
徳性(サットヴァ)の特性は<知的、謙虚、誠実、自制、純粋>
これらの各グナの特性が、自分の行動や性質に照らし合わせて、冷静に自己判断しなければ、自分の行動は自然と、グナの推進力によって突き動かされてしまうのです。
そして最後の魂における自分を突き動かしてしまう推進力は、それは一番大きな影響力を持つ、カルマ(因果)の応報なのです。
このカルマは魂の領域となるので、その作用は魂についての正しい知識がなければ、その存在すらも気付けないのです。
しかし、このカルマの応報ほど強烈でありながら、なかなか気付けない希薄な存在なものはありません。
例えばこの世に、男としてまた女として生まれてきた事や、夫婦として、また家族として、今の営みをしている事や、今の仕事に携わっている事、またその仕事を通じて上司や同僚と関わっている事など、つまり生きていくうえでのあらゆる関わりにおいて、カルマの応報によってその生き方が余儀なくされていると言うことです。
言いかえれば、人はカルマを果たすために、この世に今生かされていると言うことです。
それだけにこの世に生まれた意義を自らに問い、その自覚を持ち、カルマを果たす事こそ、人生の意義と言うものなのです。
このカルマを果たす重要性をしっかり認識しなければ、一生懸命いきていても、それは単なる動物の本能行動と本質的には変わらない、意味のない生涯を過ごすだけの事となるのです。
これは科学的インド哲学バガヴァッド・ギーターを学ぶことでしか、理解できない真理なのです。
2012-01-24 08:04:50 balkrishnaの投稿
私は去年の12月、平成5年の1月の自分の誕生日を機に設立した、有限会社の解散手続きをしました。
脱サラしてから直ぐに設立し、芸能活動を続けてきましたが、丁度19年間の法人としての活動をしてきたわけです。
自分で法人登記をして会社設立をし、また今度も自分で解散登記の手続きやり、後は清算登記を済ますところまでに来ております。
これも一つの社会勉強として、法務局、税務署、財務事務所、社会保険事務所への申請手続きや、経理事務をなどを経験したわけで、社会の仕組みや内容を知る為にも、会社を運営したことはすごく勉強になりましtた。
そして今年からは、個人事業主として新たに芸能活動をやることになります。
振り返ってみれば、設立当時はそれなりの法人としてのメリットもあり、社会に対しても納税の義務も果たしてきました。
しかし、時代は会社運営は必要がないほど、変化してきてしまったのです。
この経済的縮小は、私の個人的なものだけでなく、日本のGDPの減少からしても、国家的現象なのです。
これからは如何に、個人としての正しい生き方が、その人の生活基盤の元になるかが顕著に表れる時代だと思います。
今までは活動次第で、どんどん稼ぐことができましたが、これからはグローバル社会になったことで国家自体が経済的縮小を余儀なくされている現状では、いままでの様な拡大経済はないものと、覚悟しなければなりません。
つまり現状維持が出来るかどうか、それで生活が出来るかどうかに掛ってきているのです。
その為には、根本的な経費削減は当然の行為となるわけです。
またそれだけでなく、あらたな活動分野を広げ、新しい経済領域を開拓することも当然必要になってきます。
その時に、そのような新しい分野なりを発展させるものを持っているかが、肝心なのです。
私の過去を振り返ると、サラリーマン時代には工場で生産技術と電気技術を学び、営業時代では商売の基本と奥義を学び、それに音響工学を学び、音に対する感性も磨かれました。
また趣味として津軽三味線の芸を身につけ、それに宗教の世界も学び始めたのです。
これらのことは、そのまま今の芸能活動に全て活かされており、全く無駄のない人生を過ごしてきたと言うことなのです。
今後に残された人生は、今までの活動を継続しながら、芸能活動とは全く違った、インド哲学塾で精神指導の世界を広げていくこと、ではないかと思っています。
これこそが私に課せられた、この世に対しての使命であり奉仕なのです。
この様に私に起きていることは、今63歳である為のその時に日本で生まれ、そしてインド哲学バガヴァッド・ギーターを指導できる能力と人生を経験させられ、それを継続する意志と努力も、崇高なるクリシュナの導きがそこにななければ、それは不可能なことなのです。
クリシュナは、その人の今やりたい事も、そして将来やるべき事も、すべてパラマートマーとして魂に寄り添って、御指導して下さっているからなのです。
この真理こそが、その人を正しい道に導いてくれるクリシュナの慈悲なのです。
これは科学的インド哲学バガヴァッド・ギーターを学ぶことでしか、理解できない真理なのです。
2012-01-23 08:20:06 balkrishnaの投稿
肉体をまとった魂は九つの門の町に住んでいると言うことができます。
その九つの門とは、目、耳、鼻、にはそれぞれ二つの門があり、口、生殖器、肛門の各一つづつの門とで、全部で九つの門となります。
この九つの門によって、人間は楽しんだり苦しんだり悩んだりしているのです。
つまり人間は、九つの門の使い方いかんによって、その人の人生が決まってしまう、と言っても過言ではないのです。
人の一生は、この九つの門を如何に清浄にたもち生きていくかが鍵となり、幸福不幸の分かれともなるのです。
目は、読書、テレビや映画、風景、周りの出来事など、情報の一番取り入れる量が多い門です。
それだけに、金儲けの情報や、情欲を刺激するような低俗のものには目を向けずに、見るものは人間性を高めるものを見ることを、習慣づけなければなりません。
また聴くことは、人間として行動すべき道徳や、倫理、宗教と言った精神的知識に耳を傾けることであり、魂の浄化につながるものを聴くことに、注意しなけれはならないのです。
そして、特に口は一つであるが、食べること、味わうこと、話す事の三つの働きを持っているだけに、非常に注意して使わなければならないものです。
食べることは胃の空腹に対する要望を満たすはたらきであり、味わうことは食べる時に味覚を楽しむことであり、話す事は自分の意志や想いを伝える役目を持っています。
それぞれの機能に対しては、食べることにおいては食べ過ぎ飲みすぎに、味わうことにおいては美食に囚われないように、そして語ることにおいては、嘘、騙し、悪口などに注意することなのです。
そしてもう一つ大きな過ちを犯しやすりものは、生殖器の汚れなのです。
この世はマイトゥーニャ・アーガーラと言われ、性に縛られた世界と言われているくらいです。
「性欲は無知のシンボル」であり、性にはある種の快楽があるがこの快楽こそ、人間を堕落に落としこめる天敵なのです。
生殖の根本は、子供をつくる事であり、それ以外の性行為はしてはならないのが原則なのです。
またこの教えは子供の時からすることが重要であり、思春期の性にたいする目覚めの時に、しっかり教え込むことが非常に大事なことなのです。
昔から「鉄は熱いうちに打て」との諺があります、この熱いうちにとは思春期とのことであり、ここが一番大事なことであり、固まってからの教えでは大きなお世話と反発を招くのです。
それから最後に肛門の働きですが、それは毎日の規則正しい生活の結果としての排泄であり、生活の習慣の評価がそこに現れるのです。
排泄には、食生活が一番大きな要素を持っておりますが、最近の様なストレス社会では精神的な影響も非常に大きくなっております。
それだけに、本当の精神的生き方を学び、間違った観念に振り回されない事が大事な時代となりました。
この様に人間は九つの門の町に住み、人生の苦楽を共に過ごして魂は肉体の一生に付き合っているのです。
ここで大事なことは、この門を魂の自覚によってその働きを、魂の意志に従わすことなのです。
つまり、魂が主人公となり、それぞれの門の働きを正しく働かす事が、一番肝心であると言うことなのです。
肉体をまとった魂が自己を支配し、もろもろの活動に対して無執着なら、彼は働くことも働かされる事もなく、九門の町にいとも楽しく住んでいる。<バガヴァッド・ギーター5章13節>
これは科学的インド哲学バガヴァッド・ギーターを学ぶことでしか、理解できない真理なのです。
人生死ぬ寸前まで学びであるテーマ:私のエッセー
2012-01-22 08:08:37 balkrishnaの投稿
私たちは、子供の時には、親から生活についての躾を先ずは学ばされるはずです。
靴の揃え方や、服の脱ぎ方、また挨拶としては、こんにちわ、ありがとう、ごめんなさい等、家族の中でまた他人との接し方において、他者との関わりにおける基本的なものです。
