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結局私たちは神の掌の内で、神と共に生きているテーマ:バガヴァット・ギーターについて2011-12-31 07:37:07 balkrishnaの投稿
昨夜、私のブログを熱心に熟読している方から、次の点が良く分からないと、スカイプで質問がありました。 それは8月8日に記述した、「放射能(線)は至上神(ヴィシュヌ)そのものである」のブログの中の一節でした。 1−神は、我々が手にする物質を、素粒子レベルの存在になって物質を構成し、人間が目で見たり手で触ったりする事のできる物として、提供しているのです。 2−さらには、太陽の光のように物質を越えた光の光子としても存在し、もっと細密な存在としては意識としてその存在があるのです。 これこそ神の存在がどのようにあるかを理解できれば、疑問なく理解できる文節と思います。 逆を言うなれば、これが理解できていないと言う事は、具体的な神の捉え方として、自分の周りに神は編満、片鱗、偏在の三つの状態で存在している、と言うことが分かっていないと言うことなのでしょう。 1−編満の状態とは、宇宙の全てを構成している物質的存在のブラフマーとして、満ち溢れる光的編満の姿。 2−片鱗の状態とは、私たち個人の魂に常に寄り添い、全ての行動を目撃している、良き友のパラマートマーとして片鱗している姿。 3−私たちが手にする物質全ての、原子構造のさらにその先にある素粒子として偏在している姿。 この三つの編満、片鱗、偏在の存在が、同時にまた永遠に存在し続けるのが創造主神の、神秘的姿なのです。 つまり私たちは「神の掌の内で、神と共に生きている」と言うことなのです。 この宇宙を構成している生物や物質の全ての産みの親であるブラフマーは、ガルボーダ・カシャイーヌ・ヴィシュヌから生まれ、またガルボーダ・カシャイーヌ・ヴィシュヌはクリシュナの直接拡張体なのです。 また、私たちの魂に常に寄り添っているパラマートマーと、全ての物質構造の素粒子として偏在しているスーパーソウルの二つは共に、クシローダ・カシャイーヌ・ヴィシュヌであり、このクシローダ・カシャイーヌ・ヴィシュヌもクリシュナの直接拡張体なのです。 このように、三つに拡張された神の姿は、突き詰めれはすべて、精神惑星の最高峰ゴーローカ・ヴェリンダーヴァンにいるクリシュナにその大原因として到る事ができるのです。 この真理を理解し、主語として「神は」を次のように入れれば疑問に思われる文節も、氷解出来ると思います。 1−我々が手にする物質を、素粒子レベルの存在になって神は物質を構成し 2−さらには、神は太陽の光のように物質を越えた、光の光子としても存在し、 この様に神の存在を編満、片鱗、偏在の三つの姿として捉える事が理解できれば自然と、賛美歌に歌われている「神と共にいまして、ゆく道を守り」の尊いお言葉が、身にしみてくると思います。 財欲、名誉欲、支配欲は悟りへの大障害テーマ:バガヴァット・ギーターについて2011-12-30 07:10:04 balkrishnaの投稿
人間は他の動物と違い、財欲、名誉欲、支配欲、の三つの特有の欲が備わっています。 当然この欲は、創造主神から与えられたものであり、それ自身は決して悪いものではないのです。 要するに、その目的と程度なのです。 人間はこの物質次元の世界で、魂を向上させるために人間と言う生物体に宿ったのです。 そして、人それぞれに個別性があり、またその人その人の、魂の発展段階があるのです。 その発展段階によって、それぞれの人間にやるべき四つの職業義務(ヴァルナ)が課されている訳です。 それは一般的にインドで制定されているカースト制と言うものですが、これは身分差別的に扱っては絶対にならないものです。 これはあくまでも職業区分であり、その人の魂の発展段階によってやりやすい職種分類であり、決して身分の上下や貴賤として、差別的に扱ってはならないものなのです。 この職業区分における、仕事を通じての修行目的はすべて「他者に対する「奉仕と貢献」なのです。 労働者は雇用主に対して、商業、工業、農業の経営者は消費者に対して、行政公務員は国民に対して、それぞれが奉仕と貢献を通じて魂の修行をすることが、その目的なのです。 決して、自分自身に対してまた身内のものにだけと言った意識では精神的向上は図れないのです。 常に、他者に対する貢献と奉仕こそが魂の発展のガキなのです。 これらの職業において職責を果たすためにその欲として、財欲や名誉欲や支配欲が付随してくるのです。 これらは、高度な文明社会になればなるほど、その欲望は多方面に喚起され、そしてその欲望によって社会も益々発展するのです。 しかし、その欲望にはきりがなく、これらの欲望はどんどんエスカレートしていって、いつしか貪欲に変質してしまいます。 必要は発明の母までの段階は良いのですが、発明は必要の母となっては、これはもう本末転倒なのです。 こうなると今度は逆に欲望に振り回される事になり、人々が住みずらい社会となって、人間を苦しめる事になるのです。 この状態になると、この三つの、財欲、名誉欲、支配欲は、人間として魂の修行をすることにおいては、逆に非常に障害となる意識となってしまうのです。 自己の本質は魂であり、その魂としての修行の最終目的は創造主神を崇拝し帰依し服従してその精神性を達成させて、創造主神の基に還ることなのです。 この崇拝し帰依し服従の姿勢における最も障害となる意識が、名誉欲と支配欲なのです。 この二つの意識が強ければ強いほど、魂の産みの親である創造主神神に対する敬虔な意識は持てず、ましてや崇拝の観念すら生まれないのです。 と言うことは、それらの魂は、永遠に苦しみの物質世界に閉じ込められて、輪廻の繰り返しを余儀なくされる、と言うことになるのです。 偽りの名声を求めず、幻想や誤った交際をすて、物欲を持たず永遠性を理解し、惑わされること無く苦楽の二元性を超越し、至上主神に服従する術を知るものは、主の永遠の王国に達する<バガヴァッド・ギーター15章第5節> フィード・バックとフィード・ホワードテーマ:私のエッセー2011-12-29 08:21:34 balkrishnaの投稿
私はオーディオ専業メーカー、山水電気に25年務しており、アンプ製造に7年半、営業に17年半携わってきました。 その営業過程で、アンプのAU−D607Fと言う人気機種がありました。 そこで使われた技術がフィード・ホワードと言う技術でした。 AU−D607Fの後についているFのアルファベットが、フィード・ホワードを意味しているのです。 このフィード・ホワードとは、自動制御のひとつで、出力にひずみを起こさせないように予測して、前もって打ち消してしまう技術なのです。 一般的にステレオアンプには全て、音のひずみを少なくする技術として、ネガティブ・フィード・バック(NFB)の技術が使われております。 このネガティブ・フィード・バックは、出力の一部を入力に逆位相で戻して、ひずみを少なくする技術で、その目的も、出力のひずみを低減すると言うものです。 このアンプの特徴は、ひずみ低減技術である、フィード・バックとフィード・ホワードの二つを同時に採り入れているところにあるのです。 人間の生き方に当てはめると、フィード・バックは過去の体験から今の生き方を反省して、正しい生き方を目指す生き方に当てはまります。 それに対して、フィード・ホワードは将来の社会を予測して、今からその為の生き方をしていく、と言う生き方に当てはまります。 この二つの違いの本質は、ひとつは過去の経験からの学びであり、もう片方は未来の推測の学びの違いなのです。 人間はこの両方の学びをしっかりしてこそ、充実した人生を送ることができるのです。 しかし、ほとんどの人は、今生きている現実にだけに追われており、過去の反省や、ましてや将来を予測しての生き方を今からなんて、とてもできるものではないのです。 それこそ、かなり真剣に人生に対する想いがなければ出来ないものです。 それに、将来を予測して、今からのその為の生き方をするには、社会がもの凄いスピードで変化している現在においては、それはほとんど無意味に等しい社会となっているのです。 そこで考えなければならない事は、もうこんなに物質文明が発展しすぎた社会においては、人間の根源的な問題、つまり自己とは何か、何のために生きるか、生きる目的は何か、そして死後はどこへ行き、何をするか、これら人間の真理に迫る題目に目を向け、これらに確信を深める事が、その生き方ではないかと思います。 もう、人間の欲望を果たすには、十分すぎるほど成熟しきった社会になっております。 今迄のように、外だけに目を向けているのでなく、今度は自分自身の内面に、目を向ける時が来たのです。 これからはインド哲学バガヴァッド・ギーターが絶対、注目を浴びる日が来ると、私は思っております。 その為にそれこそ私は、将来を予測して今毎日、ブログを書きつづっているのです。 わたしは今までも、「人がやらない事、人が出来ない事をする」を、人生の信条として生きてきました。 このインド哲学の敷衍こそ正に、私の信条に沿った、今の生き様そのものなのです。 マヤ暦2012年12月22日は既に終わっていたテーマ:私のエッセー2011-12-28 07:04:19 balkrishnaの投稿
今日はすこし精神世界から離れ、現実的な事を書いてみたいと思います。 昨日ある記事に、マヤ歴の2012年12月22日は既に2011年10月28日に終わっていた、と言う事が書かれておりました。 この2012年12月22日の問題はかなり昔から、雑誌や映画その他の情報からも、話題となっています。 この日には人類が経験した事のない天地をひっくり返すような大災害が来るとか、次元上昇が始まるとか、色々な事が言われておりす。 ここでこの、マヤ歴の2012年12月22日は既に2011年10月28日に終わっていたを現実に起きた事実と合わせてみると、この日には大阪の橋本市長が誕生し、彼の大胆な行政改革が始まった日でもありました。 私はこの選挙結果は、今までの選挙とはまったく違った様相を見せていたと思います。 この事実からしても、日本がこれから大変革をもたらすだろうと想像できます。 それは、橋本氏を勝たせないために、週刊誌がかなりひどい人権侵害にも関わるような個人中傷を繰り広げていたにも関わらず、庶民はそんなことよりもっと大事な政変を望んだからなのです。 そして、今までの政治を一気に変える、改革派の人たちをダントツで圧勝させた事なのです。 日本人は外国のように、激情的に行動を起こす民族ではなく、昔から泣く子と地頭には勝てぬとか、長いものには巻かれろ、と言った達観した人生観を培ってきたのです。 しかし日本人ほど腹にためて「何時かわ」、と言った執念深い民族もないでしょう。 「江戸の仇は長崎で」の例えもありますね。 それは島国の為に、千年以上も他民族に侵略されなかった歴史が、そのような国民性を創りあげたのだと思うのです。 しかし、いったん限界を超えると、今度は堪忍袋の緒が切れたとばかりに、激情的になるのも日本人の特徴なのです。 今の時代は、昔の百姓一揆と違って、暴力でそれらに対抗する事は不可能な体制になっており、そのはけ口として、無党派層の選挙参戦という形になったのでしょう。 私はこの選挙結果は、今後の国政にもかなりの影響を与え、今の政治団体の消滅にもつながる、大変革の選挙だったと思います。 それに、原発事故の検証がなされ、その結果があまりにもずさんであり、今まで裏で隠れていた組織の膿がどんどん表面化されています。 これは政治、経済、社会基盤だけでなくマスコミや検察体制にまで批判が噴出している事など、外国のような暴動的な動きはありませんが、我慢の精神を美風として持つ日本人でさえ、いよいよ行動を起こさなければの様相が観えます。 この様な動きからしても、これからの日本は色々な方面でドラスティックに、変革していくようになると思われます。 この様な世相にあっても私は、政治、経済、その他社会の動きに全く関係なく、今こそ人間の原点は何か、人間として生きる目的は何か、これらの精神知識を身につけ、魂の自覚をもって激動の時代を生き抜く事が、ますます必要になってきていると、実感しております。 恋愛の至極テーマ:私のエッセー2011-12-27 08:18:55 balkrishnaの投稿
昨日まで享楽について記述してきましたが、そこでは享楽と快楽の違いを鮮明にしました。 そこでは、その根本的な違いを次の点においております。 快楽=肉体の五感覚器と心をおとしての悦び。 享楽=魂の、人間性を向上させる精神修養(プラトニック)としての歓び。 この二つの観点から、それぞれ二つの恋愛の形が導き出されてきます。 1−肉体感覚の悦びを主体とする恋愛。 2−精神的な歓びを主体とする恋愛。 この両方とする考え方もありますが、ある一点を守る事において、その境界とするものがあるのです。 それは、絶対に肉体的接触をしてはならない、との一線なのです。 宗教には必ず戒律と言う、守らなければならない原理原則と言うものが定められてます。 ここで大事なことは、この原理原則の戒律を知っているが出来ない事と、戒律を全く知らないから出来ない事には、同じできない事であっても雲泥の差があると言うことなのです。 一方は目標に向かって努力すしても、完璧には出来ないの出来ないであり、もう一方は目標もなく努力もしないで出来ない、の出来ないなのです。 当然この場合の出来ない状況は、同じように観えても、精神的観点からすれば、それは天地の差ほどの違いがあると言えるのです。 また原理原則を知っていたならばその行動には、自制と後悔の念が付きまとうが、原理原則を知っていなければその行動は、欲望に翻弄された野放図な行動となってしまうのです。 それは、欲望にいは進行性と習慣性が付きまとい、どんどん貪欲に変質していく根源的な性向を持っているからなのです。 当然、恋愛において、この原理原則を知らなければ性欲に突き動かされた、性愛的な方向に進んでしまうのです。 しかしその欲望が、自己の人間性や魂を高める精神的な欲望であれば、それはどんどん発展すべきものなのです。 そして、その恋愛はとうぜんプラトニックラブと言った精神的な愛となります、このプラトニックラブについても12月18日のブログ に詳しく記述しております。 決して欲望自体は悪いものではないのです、要するにどんな欲望を持つかなのです。 そのキーワードは、「肉体的なものから精神的な方向へ」と言うキーワードなのです。 享楽について(U)テーマ:私のエッセー2011-12-26 09:03:35 balkrishnaの投稿
享楽の意味は、辞書では「快楽にふけり楽しむこと」とあります。 この快楽を分析する事によって、享楽の真意が理解できることを今日は記述したいと思います。 単に辞書での解釈では、享楽の捉え方があいまいであり、勘違いの元となります。 哲学的には、享楽と快楽は全く別物として、捉えなければならいのです。 これを、味噌も糞も同じ感覚で行動しているところに、人間界の大きな過ちが起こされているのです。 その違いはズバリ、精神的な歓喜と肉体的な悦楽との、よろこび楽しみの違いです。 肉体的な悦楽の代表は、グルメとセックスです。 その他には飲酒、タバコ、ギャンブル、スポーツ、ゲーム、映画、芸術鑑賞、観光、その他の娯楽などがあります。 これらはすべて肉体や心で悦びをを得るものであり、それらはすべて肉体の持つ五感覚器(目、鼻、耳、舌、身体)と心の歓びなのです。 ここで大事なことは、心での悦びも肉体の領域であり、哲学的には物質次元であると言うことなのです。 一般的には、心での芸術鑑賞は精神的な高尚なものであると想われていますが、しかしそれすら物質次元の肉体感覚の悦びの範囲なのです。 それでも、肉体で感じる感覚的悦びよりも、芸術鑑賞などの、心での歓びの方がより高尚であることは、確かなのです。 しかし、その高尚と思われる心での歓びも哲学の解釈は、物質次元であると定義しているのです。 では一体享楽とは何であるかと言いますと。 それは肉体的、物質次元の悦びを通して、魂の進化を遂げる為に人間性を養う、精神的にまで昇華された歓びを享楽と言うのです。 この悦楽から享楽への進化を分かりやすくまとめますと。 1−肉体の五感覚器と心をおとしての悦びがあり。 2−魂の、人間性を向上させる精神修養があり。 3−肉体的悦びから、精神的な歓喜に昇華されたものである。 この中かで、大事なことは2&3の項目であり、この分部が無ければ、その悦びは1番の五感覚器と心をおとしての悦びに留まり、つまるところ動物次元の世界でしかその行動範囲がないと言うことなのです。 つまり、この物質次元は、人間が五感覚器と心で楽しみを得ながら、その楽しみを抑制する克己心を養う、精神的修養の為に使うように、創ってあるのです。 動物本能の最大の欲望は、グルメとセックスですが、共に人間だけは他の動物と違って、それに付随する悦びが精神的修養の為に、特に大きく得られるように創られているのです。 それだけに、グルメとセックスの悦楽に酔いしれ、堕落していく危険がとても大きいのです。 インド哲学バガヴァッド・ギーターでは、この世はマイトゥーニャ・アーガーラ(性生活で縛られる世界)、と言われているくらいです。 ここにも創造主神の絶妙なる修行カリキュラムが、施されていると想われませんか? 享楽についてテーマ:私のエッセー2011-12-25 07:08:28 balkrishnaの投稿
