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津軽は凶作の歴史であった、と言われている。
30年に一小凶作、60年には一大凶作という伝説があった。
その凶作の歴史に四大凶作があったが、凶作には多くの餓死者がでている。
『青森県農業試験場60年史』に掲載されている『津軽凶作年表』によれば寛永
の2年凶作、死人山をなす、元禄凶作7万人、天保凶作8万人、天明凶作4万5千
人などの餓死者をだしている。
明治に入っても、明治2年と3年の連続凶作、そして明治35年から大正2年まで
の12年間に4回もの大冷害におそわれている。
津軽の百姓たちは、過去何百年という長い歴史を生きるか死ぬかという境遇
をさまよい、そこをくぐり抜ける偶然を得た者だけが、年き残ってきたのである。
このように度重なる凶作に由因した、悪しき慣習がうまれた。産児制限である。
宝暦年間の津軽の人口は22万人余り、そして、幕末までの約100年間はほと
んど人口も増えず22万人台であった。
このように人口が一定していたのは、凶作時の餓死によるものもあるが、それ
よりも子供は、男二人女一人にするという暗黙の産児制限によるものであった。
しかし、藩政時代には受胎調整の方法はなく、不運にも生まれて来てしまった
赤子に対しては、仕方なく間引きという手段がとられたのである。
間引きとは、生まれた赤子の呼吸を止めて殺すことで、津軽では『つぶす』
といった。
この間引きは明治の中ごろまで内密に行はれていのである。
当然であるが人々は、我が子を手に掛けなければならない悲しみや罪の意識
から、つぶされた赤子の供養をするのであった。
この、死者をいとおしむ心情が地蔵信仰を生み、やがて津軽最大の霊場、賓の河
原の地蔵尊が、北津軽郡金木新田の川倉に形成された。
この川倉地蔵の大祭には津軽全域から多くの参拝客が集まり、境内のあちこち
では坊様の供養三味線や、死者との口寄せをするイタコ降ろしなどが行はれていた。
特に文化文政時代からは急激に参拝客が増えたと、伝えられている。
このように定期的に開かれる縁日は、坊様達のかっこうの稼ぎ場所でもあった。
ここに集まる村人達は、貧しき故に止むえず犯した『つぶし』の崇の恐れや自責
の念、そして運命の悲しさや凶作の不安など、さまざまな思いに苦悩しているの
である。
こうした村人達のやるせない想いは、坊様が弾く、激しくも哀切に満ちた三味線
の音色によって癒され、ひと時ではあるが精神的開放を受け、慰められるので
あった。
そして村人達は、欝積した哀しみを枯れんばかりの涙で洗い流し、再び苛酷な
娑婆世界に立ち向かっていくのである。
働突は活きる証であり、開き直りの強さと障害を乗り越える勇気を与えてくれる
のであった。
津軽三味線は綺麗な造化であってはならない、常に生命観に満ちた生花でなければ
ならない、坊様たちの苦労を想い、歴史を偲び、先達の御霊に合掌する心根より
その撥音は発せられるのである。
この津軽三味線も演奏と語りは学校公演で必ず行うのが、
「一弦供養」を旗印とする祈りの芸人としての使命である
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