その次には、学校で集団生活をしていくうえでの、他人に迷惑をかけない、先生や目上の人に対する言葉づかい、挨拶礼儀なのです。
また、当然のことですが学校では、これから社会に出て労働して社会生活をする為の、色々な教科を学んで基礎知識も身につけていくのです。
そして社会に出れば、仕事をうまく進めるための専門知識の学びや、実際に体験を通しての技術や人との関わり方などを体得していくのです。
この社会に出ての仕事とは、生活の為に、生きるためにやるべき仕事であり、また自分が人間の修行として、仕事を通して学ぶ与えられた職業(カルマ)でもあるのです。
この仕事を通して学ぶカルマはその人にふさわしい因縁的なものであり、その人が気付かずとも前世から引き継がれているものなのです。
この仕事を通じてと言うところが、また生きていくためにはどうしてもと言う意味合いが、その人が果たさなければならないカルマの意味するところなのです。
人によってはそれが、多くの人々を救う特殊技術であったり、人々を喜ばす特殊な才能であったりするものですが、実はそれらの才能も前世から引き継がれたものなのです。
しかし、それらの才能は、この世に生まれて身に付けたものではなく、その才能のは何回も何回も輪廻を重ねて、生まれながらにして持っきたもの(アビジャータスヤ)なのです。
とは言え、その才能を発芽させ成長させるには、発芽させる環境が整なっていなければ、そして本人の努力も無ければ、せっかくの種も立派には育たないと言うものです。
自分の才能を発揮させてくれる環境に巡り会えることの縁によって、また本人の目標に向かっての自覚した努力によっても変わってくるのです。
この、人との縁の不思議さほど、希薄な希薄な神の計らいとして、感じざるを得ないものなのです。
人は、「人と人との間で生きている」と言うことからすれば、人間と言う捉え方は正に縁の不思議を言っているしかないのです。
人の縁によって人間は善くも悪くもなってしまいます。
しかし、人と人との関係によって色々なことを学ぶチャンスでもあるのです。
人間の学びとは、来世にその因果を残すための、魂に刻み込む精神的学びでなければならないのです。
その精神的学びは生きながらにしての学びであり、決して頭を使っての知識の学びではないのです。
頭を使っての学びは、肉体が存続している間だけのものであり、人間の死と共にこの世で消滅してしまう、はかない一瞬の知識にすぎないものです。
人との関わりで学ぶ精神的知識は、生涯死ぬ寸前まで学ぶことができる、来世の種なのです。
これは科学的インド哲学バガヴァッド・ギーターを学ぶことでしか、理解できない真理なのです。
2012-01-21 06:35:21 balkrishnaの投稿
昨日は悟りのプロセスとして、アンナ・マヤ、 プラーナ・マヤ、 ギャーナ・マヤ、 ヴィギャーナ・マヤ、そしてアーナンダ・マヤの五段階の悟りのプロセスがあることをお話いたしました。
ここにも、進化の方向性として、物質次元(肉体次元)から精神次元(魂次元)へ、といった真理が説かれています。
つまり、精神性のエネルギーの高い低いの判断基準が、ここにあると言えるのです。
最初のアンナ・マヤは、自然界の驚異、宇宙の広大さ、太陽、月、星などの天体の運行、また自然の恵みからの感謝報恩の想い、このように森羅万象から神の様相を知る段階と言うことになります。
ここにおいては物事に対する感謝の心と、目に見えない崇高なるもの、偉大なるものに対する畏敬の心がある事が、アンナ・マヤの条件になるのです。
アンナ・マヤは、自分の外に対する対象物を通して、悟りを得ていく段階でしたが、今度は自分自身の身体を通して、悟りを深めていく段階に入ります。
この段階からのプロセスを、一般的なヨーガで知られているアシュタンガ・ヨーガと比較してみると、よく理解できると思います。
先ずはプラーナ・マヤは、身体と五感覚器を通して、悟りを得る段階ですが。
アシュタンガ・ヨーガの、ヤマ(躾)、ニヤマ(道徳)、アーサナ(座法)、プラーナ(呼吸法)、プラティヤ・ハーラ(五感の統制)までの段階に相当するのです。
ここで大事なことは、このプラーナ・マヤのプロセスに入るにはヤマ(躾)、ニヤマ(道徳)の修行が終えていないと、この段階に入れないと言うことです。
その次のギャーナ・マヤは、五感覚器や心を超えて、肉体と魂は別であるとの悟りに入る段階で、これは、アシュタンガ・ヨーガのダーラナー(心の統制)の段階と対比できます。
その次のヴィギャーナ・マヤは、魂や精神知識の深い悟りを得る段階となり、アシュタンガ・ヨーガのディヤーナ(瞑想)の段階と対比できます。
そして最後のアーナンダ・マヤは、自己のハートに魂と寄り添うパラマートマーの存在を知り、クリシュナの直接拡張体であるヴィシュヌの姿を深く瞑想し、歓喜に浸るサマーディー(三昧)の境地になるのです。
この様にヴィシュヌの悟りに至るまでの、プロセスはちゃんとした物質次元(肉体)から知識、心、魂、と言った精神次元に進んでいくことが人間の、成長の真理であることが良く分かります。
これは完璧に科学的体系となっているのです。
すなわちインド哲学教は、観念的なものではなく、科学そのものであると認めざるを得ないのです。
これは科学的インド哲学バガヴァッド・ギーターを学ぶことでしか、理解できない真理なのです。
2012-01-20 07:43:28 balkrishnaの投稿
私たちは普通、人間(にんげん)と言いますが、哲学的には(じんかん)と言うのです。
それは、人間とは動物としての人間と、魂としての精神的人間の間に存在すると言うことからなのです。
私達は肉体的欲望(食欲、性欲、物欲)にだけ生きている、動物的次元という段階から、最高神に絶対なる信仰を持つ精神的に完成された人間となるまでの、修行(ヨーガ)という過程があるのです。
この認識のありかたが、人間としての認識の一番のカギとなるのです。
つまり、自分を魂の存在であると断言できなければ、まだまだ本格的な人間の修行過程の入り口にも到達していない、と言うことなのです。
しかし人間は一度に一気には、最高神への信仰を持つ精神的悟りに到れないのです。
その悟りへの第一のプロセスとして、先ず私たちは、生命を維持する為に与えられた食物や光や水などを無償で供給してくれる大自然の、究極的な慈悲の存在から神のありがたさを知る、これをアンナ・マヤと言います。
次には、自分の身体や心をふくむ感覚器すべてを使って、物質界の真理を悟る修行を、プラーナ・マヤと言います。
その次の段階は、精神的知識を学び肉体と魂は別であると悟る段階を、ギャーナ・マヤと言い。更にその次の悟りの段階を、今度は魂自体についての詳しい知識を悟る段階を、ヴィギャーナ・マヤと言います。
そして最期の悟りの究極は、自分自身のなかに最高神の拡張体である、パラマートマーの存在を知り、常に最高神と共に生きる歓びを悟る,アーナンダ・マヤと言う最高の境地に到ることなのです。
この、最高神との歓びを悟るアーナンダ・マヤに到ってこそ、ヨーガ(修行)の最終目的なのです。
ヨーガとは、最高の悟りへ至る修行のプロセスをヨーガと言い、決して美容やシェイプアップ、健康維持を目的としての、インド体操ではないのです。
ヨーガの始発は、肉体を維持してくれる大自然の恵みの悟りであり、身体と感覚器を使っての悟り、身体から知識の悟り、知識から魂の悟り、最終的には最高神への信仰に到って、悟りの完成となるのです。
逆を言うなれば、最高神(クリシュナ)は私たちの修行の為に、色々な形で真理を示してくれているのです。
つまり、その人の悟る力に応じて、その人が悟れる分かりやすい形となって、また存在として、自分の姿を自由に変え真理を示しているのです。
ヨーガの修行、つまり悟りのプロセスには、そんな最高神の深い、深い慈悲が込められている、と言うわけです。
これは科学的インド哲学バガヴァッド・ギーターを学ぶことでしか、理解できない真理なのです。
離欲と愛着を同時進行せよテーマ:バガヴァット・ギーターについて
2012-01-19 07:31:16 balkrishnaの投稿
私たちは欲望と共に一生を送っているのです。
その欲望は、生きていく為には肉体にとってどうしても必要な、食べる寝るなどの生理としての欲求があり、そして子孫を増やす生殖本能があり、さらに人間として特別持つ他の動物たちとは違った、物欲、名誉欲、支配欲、などがあるのです。
つまり、これらの欲望に突き動かされた肉体に乗って魂は、翻弄されながら、欲望に渦巻く肉体の一生に付き合わされているのが、人生の真の姿なのです。
しかし、完璧に魂というものを理解している人は、自分は魂であると自覚し、そして魂の目的を知った人は、肉体をその魂の目的の為に、駆使する行動を取らなければならないのです。