今日は享楽について記述してみたいと思います。 先ず享楽の意味ですが、辞書では「快楽にふけり楽しむこと」とあります。 また快楽とは「楽しく気持いいこと。特に欲望が満たされた心地よさを言う」とあります。 実は享楽というものは人間が精神的に解脱する為には、必要な通過過程なのです。 つまり誰でもこの享楽をやってきなさいと言っているのです。 しかしそれには厳しい条件があるのです。 それは、享楽を味わう前にやるべき、事前条件として。 1−宗教義務(道徳、倫理、宗教、)の修行を果たす。 2−修行をしながら人間性を高め、社会で実利をえて自律する。 3−その実利をえて自律した人だけが、享楽を楽しむ資格が与えられる。 この様に、享楽を楽しむためにはそれ以前に、宗教義務の果たしと、社会的に認知がなされなければならない、厳しい資格条件があると、言うことです。 享楽主義とはこれらの条件をクリアーしてきた人が楽しむ、高尚な楽しみであり、決して欲望に任せて快楽にふける、楽しみとはちがうのです。 そして、この享楽の結果として、「堕落するのか、解脱への道へ進むのか」大きく二つに分かれます。 つまり享楽はその人間を振り分ける「ふるい」なのです。 この享楽という「ふるい」にかけらると言うことは、快楽の道にどんどんはまっていく人と、快楽の空しさを感じる人の違いとして、出てくるのです。 この空しさをあじわってこそ、次のステップである、肉体的快楽から精神的歓びである解脱の道が開かれるのです。 この肉体次元や物質次元に全く囚われずに、精神的歓喜を得る世界、つまり解脱した境地が、人間が目指すべき本当の精神世界なのです。 この本物の精神世界は、一般的に言われているスピリチュアル世界とは全く違った世界であり、それはインド哲学をベースにした、精神知識の真理に触れる魂の歓びなのです。 その精神的知識は、完璧なる人間分析であり、微細の観察結果であり、論理的体系なのです。 決して意味のない言葉の響きや、文学的美しさに酔ったり、個人的観念にその解釈を委ねるような、曖昧性もないのです。 事実、この様な享楽の道を説いていること自体、立派な精神的知識であり、完全なる悟りへの体系なのです。 これはインド哲学バガヴァッド・ギーターを学ばなければ、理解はできないものと思います。
インド哲学塾の案内書テーマ:私のエッセー2011-12-24 07:23:27 balkrishnaの投稿
いまインド哲学塾を、静岡県駿東郡清水町で毎月開いておりますが、静岡市でも開講しようと計画中です。 静岡インド哲学塾の塾長さんも決まり、現在そこで使用するテキストを作成中ですが、どうも思いあぐんでいるようです。 それは、哲学のテキストを創ると言う作業は、哲学自体の概念や本質、体系や細部の認識など、全てに精通した知識が必要であり、それが無ければどこから入り、どこへ行くかも分からなくなってしまい、それこそ雲をつかむようなものなのです。 それに受講生が深く哲学を修するには、個人指導の形を、取らなければならず、したがってどんな人にも適したテキストを創ること自体が非常に難しいのです。 それは丁度、漢方医がその人その人の、症状に応じて調薬するのと同じだからなのです。 人それぞれの人の体質があり、病の種類があり、病の程度があり、さまざまな症状があり、当然それによって調薬が決まるのです。 それと同じく、その人の精神的境地をさぐり、その人の求める心理を見極め、その人に合った解釈と気づきを与えなければ、ならないからなのです。 この様な観点に立てば、次のような方向性が見えてきます。 哲学を学ぶ姿勢において一番大事なことは、受講者が自己の探求や人生の生き方に、真摯に取り組んでいる姿勢が、一番の条件となるのです。 当然そのような人は、自己に対してまた生き方において、疑問が生じるはずです。 その万人に通じる普遍的な、適切なる質問こそが、授業をしていく上での最高の教材となるのです。 つまり、教材は受講者自身が自分で用意するものであり、哲学の教えはその質問に対する解釈を与える、と言うのが基本となっているのです。 しかし、初めての人はどんな質問をしたらいいのかすら、分からない人がいると思います。 それは、あまりにも物質次元の社会常識に侵されすぎている為に、精神的視野に立ったものの見方ができないからなのです。 つまり、学校で教えられた教科は、精神世界の哲学では全く役に立たず、一般的知識にどっぷりつかった人ほど逆に、常識に縛られて、精神的解釈に苦しむことすら起こしているのです。 そこで私は、そのような人の為に毎日このブログを書き、ここで書かれた事柄が質問のヒントになれば良いなと、思っております。 現在も清水町のインド哲学塾では、このブログで記述したものを、受講生各自に興味あるものや疑問のあるものを選んで頂いて、それをもとに話を進めていくという形式をとっております。 従いまして、静岡塾のテキストを作成すると言うよりも、塾の案内書的な内容で、あくまでも入り口に入るための、大まかなもので良いと思っています。 例えば。 1−自己の目覚め 自己とは何か 自己はどこへ行くか 2−自己の存在意義 人生は何のために生きているのか 人間のやるべき事は何か 3−自己完成 哲学を学ぶことはどういう事か こんな大まかな内容の案内書として、創られればいいと思いました。 その後は、受講者が自ら議題を持参してくる、というスタイルで良いと思います。 哲学を学ぶ人は、それくらいの意気込みが無ければ、当然哲学を学ぶ資格はなからなのです。 無執着の意義テーマ:同志からのメール2011-12-23 07:34:53 balkrishnaの投稿
同志のMさんから次のようなメールがきましたので、今日は無執着について書きたいと思います。 先生との講義のメモをまとめていて、中庸についてのご説明がありました。
とても大事な言葉なのに、「欲に対して中庸であれ」と「無執着」という
事しかノートを取っていませんでした。
明日の授業では無執着について、補足の説明を頂ければと思います。
先ず執着とは、ある事に強く心を惹かれること、深く思いこむこと、囚われること、と言う意味がありますが、大事なことは「何に執着するのか」が大事であることを、初めに言っておきたいと思います。
一般的にはこの執着と言う言葉は、あまり良くないイメージの言葉として使われております。 それは、その執着の対象が、肉体的、物質的欲望が基になっている対象物だったり、心情的なものだからなのです。 しかし、それが精神的なる真理に対する想いは、どんどん執着すべきなのです。 所詮、肉体的から発せられる物質次元の想いは、つまるところは肉体を維持する為のものであり、それは結局グナノ掟によって、縛られる事になるからなのです。 と言うことで、ここで物事に対しては「中庸と無執着の姿勢を持って事にあたれ」と諭しているのです。 では執着してもいいもの、さらに執着すべきものとは何であるかと言いますと。 それはバガヴァッド・ギーターを学び、創造主神であるクリシュナに想いを執着させることなのです。
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5月26日のブログについて次のように書かれておりました。
物質次元の知識の獲得は、肉体を持ってこの世で生きていく為の手段でありますが、死んだあと49日の間に全て、消去させられるものです。
しかし精神知識を得て、人間性を養い、宗教心を身につけ、絶対真理を悟った人間は、迷うことなく輪廻を解脱して、至高至福の交歓を至上神と楽しむ郷に、帰することが出来るのです。
物質次元の知識は、肉体を持ってこの世を輪廻する為の知識となり、精神的知識はその輪廻を解脱する為の知識となります。・・・
と有りますが「この世を輪廻」でなく「この世を生きるのみの知識であり手段である」ではないでしょうか?肉体は輪廻しない訳ですし。・・・重箱の隅をつつく様ですが、気になりましたので。 |
ご指導ありがとう御座いました。
輪廻については魂が輪廻することを充分承知しておりますが、今回の文章の流れから誤解して解釈していました。
文章中に「魂」の言葉がなくても文章中の主語のとらえ方を小生が間違えていました。
同じ文章を何回も読み返し、判りました。浅はかな見落としでした。
人間の思い込みでちょっとしたことが見えないものです。
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また使うるに値するものに使うるがよい、これが人間最上の幸わせである。
よき環境に住まうがよい、常に功徳を積まんことを思うがよい、
また自ら正しき誓いをたつるがよい、これが人間最上の幸わせである。
広く学び、技術か芸術を身に付けるはよく、規律ある生活を習うはよく、
よき言葉になじむはよい、これが人間最上の幸わせである。
ここでは先月の11日(金)にも行ったのですが、どうしても日曜日でなければ来れないと言うお客様の為に、日曜日の昨日行ったのです。
先月も満席の盛況ぶりでしたが、今回は先月を大幅に上回る超満員のお客様を迎えてのディナーショーとなりました。
私もたった一月の間で、これだけの集客をするオーナーの実力は凄いものだと感嘆しました。
しかしこのオーナーはお客商売においては、天才的な才能を持った方だと思います。
先ずはベースとなるお店づくりが非常に上手であると言う事が分かります。
お店に入るドアーの手すりの感触からはじまり、床と壁の落ち着かせる色調の取り入れ、店の雰囲気を壊さない照明機器とブラインドの選定、豪華さを醸し出すテーブルと椅子のセンスあるコンビネーション、オブジェを兼ねた珍しい酒壺とビヤ樽の設置、バラエティー豊かなコーヒーカップ、それらを納めるアーンティックな美術品、また調理場も垣間見ることができるスペース、そしてお店の各所におかれている豪華な花と花瓶、さらには角隅には店の雰囲気に合った屏風絵が飾られデットの分部も生かされている、それこそ目が着く全ての所に、オーナーのセンスの良さをうならせる店造りとなっています。
また料金設定も、手のかかるコース料理の提供でありながらも3500円であり、これも破格のサービス価格だと思います。
しかし、この雰囲気この料理そしてショー付きでの驚がくのサービス価格は、2年間続けていくと言っておりました。
それに、9月14日にオープンしてから毎週これを行っているのですから、そのパワーは凄いものを感じます。
また集客の為のDMは、オーナー自らあて名から手書きで書いていたのを直に見ました。
それは表には出ない、オーナー自身の地道な努力であり、そこの点にも驚かされたのです。
また従業員の話によれば、来店されたお客さんには全て、コンサートの売り込みをしていると聞きました。
私もこんな人には今まで出会った事はなく、それこそその熱意は「アヒルにも水かきを売りに行く」くらいの根性を持っている人だと、つくづく感心しています。
そんなオーナーの熱意に打たれ、私もついつい協力してあげてたくなってしまうのです。
それはその人に与えれれた使命を遂行する、その人の魂のエネルギーに私の魂が自然に共感しているのだと思います。
そんなわけで来年一月も、私が主宰する「輝きの会」の新年の弾き始めを、このラ・カンパネラでやる予定です。
さらには3月11日の日曜日には、東日本大震災と津波による犠牲者の追悼コンサートをやる予定も既に組んでいるのです。
Sさんとは知り合ってからまだ二カ月しかたっておりませんが、これまでも何回となくメールを下さり、以前11月25日にも質問をしてくださり、このブログでも紹介させて頂きました。
そこでのメールからも、どんどん意欲的にギーターを学ばれている姿勢が伺われますした。
そんな素晴らしいSさんからのメールをご紹介いたします。
今日はスカイプ仲間から、次のようなご質問メールがきましたので、それにお答えしたいと思います。
「考えるから、感じる、そして想う、時代へ」この本質は、「物質次元から、精神次元へ」、「自己を肉体であるという意識から、自己は肉体とは全く違った魂の存在である」、と言った認識の進化なのです。
ここで重要なインド哲学バガヴァッド・ギーターの真理では、頭脳を働かす知識も、心で想う情念も、両方とも物質次元である、と言う事なのです。
しかし、さらに重要なことは心で想起される想いや情念も、魂で起こす信念、意志、主体的行動意識、も供に同じ心が位置している、心臓にあると言う事です。
そして、心で起こす想念は、目、耳、鼻、舌、皮膚、の五つの五感器官から受けるそれぞれの刺激によって想起される、肉体的な物質エネルギーなのです。
その物質的エネルギーが習慣として積み重なってくると、心も魂も同じ心臓に位置しているので、自己の神の分け御霊である純粋な魂に、その肉体的な物質エネルギーが覆いかぶさってしまうのです。
この心の想いが、神に通じる純粋な想いをいつも抱いていれば、自分の魂も神に通じる純粋な魂となり、また逆に肉体から発する動物的欲望に心が奪われれば、動物的な欲望想念に純粋な魂が包み込まれてしまうのです。
人間の欲望は、動物的な本能からくる食欲、性欲、睡眠欲、護身欲と、それに他の動物にはなく人間だけがもつ、物欲、名誉欲、支配欲と言った欲がそれらに加わってきます。
この欲が正しく適切に行使されればそれは人間の修行にとって非常に有効なものとなります。
しかし、これらの欲には必ず快楽が伴うものです。
この快楽こそが動物的、肉体的、人間的な物質次元のゆがんだエネルギーであり、人間を動物次元に留めこむ張本人なのです。
しかし、この動物的本能の肉体的快楽や、物欲、名誉欲、支配欲の快楽も、神は人間に楽しませるように創られたのです。
この物質次元でそれらの楽しみや快楽を十分に楽しんでから、私の基に還って来なさいと創造主神クリシュナは言っているのです。
ここで重要な事は、これらの作用は全て心と魂の世界での働きであり、決して頭で考える頭脳の領域ではないと言う事なのです。
それに、魂の働きは欲望の想いに包み込まれていては、魂の清浄な活動ができなくなってしまうと言う事です。
高度成長時代以前までは、物質的にも恵まれていない日本でしたが、しかし今や物質文明は成熟しきっており、もうこれ以上便利さは必要ないところまで来ております。
しかし逆に社会は、さらにもっともっとと言った状況に驀進しており、頭を使う状況がさらに進みそうです。
今や社会全体が狂ったように、学校でも政治でも経済でも頭を使い、小賢しく欲望を満たす事に専念している状態を感じます。
これはますます、魂を欲望の汚れで包み込んでいく状況ではないかと、危惧しております。
そんな時代だからこそ、これからは精神的なあり方を心で感じることと、魂で深く想う重要性に気づく必要があると思うのです。
今日はスカイプ仲間から、次のような質問メールがきました。
バール先生、おはようございます。
昨日も先生の貴重なお時間を頂き、スカイプでの講義をありがとうございました。
長い間疑問だった事を、簡単な言葉で教えて頂けて感謝しております。
基本のあり方を教わりましたので、後は自分がいかに実践していくかですね。
私自身が悪い奴らのテロや地震で死ぬ事は恐れていません。 先生がおっしゃった様に「地球での勉強が終わり、創造主の所に戻るんだ」と思うからです。
家族や友人達がそういう恐怖にさらされ、またテロによって殺されてしまった場合はどういう感情でそれを押さえたら良いのでしょう。
これも「無視」ですか?
こういう話を次の講義で教えて頂ければ幸いです。
先生と知り合えて本当に感謝しております。
まず、人生いきていく間にはいろいろな事が起きます。
当然それに対する、喜怒哀楽や憎しみ悲しみの感情は誰にでも起きるものです。
しかし、インド哲学バガヴァッド・ギーターを修得すれば、周りで起きる事象を客観的に、その起こる事態を、因縁によってとか、必然性によって起きるものとして諦めることができるのです。
この諦める事によって、その感情が心の表面だけに留まることになり、深く魂までも傷つけたり、理性を失ったりすることがなくなるのです。
この諦めると言う事は、事態の発生原因を、因縁的なものなのか必然的なものなのかを、明らかにすることが、諦めなのです。
つまり諦めは、その原因を明らかにすると言う事なのです。
また無視は、それらの事起こす連中や政治的な背景などには関わらないと言う事においての無視と言う事なのです。
インド哲学を学ぶ者としては、政治経済やその他の社会的動きなど時事に対する学びは、絶対に必要なのです。
しかし、それに対して社会的な行動を起こす事は、自己の精神的鍛錬においては全く必要のないことです。
哲学を学ぶ姿勢としては、常に自己の肉体の浄化と精神哲学の修養以外は、魂の発展に寄与しないと言う事なのです。
この精神的知識の修養(インド哲学を学ぶ)と肉体の浄化(正しい生活習慣)を身につけることを例えると、それは海の深さに例えられます。
海が深ければ、大荒しに見舞われても海底は静かなものです。
しかし、海が浅ければ、大荒しに見舞われれば海底は砂が舞いあがり、海底も激しく波にかき乱されてしまいます。
要するに、精神的知識をもたない人は、外界の事象に心だけでなく魂までも乱されて、時には理性までも乱されてしまう危険を持つと言う事なのです。
つまり、精神的知識の修得と肉体の浄化は悟りの原点であり、これを成した人はこの物質界で起こる事象の全てを、なぜ起きるのかどうしてこうなるのか、感情に乱されること無く、あるがままに平然と見据える落ち着いた態度をとることができる、と言う事になるのです。
先月の11月30日に、友達の紹介でカナダに住んでいる方とインド哲学やクリシュナについて、スカイプで話をする事になりました。
その方も、精神的な話には大変興味があるようで、私の話にも素直に受け入れてくれる感じが伝わってきました。
しかし、その後メールで次のようなご質問がありました。
先生、昨日の初講義はとても楽しかったです。
毎晩夜中に目が覚めてメールをチェックしたりしているんですが、夕べはぐっすりと眠る事ができました。
「他人の心配事」に対する心構えについて教えて頂いたので、開放されたからでしょうか。
ありがとうございました。
インド哲学の講義を勉強したいと思います。
しかし私の中には固有名詞(シュリー クリシュナ)を使っての「絶対神」という観念に抵抗があります。
また主人の職場でのインド人とのトラブルを聞いたり、近所にシュリークリシュナを名乗る宗教団体が居て、そういう人達の活動を見ているとインド宗教って何だろう??という疑問が出て来ます。
こういう状態がマインドコントロールというか、正しい物を知ろうとする時の邪魔なのでしょうか??
