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         津軽三味線物語の新聞記事   津軽三味線物語CD制作の新聞記事
      津軽三味線の物語   <連続16分>
                                                   制作&語り&演奏 白井 勝文

津軽三味線は,本州最果て,津軽地方の厳しい風土と歴史の中で,生まれた。  

それは,盲目であるが故に、物ごいでしか生きる術を持たなかった、       

男の門付け芸人『坊様』によって,編み出された。それは名も無き『ほいど芸』と言われていた。

『坊様』,『ほいど』とは、津軽の方言でありそれは、物乞い乞食を意味するものであった。

明治維新を迎え、江戸時代の盲人保護政策が解かれて、世間に放り出された盲人

達は、物ごいの生活でしか,生きる道はなかった。

客に喜ばれなければ、その日の糧にもありつけないと言う絶望的な境遇の中での

物ごいは、平家琵琶の技法を取り人れた粗末な三味線を激しく、かき鳴らすもので

あった。それは、彼らの胸の奥に秘められた情念の叫びなのである。

その、,悲哀に満ちた音色と目の覚めるような洗練されたリズムと旋律は、聴く人々

の魂を癒し、興奮と陶酔の世界に聴衆を誘うのであった。

津軽の風雪に生き、そして土に還っていった漂泊の坊様達。、

彼らの情念は今、この指先から避る旋律と擦音となって、ここに蘇るのである。


江戸時代で最も発達した日本の音楽は、三味線音楽であった。

それは、浄瑠璃や歌舞伎などの舞台芸術と結び付いたからである。

しかし、江戸時代のどの文献を見ても津軽三味線という名称は見当たらない。

時代が下がって明治時代、さらに大正時代の文献にさえ、津軽三味線の名称は出

てこない。そして又、坊様達が三味線を弾き唄を歌い、門付けや大道芸をしていた

当時でさえ、たんに『坊様の三味線』、あるいは『ホイドの三味線』と呼ばれ

ていたにすぎない。

つまり、三味線音楽としては世間から全く、認知されていなかったのである。

津軽三昧線がようやく、世間から注目されるようになるのは、昭和39年の東京オリン

ピックの前後からである。


津軽三味線の成立過程は、わずか一世紀余りの歴史でしかなかった。

ところが、たかだか一世紀余りの歴史が、発祥の地、津軽においてさえ模糊として

闇に包まれていたのである。

その闇の原因の一端は、津軽三味線が当時の津軽では、ホイド芸と見下されてい

たことにある。

明治、大正、昭和初期までの文献に津軽三味線が見当たらないのは、文献に記す

に価しない乞食芸と蔑まされていたからである。

親族から坊様の出ることは不名誉なことであり、人々の記憶から早々に忘れ去

られるのを誰よりも切望していたのは、当の坊様たちやその家族や縁者たちで

あったのである。

この様に津軽三味線のルツを知ることは、ヴェールに包まれた闇を明かすことでも

あり、津軽の歴史と風土のなかに隠された陰の部分を見据えることでもある。

それは、隠された陰こそが、類い稀な民俗芸能を生む土壌であったからである。

凶作と間引きの歴史

津軽は凶作の歴史であった、と言われている。

30年に一小凶作、60年には一大凶作という伝説があった。

その凶作の歴史に四大凶作があったが、凶作には多くの餓死者がでている。

『青森県農業試験場60年史』に掲載されている『津軽凶作年表』によれば寛永

の2年凶作、死人山をなす、元禄凶作7万人、天保凶作8万人、天明凶作4万5千

人などの餓死者をだしている。

明治に入っても、明治2年と3年の連続凶作、そして明治35年から大正2年まで

の12年間に4回もの大冷害におそわれている。

津軽の百姓たちは、過去何百年という長い歴史を生きるか死ぬかという境遇

をさまよい、そこをくぐり抜ける偶然を得た者だけが、年き残ってきたのである。

このように度重なる凶作に由因した、悪しき慣習がうまれた。産児制限である。

宝暦年間の津軽の人口は22万人余り、そして、幕末までの約100年間はほと

んど人口も増えず22万人台であった。

このように人口が一定していたのは、凶作時の餓死によるものもあるが、それ

よりも子供は、男二人女一人にするという暗黙の産児制限によるものであった。

しかし、藩政時代には受胎調整の方法はなく、不運にも生まれて来てしまった

赤子に対しては、仕方なく間引きという手段がとられたのである。

間引きとは、生まれた赤子の呼吸を止めて殺すことで、津軽では『つぶす』
といった。
この間引きは明治の中ごろまで内密に行はれていのである。


当然であるが人々は、我が子を手に掛けなければならない悲しみや罪の意識

から、つぶされた赤子の供養をするのであった。

この、死者をいとおしむ心情が地蔵信仰を生み、やがて津軽最大の霊場、賓の河

原の地蔵尊が、北津軽郡金木新田の川倉に形成された。

この川倉地蔵の大祭には津軽全域から多くの参拝客が集まり、境内のあちこち

では坊様の供養三味線や、死者との口寄せをするイタコ降ろしなどが行はれていた。

特に文化文政時代からは急激に参拝客が増えたと、伝えられている。

このように定期的に開かれる縁日は、坊様達のかっこうの稼ぎ場所でもあった。

ここに集まる村人達は、貧しき故に止むえず犯した『つぶし』の崇の恐れや自責

の念、そして運命の悲しさや凶作の不安など、さまざまな思いに苦悩しているの

である。

こうした村人達のやるせない想いは、坊様が弾く、激しくも哀切に満ちた三味線

の音色によって癒され、ひと時ではあるが精神的開放を受け、慰められるので

あった。

そして村人達は、欝積した哀しみを枯れんばかりの涙で洗い流し、再び苛酷な

娑婆世界に立ち向かっていくのである。

働突は活きる証であり、開き直りの強さと障害を乗り越える勇気を与えてくれる

のであった。

津軽三味線は綺麗な造化であってはならない、常に生命観に満ちた生花でなければ

ならない、坊様たちの苦労を想い、歴史を偲び、先達の御霊に合掌する心根より

その撥音は発せられるのである。

          この津軽三味線も演奏と語りは学校公演で必ず行うのが、
          「一弦供養」を旗印とする祈りの芸人としての使命である 
  

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