しかし、ほとんどの人は肉体が自分であると錯覚したままの状態にあり、肉体から発せられる欲望に突き動かされて、一生を終えるのが現実なのです。
この肉体が自分であると錯覚した意識を、偽我識(いがしき)と言います。
さてそこで、この厄介な欲望に突き動かされた生活から抜け出すにはどうしたらよいかと言うことですが。
先ず、自己とは「魂である」との認識から始まり、その魂の本質は、意志であり、信念であり、精神知識であり、肉体の行為者なのであると、自覚することから始まるのです。
そして自分の人生おいて、魂の精神的成長をさせる事こそが人生の目的なのです。
つまり魂のやるべき事は、自分と言う肉体の、頭、口、手足、心、の機能を、魂の修行の為に、駆使することが本当の姿なのです。
「自分は魂の存在である」と言う完璧なる認識が出来ていなければ、欲望にまみれた動物の乗り物に振り回された一生で、終わってしまうだけなのです。
ところが、この欲望から離れることは、一生の厳しい修行でもあるのです。
この欲望は、肉体が生命を維持する為の根源的なものほど、その欲望は強烈なものであり、なかなか克服し難いものです。
その、生活していくうえで克服しがたい欲望は、「美食、性欲、物欲」なのです。
この三つの欲望からいかに離れるかが人生の修行と言っても過言ではありません。
この欲望から解き放たれてこそ、安住した精神的境地を得ることができるのです。
これらの欲望から離れる事、つまり「離欲」は、高度な精神知識を得ること無くしては、絶対に不可能なことなのです。
この高度とは、至上主神クリシュナの息吹によって書き示されたヴェーダやウパニシャドウなどのインド哲学を学ばなくしては、高度な精神知識を養うことは出来ないのです。
そしてその教えを深く理解し、教えに沿った生き方を成せば、全ての物質世界を創造されたクリシュナへの崇拝帰依に行きつくのです。
この強烈なる愛着の実生活をすれば、自然と低次元の肉体欲望からは解き放たれるのです。
つまり人間の生きていくための欲望は低次元のエネルギーであり、このエネルギーから離脱するには、離欲の努力と同時に高い次元の精神エネルギーに心を振り向ける事が、絶対に必要であるとの事です。
例えば恋人に振られたら、その人の事でいつまでも未恋に苦しむのではなく、その人を忘れる努力と同時にさらに魅力ある人を探す事に熱中すれば当然、別れた恋人の悲しみから解き放たれるのと同じ理屈です。
私たちの一生の生き方においても、低次元の欲望から救済してくれる道として、創造主神クリシュナへの信仰という世界があるのです。
この離欲と愛着の二つの行動を同時進行してこそ、充実した歓びに満ちた人生の完成を観ることになるのです。
2012-01-18 08:10:58 balkrishnaの投稿
この世の人を、究極的にある視点から二つに分けると「聖なる人と聖あらざる人」に分類することができます。
しかしこの「聖なる人と聖あらざる人」の区別の視点は、道徳や倫理レベルにおいての視点と、宗教レベルにおける視点、更には哲学レベルにおける視点といった、カテゴリー別の視点がそれぞれあるのです。
道徳や倫理はこの世で正しく成功する為に必要な、心の持ち方や行動のあり方の基準であり、先ずはこの段階で「聖なる人と聖あらざる人」を判断する必要があります。
その道徳と倫理の判断基準が、道徳の仁、義、礼、智、と倫理の親、義、別、序、信、であり、いわゆる中国の「四の五の」と言われる四書五教の教えです。
この道徳と倫理を身につけて、そしてそれを実践しながらこの厳しい現実社会を生きている人が、先ずは道徳倫理における聖なる人と言えるのです。
そして、次の宗教レベルにおいては、この世で生きていくのに必要な道徳倫理をこえて、自己の魂に目覚め、過世、現世、来世の三世の輪廻観をもち、人間としてやってはならない十の戒律をしっかり実行しているかどうかを、その視点とするのです。
この十の戒律を常に、身において守り、言葉において守り、心において守って、人生を生き抜いて来たかどうかが「聖なる人と聖あらざる人」の区別の視点となるのです。
そして最後の哲学レベルにおける区別の視点、それはクリシュナに崇拝帰依しその教えに服従し、更に今この時点において没頭している、ただこの一点に終極されるのです。
言うなれば、この哲学レベルの本物の聖なる人となる為に、道徳の学びがあり、倫理の実践があり、宗教教理の実行があり、そして最後のクリシュナに崇拝帰依しクリシュナの教えに服従没頭の境地があるのです。
当然その道程は、何十万回何百万回の輪廻に輪廻を重ねた、生まれ変わりの果てにたどりつく、永〜い永〜い道のりなのです。
しかし、どんなに永い道のりを歩んでも、完全なる精神指導者の指導を受けなければ、絶対にこの完成したクリシュナへのスウィートロードを歩むことは出来ないのです。
独学では無理なのですそれは、我々を苦しみから救ってくれるクリシュナの慈悲と、精神的歓喜を与えてくれるクリシュナの恩恵がそこになければ、それは不可能というものなのです。
だからこそインド哲学バガヴァッド・ギーターを完全なる精神指導者から学ぶべきなのです。
2012-01-17 08:52:30 balkrishnaの投稿
今月の5日に「神の啓示は希薄である」のブログを書いております。
また私は去年、2011-07-20 に、「私達は神の掟の中で生きている」と言うことも記述してます。
今日は、この二つの真理について別の視点から、「神の啓示は受けにくい環境」について書きたいと思います。
先ず私たちは、普通に生活をしていくうえで、一番使うものは「言葉」です。
この言葉は、話をするための言葉だけなく、頭で思考する際に使っている事も含めての、言葉なのです。
これは赤ちゃんが一番初めに覚えるのがこの言葉であることからしても、それは否定しがたい事実です。
この言葉は、私たちが生活をしてる物質次元の世界で、物事を具体的に捉え認識する為には必要欠く事の出来ない、人間にとって非常に大事なものです。
正にこの世は言葉の世界と言えると思います。
しかし、あの世の世界ではもう言葉は無く、全てが印象としての心の通じ合いなのです。
つまり、あの世は言葉の要らない世界なのです。
そしてこの世とは違って、活動自体が夢に出てくるように、大まかな希薄的な感覚で構成された世界であり、具体的で細やかな言葉の表現は必要ないのです。
そのうえ、この世で人間が五つの感覚器(目、耳、鼻、舌、皮膚)で感じるような、強い感覚すら当然起きえないのです。
通常あの世からの大事な啓示は全て、印象という形で、心に伝えられてきます。
しかし、私たちはこの世で生きてい為に五感の強い感覚に慣れきってしまっています。
それに、身の回りに起こる事象を認識する為の、言葉と言う道具も頻繁に使っているのです。
また芸事でも言えるのですが、奥義ほど言葉では表されないものです。
また逆に、あえて言葉で言い表そうとすると、矛盾した表現をしなければならなくなってしまうものなのです。
と言うことは、大切な神からの啓示を受けるには、非常に悪い環境で生活をしていると言うことになります。
実際に使われている言葉は、そのほとんど99%が、この世で生きていくための便宜として使っており、精神知識を学ぶ手段としての精神的言葉は、ほとんど使われていないのが現実なのです。
当然、生きていく為の最小限の言葉の使用は必要ですが、娯楽や噂話そのた感覚を満足させるための言葉の使用は、神からの精神指導を受ける印象としての啓示を妨げる事になってしまっているのです。
発明は99%の汗の努力と1%のひらめきであると言われていますが、正に神からの秘技は、ほんの一瞬の希薄な啓示にあると言えるのです。
その上、今のように生きるため必死に働かなければならない厳しい経済状況では、ますます神からの貴重な啓示は、受けにくい環境になってしまったと言えます。
しかしこんな社会だからこそ、インド哲学バガヴァッド・ギーターを学ばなければならない、最期の時だと思います。
2012-01-16 08:25:10 balkrishnaの投稿
昨日同志からメールが届きましたので質問にお答えいたします。
メールの内容。
昨日付けのブログで、精神愛の補足説明をありがとうございました。
昨日は先生のブログを読み返し、自分なりに図を作り、まとめの作業をしていました。とても楽しかったです。
宗教と哲学の大きな差は、宗教は神様にxxして下さいとお願いしているようです。でも精神哲学は永遠の真理に触れる喜びの為の修行、修行中のプラトニックラブが大きな違いと思ったのですが、この点を次回にご説明頂けるでしょうか?