そういう状態でも教えて頂ければ幸いです。
この様な質問をされているこの方は、クリシュナの真実を観ているのではなく、クリシュナの教えを基とする宗教団体の実態を肌で感じてその感じをもって、クリシュナのイメージとしているのです。
従ってクリシュナ自体の真理とは全く違った側面から、クリシュナを捉えているのです。
クリシュナの実態は、全知全能の真理、至高至福の歓喜、永遠不滅の存在、これら三つをすべて同時に兼ね備えた(サッチダーナンダ・ヴィグラハ)の存在なのです。
つまり、クリシュナの教えを利用してさまざまな活動をしている、宗教団体の活動自体とは全く無関係ないものである、と言う事です。
クリシュナの真理と、その宗教団体の活動実態はまったく別物であり、それを混同して捉えることは完璧に間違いなのです。
事実、私とお話をしている時は初対面にも関わらず、この方にとっては時間がたつのを忘れるほど、至福の時であり、喜びに浸っていたひと時であったはずです。
そして、初対面でのお話でも、この方がもっていた疑問も晴れ、その夜は安らかに眠ることもできるようになったのです。
言うなれば、私がインド哲学バガヴァッド・ギーターの話をするのは、クリシュナと直に話をしているのと同じことなのです。
それはバガヴァッド・ギーターはクリシュナの御言葉であり、その話をする私はバール・クリシュナ、つまりクリシュナから使命をうけた降臨者だからなのです。
教えはその人の全人格そのものです、その人の人格によって教えはどのようにも解釈できてしまうのです。
つまり教えの教義よりも、それを説くその人物その者の精神性の真価を見抜くことが大事なのです。
私の教えの原理原則は、人を集めず、お金やお布施を求めず、去る者は追わずなのです。
そしてその方には、人に頼ることなく自分で自立する自主独立と、他者に依存することなく自らを尊ぶ、独立自尊になることを求めるのです。
そんな精神的に発展する学びこそが、バガヴァッド・ギーターの真の学びなのです。
ゆがんだ性欲は無知のシンボルであり、これに縛られては人間は無知の状態に落としこめられてしまうのです。
肉体の快楽にふけっている間は、ある種の幸福感はあるだろうが、この幸福感こそが当人にとっての天敵なのです。
人間の欲望は、眼、耳、鼻、舌、皮膚、の五感と心と知性を住みかとし、本来の知性をおおいかくして、人間を迷わせているのだ。<バガヴァッド・ギーター3章40節>
敵は感覚の取り入れ口である眼、耳、鼻、舌、皮膚の五感を占領しているのです。
感覚欲望の活動中心地は心ですが、それを手助けするの頭脳の働きです。
心と頭脳は、感覚の楽しみに関する全ての観念や計画の貯水池みたいなもの、的確にいえば欲望の倉庫なのです。
もし、心で起きた邪な欲望であっても、その人間の本質である魂が清浄であるならば、心より上位にある知性がその暴走を押しとどめる方向に向くのです。
知性はさまざまな煩悩を率いる心の総元締めとなっています。
心の思うままに行動することを知性が許せば欲望の奴隷となり、逆に清浄なる魂の指示に従って知性が理性ををもって心を抑制すれば、人間の過ちは無くなるのです。
この五感と、心と、知性と、魂の関係を五頭立ての馬車に例えてみます。
五頭の馬はそれぞれ、眼、耳、鼻、舌、皮膚を表し、心は手綱であり、知性は御者を意味し、そして魂が馬車のオーナーに例えられます。
馬車のオーナーである魂が行くべき目的地をしっかり自覚して、その為の指示を知性である御者に明確に伝え、御者は心と言う手綱さばきで、五頭の眼、耳、鼻、舌、皮膚を正しい方向に導くのです。
これが本来あるべき人間の生き方の姿ですが、現実には五頭の馬が好き勝手な方向に進み、それに引きずられ楽しんでいる心があり、にもかかわらず知性と魂は眠りこけているのが実情なのです。
この様に、わいせつ不祥事を起こす、男性と言う動物の哲学的視点に立った分析が絶対必要であり、その根源的原因を探り、その原因に適合した処置こそが、問題を起こした本人にとってもまた、いつ自分がその立場になるかもしれない、そのよう境遇にある人たちにとっても、有効な事であると思います。
この哲学的視野を持つ教育こそが、今の学校教育に一番遅れているカリキュラムであり、この様な問題がそんな教育現場からつぎつぎと起きている事は、実に皮肉なものと思います。
その哲学の根本がインド哲学バガヴァッド・ギーターなのです。
このわいせつ行為による不祥事がなぜ起こってしまうか、人間の犯罪発生メカニズムとその対処方についてバガヴァッド・ギーターでは、次のように分析しています。
アルジュナ問う?人は自らの意思に反してまで、罪深い行動に走る場合がありますが、それは何の力によるものですか?<バガヴァッド・ギーター3章36節>
人間の根本は個別に意識を持った魂であり、それは創造主神の一分霊であるため、その本質はほんらい清浄で精神的なものなのです。
従って俗世界の罪なんかに染まらないのが本来の相なのです。
しかし人間の動物的本能の強烈なる、衝動的推進力によって、平気で罪深い行為をするようになり、時には自分の意思に逆らってまで、犯罪的行動をとってしまう。
わいせつ行為を犯すような人は、まるで何かに強制されているかのように、悪い行為をする。
しかし、それは人間の本質である魂が、そんな行為を命令しているのではないのです。
その答えを創造主神クリシュナは言っています。
アルジュナよ、 それは貪欲なのだ、物質世界の激情(ラジャス)に触れて欲望が生じ、それは憤怒にかわる、まことに貪欲こそこの世の大敵である。<バガヴァッド・ギーター3章37節>
以前にも書きましたが、私たちの本質である魂が、動物肉体に入ると、物質自然の三様式(タマス、ラジャス、サットヴァ)と言う状態に置かれてしまうのです。
この激情的状態が貪欲をおこし、その欲望が達成されなければ次は怒りの気持ちが湧きおこり、その時はその人は無知(タマス)の状態に落としこめられてしまうのです。
当然その時の精神状態は無知の状態であり、理性や社会常識や罪の意識などもなくしてしまう状態になっているのです。
貪欲こそ人間にとって最大の敵であり、この貪欲こそ清浄な人間を誘って、欲望活動の檻に閉じ込めておく張本人なのです。
この様に、賢い人間の純粋意識は、欲望と言う形の天敵に覆われている、それは底なき谷のように飽くことを知らず、燃えさかる火のように、心身を焼く。<バガヴァッド・ギーター3章39節>
欲望はどれほど感覚を楽しませ続けても、欲望は満たされない。
それはまさに、間断なく薪を入れ続ける火が、決して消えず燃え続けているいるように。
男性世界では、あらゆる活動の中心がセックスである。
だからこの世は、マイトゥニャ・アーガーラ(性生活で縛られてる世界)と呼ばれている。
今回問題となっている教員不祥事は、聖職としての教師がわいせつ行為を起こす事が問題であり、一般人では特に社会問題として、騒がれる事はありません。
当然社会通念としては、教職者たるものは高い学識と見識をもっており、また子供たちに、次世代を担うにふさわしい指導をすることを、期待されているのです。
そんな親や社会の期待を、大きく裏切ることが問題の大きさとなっているのです。
さて、その具体的対策としては、先ず問題を起こすような人の、人間の哲学的視点からの分析が必要だと思います。
1−人間は本来、魂の存在である。
2−その魂は本来、創造主神とおなじ純粋なる性質である。
3−しかしその純粋なる魂が、肉体の中に入ると、肉体の持つ動物本能(食欲、性欲、睡眠欲)と人間特有の物欲、支配欲、名誉欲に、その行動が突き動かされるのです。そして男性においては特に性欲が非常に大きなウエイトを持っているのです。
4−その突き動かされる性欲衝動を、知識と理性によって押さえているのです。
5−結局の最後は、性欲衝動と理性の攻め合いの結果であるとの事です。
自分は魂である、との強烈なる自己認識が出来ていない人は、自己の主体が結局は肉体的欲望となるのです。
そして、自分は魂の存在であると、超然と認識した人は、肉体の欲望を抑制し禁欲することができるのです。
それだけでなく、人間として肉体を持って生まれてきた事、そしてこの世で男性として生きる意義を知り、魂の修行にこそ肉体を使う重要性を、自覚できるのです。
欲望に振り回される動物的人間の弱さを知り、欲望を抑制できる強い魂としての自分を知り、欲望に渦巻く肉体を持ってこそ修行であるとする、そんな自分を尊敬する人物とならなければなりません。
この様に、魂としての自己を確立し、客観的に自己を見つめ、自己を尊ぶことのできる、独立自尊、自主自立の精神に向かわすことが、不祥事を防ぐ土壌づくりとなるのです。
インド哲学の世界では、教師、文学者、科学者、僧侶などは知的労働階級の人たちであり、ブラーフマナと言われます。
これらに携わる人々は、この世で生きていくための知識や精神面における指導者としての仕事を担っているのです。
それは、ヴァルナ(シュードラ、ヴァイシャ、クシャトリア、ブラーフマナの四制)の区分からすると最高位のブラーフマナと位置づけられ、聖職者として尊敬されなければならない人たちです。
その聖職者たる教師が、生徒にわいせつな行為をするなど絶対に許されない事であり、その被害者や保護者だけでなく、教育界の規範の乱れとしてもその衝撃は大きいものです。
しかし、これらの問題に対しては問題を起こしている男性に対する哲学的視点からと言った人間学の根本的考察が、全くなされていないように思えます。
このセクハラ問題はもともと男性人間が起こしている訳で、すべての男性が起こし得るセクハラのメカニズムに対する根源的な考察が全くなされておりません。
ちょうど癌で病んでる人に、その癌の治療には全く触れず、癌にならないためには食事に注意し、お酒もたばこもやめ、ストレスを溜めないで、適度な運動をして・・・・など、原因にはメスを入れずに、癌が発生する環境要因だけを正そうとしている状態だと言えます。
そしてもっと重要な事は、いつ自分の身にも降りかかってくるかもしれない、忍び寄る禍にもかかわらず、問題を起こした本人だけの特異的なものとして、他の教師たちは傍観的に感じている事です。
それにこれらは、誰もがちょっとした心の隙に付け込まれるものであること、また少しづつ蓄積される欲望の魔力の恐ろしさに気がつかないでいることなど、この様な些細の事がこの問題解決を難しくしているのです。
生徒との間で、欲望をそそるような場面や境遇に置かれた時、過度のストレスで正常な精神状態で無くなってしまった時など、いつでもちょっとした隙に普通の人が起こし得るのがセクハラなのです。
人間は、動物の肉体に閉じ込められた魂が、その本質なのです。
従って男の人間は、性欲に常に突き動かされる強烈な衝動を持って生きていかなければならない動物である、これが男と言う動物なのです。
その男と言う動物から理性ある人間となるには、動物的肉体の浄化が絶対必要条件になるのです。
その人間の浄化は、人間の本質である魂としての修行をこなさなければ浄化はできないのです。
これらの魂の修行は精神知識を知ることであり、それは神が定めた魂の修行カリキュラムなのです。
これは学校で教えられた、一般教養とは全く別次元のものであり、一般教養をどんなに積んでもこの精神知識は全く得られないのです。
しかし、今の時代はこの学校で教えている一般教養だけでその人の全人格を評価している為に、精神知識の欠陥を見抜くことができないのです。
この精神知識の欠陥と、動物的肉体の浄化ができていない教師が、この様な破廉恥なセクハラ事件を起こすのです。
これらの男性には、男性の生理的と精神的なメカニズムを理解させ、肉体の浄化の修行である、アシュタンガ・ヨーガを教えることが必要だと思います。
そして、男性の生理的と精神的なメカニズムを理解させるための、精神知識の修養にはインド哲学バガヴァッド・ギーターを学ぶことが絶対条件となるでしょう。
新聞のコラムに「教員不祥事の処方箋を探る」と言うものがありました。
そこに書かれている内容は。
1−教育委員会は不祥事根絶委員会を新設した。
2−防止対策を提言してきたが、効果はない状態。
3−これまでの対策は理想論やそもそも論で終わってしまっている。
また現状の問題の捉え方として、そしてその対策として、この方は次のように言っておられます。
1−先生の教育も一足飛びでなく地道に汗をかく必要がある。
2−挨拶プラス一言でもコミュニケーションをする。
3−セクハラ定義を含めた人権感覚を研ぎ澄ませ、新しい対策に踏み込んで、積み重ねをしていく。
4−心理学者、弁護士、海外のセクハラ対策事例、データファイル化し今後の対策に生かす。
さらに現状に対する、言いたい事として。
1−厳しい現実社会に目を向けてほしい。
2−教育の理想や夢の根幹を守らなければいけない。
3−就職試験に直面して、初めて戸惑う若者も多い時代に、即応する視点が欠けていないか。
4−危機意識や対策について、一般社会や民間企業に学ぶ点もあると感じる。
5−校長や他の教員の空気を読みすぎて、本音で語る機会が少なくなっていないか。
6−問題の兆候が出ても、黙っていれば得策、という雰囲気になっていないか。
7−各校長をはじめとした、管理職の力量が問がわれている。
ここで書かれている事は、教育現場における現状とその対策ですが、これらの問題に対しては問題を起こしている男性に対する哲学的視点からと言った人間学の根本的考察が、全くなされていないように思えます。
このセクハラ問題はもともと男性人間が起こしている訳で、すべての男性が起こし得るセクハラのメカニズムに対する根源的な考察が全くなされておらず、どうしてこうなるのと言った戸惑いの姿だけが、私には観えるのです。
今まで教育界は、道徳や倫理の根本である、精神的知識をないがしろにしてきた訳でありその帰結がこの様なコラムに顕われている事態だと思えます。
当然ながら、物質文明の極まった今の時代にあっては、道徳や倫理を学ぼうとする環境としては最悪の状況であり、それこそ真摯に、熱意をもって、断固たる決意で、精神知識を学ぼうとする姿勢なくしては、問題解決はあり得ないでしょう。
まずこの問題は、物質次元の観点と精神的次元の視点の両方の観点から観る必要があります、と書きました。
その肉体的における中性化の原因は、食物の摂取からや自然環境の汚染などによる、環境ホルモンによっての影響が一番大きいと思えます。
食物は肉体にとって一番影響の大きい要素です。
先ずは、その身体を維持する為の、栄養の補給がその第一義です。
しかし、食物は肉体維持する為のものだけでなく、その人の精神性や性格までも変えてしまう大きな力を持っているのです。
今の時代の食生活では、添加物汚染がかなり含まれており、それによっての環境ホルモンの影響が最も大きいと言えます。
それから、精神的観点からすれば、今の日本での物質文明の発展した社会は、明確に実証できる過去の歴史上ではないくらい、発展しきった状態にあるのです。
その物資的に発展した社会にこそ、最後の修行としてこの日本に生まれてきた魂が、それなのです。
男の場合は、和魂と幸魂の女性的資質をこの世で果たすために修行しており、女性の場合は荒魂と奇魂の男性的資質を修行する為に、物資文明が極まった日本に降りてきているのです。
また日本は物質文明の極まりだけでなく、すたれたとは言え昔からの神仏に対する想いや、儒教、道徳の精神が、わずかに残っていおり、修行環境が好いのです。
物質文明が発展している事は、修行においては生き方の迷いも多く、欲望の対象もたくさんあり、生活維持も大変な社会と言う事なのです。
それだけに、社会通念や過去の常識などの、既存の生き方と違った新し生きがいの創造をしなければならず、そこに修行の真価が問われる難しさがあるのです。
その新しい生きがいの創造こそが、新人類に託された精神修行の課題なのす。
その課題こそ、宗教を超えたインド哲学バガヴァッド・ギーターを修得することなのです。
先日、バガヴァッド・ギーターを学んでいる生徒さんから次のような質問がありました。
先生、質問です。
いま、草食男子ってよく言いますが…
細い男の子、増えているように感じます…
体形で言えば、サットゥバなんですが…。
そう言うタイプが、最近ふえていることと、世の中の流れって、何か関係があるんでしょうか…?
またお会いしたときでも良いですが、先生のご意見が聞きたいなと思いました。
この回答としては、物質次元の観点と精神的次元の視点の両方の観点から観る必要があります。
以上が昨日までの初頭文ですが、今日はこの問題の回答を精神的次元の観点から、考察したいと思います。
彼らの性格は、優しく、争いを好まず、控え目で、女性に対しても積極的な恋愛アプローチをしなし、この様な特徴を持っているようです。
一口でいえば、昔の男性像とはかなり離れた女性的なイメージがする、中性的な男の感じです。
それに、男性の特徴である、物事に対して勇敢、果敢、と言った攻撃的な部分が抑えられているので、余計に中性的イメージが強くなるようです。
まず哲学的に言えば、「魂には男も女もない」と言う事がその原点です。
これは、以前にも9月11日から16日に4回にわたり書きましたが魂は「一霊四魂」と言って、神の直霊と四つの魂の資質として、荒御霊、和魂、幸魂、奇魂、があります。
荒御霊と奇魂、は男性的資質であり、和魂と幸魂は女性的資質をあらわしております。
そして、人間としての魂を完成させるには、この四つの質性をバランスよく持ち合わせることが、人間の魂の完成とされているのです。
このバランスと言う事が大事であり、四魂におけるそれぞれの大きさは、その人の人間的特徴なのです。
それに精神的観点からの人間としての価値は、人に対する優しさ、思いやり、許す心、敬う心、であり、そして自分に対する実践行動は、正直であること、規則や礼儀を守ること、我慢すること、反省することなのです。
これらの事ができる人こそ精神的に高い人であり、それを知らず出来ない人を無知な人と言うのです。
一番大事な事は、肉体的には環境ホルモンの影響で男性的特徴がうすめられ、また精神的にはその根本である道徳と倫理が軽んじられている社会の中にあっては、彼らの性格が正しく評価されず、精神的自信を失ってしまっている状態が問題であると思われます。
せっかく人間として、サットヴァの高い資質に恵まれながらも、精神的学びのチャンスを得ることなく、生存競争の激しい社会で、うつや自殺や孤独でつぶされていく人が多いことは、悲しいことです。
しかし、こんな時代だからこそ、永遠真理を説いたインド哲学バガヴァッド・ギーターが必要なのです。
先日、バガヴァッド・ギーターを学んでいる生徒さんから次のような質問がありました。
先生、質問です。
いま、草食男子ってよく言いますが…
細い男の子、増えているように感じます…
体形で言えば、サットゥバなんですが…。
そう言うタイプが、最近ふえていることと、世の中の流れって、何か関係があるんでしょうか…?
またお会いしたときでも良いですが、先生のご意見が聞きたいなと思いました。
この回答としては、物質次元の観点と精神的次元の視点の両方の観点から観る必要があります。
創造主神であり至上主神であるクリシュナは、この宇宙における全ての存在を、物質エネルギーと精神エネルギーの二つのエネルギーで創造されております。
自己そのものである魂は精神エネルギーであり、その魂の修行をするために創られた人間肉体は物資エネルギーなのです。
そして、それはそれぞれは、物質と精神と完璧に独立した存在なのです。
しかし、哲学的思考をもっていないほとんどの人は、肉体も魂も同一視しており、そもそもそこからして全ての真理が、理解不能の状態に置かれてしまうのです。
とうぜん生理学的にはその原因は環境ホルモンによる影響である、と言った提言も以下になされております。
最近、東京・多摩川に住むオスの鯉から精巣の中に卵を持つものが見つかっています。また、全国の海岸で見られるイボニシ(巻き貝の一種)のメスにペニスが生えるという現象も起きています。こうしたインポセックスを始めとした「生殖異常」の例が、近年世界各地より報告されています。巣を作らないワシ、孵化しないワニやカモメの卵、子供を生まないミンク等その数は非常に多くなっています。
私も調べましたが驚いた事に、環境庁が示した環境ホルモンの化合物質の一覧では、67品目もありました。
先ずは肉体における、草食系男子と男系女性の出現はこの環境ホルモン(分泌物かく乱物資)の影響が大きいと言えると思います。
しかし大事な事は、このような状況を精神的における意義としてはどんなものかを考えるべきであり、それこそがバガヴァッド・ギーターを学ぶ意義がそこにあるのです。
その点につきましては、次回に書きたいと思います。
先日よく、質問をされてこられるS氏(69歳)と二時間ほど話をしました。
彼とは平成23年10月14日に、仕事の関係で初めてお会いしたのです。
その時は、私は「インド哲学塾」の日でしたので彼を誘いました。
するとその場で「参加させて頂きます」と即答されたのでした。
Sさんも仕事での悩みや人生の生き方に疑問をもち、苦悩していた時でした。
それでも、50キロ以上離れている沼津市まで行くことを決意をしたのは、それなりに救われたいと言った想いがあったのだとおもいました。
「本物の出会いは一瞬」と以前このブログでも書きました。
正にその出会いでした。
その後何回となく彼の疑問に、ギーター的解釈をもって、これからはインド哲学の時代であり、その必要性を説いてきました。
そして先日二時間以上、喫茶店でバガヴァッド・ギーターの話を、じっくりしたのです。
その時の感想がメールできましたので、私も100万人の一人に出会えた喜びとして、ここで御紹介させて頂きたいと思います。
最近、よくアセンション(次元上昇)と言う言葉を耳にします。
以前にも魂について(9月13日から16日)書いたと思いますが、大事なことなので再度書きたいと思います。
私たちはいま三次元の世界にいるのです。
この三次元の世界は、時間と空間と物質の世界です。
その次が四次元ですが、この四次元では時間と空間がなくなります。
その次の五次元の世界は、物質もなくなりすべてが精神世界となり、自分の魂と寄り添う神の存在を知る領域に入るのです。
つまり、精神性に目覚めることであり神聖の目覚めと言う事になるのです。
この精神性の目覚めの段階に入ると、完全に魂と肉体は別のものであり、肉体は魂によって動かされる死んだ乗り物であると、完璧に自覚できるのです。
逆にこの魂と肉体の関係を知り、自分は魂の存在であると自覚していない人は、精神的に目覚めていない人と言えるのです。
それと同時に、自己の魂は神の分霊(ママイヴァーンシャハ)であり、その質性は同質であるという理解までできるようになるのです。
この段階まで来れば既に物質次元から解放されている為に、肉体から生じる食欲、睡眠欲、性欲、そして物欲からは完璧に解放されているのです。
これら、魂は肉体とは全く別の存在であり、魂こそが自己であり、その本質は純粋なる神の分霊(ママイヴァーンシャハ)であり、そして魂には常に神と寄り添っていること、ここまでの四つの事柄を完璧に確信できる人のみが、この五次元の境地を味わえるのです。
ここで大事なことは、この五次元の世界は決して死後の世界ではないと言う事なのです。
この五次元の世界は、この身このままこの世で生きて居ながらにして、体得しなければならないものであると言う事なのです。
人間は生きながらにして、死後の世界を生きていると言う認識を持つことが、アセンションの第一条件なのです。
つまり「死んで我が身が咲くものか」と言う事なのです。
生きている内にが一番大事なことなのです。
逆に言うなれば、次元上昇する為に私たちはこの世で修行して生かされている、と言うことなのです。
私たちは過去、何回も何回も気の遠くなるような輪廻を繰り返し、人間の身体を得たのです。
この人としての身体を得た事は、魂にとっては非常に恵まれた事なのです。
人間の身体を得た事は、知力、感性、身体的能力の三つが他の動物より格段に優れており、それは魂の修行に適した理想的な生物体なのです。
創造主神クリシュナは、この物質世界に840万種のあらゆる生物体を創造させたのです。
その最高峰の生物としての存在が、人間の姿なのです。
と言う事は、私たちの魂はウイルスやアメーバーと言った微生物から、魚類、鳥類、動物、人間と進化してきたのです。
その変遷を、女性が受精して子供を出産するまでのドラマを、子宮の中に観る事ができるのです。
つまり、ウイルスのような精子の状態から、魚類、鳥類、動物、人間と進化していく形を、10月10日に凝縮されているのです。
地球での生命の発祥は、宇宙に浮遊するウイルスからはじまり、地球ができた45億年前からウイルスから人間に進化していくドラマが、子宮と同じように地球上でもはじまったのです。
この世の出来事は全て「諸法実相」であり、ひな形を秘めており、フラクタル(相似形)を現わしているのです。
この様に、人間として生まれた意義は、永い永い輪廻の末に人間として生まれたと言う、非常に意味ある尊い事なのです。
そして誰もがこんどは死を迎え、その死後には再び、あの世界に還るわけですが、その戻るところが今の生き方によってさまざまな処に赴くのです。
先ずは、はっきり意識を持って、死後の世界の行き先を確信している人は、必ずその処へ往けるのです。
しかしそのような確信的意識を持っていない人の死後は、その人が行ってきた生きざまによって、浄土、極楽、悪国、地獄と四つに別れた処に赴くのです。
死後の世界が、どの様な処へ赴くかを知りたいならば、それは簡単なことなのです。
毎日を、クリシュナ意識で生きている人はクリシュナの基に往くことができ、宗教的に神聖なる生き方をした人は浄土に赴き、人々の為に慈悲を持って生きた人は極楽に往き、悪い行いをしてきた人は悪国に往き、人々に悲しみや不幸をもたらした人は地獄に行かされるのです。
クリシュナもバガヴァッド・ギーターで諭しております。
死の時期がきて、肉体を離れるときに、私だけを想っているものは誰でも、まっすぐに私の郷に到る、このことに疑いの余地はない。<バガヴァッド・ギーター8章5節>
アルジュナよ、誰でも、この肉体を捨てるときに思っている存在の状態に、間違いなく移っていく。<バガヴァッド・ギーター8章6節>
故にアルジュナよ、常にクリシュナの姿と私を想いながら、君の義務である戦いを遂行せよ。行為を私にささげ、心と知性を私に固く結びつけておけば、君は疑いなく私のものとに到る。<バガヴァッド・ギーター8章7節>
要するに一番大事なことは、今の生き方や心のあり方が、そのまま死後に赴く世界である、と言う事なのです。
この様にバガヴァッド・ギーターの真理を知れば、毎日毎日を充実して生きることが、どれほど大事であるかが理解できます。
初冬になると子供のころは、椎の実やドングリなどを拾いに、山へ遊びに行ったものでした。
当然、大きな木の下には沢山の実が落ちているので、山の中を歩き回わるのです。
この大きな木は物質文明の発達した現代社会に例え、またドングリや椎の実は、一生懸命この世を生きている人々に例えられます。
いわゆる、種子は来世を輪廻する人間と言う事なのです。
しかしここにもう一つ、木々として大事な葉っぱの存在があります。
当然のことですが木は、大きくなればなるほど、枝の迷路はどんどん広がって行きます、そしてその広がった最先端に葉っぱは付くのです。
最先端についた沢山の葉っぱは、落葉して腐敗し土となり、その後は木の栄養分となっていきます。
この葉っぱの存在は、ちょうど人間の生きる使命をわすれ、ゲーム機やアニメのバーチャル世界、そして笑い受けを狙った娯楽テレビや娯楽映画、さらには投資と言ったギャンブルに朝から晩まで、どっぷりと浸かった生活を送っているような人達です。
つまり精神的世界には全く関知せず、道徳や倫理と言う事にも無関心で、人間性を失った人たちです。
哲学的な観点から言うなれば、精神性をもった人間ではなく、本能で生きている動物のそんざいである、と言う事なのです。
わずかでも、道徳心、倫理観、宗教心などを持って、この世を修行として生きている人は、種子や果実のように、再び生まれ替わる種となる事ができるのです。
しかし、人間性をわすれ本能や動物次元の欲望に生きている人は、来世はとうぜん動物次元に生まれ落ちるわけです。
この木々が大きいと言う事は、文明社会の大きさを意味しており、当然に文明社会が発展すればするほど、その文明の魅力にとりつかれ翻弄されて人間性を失い、その生き方が葉っぱとなってしまう人々も、多くなる危険をはらんでいるのです。
昔は、人々の交流や物資の交易もなく、地域にとざされ一次産業が主体の時代でした。
それだけに、人口もほぼ一定の状態が長く続いた歴史できたのです。
言うなれば、物質文明のがまだ発達していない、小さな木の状態であったと言う事なのです。
文明が発展することは、人間にとっては人間の持つ知的能力の発展の結果であり、それは素晴らしいことなのです。
そして、その便利さは快適で楽しい生活もさせてくれます。
しかしその使い方の限度や、利用目的次第によっては、生活していく事だけでも大変な、借金生活にもなりかねません。
そうなってしまえば益々、精神的生活をすることなど程遠い、境遇となってしまいます。
大きな木は沢山の果実や種子を付けますが、それど同時に輪廻しない葉っぱも作っているのです。
それが、現代の物資文明社会の危険な落とし穴なのです。
先日ある読者から、現在の宗教に対する人々の非常に的を得た質問が来ましたのでここでご紹介いたします。
インド哲学があり、それに沿ったインド仏教がありますが、「日本の仏教はインド哲学(インド仏教)が持つ世界観、論理、認識等が切り捨てられ、念仏とか座禅の形のみが残った」という説がありますが如何思いますか?