親しい友人はギーターを学生時代に読んで居ながら、スピ系の守護霊とコンタクトするという講座に大金をつぎ込んでいます。
こんなに素晴らしい教えがあるのに、それに気がつかず残念です。
先生から直接ご講義を受けられる事を心から感謝致します。
先ず宗教レベルの神々に対する崇拝と、哲学レベルの創造主神クリシュナに対する崇拝は、似て非なるものであることを認識し理解することが絶対に必要なのです。
一般的に宗教レベルでの神や仏に拝む行為はウォシップといい、哲学レベルでの創造主神クリシュナに対する崇拝する行為はバジャティーと言うのです。
バジャティーとはサンスクリット語で、崇拝すだけでなく愛を捧げる行為を伴うという能動的な行為である、と言うところがウォシップとの大きな違いなのです。
一口で言うならば受動と能動の違いと言えるのです。
一般的な神々に対して崇拝し敬意を表す事は、ある種の希望を叶えてもらうため、または叶えてもらった事に対する感謝の意味を含んだ受動的行為なのです。
もう一つ大きな違いは、崇拝する対象物が、ウォシップは神々や崇高なる教えを説く教祖などに対してであるが、バジャティーは、この世の全ての原因の大原因の創造主神、またあらゆる神々を統括する至上主神のクリシュナに対する崇拝であると言うことなのです。
更に、ウォシップとバジャティーの大きな違いは、ウォシップの願いは肉体に係わる要望であったり、物欲を叶えてもらう物質次元の祈りなのです。
それに対して、バジャティーの願いは精神レベル次元の願いであり、それは精神知識の獲得の願いと、その教えに基ずいた、クリシュナに捧げる崇拝帰依の行動なのです。
バジャティーの最終的行為は、クリシュナとの愛の交歓と言う意味のプレーマに至るのです。
精神的なプラトニックラブをインド哲学では特別に、プレーマというサンスクリット語の単語があるくらいです。
従ってクリシュナに対する崇拝行為であるバジャティーには当然、この世の経済的、物質的、肉体的関わりは一切ないと言うことなのです。
メールの中に、「親しい友人はギーターを学生時代に読んで居ながら、スピ系の守護霊とコンタクトするという講座に大金をつぎ込んでいます」とありますが、この方は全くギーターを理解できなかったのでしょう。
それは、完全なる精神指導者について講義を得ていないからなのです、そして独学ではギーターの解釈は絶対に無理なのです。
それに、クリシュナを信仰する、また、バガヴァッド・ギーターを習得する為には、教会も修行道場も要らないのです。
当然、その為にお金を集めたり、布施を強要したりも必要なくなります。
ただただクリシュナに対し崇拝帰依し、そしてクリシュナの教えバガヴァッド・ギーターに没頭すればいいのです。
私は人を集めず、金を集めず、去る者は追わずの「三ず主義」を通して、クリシュナンへの正しい道を指導しています。
そしてその人自身が、自ら「自主自律、独立自尊」の境地に至って頂きたいと、ただただ願っているのです。
2012-01-15 08:13:23 balkrishnaの投稿
今日も昨日につづき、Mさんからのメールの残りのことがら「肉体と魂の喜びの違い」についてお話しいたします。
Mさんからのメールの内容。
お忙しいお時間を使って頂き、ご講義どうもありがとうございました。
昨日も盛りだくさんの内容でしたが、意識、信念、精神知識を魂に刻み込む事。(刻まれているのは受動的)と肉体と魂の喜びの違いが解りました。
この違いはどうしたら解るのか考えていましたが、先生が教えて下さった 肉体の喜びは悲しみ、苦を共にする、という目安はシンプルでハッキリと理解できました。
そしてもう一つ「人は生きて来た様にしか死ねない」というお言葉も心に刻み付けておきます。
肉体と魂の喜びの違について。
肉体には目、耳、鼻、舌、皮膚、の五つ感覚器がありますが、この感覚器には必ず多かれ少なかれの快楽があるのです。
この快楽を求めると、そこには習慣性と進行性があり、その結末は結局苦しみに変わるという、物質次元における肉体快楽の掟があるのです。
その快楽の顕著なものは、グルメとセックスであり、それは粘膜という一番敏感な感覚器を刺激する為で、その為快楽も強烈になると言うものです。
いったんその世界に執着してしまうと、無意識的にその快楽を求めようと、行動を積み重ねてしまうのです。
当然その追求の果ては、肉体的には生活習慣病になったり、性質的には社会道徳を乱す妄想をおこしたり、人間としては堕落の道に落ちていってしまうのです。
しかし、精神的な魂の歓びと言うものは、それ自体が永遠の真理に触れる歓びであり、肉体とは全く隔絶した精神知識のふれあいなのです。
したがって、この精神知識を持っている人でなければ、この様な高尚な精神的歓喜を味わう事は出来ないのです。
と言ってもこの精神知識の根本は、謙虚、寛容、忍耐、素直、向上、と言った質性を意味するもので、決して知識の有無を言うのではない、と言うことです。
要するに、その人の性格や人間性を問題にするのです。
そして、肉体的悦びは物質次元であり、魂の歓びは精神次元と言うことになり、ここでも
物質次元よりも精神次元のほうが精神性が高いといえるのです。
肉体的悦びは誰でも簡単に味わうことができる俗的な悦びですが、精神的歓びは誰でもと言うわけにはいかない高尚な歓びなのです。
また、よろこびの漢字も、肉体のよろこびは「悦び」の字を使い、魂のよろこびには「歓び」の漢字を使うのです。
その違いは、「肉体のよろこびなのか魂のよろこびなのかの違い」を表しているのです。
魂の歓びはそのまま死後の世界に通じるものであり、言うなれば肉体を持ちながらすでに、死後の世界を味わっている、と言う事になるのです。
逆に肉体の快楽におぼれ、更にその快楽を追及している者は、肉体に周りに次に生まれ変わる想念が形成され、次の生まれ変わりはその根性にふさわしい動物に生まれ変わるのです。
物質界にいる生命体は、風が芳香を運ぶように各々さまざまな生命観念を次の体に運ぶ、この様に生命体は様々な種類の体を転々と旅をするのである<バガヴァッド・ギーター15章8節>
ここで大事なことは、生きながらにして精神的世界を知る事であり、更に精神的歓喜を楽しむことなのです。
それは、その世界そのものがそのまま、「死後の世界を生きている」、と言うことであるからなのです。
意識、信念、精神知識を魂に刻み込めテーマ:同志からのメール
2012-01-14 08:17:53 balkrishnaの投稿
昨日、スカイプで指導をしている同志からメールがありましたので、その事で記述したいと思います。
この方とは毎週一回、一時間半ほど話をします。
これと言った議題やテーマは決めておりませんが、話の中でその都度、これは大事なことだと気付いたことを、話しております。
お忙しいお時間を使って頂き、ご講義どうもありがとうございました。
昨日も盛りだくさんの内容でしたが、意識、信念、精神知識を魂に刻み込む事。(刻まれているのは受動的)と肉体と魂の喜びの違いが解りました。
この違いはどうしたら解るのか考えていましたが、先生が教えて下さった 肉体の喜びは悲しみ、苦を共にする、という目安はシンプルでハッキリと理解できました。
「生きて来て様にしか死ねない」というお言葉も心に刻み付けておきます。
魂に刻むとはどういう事かと言うと、心に思っていることをやり続け、無意識レベルで自然に反応してしまう、と言うところまで積み重ねる事です。
また魂に刻み込むと、刻み込まれてしまうとは、全く次元の違うことで、刻み込まれてしますのは受動的な事であり、毎日毎日繰り返される習慣がくせとなり気質となって自然に魂に刻み込まれてしまうのです。
大体この、刻み込まれたものはあまり良くない習慣的なものであり、それが原因で来世の生れが決まるのです。
私たちはほぼ毎日、学校に行ったり、会社に行ったり、また定年後は定年になったで、散歩やスポーツ習い事など、それなりに決まったことをやる生活があると思います。
その他に、特別に計画したことや、急に用事ができたりして、特別に行動することもあります。
しかし、ほとんどの人の人生は、本質的に突き詰めれば、生きていくために、同じような繰り返しを毎日やっているのが現実なのです。
その繰り返しの人生の中身が、肉体維持の為に、快適な生活を営むために、また楽しい生活をする為にが、その目的であったならば、それは犬、猫、猿、同様の生き方でしかないのです。
ただその生き方が人間の場合、他の動物よりも知的で手先が器用で、高度な社会生活を営んでいるだけの違いでしかないのです。
そこで大事なことは、他の動物と人間との決定的な違いは「魂の修行」と言う点にあるのです。
この魂の修行をしているかしていないかの点で、動物として生きている人なのか、人間として修行している人なのか、決定的な相違となるのです。
普通の動物は本能に生きる動物であり、しかし人間は魂に目覚める事ができる動物なのです。
その魂の目覚めとは、自己とは何か、その自己を創った創造主はどんなものか、その根源に目覚めることなのです。
その、魂の精神的知識である自己とは何か、自己はどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、この世界を創っている存在は何か、その存在は我々とどう関わり合っているのか、などの疑問をはらし、その答えに確信を持つ事が大事なことです。
そしてその確信をもって、毎日の生活で精神的知識の実践を重ねながら、魂に深く刻み込んで行く事が、人間としての本当の生き方なのです。
この様な人間の本質に気づき、そのあるべき生き方を目指し、毎日の生活で実践し続けたならば、もう間違いなく苦しみの輪廻を脱し、魂の生まれ故郷である創造主神クリシュナの住む精神惑星に赴くことができるのです。
そして、そこで我々の魂はクリシュナと共に永遠の歓喜を楽しむのです。
文明の利器は何のために使うかテーマ:私のエッセー
2012-01-13 07:50:18 balkrishnaの投稿
先日、携帯電話の使い方を教えてもらうために、ドコモショップへ行きました。
映像や電話帳のデータを保存したい為に、ICカードを買いましたが、そのデータ保存やPCへのコピーの仕方を教えてもらう為にです。
そこで驚いたのは、自分の使っている形のタイプの携帯は、もうお店にはなかったのです。
3年ほど前には最新の携帯でしたが、今はパネルタッチが主流でボタンタッチのタイプは旧式になっているのです。
当時はワンセグ機能も付いて、テレビも見られすごいな〜と思ったくらいでした。
しかし今では、PCの機能をベースとして作られ、音楽や動画の大容量にも対応し、またGPS機能などが入り、たいへん便利になっていることに驚きました。
先日もニュースで、携帯を盗まれたが、GPS機能によって犯人が逮捕されとあり、GPS機能の有効性をPRしておりました。
しかし、逆に言えばその気になれば、その人の行動全てを監視できると言う事でもあり、スマートフォンの恐ろしさでもあるのです。
もともと携帯は、電話をどこにいても使える便利なもの、と言うことで始まったのです。
そこで便利な機能として、リダイヤル、短縮ダイヤル、通話履歴、電話帳機能、がありましたが、本来ならその程度の機能で電話器としてはもう十分なのです。
更に電話の本質を掘り下げていけば、遠にいる人の話を聞けるという耳の変わりをしている、と言うところに行きつくのです。
要するに電話とは、遠くにいる人と話ができるといった本来の機能を果たせばそれで良いのです。
それ以外の機能は、ただ便利と言うことで携帯に付随させて企業が商売をしているだけなのです。
カメラ機能、テレビ機能、パソコン機能、GPS機能、決済機能これら全ての機能は携帯電話になくても、携帯電話の本質を損なうものではないのです。
それぞれ既に、独立して利用されている器機の機能を、ただどこでも使えるようにしただけで、新たな技術革新には至っていないのです。
それでいて携帯電話で利用している事はすべて、日常生活で必要な物質次元の事柄での利用であり、精神的に自己を発展させるためと言った次元においては携帯は全く利用されておらず、所詮その機能は生活の為の実用性だけで良いのです。
私は今、パソコンで毎日、国内外の人々とスカイプで、バガヴァッド・ギーターに関する精神的な話をしています。
アメリカにすむMさんとも、インドにいるSさんとも、それこそ日本いいるような感じで、タイムラグもなくスムーズに話ができるのです。
私にとってパソコンでスカイプすることは、人間としてこの世に生れてきた重要な使命を果たす事であり、スカイプはそれをなすための貴重なツールとなっているのです。
この様なことでスカイプはもの凄くべんりなツールあり、これからギーターの世界を広げようと行動している私にとっては、無くてはならない貴重な文明の利器となっています。
文明の利器を使うには、物質次元の生活の為だけでなく、精神性を発展させるためにこそ、その価値を最大限に利用すべきなのです。
2012-01-12 07:31:56 balkrishnaの投稿
先日の1月10日のブログで、この世は精神次元と物質次元の二つの世界を創造主神クリシュナは創られた、と書きました。
そしてその本質は、魂レベルの活動世界か、または肉体感覚の活動世界かの、二つの視点からそれらの違いを、判断することができます。
精神次元(世界) 魂で感じ取る世界。
物質次元(世界) 肉体、心、頭で感じ取る世界。
ここで大事なことは、心で感じとり心に印象として残る想念も、また記憶として頭脳に蓄える知識も、バガヴァッド・ギーターの解釈では物質次元であると言うことなのです。
では精神的と言う観念はどういうものかと言いますと。
精神的とは、我々魂の生まれ故郷である、創造主神クリシュナの元に還るための精通した知識であり、その知識に基ずく行為行動を精神的と定義するのです。
具体的にいえば、インド哲学のヴェーダをはじめとする、ウパニシャドウやスムリティなのであり、またそれらの精髄を集めたバガヴァッド・ギーターの知識なのです。
言い換えれば、精神的な知識と行為行動以外は全て、物質次元の知識であり行動である、と言うことなのです。
この様な精神的と言う定義をしっかり認識し、またこの視点で物事を考察することが、インド哲学に取り組む基本姿勢となるのです。
そしてこの精神的発展進歩の判断基準として、この二つの視点から物事を判断すると、この世で活動する活動価値が分かりやすくなります。
例えば労働の価値を推し量るには、単純な肉体労働よりも手先を使った細工仕事の方が、また肉体労働よりも頭を使った知的労働の方が、知的労働よりも魂を向上させる精神活動の方が、と言ったように、肉体労働から魂の精神知識の活動へ、といった変化で、労働の価値を推し量れるのです。
つまり我々の精神修行の活動は、肉体から知識へそして心へ、最期は魂の活動へとステージアップすることなのです。
また昨日書いたブログに、人間性における精神的学びにも、躾、道徳、倫理、宗教、哲学、の五つの階層があると書きました。
ここにおいてもまず始めの躾の段階は身体でおぼる事であり、それは子供の時に身につけさせる人間として最初の教育なのです。
そして次には道徳と言う知識を植え付けさせ、更に社会に出ては倫理を通して心を養い、そして宗教では自己の本質は肉体ではなく魂であるとの認識を持ち、更に哲学に至り魂の本質である、真理(チット)、永遠(サット)、歓喜(アーナンダ)を学ぶのです。
この様に、全ての向上の道は物質次元(肉体次元)から精神次元(魂次元)へと進化していく事を意味しています。
つまり精神的発展のキーワードは物質次元(肉体次元)から精神次元(魂次元)へであると言うことです。
2012-01-11 06:28:32 balkrishnaの投稿
昨日は「「人生はらせん階段を登って行くようなもの」である、と言うことについて記述しました。
その最期の部分で「人間は物質次元から精神次元へのらせん階段を輪廻を重ねながら昇っている」と書きました。
物質次元とは、自己を肉体そのものと意識している偽我識を意味し、精神次元とは、自己こそは「魂であり、意識であり、信念であり、精神知識である」と認識する自己覚醒を意味します。
らせん階段の始まりは精神修行のスタートを意味し、そして階段の最上階は自己完成のゴールを意味しています。
また、らせん階段全体は輪廻を意味し、一歩一歩昇る階段は一生涯の時の刻みであり、誕生、成長、衰退、死滅、の一生涯を意味します。
この、一生涯をとうして、精神的進歩をするための職業的階層(カースト)や、生活の仕方をとおして精神的進歩を図る(アシュラマ)の修行制度があるのです。
これはクリシュナが定めた、人間の精神的進歩のために課した、ヴァルナ・シュラマ・ダルマと言うものであり、職業区分と四つの生活区分なのです。
職業区分 肉体労働(シュードラ)、商工農業(ヴァイシャ)、軍事行政(クリャトリア)、知的労働(ブラフマナ)の四つ。
生活区分 学僧期(ブラフマチャーリー)、家住期(グリハスタ)、林棲期(ヴァーナプラスタ)、遊行期(サンニャシー)の四つ。