自由と言う言葉は一見、素晴らし言葉であり、好きな事を自由にできるとか、苦しいものから解放され自由になる、と言った好いイメージがります。
人は都合よく、また自分の好きな方向に、勝手に解釈してしまうものです。
特に躾の教えをしなければならない子供の時や、集団で学ぶ学生の時に、自由の勝手解釈をしたならば、人間にとってこれほど不幸なことはないでしょう。
この自由の本当の意味は、欲望の自由行使ではなく、その欲望から解き離れた自由なのです。
好きな事を自由勝手、気ままにすると言う事は、単に欲望の奴隷になっていると言う事なのです。
一言で言うなれば自由とは、「欲望からの自由」でなければならないのです。
人間の修行は苦行であり、本能欲望の抑制がその原点です。
この本能的欲望は、食べる食欲、性の快楽、お酒、グルメ、ギャンブル、怠惰などの快感欲、などがあります。
これらが人間の動物的欲望の根源です。
しかし人間は、創造主神クリシュナから崇拝帰依の証として、供犠(ヤグニャ)を課せられているのです。
この供犠(ヤグニャ)とは、信仰者の欲望を我慢して、その人の楽しみや快楽を犠牲にするという意味があるのです。
この苦しい想いが、神に対する供犠(ヤグニャ)であり、この供犠(ヤグニャ)の修行なくしては、絶対に神の基には還れないように、創造主神クリシュナが人間に定めているのです。
この定めは厳格なるものであり、供犠(ヤグニャ)なくしては人間の精神的発展は絶対にあり得ないのです。
そんな、人間の精神的向上における絶対条件が、安易にも自由の誤認によって全く無視されているのです。
自由気ままに暮らす事が、あたかも人間の基本的権利と言う傲慢によって行使されているのは、非常に悲しい事態です。
一昨日、来日中のワンチュク ブータン国王が、衆院本会議場で演説をされました。
その時の演説の中に、次のような素晴らしい日本に対する礼参がありましたが、非常に的確を得たスピーチだとおもいました。
日本は技術と確信の力、勤勉さと責任、強固な伝統的価値における模範であり、これまで以上にリーダーにふさわしいのです。
世界は常に日本のことを大変な名誉と誇り、そして規律を重んじる国民、歴史に裏打ちされた誇り高き伝統を持つ国民、不屈の精神、断固たる決意、そして秀でることへ願望を持って何事にも取り組む国民。
知行合一、兄弟愛や友人との揺るぎない強さと気丈さを併せ持つ国民であると認識してまいりました。
この文章を読んでみますと、これは本来の日本のあるべき姿としての言葉のようでもあり、恥ずかしさも覚え、皮肉に捉える事ができるほど、的を得たお言葉だと思います。
識字率も低く、経済的にも決して豊かでないブータンですが、信仰に篤く精神性の高い生活をしており、国民の9割が幸福感を抱いているという、日本とは対照的に、精神的に豊かな国なのです。
けっきょく人間は、幸せを求めて生きているのですが、その手段が物質的豊かさと便利さと言った、物質次元の追及となっているのです。
しかし、ブータンではそれが人間としての精神的発展を目指した精神生活にその基盤を置いているのです。
ひと昔の日本の精神風土も、武士道、商道、人情、任侠道、と言った一つの道なり情なりを基盤として、ゆるぎない生き方がありました。
しかし、今の時代は文明が高度に発達した時代であり、これは人間の頭脳の優秀さを立証している、その結果としての現状です。
神はその人間の持つ頭脳の優秀さを、物質文明という形として現世に顕わされたのです。
従って、この物質文明が発達した高度な文明社会にあってこその、難しい精神修行を、神は課しているのです。
物質文明が発展すればするほど、グナの掟によって人間は矛盾と混迷困惑に落としこめられてしまうのです。
しかし、その厳しいグナの掟の課題を背負ってこそ、現代の魂修行であると私は思うのです。
この世は全て二元性で創られています。
その大元は創造主神、絶対神クリシュナの原因の大原因からすべて始まっているのです。
クリシュナは精神惑星の最高位である、ゴーローカ・ヴェリンダーヴァンに精神体として存在しています。
つぎに、創造主神クリシュナは、この物質世界(マーヤー)を創造されたのです。
この物質世界(マーヤー)はちょうど、大空に雲ができたようなものだと思って下さい。
何もない青空に雲がわきたち、私たちの目で見ることができる、物質の存在が現れたのです。
こうしてここに、精神と物質の二つの概念がうまれたのです。
その次に、この宇宙である物質世界も、太陽の存在がなければ暗黒の世界になっているので、そこでクリシュナは太陽に、膨大な熱と光そのた未知のエネルギーを与えたのです。
これによりこの世に、「明いと暗い、暑い寒い」と言った二極が生まれました。
この様に、物質世界には、「目に見える物質と目に見えない精神」、「明いと暗い、暑い寒い」と言った五感で感じる二極相対の世界が生まれたのです。
また私たちの色々な概念としても、二極に対立したり相対的に存在しているものばかりです。
善と悪、正と邪、多い少ない、大きい小さい、長い短い、思い軽い、敵か味方か、男と女、昼と夜、金持ち貧乏、その他あげればきりがありません。
言うなれば私たちは、この二元対立、二元相対に囚われ、矛盾を感じ混迷困惑しながら生きていると言う事なのです。
そして、この世が物質的に発展すればするほど、矛盾と困惑混迷はどんどん深まるように、物質世界の掟として、クリシュナはグナの掟を定めているのです。
このグナの掟の結末を、うつ病、統合失調症、自殺、家庭内暴力、非正規労働者、生活保護者、などの多発現象に観る事ができと思います。
物質に恵まれ豊かになり、便利になった社会にも関わらず、とても生活しにくい世の中になっているのです。
人間の幸せの為に創られたこれらの物質が、逆に人間を追い詰める元凶となってしまっているのです。
その原因は、これら物質を創るにあたってのその根本思想が、経済的支配の貪欲にあるからなのです。
本来あるべき、人の為に、世の為に、の奉仕や貢献の精神が欠如してるからなのです。
これは世界のトップ層の思想が、経済で世界を支配しようと企ているからなのです。
このトップ層が、世界平和と平等、貢献、奉仕、と言った他者を利する事を究極の目的としたならば、今の世界は全く違った方向に進んでいいると思います。
しかし、人間の貪欲は簡単には変えられません、これはもう行きつくとこまで行って破壊されなければ、新しいものは生まれないでしょう。
でもその破壊は全て物質次元の破壊であり、その時点で精神的に悟りを得ていたならば、どんな状況にも慌てふためく事はないのです。
毎日、毎日を、何も悔の残らない、死後の世界としての生き方をしていれば、なにも不安はないのです。
私は毎日、デジタルオーディオでクリシュナ・マントラを聴きながら眠りにつきます。
でも、三日程度で充電が必要になります。
何事も使いっぱなしはできないものです。
必ず補充が必要となるのです。
肉体における補充としては、食べる事と寝る事(休息)だと思います。
この二つは肉体を維持する為には必要不可欠な行動なのです。
食べることは、肉体を維持する為のエネルギーの補充です。
休息は肉体と精神活動の停止であり、この停止こそが気の補充となっているのです。
物事にはこの、溜めとか、籠める、止める、と言った充電期間が必要なのです。
私は30歳から五年間、仕事の関係で落ち込んだ期間がありました。
私の性格からは、鬱(うつ)になることはなかったのですが、しかしその五年間は笑う事を忘れてしまったのです。
でも、その五年間は営業に出ていたので、昼はあちこちのお寺で、女房が作ってくれたランチジャーの温かいお弁当で、心の癒しと仏教の学びを始めたのです。
私にとってはこの五年間が、人生に対するその意義をじっくり考える重要な期間であったのです。
また、55歳のときには持病の胆石によて、4回も入院をしたはめになりましたが、その入院の時に、「入院と言うものはなんて楽しく、思う存分休養ができるものなのか」とつくづく思いました。
それでもさすがに、四回目の入院の時には、「もう入院もたくさんだ」と思うようになったのです。
この55歳の入院の時も、人生をじっくり振り返えり、インド哲学バガヴァッド・ギーターをじっくり学び、その教えを広めることに生涯をついやす決意を、起こさせてくれたのです。
この様に何もしない、充電期間こそ、気を溜める、気を籠める、ということでありそれは、人間の精神性を高めるためには、非常に重要な欠く事の出来ない要素なのです。
私にとって、何もしない無意味な様な、そんな外観的に何もしていない状態こそが、精神的に熟慮している状態だったのです。
伸びるにはちぢむ事が必要であるのと同じように、活発なる躍動には静粛なる期間が必要となるのです。
その静粛なる時は決して、無活動ではなく精神的な熟慮の期間でなければならないのです。
それが、自然災害であったり、生活をしていくために起きうる、生存競争でのトラブルであったりするのです。
昨日のブログで書きましたが、苦しみのあり方として、自分を中心に観て、自然界から来る苦しみ、自分以外の他者から受ける苦しみ、そして自分自身の中から起こる苦悩があります。
この様に、人生においては何もしないでも、地震や台風、それに人間関係など、向こうから苦しみや最悪の事態などが、起きてしまうこともあるのです
また自分に起きなくても、色々と悲惨な場面に接する事もあるはずです。
そんな最悪の場面でさえ最善のものを、みいださなければなりません。
それこそが、精神知識を備える意義がそこにあるのです。
毒の中に不老長寿の秘薬を、廃棄物の中に宝を、貧困家庭の中に賢き母の姿を、卑しき人からも清き人の心を、悪人からも善き教えを、これら最悪と思われる中からこそ、最善の悟りを見出す、これが精神知識を備えた賢者と言うものです。
これら、生きていく間には、この様な場面に遭遇しなければならない事は起こりえます。
また自分も、このような事態を余儀なくされる事もあるでしょう。
しかし、苦は楽の種であり、晴れぬ長雨はなく、夜明けの来ない夜はないのです。
この苦しい時にこそ、学ばなければならないもの、苦しい時でなければ学び得ないもの、これこそがその人にとって、学びに必要な境遇なのです。
この過酷な境遇を活かしてこそ、人間としてこの世に生きる意義を果たすチャンスです。
世界に認められる日本の民俗芸能である津軽三味線は、目の見えない盲人が、その日の糧を得る為に、差別と侮蔑を受けながら乞食をしていった、想像を絶するほどの過酷な境遇があってこその、誕生なのです。
この様に、苦しみを苦しみとして受けるだけでなく、そこから抜け出す学びをしてこそ人間としての意義なのです。
しかし、ここで一番大事な事は、肉体的な苦しみは肉体的鍛錬とこの世で生きる知恵で克服し、精神的苦しみは精神知識を学んで、苦しみの根源を見極めなければならないと言う事です。
この精神知識を得るとは、道徳から始まり、倫理、宗教、哲学と、その真理を極めていく事に他ならないのです。
私たちは、苦しみの世界に生きている事を自覚せずに、毎日を生きています。
いや私は仕事も充実しており、経済的にも安定してますし、沢山お金も儲けて、健康に暮らしてますよ。
と言う方もおられるでしょう。
しかし、この様な人は毎日を激しく結果を求めて動き回っている人でないかと思います。
またそのような人は、自分自身も充実して満足した生活ですと、思っておられると思います。
だが、この満足感こそが悟りへの大きな障害となっているのです。
人間はしょせん人間(じんかん)、つまり物質次元と精神次元の中間的存在なのです。
つまり修行途中の段階であるとの事なのです。
この世の物質的豊かさや、享楽的生活は人間においては本当の幸せではないのです。
特に感覚的に物質的に、激情的に動き回っている人は、ちょうどロバが好物を食べるのと似ているのです。
ロバの好物はサボテンであり、ロバはサボテンの針によって、血とミックスされたサボテンの味をこよなく好んでいるのです。
これは激情の人間が、仕事で頭脳や肉体を使って、激しく活動しているのと同じなのです。
彼らは毎日、肉体を駆使していてもそれを苦しみとも思わず、逆にそこで得られるわずかな成果に、快感すら覚えているのです。
またそれが彼らの生活の糧ともなっているので当然、激務な仕事でもやめようとはしなしのです。
場合によってはその美味しさの欲望から、さらなる欲望がわき、それがどんどんエスカレートしていくのです。
そして最後には今生で行き詰るか、また来世にその続きをやり続けるカルマを背負うか、のどちらかです。
この様に、これら物質的な活動や、感覚的な活動は、この物質世界においては必ず、矛盾、困惑、混迷、の道をたどり、永遠に輪廻するように、物質次元の掟として創造主神クリシュナが定めておられるのです。
この物質的や感覚的な生活から脱する事こそ、この世に生まれた意義なのです。
今日はサンドバッグの存在について書いてみたいと思います。
ウィキぺディアでは次のように書かれております。
一般的に打撃を技の中心として行う格闘技 (ボクシング 、キックボクシング 、空手道 等)の練習で使用する、布地等の中に比較的軟らかい素材を詰めて中にぶら下げて使用するダミーの標的である。なお、「サンドバッグ」は和製英語 である。
一言でいえば打撃される標的だと思います。
しかし、このサンドバッグがなければ、強い選手の存在はあり得ないでしょう。
常に強力な打撃を受け続ける、プロ選手の相手ができる人など、普通いないではないかと思います。
またサンドバッグは選手においても、自分の力を遠慮なく、思う存分にぶっつけられる、重要な存在でもあると思います。
この様に物質的に物事を見ると、打つと打たれるの関係がそこにある事が分かります。
また打つ側としても、打ち込むものの存在が絶対に必要である事が、この例をみれば分かりやすいと思います。
これはスポーツの世界における、たとえ話ですが、これを精神的世界に置き換えても同じ事が言えるのです。
良く一流においては、技術畑と経理畑の二人の優秀な人材があると言われています。
ソニーにしてもホンダにしても、その前身においては技術畑と経理畑の優秀な経営者の存在があったのです。
要するに、技術と経理のように知的分野においての全く違った存在や、スポーツなどの行動において能動的と受動的、攻撃と守備、と言ったように全く違った側面の存在が必ずあるのです。
企業発展も大きく捉えますと、表に見える技術や販売だけではではありません、そこには技術や販売に応じた社内の経理、人事、厚生、教育など、表にはでにくい内面的な会社運営や制度理念も会社経営には非常に重要な要素となるのです。
また人間の生き方における世界もこれ同じく、精神と物質、肉体と魂、知識と心情、激情と理性、文明と文化、過去と未来、とこの様に大局的な概念があり、これら一方に偏ることなく中庸、中道の生き方こそが真理なのです。
とかく経験豊富な過激な人生を歩んできた人は、その成功例をもってしている為に、どうしても独善的になりがちです。
しかし、時代はどんどん変化しており、技術革新もすさまじく、価値観も多様化しており、さらに社会変化も加速化してます。
この様な時代にあっては過去の成功例をそのままあてはめることは難しいものです。
物質的にも便利性においても、もうこれ以上求めるものはない時代となりました。
今はこの様な時代を創ったが為に、逆に人間として基本的に生活していくことすら、難しい生きずらい世の中になってしましました。
これからは物質社会が進みすぎた反動として、精神的な生き方が求められる時代になると思います。
例えて言うなれば、ボクシングの選手は物質社会を活発に動き回る激情の人であり、その選手に打たれるサンドバッグは、精神的に修行している自制の賢者であり、自己を内観する聖者に例えられるのです。
今日は「魂のトレーニング」について書いてみたいと思います。
先日の8日に、魂の躍動 について書きましたが、そこではその躍動の要素として四つの観点を書いておりました。
ではその四つの、魂の躍動とは何かと言いますと。
1−瞬発力(レスポンス)
2−活動幅(ダイナミックレンジ)
3−多様性
4−時間と空間の大きさ
この四つの要素が、魂の躍動の着眼点となると思います。
1−の瞬発力とは、物事の動きに対する、機敏な反応と対応ができる事。
2−の活動幅(ダイナミックレンジ)とは、平静時と活動時の幅の広さを言います。
3−の多様性とは、色々な事に対する造詣の深さを持っている事。
4−の時間と空間の大きさとは、時間観念と空間観念の広さを言うのです。
私は音楽と語りの芸術家として、津軽三味線の演奏と弾き語りのコンサート公演をやっております。
津軽三味線演奏の難しさは、瞬発力、ダイナミックレンジ、多様性の三つの要素を全て表現しなければならないところにあります。
瞬発力としては、極微小音から超最大音の音を0,001秒の瞬時に、繰り返し繰り返し連続して演奏する必要がであるのです。
そして曲の表現としては、「ぎくしゃくぎくしゃく、 なめらかに、 ねばっこく」と言った、全てが矛盾する表現をこなさなければなりません。
その為の撥技はこれまた「止めて止めて、押さえて押さえて、流れるように弾く」と言ったこれも矛盾した撥技が要求されるのです。
結局、奥義とは、この様に言葉にすると矛盾した技の表現となるのです。
その矛盾の境地を平然とこなすのが、熟達の域と言うことなのです。
この域に達するにはもう既に、意識のレベルを超えており、無意識の境地、すなわち魂の領域に入っているのです。
また弾き語りにおいても、これまた意識はすべて時間的にその時代に移行しており、空間的にもその場所に移動しているのです。
いわゆる時間と空間を超越していると言うことなのです。
この様に、私にとってのコンサート公演は、魂のトレーニングをしていると言った感じなのです。
つまり私はいつ死んでも、死後の世界は自由に自分の魂を思うところへ、飛翔できると言う事なのです。
この様に、生きながらにして、今の肉体を持ちながらにして、魂を自由にコントロールできるトレーニングがとっても大事なことなのです。
今日は強者の錯覚について、書いてみたいと思います。
私は過去8月22日から四回にわたって、「我々は錯覚と幻想の中に生きている 」と言うテーマで、いろいろ錯覚と幻想について書きました。
その時は、自分を中心に、自分自身の錯覚と幻想について書いています。
今回は視点を、現実に進みある一般社会全体の風潮として観ての、錯覚を指摘したいと思います。