ここで大事なことは、これらの階層はあくまでも精神的進歩の観点からみたものであり、この世の価値観である、財力、名声、権力などとは、全く異とするもの、であると言うことなのです。
ともすれば、財力や学歴だけでその人の人間性までを高く評価しがちであるが、これこそが今の世の中全般にわたる、精神的錯覚なのです。
また人間性における精神的学びにも、躾、道徳、倫理、宗教、哲学、の五つの階層があり、これらの階層を修してこそ、自己完成に結びつくものなのです。
この様に人間が精神的進歩を遂げるための課題として、輪廻においてまた生涯において習得すべき、職業区分(カースト)、生活区分(アシュラマ)、精神的学びの、それぞれの存在を知ることが絶対必要なのです。
この階段は精神的修行が出来なければ、上位に昇ることは絶対に出来ない厳然たるものなのです。
それはお金では買うことのできない、精神的修行の成果だけが次のステージへのパスポートになるのです。
でなければ人間は、低次元の肉体的動物欲望の推進力によって振り回される人生を、何回も何回もくりかえす、どうどう巡りをする羽目になってしまいます。
この様に魂の修行システムは今生だけのものではなく、悟り次第では輪廻として、いつまでもいつまでも続く厳しいのであることを知るべきなのです。
2012-01-10 07:53:20 balkrishnaの投稿
この世の全ての起源の大源の創造主神クリシュナは、先ず精神次元(世界)と物質次元(世界)を創ったのです。
と言うよりも、根本である精神世界に物質次元の世界(マーヤー)を創造された、と言った方が良いでしょう。
この、精神次元と物質次元の二つの概念を分析しますと、次のような要素に分けられます。
精神次元(世界) 魂で感じ取る世界。
創造主神クリシュナの真理(チット)、永遠(サット)、歓喜(アーナンダ)。
自己の魂(アートマー)、自己の精神知識(謙虚、謙遜、非暴力、寛容、正直、清浄、穏和、崇拝、恭敬)。
物質次元(世界) 肉体、心、頭で感じ取る世界。
肉体感覚(目、耳、鼻、舌、皮膚)から生起される心の想い。
人間の欲望(食欲、性欲、睡眠欲、物欲、名誉欲、支配欲)からの行動。
人間の性格(怠惰、執着、果報、果敢、奮闘、渇望、妄想)による活動。
この様に大まかに魂で感じ取る精神次元と肉体、心、頭で感じ取る物質次元の二つの世界の概念を書きました。
元来人間の本質は魂であり、精神的なものなのです。
その魂が動物肉体のなかに入り込んで、動物肉体を駆使して魂の修行をしている、と言うのが実態なのです。
しかし、動物肉体は物質次元でありまた、動物特有の生存する為の本能と言う食欲、性欲、睡眠欲に突き動かされ、なおかつ人間特有の物欲、名誉欲、支配欲などがあり、それらの欲望に惑わされてしまうのです。
その為、魂の精神次元である謙虚、謙遜、非暴力、寛容、正直、清浄、穏和、崇拝、恭敬と言う尊い質性が、欲望によって覆い隠されてしまうわけです。
この本来持っている魂の質性を、物質次元の欲望の汚れから浄化させるのが、物質次元で生きていく人間の魂の修行目的なのです。
言うなれば、人間は欲望という堕落の引力と、忘却という知力の衰退と戦いながら、物質次元から精神次元へのらせん階段を輪廻を重ねながら昇っている、と言うことなのです。
2012-01-09 06:31:11 balkrishnaの投稿
覚醒とは、肉体的に眠りを抑えるとか、精神的に目覚めると言った意味があります。
一般的に知られているモルヒネは薬物であり、中枢神経系を興奮させ睡眠を押える薬で、常用すると習慣性となり、中毒症状や幻覚をおこさせます。
その為、このモルヒネの使用は法律で厳しく処罰されるものです。
一方、クリシュナマントラは精神的な作用として、精神知識の目覚めを促し、それと共にゆるやかな精神的歓喜を生起させてくれ、それにモルヒネと同じように習慣性も出てくるのです。
モルヒネは肉体に作用し、クリシュナマントラは魂に作用するのです。
しかしその効能は天地の差があり、モルヒネは使いすぎると人間を廃人に追い込み、クリシュナマントラは唱えれば唱えるほど人を浄化してくれるのです。
でもこの両者はともに、そこに至るには、めらいと言う大きな河が横たわっているのです。
一方は、一時的な快楽を得ても廃人になる結末と法律を犯すリスクのためらいであり、もう一方は宗教的修行を積んできても、それまでの宗教を捨てクリシュナだけに全てを捧げ崇拝没頭しなければならない、ためらいがあるのです。
このクリシュナマントラを唱えることは、「聴く、唱える、想う」の三つの聖なる修行徳目のひとつであり、この行為なくして、人間の究極にいたる精神的境地は得られないのです。
ここで大事なことは、モルヒネを使用すれば誰でも、モルヒネの薬物的知識を熟知していようが、全く無知であろうが、また意識的に使用しようが、無意識に使おうが、いったん身体に入れば、その効能は誰でも同じように効いてしまう、と言うことに気づくことが大事なのです。
これは肉体的世界でははっきり理解できますが、それが精神的世界における認識では、ほとんどがそれを理解できず、見向きもされません。
それは、薬物の作用は肉体感覚に強烈に作用するからであり、クリシュナマントラの精神的作用は希薄な感覚でしかそれを捉える事が出来ないからなのです。
つまり薬物による覚醒作用は誰にでも起きますが、クリシュナマントラによる精神的覚醒はその人の魂が、素直に物事を受け入れることのできる柔軟性と心身の浄化がなされていなければならない、厳しいハードルがあると言うことなのです。
逆を言うなれば、クリシュナマントラを唱えることのできる人は、柔軟性と心身の浄化が既に、なされている人である、と言うことにもなります。
しかし、たとえ柔軟性と心身の浄化ができていても、このクリシュナマントラを唱えるだけで、最高の歓喜に浸ることができると言う真理を、ただ知らないと言うだけで、それをしていない人がほとんどだと思います。
私は毎晩、このクリシュナマントラをデジタルオーディオでイヤホーンをつけっぱなしにして眠りに就くのです、そしてまた自然とクリシュナマントラで爽快な目覚めをしています。
また車に乗っているで時も、カーステレオから常時このマントラが流れての、ドライブをしているのです。
もう本当に、歓喜に浸っての毎日であり、最高の気分で暮らしております。
クリシュナマントラという精神的モルヒネは罪にもならず、身体にも悪影響は全くなく、それにタダですからね(^v^)。
唯一なる言葉それはハレー クリシュナテーマ:私のエッセー
2012-01-08 07:25:22 balkrishnaの投稿
昨日は本質なる言葉は二つ、真理なる言葉は三つ、について書きました。
「本質は二つの言葉 真理は三つの言葉」とは、この物質界で生きて行くための、最大公約数的言葉であり、生き方における重要な数多の要素を、削ぎに削ぎ落として、簡略に簡略をきわめて、更にそれらを凝縮しきった、言葉なのです。
しかし、それ以前に私たちがこの物質次元に存在しているそもそもの原因はなにか、そして私たちが活動をしている地球がどうして出来たか、またその地球が存在している空間は、その空間を構成している宇宙はどうして出来たか、それらの究極を探ればその突き当たるところは、創造主神クリシュナに突きあたるのです。
また自分の肉体を構成している物質というものを、顕微鏡で観察し、更に顕微鏡では見えない分子構造までを、今度は電子顕微鏡で観察すれば、原子の更に原子の究極を探れば、どんな物質でも最期は神の細胞である、クシローダ・カシャーイ・ヴィシュヌの存在にいきつくのです。
しかし、そのクシローダ・カシャーイ・ヴィシュヌはクリシュナの直接拡張体なのです。
また私たちは、それぞれに独立した自己としての魂ですが、その魂の源は全て宇宙御創造神ブラフマーから放出されています。
そのブラフマーはまた、ガルボーダ・カシャイーヌ・ヴィシュヌから誕生しており、そのガルボーダ・カシャイーヌ・ヴィシュヌ自身もまたクリシュナの直接拡張体なのです。
この様に私たちの魂をはじめ、地球や宇宙を含めた物質次元における生命体や物質は全て、その起源や大源は、究極的にクリシュナにいきつく訳です。
従って、私たちが存在する原因の大原因を表す言葉はただ一つ、それはハレークリシュナとなります。
この様に私たちの全ては、クリシュナの創造物の中での活動であり、クリシュナの意識に包まれの活動、と言うことです。
それだけに私たちは、絶対に忘れてはならない唯一なる言葉としては、それはハレー クリシュナとなる訳です。
ハレー クリシュナ ハレーク リシュナ クリシュナ・クリシュナ ハレーハレー!
本質は二つの言葉 真理は三つの言葉 テーマ:私のエッセー
2012-01-07 05:44:52 balkrishnaの投稿
物事の本質をつかむには、二つの言葉でその本質をつかむのが良く、また、この世の真理を知るには、三つの言葉を使うと安定しておさまりが良い。
先ず、本質は二つの言葉をつかむと良いとの事は、この世はすべて二極相対(ドヴァンドヴァ)もしくは二極対立的に創られているからなのです。
創造主神クリシュナは、精神世界の最高惑星ゴーローカ・ヴェリンダーヴァンに精神体として、存在しているのです。
そしてクリシュナは、魂の修行の為にと、この物質世界(マーヤー)を創造されました。
ここに、この世は精神世界(スピリチュアル)と物質世界(マーヤー)と言う二つの本質を創りあげたのです。
私たち人間も、肉体と言う物質の中に、自己という魂の精神体が宿っていると言うことが本質なのです。
つまり私たちは人間は物質体(マーヤー)と精神体(スピリチュアル)の間にある存在、と言うわけで、だから人間(じんかん)と言うのです。
それから次に、真っ暗な宇宙に、クリシュナから無限のエネルギーが太陽に注がれ、その太陽のエネルギーで明るさができ、私たちの生活の中に明と暗の二つの対局ができたのです。
また太陽の働きによって、昼と夜、夏と冬、暑い寒い、と言った太陽の運行によっての二極がうまれ、また太陽の活動によって、作物のでき具合が左右され、豊作か凶作、豊か貧しい、幸福か不幸かの、二つの対局する観念が生まれてきます。
その他にも、生物が自然増殖する為に、オスとメスの両性の生物が創りだされました。
また人間が高度な社会生活を営むようになり、経済の好景気か不景気か、発展か衰退か、また仕事における判断として、ゴーかストップかの決断がさまざまに出てくるのです。
この様に私たちの周りをみると、二つの言葉で物事が成り立っている事が良く分かります。
そしてその究極の判断として、人生はYesかNoかの決断をして生活していると言うことになるのです。
もう一つの、真理を知るには、三つの言葉を使うと安定しておさまりが良いとは、昔から真理を説いた言葉は三つに集約されているからなのです。
真理を突いた言葉として、キリスト教が説いている父と子と聖霊の三位一体があり、また仏陀の説いた、仏、法、僧の三帰依があり、諸行無常、諸法無我、涅槃寂静の三宝などがあります。
その他、空海の説いた密教の秘法として、身密、口密、意密の三密加持があります。
またインド哲学では、人間の実態を、肉体、魂、そして神の直接拡張体である直霊(パラマートマー)の三つの形であるとしています。
ある程度精神知識を持つと、肉体と魂は別である程度の認識まで来ますが、ほとんどの人がその程度で、止まってしまうのです。
つまり、人間は肉体と魂である、との本質までの悟りには達っすることができると言うことです。
しかし、直霊の存在まで知って人間は、肉体、魂、直霊であるとの三つの真理まで知らなければならないのです。
三つの言葉を知ってこそ、カメラの三脚のように安定したものとなるからなのです。
人間には、誰の体にも神の直接拡張体である直霊(パラマートマー、キリスト教では聖霊)が宿っており、その人の全てを目撃しており、またその人の過去の諸行や、またこれから何をしたいかも全て分かっているのです。
従って、その人がその直霊の存在にに気づき、清浄なる経典に沿った生き方をすれば、自然と直霊がその人を指導し加護してくれるのです。
しかし、ほとんどの人はこの直霊の存在に気づいていないのです。
そこに、神から離れた不幸の根源が潜んでいるのです。
不幸とは神の存在を忘れ、神から離れることであり、幸福とは神の存在を知り神の教えに生きることなのです。
その神の教えとは、インド哲学バガヴァッド・ギーターそのものであり、ギーターは神の御言葉である、といわれているのです。
2012-01-06 09:02:35 balkrishnaの投稿
自己とか魂のことをサンスクリット語で、アートマーと言います。
私たちは今、この物質次元の世の中で、そして高度な社会生活のなかで、感覚の悦びに執着したり、また生活を維持する為にも、過酷な労働にも耐えながら、毎日を一生懸命に生きているのです。
今の文明社会は、太古の歴史からしても、かつてなかったほどの極限的繁栄を極めています。
もうこれ以上、物質的豊かさも便利さもいらないほど、豊かになってきています。
しかしそれにかわって、企業間の競争も激化し、それに使われる労働者の生活は益々厳しくなり、結局社会全体が生存競争にさらされてしまっているのが、今の現状となってしまいました。
そして今度は、生き残りの為に、どんどん更に突き進まなければならない状態に追い込まれている、と言うのが現状のようになってしまいました。
サラリーマンの海外出張は当たり前の時代であり、その為の小学校からの英語教育も始まりました。
福島原発で未曾有の事故を起こしておきながら懲りもせず、まだその原発の再稼働を伺う空気があること自体、悪質な経済至上主義熱病の治癒は不可能に思われます。
この感覚的欲望に浸りきっている状態の魂を、パラーグ・アートマーと言い、動物的欲求である食欲、性欲、睡眠欲と、人間特有の物欲、名誉欲、支配欲、に染まりきっている状態の魂なのです。
今に生きているほとんどの人の魂はこのパラーグ・アートマーであると言え、どんな栄華を誇っていてもそれは魂の発展的観点からすれば、まだまだ初歩的な修行段階にあると言えるのです。
それとは別に、これらの感覚的欲望に浸りきった社会生活からは全く隔絶し、自己の魂の精神的発展にのみその生き方をしている魂を、プラティヤグ・アートマーと言います。
このパラーグ・アートマーとプラティヤグ・アートマーの単語は、サンスクリットの単語であり、日本語にはこの様な魂に関する哲学的な単語はないのです。
要するに、人間としての生存目的は、この単語の意味である感覚の悦びに執着した生き方から、自己の魂の精神的発展の為の生き方に昇華することなのです。
つまり、この物資次元における人間の修行は自己の魂の精神的発展の為であり、その精神的発展とは、謙虚、謙遜、非暴力、正直、穏和、慈悲など、これらの性質を身につけ実践しながら生活を営み、最終的には永遠真理を学び、その真理に向かって確信をもって突き進む生き方こそが、修行の道なのです。
精神的向上を目指す私たちの合言葉は一つ、「パラーグ・アートマーからプラティヤグ・アートマーへ」なのです。
神の啓示は希薄であるテーマ:ブログ
2012-01-05 07:36:16 balkrishnaの投稿
私は去年、2011-07-20
に、「私達は神の掟の中で生きている」という事を記述している。
そこでは。
1−私達は宇宙の中で、神の掟の中で、神の手の中で生きているのです。
2−その掟は厳然たるものであり、永遠不滅の真理であり、不動の哲理なのです。
3−天網カイカイ疎にして漏らさず。
(天の網のその網目はとても荒く、その網目は目で見ることは出来ないが、一滴の水さえも漏らさない緻密さである)
4−
非理法権天
(非道は道理に勝てず、その道理も法律の前には勝てず、その法律も権力者には曲げられるが、その権力者も天の裁きには勝てない)
この様なことを記述してました。
これらの事は、普通に生きている人生の間では、人間には関知できない、または普段思ってもいない事であり、昔から言われていた先人のおしえである。
これらの教えは、いわゆる中国の四書五経であったり、老子や道教の教えが、日本に伝わってきているのです。
その教えを説いた人たちも、必ずその先の教えである書物の教えを聴いて、伝えているだけなのです。
その書物の最初の出どこは、インドの哲学書であるヴェーダやウパニシャドウであり、この宇宙の創造神ブラフマーの息吹によって書かれたものなのです。
それだけにインドでは、ヴェーダやウパニシャドウの教えは絶対なるものであり、それはただただ学び実践するだけと教えられているのです。
なかには仏陀や老子のように、創造主神クリシュナからの降臨者として、直観的に神の啓示として真理を悟る人もいます。
しかし、これらの人は、ただ単に普通に生活して、この様な崇高な絶対真理の啓示を、受けたのではないのです。
それこそ心身を極限まで浄化する厳しい修行の果てに、かすかな希薄な啓示として、それを受け取ることができるものなのです。
そのような崇高で絶対なる真理は、極限まで浄化された心身にこそ、印象的な形で示されるのです。
これと同じように、私たちの魂に常に寄り添う、創造主神クリシュナの直接拡張体であるパラマートマーからの啓示も、その人の心身の浄化が出来ていなければ、貴重なる啓示は受け取ることがでいないと言うものなのです。
物欲、肉体欲にまみれた荒い精神状態では、例え神からの希薄な啓示を受けても、当然それらを感知する事は出来ないのです。
そこに、普通に生きていては、神の希薄な啓示は受けられない理屈があるのです。
2012-01-04 07:57:14 balkrishnaの投稿
昨日、同志から次のような嬉しいメッセージが来ました。
先生のブログ(1月2日付け)は新年早々「これだ!」と感激しました。
こういう自己鍛錬を積んでいらっしゃる方の言葉だから、私達を引きつけるんですね。
それでいて謙虚でいらっしゃる。
木曜日に先生のお時間がありましたら、このブログについてもう少しお話を頂ければと思います。
1月2日のブログでは「習得、修練、実利、奉仕貢献、に生きる」を私のエッセイとして、書きつづっておりました。
私は、生計の基盤はサラリーマンを25年間つづけ、その後脱サラし津軽三味線の演奏家として19年継続し、現在に至っております。
これはあくまで、しっかりした生活基盤を維持する為の生業なのです。
それでも私は現在まで、小さいながらもマイホームを築き、一人娘を育て 45年前に知り合った女房と一緒に、ささやかに暮らしております。
しかし私は、生業とする活動自体が、魂の修行と捉えて生き抜いてきました。