最近は、雇用、経済、などの社会生活基盤において、大企業と零細企業、経営者と労働者、正社員と非正規社員、富裕層と貧困層、と言った二極対立的な場面が際立ってきていると思えます。
ひところの、高度経済成長時代には、終身雇用とか年功序列といった日本的雇用体系が確立され、労働者の生活においても、ほとんどの人が中流意識を持っていたのです。
また人間関係もそれに伴って、使う側使われる側の対立も生まれてきてしまっています。
もちろん今までも先輩後輩、上司部下といった上下関係はありました。
しかし、その頃の上下関係は、お互いが仕事を通して人間的成長する為の学びの関係でもあったのです。
そこでの人間関係の基本は、精神的学びなのです。
その精神性の本質とは。
相手に対する 謙虚、正直、やさしさ、思いやり、寛容、恭敬、忍耐、平静、非暴力、その他まだまだありますが、これらの言葉をじゅうぶん理解して、またそれを実行している人を、精神知識を持った人と言うのです。
この精神的関係を人間同士で仕事を通じながら実践するのが、会社生活の本質です。
また企業経営者は、それら精神的活動の場としての修行の場を与え、業績を通じて社員や社会に貢献することがその存在価値なのです。
しかし、今やその精神はくずれ、企業は損益の業績にしかその重きを置いておりません。
今や、世界的に経済活動は拡大され、企業の発展や存続をかけての海外進出などがおきております。
また企業の利益効率を上げるため、正社員はできるだけ削り、期間や派遣やパートタイマーと言った非正規雇用の形態にシフトされてます。
しかし、最終的にお金で支配する覇権や役職における権力は、それは本当の強さではないのです。
また人を言葉や態度で抑え込もうとする悪しき態度も本当の強さではないのです。
今日は「自己をみつめよ」について書いてみたいと思います。
今朝、今まで書いてきたブログを見直してみましたが、5月からこれまでの間に、自己とは何か 、物質自然について 、創造主神クリシュナについて 、神々について 、魂について 、ヨーガについて 、と哲学 や宗教 や道徳 、倫理 、その他、生き方に関するさまざまな、私の個人的考えを書いてきました。
一言、「ま〜よく毎日書いてきたな〜」の感想です。
私は毎日、何も読まずに、下書きもなく、その場で、記憶している知識や今まで体験した事に基づいて、ただ打ち込んでいるのです。
それでも、書きたい事が毎日毎日つぎつぎと、湧いて出てきます。
それは多分自分に合った事であり、好きな事だからできるのだと思います。
この自分に合った事、つまり適性(能力)であることは非常に大事なことなのです。
好きな事でも、適性がなければ、言い換えれば能力がなければそれはできない事なのです。
ただ好きでやることは、好きな事だから持続はできると思います。
しかし、その物事に熟知し熟達するにはそれを達し得る、卓越した能力が絶対必要です。
それらは、生まれそなわった素質であり、それらの能力は持って生まれてくるのです。
その持って生まれてきた能力を、好きな事だから熱中でき、そしてその方面に力を発揮できるのです。
しかし、せっかく持って生まれてきた能力を、知らずに埋没している人もいるし、また努力しないで発揮していない人もいるのです。
例えば、100mのオリンピック金メダル選手といえども、犬の早さやにはどんなに努力しても絶対に勝てません。
ただ走るだけの競技においては、単に肉体的性能の競技であり、つまるところそれは、素質が究極的に物を言うだけなのです。
これは努力以前の、肉体的に生まれ持った資質だからなのです。
もっと極端な例を言いますと、鳥は羽があるから空を飛べるのであり、魚はえらがあるから水の中で棲み続けられるのです。
これも単に「その資質を持っている」と言うだけのものなのです。
この、持って生まれてきた事は、すべての生物の輪廻におけるカルマの結果なのです。
この様に、それぞれの人にはその人が気付かない、輪廻におけるカルマの結果としての素質が備わっており、その素質に気づき、それを活かす事が、今生での有効的な生き方につながる事になるのです。
つまり、自分の素質に合った無理のない生き方は、カルマに沿ったものであり、その積み重ねの修行を続ける事が、無駄のない魂の修行となっていくのです。
せっかく知識階級のブラーフマナの素質がありながら、物質文明の享楽に生きるためにヴァイシャになって激情の生活を送っている人は、今の時代には非常に多いと思います。
挙句の果てに、業務の適性に適応できず、激情世界に悩み苦しみ、最期はうつになり自殺する人さえ多く出てきてしまっています。
これは本当に自己をみつめない愚かしい生き方ではないでしょうか。
今日は、「感覚と心と知性と魂の関係」について、書きたいと思います。
人間には五つの感覚器(目、耳、鼻、舌、皮膚)があり、またその感覚器によって五つの感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)作用が働きます。
その感覚器によって今度は心に、綺麗だとか醜いとか、いい音だとか雑音だとか、好い匂いか悪い匂いとか、それぞれの思いがうまれるのです。
そして、心に浮かんだ思いによって次には、知性がどう行動すべきかの判断が、生まれてくるのです。
例えば、ある家の垣根に沢山の花が咲いていたとします。
それを通りがかりの人が見ます。
先ずはそこを通る人によって、その花を綺麗と感じる人と、何も感じない人が、存在します。
その綺麗と感じることが心の感性であり、その感じかたで感性のある人と、ない人とがあるのです。
そして、感性のある人が、この花はすごく綺麗だな〜と、心で感じたとします。
そこで今度は、その花を綺麗だから家に持って帰りたいという思いが、心に湧きます。
しかし、その人は黙って取って行っては泥棒になるからと、その場で鑑賞する事にしました。
またある人は、綺麗な花だから家に飾りたいとその場で切って、取って行ってしまいました。
この取って行ってしまった人の場合は、黙って人のものを取るのは盗む事である事を知らない、と言う知識を持っていない人か、また欲しいと言う感情に理性が負けてしまったか、のどっちかと言えるのです。
ここまでのやり取りは、感覚、心、知性、の三つの作用だけであり、この時点では魂の関与はないのです。
これらの状態をまとめますと、五感のそれぞれの先には心がつながり、それぞれの心の束ねは知性にまとめられ、その知性の横に魂が付き添っているのです。
一般的に魂は、これら五感から得られた感覚や、心の働きや、知性によって、肉体と言う乗り物に乗って、この世に翻弄されながら存在しているだけなのです。
個別魂は肉体と言う馬車に乗っている、御者は知性、手綱はこころ、感覚は馬に相当する。
<バガヴァッド・ギーター6章34節>
しかし、魂こそが自己であると、確信して主体性を持って生きている人は、その生き方として、精神知識を身につけ、心を支配し、感覚を抑制することができるのです。
自己が魂であると悟っている人は、魂を修行する為にこそ、逆にその感覚や心を有効的に活用しているのです。
本来肉体と言うものは、この様に魂の修行する為に駆使しなければならないのです。
しかし現実には逆に、感覚によって得られる快楽の奴隷になり下がってしまって、自己の果たすべき魂の責務を忘れ、楽しく快適に暮らす事が人生だと錯覚している人がほとんどなのです。
快楽は修行の敵であり、常に感覚と心の在り方を、精神的知識に結び付けておく事が重要なのです。
そしてその為に意識は常に、クリシュナへの厳粛なる信仰の心が、絶対不可欠となります。
今日は「魂の躍動」について書いてみたいと思います。
先日私は、八年ぶりに再会したひとから、「あなたは前より若くなりましたね〜」と開口一番に言われました。
私はよく、久しぶりに会った人ほどこの言葉を聞きます。
それこそ、20年前に会社勤めをしていた頃に会った人からでも、その頃よりも若いと言われます。
この様に、人は決して外観で若さを判断しているのではないと言う事がよく分かります。
つまり、私と会った瞬間に内面から発せられる活気で若いと、判断しているのです。
ではその、若いと感じさせる活気は、何でしょか。
それは魂の躍動なのです。
ではその、魂の躍動とは何かと言いますと。
1−瞬発力
2−ダイナミックレンジ
3−多様性
4−時間と空間の大きさ
この四つの動きがその着眼点となると思います。
1−の瞬発力とは、物事の動きに対する、機敏な反応と対応ができる事。
2−のダイナミックレンジとは、何もしない時の心の平静さと、いざ事が起きた時の瞬発力との差、言うなれば平静時と瞬発時の幅の広さを言います。
3−の多様性とは、色々な事に対する造詣の深さを持っている事。
4−の時間と空間の大きさとは、人間は思考と感覚で生きており、その活動エリアの時間観念と空間観念の広さを言うのです。
この、四つの魂の躍動で、一番難しい躍動は、4番の無限の時間と空間に生きる、という概念なのです。
それは現世をはなれ、過去や未来と言った、時間を自由に超えなければならない難しさと、物資次元を超えて、無限の精神世界にも躍動の世界を広げる事の難しさなのです。
その難しさは、その事の存在すら認識していない、またできない、物質次元に魂が固着してしまっているからなのです。
その難しさの一つが、肉体の持つ動物本能の欲望(食欲、睡眠欲、性欲、防御欲)と、人間がもつ物欲、名誉欲、支配欲、などによってがんじがらめになってしまっている事です。
そしてもう一つは、魂に関する正しい精神知識を学んでいない事です。
私は、毎晩クリシュナのマントラを聴きながら、クリシュナの住む精神惑星ゴーローカ・ヴェリンダーヴァンに想いをはせながら眠りについているのです。
そこは時間と空間を超越した、なんと素晴らしい永遠の歓喜の世界(サッチダーナンダ・ヴィグラハ)なのです。
今日は精神的伴侶と肉体的伴侶について書きたいと思います。
伴侶とは、なかま、つれ、とも、の意味とあります。
一般的に伴侶と言いますと、一生涯を夫婦として暮らす相手を伴侶と言います。
私は生涯の伴侶をさらに、精神的な伴侶と肉体的な伴侶に分けて考えております。
一般的に、生活をしていくには「肉体的に健康生活を維持する」ことが最大の生活目標となると思います。
この「肉体的に健康生活を維持する」ために、今の日本における生活行動としては、経済的安定を得る必要があり、その為に一流企業とか公務員を目指して、一流大学を目指す勉強をしているのが一般的な社会通念となっております。
実はこの健康生活を維持するためとは、決して快適に生活する為だけではないのです。
それよりもっと大事なことは、健康な体を保って精神的向上を図る事こそ、人生の最大の目標なのです。
逆を言うなれば精神的向上をするためにこそ、健康が必要であると言う事なのです。
その健康維持と、精神的向上の両方を同時に満たしてくれる伴侶こそが、理想の伴侶と言えるのでしょう。
しかしこの両方を満たしてくれる伴侶を得るには、非常に難しい事だと思います。
その最大の理由として、この世はすべて二元対立に創られているからなのです。
その他に、今の時代では物質文明が発展した故に、企業の生存競争が激しくなり、それが個人の生存競争にまで拡大されてしまっています。
そのため、道徳や倫理に逆らわなければならないような事も、生活の為にはやらされてしまうことがあるのです。
つまり、肉体生活に執着すればするほど、精神的生活を犠牲にしなければならないようにできているのです。
また逆に、精神的生活を主体的に生きようとすればするほど、生存競争に打ち勝てず、生活すらできなくなってしまいます。
これと同じく、生涯連れ添う伴侶は、肉体的な生活が主になり精神性の方がおろそかになってしますのです。
したがって、高度な精神的向上を図るには、精神的に専念できる精神的伴侶を持つ事が望ましのです。
つまり、肉体を完璧に管理維持してくれる肉体的伴侶を持ちながら、そして健康を維持されたもとで、精神的に専念して学び合える精神的伴侶も、必要であると言う事です。
さらに、その精神的伴侶との関係は、実生活に完璧に関わる事がないような、つまり経済的対価を得る関係にあってはならない、つまり、純粋に至上神クリシュナの真理を求め合う間柄でなくてはならないと思っております。
これらは神の科学であり真理なのですが、はやはりバガヴァット・ギーターを学ばなければ理解は不可能なのです。
今日は、「悪は成し易く、善は成し難し」について書きたいと思います。
ここで言う悪は、他人に対して行うものだけでなく、自分自身に対する悪癖もそれに含まれます。
一般的に人間は、悪はやりやすく、堕落に落ちやすくできています。
逆に、善はなし難く、人的向上も図りにくいものです。
それは、快楽と苦行がその根源だからです。
人間の堕落には快楽がつきものですし、また精神的向上には苦しみが伴うものなのです。
苦しみなくしての修行はなく、修行なくしての精神的向上はあり得ません。
修行は苦行であり、人間の気楽に過ごしたい気持ちを断ち、あえて苦しい行動を神にささげる行為が修行の本質なのです。
日日の生活において守るべき修行徳目として、八正道(正見、正思、正語、正業、正命、正念、正精進、正定)があります。
この八正道を意識して生活をしていくのは、今の忙し世の中ではとても難しいと思います。
例えば家庭における先祖崇拝の行として、毎日読経することは大事な日課です。
しかし、その般若心経一つを毎日あげることすら苦痛を伴うもので、なかなできないものです。
逆にタバコを吸う人は、タバコが体に良くなく、また他人にも迷惑をかけてしまう、と言う事は分かっていても、一度その習慣に侵されるとなかなかそこから抜け出せないものです。
また深酒の習慣も同じです。
それは、これら悪癖には快楽が伴っているからなのです。
そして一度この快楽におぼれると、そこから抜け出すには非常な苦しみが伴います。
澄んだきれいな水の中に濁った水を入れれば、水の濁りは直ぐに分かります。
しかし、いったん濁った水を元のような澄んだ水にするには、きれいな水を何倍も入れなければ、元の水の澄んだ状態には戻らないのです。
これと同じく、人間の信用を得るには、常日頃の誠実な対応が、長い間に少しづつ評価されて得るものです。
しかし、その信用をなくすには一回の悪事で十分です。
またその信用を取り戻すには、最初に築き上げた信用を得る期間の、数倍もの努力が必要になるはずです。
「悪癖を持つ者は悪癖はなしやすく、よき習慣を持つ者は悪癖はなし難し」
この様なことからしても、私たちは心してよき習慣を持つ意識が必要だと思います。
今日は昨日に続いて愛について書きたいと思います。
ほとんどの人は愛と言う言葉を聞くと即座に、素晴らしいとか、理想の姿を勝手にイメージしたりしてしまいます。
しかし、昨日のブログで、愛の分析を座標として分かりやすく描いてみましたが、「愛は則素晴らしい」とは、軽率に言えないことがよく分かります。
精神的 心的
・
第二象限 ・ 第一象限
・
束縛 ・ 解放
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
奪う ・ 与える
・
第三象限 ・ 第四象限
・
肉体的 物質的
<愛の分析座標>
愛の本質は執着です。
先ずは、この本質を知ることが絶対必要です。
その行為が、相手に対して自由の解放や歓びを与える行為なのか、それとも物や自由を奪い束縛する行為なのか、それによってその愛も、忌まわしいものとなったり、慈悲の姿となったりするのです。
さらには、その行動が人間の魂を救う精神的なものなのか、はたまた肉体的や心的なものに対してなのか、それによって、その愛の価値も違ってくるのです。
当然人間の本性は魂です。
肉体や心は、その魂を精神的に成長させるための生体道具にすぎません。
しかし、ほとんどの人はその道具である肉体や心の病におかされて、苦しんでいます。
心も哲学的観点からすると肉体と同じ物質次元です。
でも、救われるべき本当の苦悩は、肉体や心ではなく、精神的存在の魂の迷いであるはずなのです。
しかしその魂の存在すら自覚していない人がほとんどであり、そのため魂の迷いは起き得ないは当然です。
せいぜい「肉体的に苦痛がないく、心的にも悩まずに、人生を過ごすのが幸せである」と言った、こんな程度の肉体次元の喜びで一生を終る、これこそが悲しむべき事なのです。
一番大事な、魂の責務を知らずして一生を終る事こそ、最大の不幸なのです。
魂は根源的なものであり、心の奥底にそっと潜んでいるため、心身が浄化されないうちは、その存在する自覚さえ、できないようになっているのです。
また、魂自体は、肉体や心と違って、目、耳、鼻、舌、皮膚で感じる五感の感覚はないのです。
魂は、最終的に心に刻み込まれた日常的な想念で、そのほとんどが無意識に形成されていくものなのです。
一般的にいえば、その人の気質となって形成されていく、と言うことなのです。
そこで大事なことは、愛の分析座標から見ても他者に対してや社会に対しては、自由の解放や歓びを与えると言う事が、人間の行為とし最も尊い、と言うことが分かると思います。
その尊い行為は「他者に奉仕と社会に貢献」ではないでしょうか。
今日は愛の分析について書きたいと思います。
よく愛と言う事には、いろいろな愛をもって語られる場合がありますが、人それぞれに愛の持つイメージ(観念)が違うと思います。
例えば一番よく愛の関係で想うのは男女関係での愛、それから親子関係での愛、国に対する愛、人類に対する愛と、すべての生物に対する愛と、そして私たちを創造してくれた創造主神クリシュナに対する愛と、それぞれに拡大して色々な場面の愛があると思います。
このいろいろな愛の種類を座標軸を使ってご説明いたしたいと思います。
精神的 心的
・
第二象限 ・ 第一象限
・
束縛 ・ 解放
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
奪う ・ 与える
・
第三象限 ・ 第四象限
・
肉体的 物質的
<愛の分析座標>第一象限の愛は、相手に対して精神的か心的に解放して、自由を与える精神指導者やカウンセラーの愛の形です。
第二象限の愛は、相手に対して精神的か心的に束縛して自由を奪う、執着の愛であり、カルト宗教の形です。
第三象限の愛は、相手に対して肉体的に束縛し自由を奪う、執着の愛であり男女間における醜い愛の形です。
第四象限の愛は、相手に対して肉体的な苦しみから救い、楽を与える慈悲の愛であり、医師の愛です。