それは、仕事と家庭の板挟みとなって苦悩していた30歳の時が、魂としての気付きの始まりでした。
その30歳の時から仏陀と老子を学び始め、あわせ教えの実践として般若心経、観音経、修証義のお経も唱え始め、40代に入ってからは空海の密教を学び、理趣経も唱えたのです。
そして50歳の時からは、インド哲学バガヴァッド・ギーターにたどり着き、現在まで12年間、ギーター三昧の生活を過ごしてきおります。
このバガヴァッド・ギーターこそ人間の原点や生き方、そして最後の目標とするものは何かを、明確に詳細に体系的に書かれているのです。
精神世界の事に関して、これほど詳しくまた体系的に書かれた精神書物はありません。
ギーターにはあらゆる宗教の根本がしめされており、またどの宗教にも書かれていない真理がちりばめられています。
そして人間が最終的に目指す永遠の郷について、そしてそこでの活動と究極の境地が示されているのです。
私はその真理に確信を持ち、それを信仰し、絶対至上神を崇拝帰依した生活こそが、その郷にいたる生き方だと思っております。、
道徳や倫理を学んで人格を高め、経済的に富を得、社会的に名声を得、充実した生活を成し遂げることは、永遠の郷に到るまでのそれは、一つの過程にすぎないのです。
マーヤー(非なるもの)である物質界の生活を超越し、精神世界における本物の永遠の歓喜は、創造主神クリシュナの郷に還ることなのです。
私たち魂はその為の、壮大な旅をしている、と言うことです。
魂の案内書としてのバガヴァッド・ギーターには、その究極の道しるべが記されています。
善き指導者、善き同志、善き後輩を得よテーマ:私の格言
2012-01-03 08:32:33 balkrishnaの投稿
この世で生きていくうえで、善き指導者、善き同志、善き後輩を得ることは、人生のすべてであると、私は思っております。
この三つを、生涯かけて獲得することが、精神的に自己を完成させる絶対条件となることなのです。
先ずは深い精神知識を持ち、またそれを実践し、多様的で経験豊かな人生を体得していることが、善き指導者としての第一条件となるのです。
ともすると、頭の良さや知識の豊富さだけで、指導者として認めてしまいがちですが、精神世界での指導者としての一番の条件は、多様的で経験豊かな人生を体得していることなのです。
次は、自己とは何か、何のために生きるか、魂はどこへ行き何をするか、この世の真理は何か、これら全てを創造している創造主神はどんなものか、など永遠真理をもとめる、高潔な精神性を持つ同志を得ること。
そして、この世で生きる、本当の生き方を真摯に求める、精神的生き方に興味を持つ、善き後輩を得ること。
この様に、人生の全ては、善き指導者、善き同志、善き後輩を、得ることなのです。
そして修得するものは、宗教の教理を超えた、永遠不滅の創造主神の言葉であるインド哲学を学ぶことであり、それが絶対なる条件となるものです。
1月1日のブログにも、精神的修行における、大事な修養過程の一つとして書きました。
先ずは精神的知識を得るには聴くことであり、書物の精読ではなく、精神指導者の言葉を聴き、その真意を理解することが、その基本姿勢であること。
それは各自の勝手解釈による誤解を防ぐためなのです。
次に善き同志を得ることは、お互いが励まし合い学び合う、この相互に啓発し合う共鳴の力が、想像を超える驚異的な力を発揮するのです。
自分では気付かなかった、自分の良い所を気づかせてもらい、その良いところを更に伸ばそうとする意識が、お互いに啓発し合うところに出てくる、と言うことなのです。
そして善き後輩を得ることは、自分が指導する事によって、学んできたことを再度確認する事になり、それは教えることは教えられる、の関係に自然となっているのです。
また善き後輩を得ることは、自分が教えたことを、その後輩が多くの後輩に教え、また更にその後輩が子孫をどんどん増やすように後輩に伝えていく、その連綿性に精神指導者として最高の歓びを、感じることができことなのです。
私が今ここに記述していることは、自分が過去63年間、この娑婆世界で生き抜いてきた実感としての記述、なのです。
今年はインド哲学塾を更に発展させて、善き同志と善き後輩を、たくさんつくっていきたいと希望に燃えております。
習得、修練、実利、奉仕貢献、に生きるテーマ:私のエッセー
2012-01-02 05:22:40 balkrishnaの投稿
釈尊は人間の幸せについて、「広く学び技術か芸術を身につけるがよい」と言っていました。
これは私が宗教の道を歩み始めた30歳の時に知った言葉です。
この時すでに私は、津軽三味線の技の習得に、独学で取り組んでいた時でした。
当然サラリーマンをしながらの趣味の範囲ではありましたが、それでも毎朝出勤前の読経と、30分の稽古は欠かせなかったのです。
私は25年間のサラリーマン生活で、通勤時間には10分以上時間をかけない所に住むことを心がけて、家を借りていたのです。
通勤ほど人生の無駄な時間はありません、これが毎日のこととなると、それはかなりの時間となります。
その通勤の時間を私は20年間、津軽三味線の技の習得と修練にあてていたのです。
この津軽三味線の技を習得する為と、それを練り上げる修練の努力の積み重ねがここにあります。
その後、日本社会も高度成長が終わり、終身雇用や年功序列の維持も困難になり、これでサラリーマンの時代も終わりと思い43歳の時、25年間のサリーマン生活と決別をし、今度は津軽三味線の演奏家として独立の道を歩み始めたのです。
ここで大事なことは、積み重ねた芸術の技で「自分の家族を養う実利を得る」と言うことが最も大事なことになるのです。
つまり、誰にも頼らず、プロとして自律し生計を立てていける、と言うことなのです。
これは、先ずは魂が目的を持って活動する為の、肉体を維持する事が最大なる前提条件となっているからです。
それに、結果として生計を立てられると言うことは、その行動が究極的には正しと言うことの証でもある、と言うことなのです。
つまり、やっている事が世間様に評価されているから、仕事の依頼があるのであり、その継続性も評価の一つとなるのです。
どこかのプロダクションによって創られる人気は、所詮創りだされたものであり、流行が過ぎれば忘れ去られるものです。
そして、肉体的、感覚的な歓喜は、どんなに良いものでも飽きが来たり、変化を求められたりするものです。
従って常に新しく、芸の領域を広げなくてはならない、努力が必要となるのです。
それにさらに大事なことは、その活動が世間様や他人様に奉仕や貢献となっている事が、最も大事なことなのです。
人間は、仕事や人付き合いをとおして、奉仕と貢献の活動を行い、最後にはその奉仕と貢献の精神を魂の親である創造主神クリシュナに対する、崇拝、帰依の想いにまで昇華させる事を、人生の目的とするのです。
この奉仕と貢献を、クリシュナの使命として実践していれば、クリシュナは必ず「必要なものは与えてくれ、大事なものは保護してくれる」、これは私が63年生きてきた絶対なる確信です。
2012-01-01 06:32:53 balkrishnaの投稿
精神的修行における、大事な修養過程として、聴く、体得、説くの三くを知ってほしいと思います。
先ずは精神的知識を得るには聴くことである。
書物の精読ではなく、
精神指導者の言葉を聴き、その真意を理解することが、その第一歩となります。
それは、各自の勝手解釈による誤解を防ぐためなのです。
精神的知識の解釈は、その人の質性によって、自分の都合のいいように、また理解の浅い段階に留まっての解釈になってしまう、二つの危険性を孕んでいるからなのです。
以前のブログにも書きましたが、例えば非暴力と言った意味は、一般的には相手に肉体的、精神的に苦痛を与えない事、との解釈に留まります。
しかし、精神的解釈としては、暴力は相手に対してだけではなく、自分の肉体にも知らず知らずに暴飲暴食と言う暴力をしており、この様な無意識の自他に対する暴力をやめる事こそ非暴力であり、その為の精神知識の習得と実践の行動を非暴力と言う、深い解釈になるのです。
と言うことで、まずは精神的知識の習得は、精神指導者からの直接の言葉による指導を受けなければ、正しい精神的発展は望めない、と言うことです。
その次の
体得は、言うまでもない事ですが、実際に
身体を使って経験することを言うのです。
頭で記憶している事は、観念に留まりっているものであり、それが実際に必要となった行動場面においては、行動としてそれが直ぐに起こされないのです。
やはり、身を持って体得しなければ、実際に必要な場目に遭遇しても、反射的に行動が起こされないものなのです。
そこに、この娑婆世界で生きていく難しさがある訳です。
行動ができてこそ、知ったと言う事であり、それを陽明学で言う「知行合一」と言うものです。
知ることは行う事であり、行いを以って知った証とする、となる訳です。
そして、最後の説くは、身を以って知ったことを多くの人に述べ伝えてこそ、その真意を強く確信する境地に到る事ができるのす。
この人に説く行為が非常に大事であり、人に教えることは二度学ぶ事になり、その説く行為が更なる確信を深める事につながっていくのです。
さらに、この確信を持って行動する力こそが、夢を現実化していく強力なエネルギーになっていきます。
一般的に、人間は保守的な動物なのです、それゆえ
今迄の行動を自然と繰り返すことに安住をしてしまいます。
しかし、そんなことは娑婆世界では許されないように、自然災害や社会の発展が身の回りにどんどん起こってきて、おのずとその事態に対応しなければならないように、創られているのです。
そのような、事態の対応に迫られた時に、自信を持って確信していく行動こそが、その人を精神的に高める原動力となっていくのです。
この精神性を高めるためにも、聴く、体得、説く、の「三く」を実践しようではありませんか。
私はその中の、
説くを毎日ブログで実行しておりま〜〜す。
過去のブログへのリンク 平成23年 12月 11月 10月 9月 8月 7月 6月 5月