この様に愛と言っても、決して好いものと一言では言えないのです。
愛の本質は愛着であり、それは執着です。
従ってそれが、精神的なものなのか物質的なものなのか、そしてそれは自由解放であるか、逆に自由束縛のものであるか、それによってはその愛も、他人を苦しめ自分も苦しむ種となるのです。
その執着が精神的なものであり、創造主神クリシュナに対する愛であるならば、それは最高目的のものであり、これは大変素晴らしいものです。
また夫婦における愛も当然第一象限の愛でなくてはならず、そこには共に精神的な学びである道徳(仁、義、礼、知、信)が、互いになされなければなりません。
その本質は「お互い相手に対する思いやりの心」が基本中の基本です。
その姿になればもう相手と一体になった状態であり、二元を超えた理想の愛の形といえます。
私は生涯、これを心に留めて実践するのが、今生の修行と思っています。
れらは神の科学であり真理なのですが、はやはりバガヴァット・ギーターを学ばなければ理解は不可能なのです。
今日は「魂は水分」というたとえ話をしたいと思います。
今まで魂について色々と話をして参りました、それらを列記しますと。
1−魂の根源は、創造主神クリシュナの分霊(ママイヴァーンシャハ)である。
2−自己とは魂であり、またその本質は、意志、信念、精神知識である。
3−それは光子であり、上位精神エネルギー(シャクティー)である。
4−魂は心臓に宿り、血液のなかに気流(プラーナ)として全身をめぐる。
5−魂は永遠不滅、不生不死、不老不病、の存在である。
6−魂は個別性を持っており、その個別性はクリシュナの基へ還り、死後も永遠に生き続ける。
この項目の中で一番大事な項目は、最初の項のクリシュナの分霊(ママイヴァーンシャハ)であることと、最期の項目の、クリシュナの基に還り、個別性を持ち永遠に生き続ける、と言うこなのです。
例えて言えば、魂は目にも見えない水分のようなものです。
その水分は時には、私たちの目に見える、手ですくえる、水として存在しますが、また時が来れば空気の中に消え、水分に戻ります。
そしてまた時が来て、雲となり、雨となり、水となって地上に戻って来ます。
この雨になり、空中の水分になりを繰り返しながら、永遠の郷である大海を目指して、壮大な旅をしているのです。
ちょうどアマゾン川のジャングル地帯を、川の流れのように旅をしているわけです。
ジャングルの各所にわき立つ雲となり、雨となって川となり、また別の地に雲となり、雨となって川となりを繰り返しながら、生まれ故郷の大西洋を目指すのです。
魂は、その始めにおいて色相はなく、中間の一時期に色相を現わし、また終わりして無色相になる、この事実のどこに、死を悲しむ必要があろうか<バガヴァッド・ギーター2章28節>
そして最期は、魂の生まれ故郷である、創造主神クリシュナのもとに、帰郷するのです。
その、根源なるクリシュナへの大いなる帰還には、クリシュナへの絶対なる崇拝と帰依の心がその条件となるのです。
これらは神の科学であり真理なのですが、はやはりバガヴァット・ギーターを学ばなければ理解は不可能なのです。
今日は内的エネルギーと外的エネルギーについて書きたいと思います。
人間の生きる力とか物質の本質をサンスクリット語でシャクティーと言います。
シャクティーとはエネルギーであり、根源の力なのです。
たとえ石ころや金属のような生命のない動かない物質であっても、哲学的には物質エネルギーとしてその存在を認識しなければならないのです。
金属や石ころでも素粒子レベルでその存在を解析すれば、素粒子が活発に動き回っているわけで、立派なエネルギー体として、捉える事ができるのです。
一方、たとえアリといえども、動き回る動物である以上は、立派に魂を持った生物体なのです。
石ころや金属の素粒子は、創造主神クリシュナの細胞にあたるもので、それを神の外的エネルギー<バヒランガ・シャクティー>と言います。
また人間をはじめ動く全ての動物は、創造主神クリシュナの分霊であるためにそれを内的エネルギー<アンタランガ・シャクティー>と言います。
要は物質は神の外的エネルギーであり、生物体は神の内的エネルギーと言い、両方とも創造主神クリシュナの光的存在なのです。
また、内的エネルギーは生命があると言う事で上位エネルギーとも言い、外的エネルギーは物質であるために下位エネルギーとも言います。
そして、人間だけは考え方や行動によって、動物的な下位エネルギーの存在であったり、魂として自己を認識できる上位エネルギーの存在でもあったりするのです。
その為に人間は、哲学的には上位エネルギーと下位エネルギーの中間エネルギーの存在であると言う事から、人間(じんかん)と言います。
つまり人間は、動物としての物質的活動している状態と、魂としての意識、信念といった精神活動をする存在の、中間的立場にあると言うことなのです。
ここで自分の本質は魂であると認識する事が非常に大事であり、これこそが動物次元の外的エネルギーから抜け出すカギとなるのです。
しかし残念ながら、人間の魂は肉体と言った下位物質エネルギーに取り包まれているために、その物質エネルギーの影響を強く受けてしまうのです。
つまり、肉体を維持する為の食欲や睡眠欲、子孫を残す為の性欲、自己を守る防御といった動物の持つ本能や、人間の持つ物欲、名誉欲、支配欲、と言った、下位エネルギーに支配されてしまっているのです。
そんな状態を、卵を例にとって考えてみるとよくわかると思います。
卵の外観は堅い殻で覆われており、その下に白身があり、その白身に包まれて黄身があり、その黄身の中に生命体の上位エネルギーの魂が宿っているのです。
その上位エネルギーの魂を強烈な外的エネルギーが、がっちりと包み込んでしまっていると言うわけです。
しかし、ほんらい魂は上位エネルギーであり、魂が成長すれば外的エネルギーを包み込んで、肉体を本来の目的である、魂の修行の為に駆使する方向に動き出すのです。
しかし、魂の成長がなければ、無精卵のようにいつまでも堅い殻に閉じ込められてしまうのです。
さあ〜!、いつまでも窮屈な殻の中に閉じ込められていないで、早く魂の成長をさせて殻を破り、上位エネルギーとして独立した存在、ひよこになって頂きたいと思います。
これらは神の科学であり真理なのですが、はやはりバガヴァット・ギーターを学ばなければ理解は不可能なのです。
今日は「量より質を求める生き方」について書きたいと思います。
この「量より質」の本質について考えると、その本質はズバリ「物質的か精神的か」の違いにあると言えます。
つまり、量とは「物質の数や、数字で表す数字的な世界」であり、それに対して質とは「どんなものか」と言った物質であっても「質そのものや、在り方などの精神的なもの」をさすのです。
視覚や、重い、軽い、速いなどの感覚では正確に捉えられないものも、数字に置き換えてその質を推し量る事はよく行われます。
例えばスピードの様な速さや、物の重さや硬さ、電気の量と言った、感覚では正確に捉えられないものも、メーターなどによってその質を測っています。
ここで大事なことは、人間の感覚で捉えられないものであっても、いったん数字などの形にできるものになった以上は、これはもうすでに物質次元になってしまったと言う事です。
逆に、「質の本質は精神的である」と言う考え方は、「数字では絶対に置き換えられないもの」と言う事なのです。
例えばここに100万の預金通帳があったとします。
これは既に100万円と言う数字ありますから、物質として捉える事ができるのです。
しかし、この100万円の預金は、汗水流して労働してためたお金なのか、博打で稼いだお金なのか、また人を騙して稼いだものなのか、はたまた人の家に盗みに入ってのお金なのか、色々ありますがその100万円の質的なものは、見ただけでは知ることはできません。
しかしこの目に「見えない質的な事こそ」本来は大事なことなのです。
これと同じように、人間の価値も「質的な精神的な側面から」観察する必要があると言う事です。
でも一般的には、お金持ちであるとか、大きな立派な家に住んでいるとか、役職が高いとか、と言った外観でその人物の評価をしがちです。
一番大事な人の評価は、他者に対する貢献や奉仕であり、それが人々の生きがいや苦しみを救う事であったり、人々を精神的に向上させる精神指導である事が、その人の価値判断基準となるのです。
その行為は決して、測定機で測れるもものではなく、人の心で推し量るものなのです。
最近は、人間の品性を評価する、「仁、義、礼」など、心で推し量る価値を評価する人が少なく、何事も金額で判断する、品性のない安っぽい人生観がはびこってしまっているように思えてならない。
所詮、数字で捉えられるものは、生きている間だけの価値でしかないのです、それに比べ精神的価値は死後の世界で、また来世の幸せの種としてその価値を発揮するものなのです。
今日は、「良き同志(友)、好き伴侶を得るは、最上の幸せである」について書きたいと思います。
良き同志とは、精神的向上を図る上で、共に学び励まし合い、共に尊敬し合う、友達のことをいうのです。
それは、性別、国籍、人種を超えたものであり、たとえ遠く離れていても、会話だけでも精神的向上は図れるのです。
大事なことはそこで交わされる話の内容なのです。
私は毎日ブログを書いておりますが、このブログを遠く離れたインド人のSさんに毎晩スカイプで解説しております。
そしてSさんの意見や感想も聞き、それによって私も新たな気付きも起こり、またその事に思慮をふかめることになるのです。
この様に精神的な話をとおして、真理に触れる歓びを味わい、互いに交歓し合うことによって、さらに自分も磨かれるのです。
そんな自分を磨いてくれる同志こそ、最高の友なのです。
それから、もう一方のよき伴侶とは好き伴侶のことであり、ズバリ生涯連れ添う配偶者の事です。
結婚式の時に、誰でも神の御前にて、生涯連れ添うと誓い合ったはずです。
しかし、最近では離婚するカップルが多く、神様との誓いも空しいものとなっているのが現状です。
それは、物質文明が発展した事によって、精神的な生き方から物質次元の生き方が強くなってしまったからなのです。
物質的に豊かになると言う事は、物質に囚われる要因ができ、物質文明を求める生き方に精神がそそのかされるからなのです。
精神的とは何回も書いてきましたが、人間として備えるべき、道徳、倫理、宗教、哲学の神から諭された人間の修養すべき、魂の質性の事なのです。
その基本中の基本は道徳であり、その道徳の本質は、人に対する思いやり、許す心、認める心であり、自分に対しては、正直に生きる、約束や規則を守る心、忍耐の心なのです。
ここで出てくる最初の、人に対する思いやりができれば、言い変えれば他人の立場に立って物事を考えてあげることができれば、たいがいの事は解決できると思うのです。
それに人には願わず、求めず、頼まず、の依存心を捨て、頼まれた事には最善を尽くす、の精神で生きればもめごとは無くなるはずです。
そして、他人からの中傷は無視、叶わぬ事は諦める、他人の過ちは赦してあげる、これら「無視と諦めと許し」の生き方をすれば、気楽に生きられるのです。
これを、自分のいちばん身近な夫婦の関係において実践してこそ、よき伴侶となるのです。
そのよき伴侶を得た人こそ、人生最上の幸福を手に入れた人といえるのす。
各月へリンク 平成24年 1月 12月 11月 10月 9月 8月 7月 6月 5月
今日は最高の指導者像について書きたいと思います。
人を教えまた指導する形としては、次のような場合があると思います。
1−学校教育での教科の教え。
2−社会に出て、会社での技術、や操作の教え。
3−歌、踊り、そのた芸術的要素を伝授する教え。
4−スポーツなどの体育系の技を指導する教え。
5ー道徳や倫理、宗教など人の生き方などの教え。
細かくはまだあると思いますが、とりあえずざっと思いつくままに書きました。
つぎには指導者として考えられる指導としては。
1−知識や技をただ教える指導者。
2−知識や技を教え、その人を育てる指導者。
3−人を指導している関係において、指導のしかたを自らも学ぶ指導者。
この三つの順は、人を育てるといった場合において、指導者の育て方の進化を示しているのです。
端的に言いいますと。ただ教える事から始まり、人を育てる教えと進化し、さらには指導をもって指導者自身も進化する、と言う事です。
昔から、「教えることは二度学ぶ事である」とも言われています。
そしてまた、教える教え方を指導者がかんがえることは、指導者自身も進化していると言う事なのです。
この指導者自身も進化する事こそが、指導すると言う本当の意義なのです。
しかし実際には次のような指導者像に分類できます。
1−生徒に嫉妬し生徒の能力を抑えてしまう指導者。<芸事の師匠によくあるタイプ>
2−生徒を食い物にし君臨する指導者。<宗教指導者によくあるタイプ>
3−生徒を活かし名誉を求める指導者。<スポーツトレーナーによくあるタイプ>
4−生徒と共に自分の成長とする指導者。<哲学の理想の指導者像>
逆を言うなれば、自らの精神的成長なくしては、理想の指導者像とはなりえないと言う事なのです。
その為には、教えている生徒からも積極的に何かを学ぼうとする、謙虚な姿勢なくしてはそれは不可能でしょう。
この謙虚な姿勢こそ、理想的な指導者として求められる質性なのです。
それに哲学の教えは個人指導が原則です。
それは、個人個人に生き方があり、その人その人の修行段階があるため、その状況を判断してその人に合った指導が必要だからなのです。
また生徒によっては、指導者の方が体験した事のない話や知識などもたくさん持っているわけで、それらを謙虚に教えてもらう事も、指導者の成長になるのです。
自分が知らなかった事に対して、また自分の考え方をそこに加え、新たな真理の提唱をしてこそ、精神指導者なのです。
それに哲学の世界では、これと言ったその人に固定された答えは無いのです。
その時その環境において、時と、場合と、相手と、程度によってその答えは違ってくるのが、哲学の教えなのです。
この教え教えらる関係こそが、最高の指導者像と言えいるのです。
今日は死について書いてみたいと思います。
ほとんどの人は死と言うものに対して、恐怖や嫌なものとして避けたい気持ちを持っているのが、普通だと思います。
それは単に動物として与えれれた、生命保護の本能であるからなのです。
人間も動物としての肉体を持っている以上は、その本能の影響から、死にたくないの気持ちを強く持つのが普通でしょう。
しかし、人間は生命維持としての本能だけでなく、物欲、名誉欲、支配欲など人間ならではの欲があるので、欲の快感を味わう為にも長生きをしたい、と言ったところもあります。
これらのことは全て物質次元のことであり、この肉体の欲望に囚われている人ほど、長生きをしたい、死は怖い死は嫌なものであると強く思うのです。
それに比べ精神知識を備え、その教えを実践し生活をしている人は、人生の終末を迎えれば、死は自然と安らかな憩いの境地として抱く事ができるのです。
つまり、自己は魂であるとの強烈なる自覚こそがその原点なのです。
その魂の本質は、永遠不滅、不生不死、不老不病、であり至上神クリシュナの分け御霊であり、精神知識エネルギーであり、物質ではないのです。
この本質を徹底的に理解していれば、バガヴァッド・ギーターの教えからして、おのずと人間には誕生と言うこともなく死と言うも当然ありえないのです。
先ずはこの、在りもしない死と言うことに恐怖を持つこと自体が、無知そのものの表われではないでしょうか。
自分は肉体であると言った、肉体次元に囚われている人に限り、死に対する恐怖は深まるのです。
しかし、その死が憩いであるとする境地に至るには、魂の本質を理解した程度では、とても及ばないのです。
さらに精神的知識を深め、精神的生活に没頭して人生を送ってこなければ、死と言うものが憩いであるとする境地にはとても至る事はできません。
その精神的知識はバガヴァッド・ギーターの修得であり、そこには。
死の時期が来て、肉体を離れる時に、私(クリシュナ)だを想っている者は誰でも、まっすぐに私の郷にいたる、このことに疑いの余地はない。<バガヴァッド・ギーター8章5節>
ここで大事なことは死ぬ時に想っている状態の基に、赴く事ができると言う事です。
しかし、死をまじかにした人はその時だけ、クリシュナの郷に直行することを想えばいい、そんなご都合主義は許されず、やはりそれは常日頃からの、クリシュナへの強い信仰心とその教えに没頭した生活なくしては、不可能なのです。
精神的知識を得る事によって人は、創造主神クリシュナの郷に帰る為には、クリシュナが住んでいる精神世界の最高惑星がゴーローカ・ヴェリンダーヴァンであることを知り、そこでのクリシュナの姿が人間と同じ姿(シャーマスンダラ)であること理解し、そして最終的にはクリシュナの前にひざまずく謙虚と言う精神知識を身につけている事が、絶対条件となる事を確信できるようになるのです。
この生活に没頭すれば、死は憩いであるとの境地にいたれるのです。
今日は精神知識についてお話したいと思います。
一般的に「知識とはなんぞや」またその「知識を得るとはどういう事か」と質問をされたとします。
その答えとしては。
先ずは「知識とはなんぞや」については、一般的に学校で教えている教科を身につける事が今の社会通念だお思います。
ではその次の質問の「知識を得るとはどういう事か」と言う質問に対しては、それは良い大学に入り一流企業か公務員になって、「子育てに有利な生活の安定を得る事」だと、ほとんどの人はそう思っていることでしょう。
それは、「子育てに有利な生活の安定を得る事」は動物の防衛本能だからなのです。
動物にとって身を守ることは、戦うか逃げるかのいずれかの選択しかありません。
しかし、人間の場合では、高度で複雑な社会生活が確立された環境の中で生活をしているため、その身を守る手段が最終的には経済的収入の安定と言う事に帰結されるのです。
この生きていくために学ぶ知識はすべて、物質次元の知識と言うのです。
もっと端的に言いますと、肉体を維持する為の知識が物質次元の知識なのです。
それに対しての精神知識とはいったいどんなものであるかと言いますと、その本質についてバガヴァッド・ギーターの13章8節には次のようにあります。
謙虚を身につけ、虚栄を捨てる、非暴力であること、寛容であること、正直であること、これらの態度を身につけ実行してこそ、精神知識を得たと言う事になるのです。
この最初に出てきた謙虚こそ、人間が行う全ての行動においてその基本姿勢となる、最高の精神知識なのです。
人間としての最高知識である、謙虚を身に付けるその理由とは。
それは、私たちの魂はすべて、創造主神クリシュナの分霊(ママイヴァーンシャハ)であるからなのです。<バガヴァッド・ギーター15章7節>
この真理こそが、そもそもこの世の始まりであり原点なのです。
言うなれば、この真理こそ、この世における自己の根本的存在の大原因なのです。
であるならば、私たち魂の最終的なる行動目標は当然、生まれ故郷である「クリシュナの基に還る」と言うことになるのです。
その、創造主神クリシュナの基に帰る為には、クリシュナが住んでいる精神世界の最高惑星がゴーローカ・ヴェリンダーヴァンであることを知り、そこでのクリシュナの姿が人間と同じ姿(シャーマスンダラ)であること理解し、そして最終的にはクリシュナの前にひざまずく謙虚と言う精神知識を身につけている事が、絶対条件となる事を確信するのです。
この様な理由から、クリシュナの前にひざまずく謙虚の姿勢を身に知ける事こそが、人間としての精神修行する究極目標なのです。
このクリシュナの前に、男性はひれ伏し、女性はひざまずく姿ほど美しく尊いものはありません。
その姿は人間として完成された全ての美徳が凝縮された結晶なのです。
今日は、「生きながらにして、死後の世界を生きよ」について書きたいと思います。
一般の人にとってはこの言葉は、矛盾した言葉に聞こえると思います。
それは「死んだら何も分からないではないか」とか、「死んだあとは、無となるのではないか」と言ったそんな思いを持たれると思います。
しかしそれはあくまでも、個人的に想像した死後の世界であり、肉体次元での発想なのです。
死ねば終わりで何もなくなると言った考えこそが、肉体の持つ頭脳知識であったり、心の発想なのです。
その答えとしてバガヴァッド・ギーターでは、人間は死後も「魂は永遠不滅であり、個別性を堅持する」と断言されています。<バガヴァッド・ギーター2章12節&18節>
それだけでなく魂は、現世においても不老、不死、不病であり、そして生まれることもないのです。<バガヴァッド・ギーター7章29節>
ただ肉体だけが、誕生、成長、停滞、生殖、老衰、死滅、の六つの過程を経ていくだけなのです。<バガヴァッド・ギーター2章20節>
つまり、魂は肉体に宿っているだけで、「肉体の消滅の過程とは完全に独立した精神的存在である」、と言うことなのです。
しかし、肉体はあくまでも物質であり、諸行無常と言った物質界の移り変わりの法則からは、絶対に逃れられない運命となっているのです。
私は常に、「物事は物質次元と精神次元で捉え考察しなければなりません」と言って参りました。
その様な原点を理解すると、「生きている今の魂の状況は、死後も今と同じ魂の状況に置かれる」と言うことなのです。
それだけに「人間は死ぬ瞬間まで、魂のやるべき責務を果たす努力が必要であり」、その死ぬ瞬間の心の在り方が、死後の世界で生きる生き方になるのです。
私は特に還暦を迎えたならば、その後はあの世へ還るための、物質次元から離れた、精神的生き方をしなさいと説いて参りました。
物質次元の生き方とは、肉体から発せられる、肉体を維持する為の根源的欲望(食欲、性欲、睡眠欲、)や人間の持つ物欲、名誉欲、支配欲、に囚われる事が物質次元の生き方なのです。
それに対する精神的生き方とは、自己とは何か、自己と神との関係はどうなっているのか、その神に対するあり方はどうあるべきか、と言った正しい絶対神との関わりを知ることなのです。
そして人間の本質である魂の四つの性質(荒魂、和魂、幸魂、奇魂)の学び、生き方としての道徳や倫理を学び、死後や輪廻観を学ぶ宗教、そして永遠不滅の真理を学ぶ哲学、これらの学びこそが精神的生き方なのです。
今日は、私が実際に出会った人を通じて感じた事を、書きたいと思います。
先日、新しく始められたレストランで、共同経営をしている社長さん(男性)と専務さん(女性)に会いました。
社長さんは、大手メーカーのサラリーマンで設計の仕事(知的労働)に携わりながらも、重責を果たして定年退職された人でした。
また専務さんは子どもの時から商売に携わり、海戦山戦の修羅場をくぐり抜け、商才に長けた凄腕の人です。
その為か一見しても、職責は全く逆でなければおかしいと思ったくらいでした。
でもそれは何かの事情でそうなったのだと、その時はあまり気にはしなかったのですが結局、次に会った時にはやはり逆の立場として再出発をしたようでした。
このとき感じたのは、社長をしていた男性はアルプスの牧場主に飼われている羊であり、方や専務の女性はジャングルの百獣王ライオンの存在として考える事ができるのです。
言うなれば、ジャングルの中に羊が置かれた状況を想像すれば、その有様は想像できるでしょう。
ここで大事なことは、物事は常に物質次元の視点と、精神次元の視点の両方の視点をもって、その事象を観測する姿勢こそが、重要であると言う事です。
それこそが、バガヴァッド・ギーターの悟りなのです。
この場合、物質次元の視点からすれば専務さんは非常に経験豊富な有能な経営者であると言えます。
しかし、経営者としてどんなに成功し富を蓄え世の中に奉仕をしても、それは四制四住期(ヴァルナシュラマ・ダルマ)の観点からすればヴァイシャの位置づけであり、その魂の質性は激情に翻弄されている状態なのです。
方や男性の社長さんは、女性の専務さんから商売上での細かな指導を受けていましたが、それは長く生きてきた生活環境が違うわけで、サラリーマン生活から商売の世界に置かれては戸惑いが生ずるのは当然なことなのです。
しかし、この社長さんは商売の事は苦手のようでしたが、言葉使いをはじめ、漂う雰囲気からして、穏やかさ誠実さ正直さを感じ、その魂の質性は既にヴァイシャをツーランク超えたブラーフマナの素質を備えている人なのです。
アルプスの羊は、その毛と最期は食肉として上位エネルギーの人間に身をもって仕えている家畜であり、方やライオンはジャングルで自然の摂理を担う動物の存在でしかないのです。
当然、人間に仕える動物と、自然の摂理の役割しか担っていない動物では、その存在価値は当然羊の方が上位であり、次の生まれ変わりでは人間に生まれ変わるのです。
この様に至上神クリシュナが定めた魂の修行システムである、四制四住期(ヴァルナシュラマ・ダルマ)の掟から
考察すれば魂エネルギーの優劣は歴然なのです。
今日は男性として生まれる意義と、そして女性として生まれる意義について書きたいと思います。
その前に私たちは、「自分は肉体ではなく魂である」との絶対なる認識を持つことがその解答の絶対条件ですので、先ずは「自己は魂」であると強く自覚してください。
そうすると自分の肉体から離れて、客観的に自分を観察することができるようになります。
自分は魂であるとの認識ができると、次の事が分かってきます。
1−もともと魂には性別が無いということが分かります。
2−当然、国籍や人種もないのです。
3−魂は、人間と言う動物の肉体の中に、今は入っているのです。
4−死ぬと言うことは、魂が体から抜け出す事です。
この様に魂の観点に立てば、以上のような、四つの自分についての本質が分かってくるはずです。
でも私たちの魂は、肉体の中に閉じ込められているので、どうしても肉体のを通しての自分と言うものを錯覚してしまうのです。
もともと魂には性別がなく、余儀なくさせられているのか、自らが選択したのか、いずれによって男性か女性として魂の修行をする事になったのです。
この「人間は動物である」との原点に立てば、男性と女性の本質や学ぶべき魂の修行目的がはっきり分かるはずです。
女性は子どもを産み育てるために、その女性としての性質は自然と、子どもに対する慈しみの愛と、子育てをするための平和を願う気持ちが強くなるように本能として備わっているはずです。
また男性は優秀な子孫を残すために、ほかのオスと戦う勇ましさと、相手に勝つための頭の働きが強く発達してくるのです。
しかしこれら勇ましさや、平和を愛する心や、慈しむ愛の心や、頭と心を使う知性、は魂が至上神クリシュナから与えられた魂の質性なのです。
その性的本能による魂の修行徳目は次の四つに分けられます。
呼び名 本質 修行徳目 作用の特徴
1−荒魂(アラミタマ) 勇 恥じる心 進む、果敢、奮闘、勤勉、克己心
2−和魂(ニギミタマ) 親 悔む心 平和、修身、斉家、治国、親和心
3−幸魂(サチミタマ) 愛 畏敬の心 慈しむ、造る、進化、生む、育てる、
4−奇魂(クシミタマ) 智 覚る悟る力 技巧、観察、感性、覚る、悟る
この中の荒魂と奇魂は男性として学ぶべき魂の修行徳目であり、また和魂と幸魂は女性の魂としての修行徳目なのです。
この魂の修行のために、人間という動物が創られ、また優秀な子孫を残すために、男性の肉体があり、また女性の肉体が創られたのです。
それはこの世で、男女両方の性的本能による魂の修行ができるように、創造主神クリシュナによって創られたのです。
そして今生は男性であっても来世は女性として生まれ変わり、またその次はまた男性にと、輪廻を繰り返しながら男女の性別体験をして、その性的本能がもっている、男女両方の魂の質性を学ぶ事になっているのです。
今日は男性と女性の役割分担について書いてみたいと思います。
男性と女性の役割分担を考えるにはその原点として、動物の生態が参考にできると思います。
動物を参考にしてますので、すこし露骨的になってしまいますがご容赦ください。
1−オスはメスに子どもをつらせる役目、メスは子どもを産む役目。
2−子育てはメスが直接する役目を担う。
3−オスはその子育てを守る役目。
メスが子育てを担うのは、お乳がでるからである。
メスは授乳をするので当然子どもに対する慈しみの心が強く働き、それが動物としての本能にも反映されている。
オスはその子育てを、外敵から守る役目を負っている。
基本的にはこれが子育てにおける男性と女性の役割分担なのです。
この活動が社会の発展に伴い、この男女の役割分担がやりずらくなってきているのです。
一次産業が主体であった昔は、まだその役割はそれぞれが担うことができたのです。
しかし現代のように、物質文明が高度に発達し生活する為の手段が経済活動に移され、複雑で高度になっているため、いろいろな生活様式も生まれ、またそれにともない色々な価値観もたれるのです。
その為に、社会に出て一人前に生活できるまで一人を成長させるのに、非常に苦労が多い、という時代になってしまったのです。
本来、家庭生活をするということの意義は、昨日も書きましたが子どもを育てる過程において、「家族ともどもが精神的向上を図る」ことにあるのです。
それが今や、この生活を維持する為に必死に働かなければならない社会となり、逆に家庭生活で精神的に学ぶことすらできないという、矛盾が生まれているのです。
その為に結婚すらしない、またできない若い人たちも、出てきてしまっているのです。
これは至上神クリシュナから人間に課せられた、魂の修行である家住期の放棄にもつながる危機とおもわれます。
これらは神の科学であり真理なのですが、はやはりバガヴァット・ギーターを学ばなければ理解は不可能なのです。
今日は家庭を持つということについて書きたいと思います。
普通は誰でも大人になれば、結婚をして家庭生活を営み、子供を育てる。
この結婚をして子供を育てる意義は何であろうかと、その意義を考えることは非常に重要なのです。
バガヴァッド・ギーターではまず家庭を持つ意義について、色々な角度からその重要性を諭しています。
家庭を持つ事の意義は。
1−創造主神クリシュナが人間に対して義務付けた精神修行カリキュラムなのです。
それは四制(ヴァルナ)四住期(アシュラマ)として示されています。
この四住期(アシュラマ)は人間の一生を、学壮期、家住期、林棲期、遊行期の四つの修行区分に分け、その二つ目に家住期として家庭を持って子育をする修行があるのです。
2−家庭における修行としては、精神知識を持つ子供に育てることと祖先に対する宗教的義務を果たす、この二つが家庭における精神修行なのです。
3−結婚生活を義務付けることで、社会の奔放な性の乱れを防ぐ。
4−家庭を維持する為には夫婦が協力し合わなければならず、その夫婦和合の修行をする。
以上、家庭を持つ意義としては四つの意義があるのです。
単に子供を育てるだけならば、鳥や動物でもまた魚でも種類によっては子育ぐらいはしています。
子供を育てる愛情程度は、鳥や動物でも命に代えても子供を守ろうとしますし、人間と同じくらいの愛情の深さをもっています。
ここで大事なことは、子育ては子供に精神知識(道徳、宗教心)を植え付けさせ、また親もその姿を生活の中で子供に見せることなのです。
精神教育は言葉ではなく背中で教えるものなのです。
と言うことは、自分も同じように精神知識を学ばなければならない、と言うことになる訳です。
私と共に、ギーターを学んでいる生徒さんが、子育てに対する的確な例え話を書いておりましたので、ここにご紹介いたします。
子供の教育に対する考えはいろいろあるけど、私にとって子育ては果物の木を育てるって感じなの。
果物の木は雑草と違ってすごく手が焼けるでしょ。水をあげて、日当たりのいいとこに置いたり、寒くなってきたらハウスに入れてやたり、沢山の世話をしなきゃいけない。
だけど実際に果実が出来るまで育ったら手放す。
遠くでほかの人がおいしそうに果実を頬張ってるのを見たいけど、もう自分の木じゃないって思う。
この方に私は「あなたは立派に子育てをしましたが、それと同時にあなたも素晴らしい精神的果実を得たのですよ」と言ってあげました。
この子育てを通して、自らも精神的向上を図る事こそ、子育てをするその意義があるのです。
最近新しくパソコンを買うことになってしまった。
それはプリンターがダメになってしまったので、新しいのプリンターを買ったのが原因となっていたのです。
今までのパソコンのOSはXPのSP1だったのですが、新しく買ったプリンターがSP1に対応できなかったのです。
当然マイクロソフトのSP2のサービスパックをダウンロードしようとしましたが、このサービスも7月で終了となってました。
と言うことで中古のXPプロフェッショナルーSP3を買うことにしたのです。
たまたま売り出し期間中で、\5000引きであったこともラッキーでした。
今まではメモリーも14Gしかなく、その為操作スピードも遅く、いつもイライラしながら使っていたました。
それが今度はデュアルコアで40Gの容量もあり、当然のことながら今までのものとは比較にならないくらい速い操作ができ、非常に感激しました。
それからはパソコン作業が、こんなにも楽しものかと改めて気付かされたのです。
私は物を大事に使いたいほうなので、仕える限り使うため、故障しない限りどんなにも古くなっても、使ってしまうのです。
パソコンもプリンターにしても、新製品は安くなっているのに性能が格段に良くなっているのがOA機器と言うことは分かっています。
でも使えるうちはと、我慢しながら使っていても、結局は新しものにい買い替えを余儀なくされるのだと、つくづく思いました。
ちょうど娘も自分専用のパソコンが欲しいと言っていたので、その事もあったのだろうと思われます。
この様に、物事は無理なく自然に運ばれて行くのだと、そんな些細なことにも感謝の気持ちを持つことができる事は、幸せ者と思っております。
クリシュナを常に崇拝し帰依する生活をしていれば「必要なものは与えられ、大事なものは保護してくれる」まさにその事を実感したのです。
バガヴァッド・ギーターを学ぼうとする気持ちを持つ動機は様々だと思います。
でもこのバガヴァッド・ギーターの世界に興味を持ち学ぼうとする人は、数万人に一人いるかどうかの確率なのです。
ギーターを学ぼうとする人の動機は4種類に分けられます。<ギーター7章16節>
1−人生の壁に当たり苦悩している人。
2−実利を得ようとしている人。
3−好奇心の強い人。
4−さらなる真理を学ぼうとする人。
そして運よくギーターと出会い、また良き指導者とめぐりあっても、その学びの持続と進歩ができる人は、また三ランクに分けられます。<ギーター9章3節>
第一級の人とは − 絶対主神クリシュナの教えを理解し、その教えを確信し服従し没頭している人。
第二級の人とは − ギーターの教は熟知していないが、クリシュナの教えを確信している人。
第三級の人とは − ギーターの学びを熱心にしているが、その教えには確信を持っていない人。
ここで大事なことは、ギーターの世界に入り、その教えに確信が持てるかどうかなのです。
この確信こそが持続のガキであり、そこまでの心境に達し得なければ、途中で堕落してしまいます。
ちょうどロケットで地球の引力圏を脱っすれば落ちてこないように、この引力圏を脱することが確信と言うことなのです。
その稀なる存在の人は、謙虚さと謙遜の姿勢が絶対に必要条件になるのです。
まず謙虚さの本質は、自分はまだまだ未熟者であるとの自覚なのです。
この未熟者の自覚こそ精神的発展の原動力となるのです。
謙虚の心があってこそ、教えや物事のあり様を素直に受け入れる姿勢ができるのです。
謙虚の姿勢がない人は、どうしてもその行動が独善的になり、精神的進歩も阻害されてしまうのです。
その次の謙遜は、見栄を張らない、名誉を求めない、つまりは虚栄心を捨てることなのです。
この虚栄心こそ、人間界における修行障壁の最たるものなのです。
人生を栄華に過ごしてきた人こそ、虚栄心を捨てることができず、絶対神クリシュナの教えに近づくことさえできないのです。
この世で成功者と言われる人ほど逆に、名誉求めるたがるものであり、精神世界からは程遠い状態に置かれてしまうのです。
また現役引退しても、名誉を得た時の歓びの味を忘れることができず、肉体快楽から抜け出せないのです。
この名誉的快感もれっきとした肉体快楽であることをギーターは教えているのです。
過日、15日と16日のブログでも「精神知識をもって俯瞰(ふかん)せよ」とか「精神知識をもって分別せよ」と、この精神知識と言う言葉を使っています。
その他、精神的視点、精神的視野、精神的進歩、精神的な交流、と言った精神的の言葉がたくさん出てきます。
この精神的との言葉の真意を正確に捉えなければギーターの正しい解釈はできないのです。精神的とは、絶対神、創造主神であるクリシュナが諭した教えそのものであり、その教えに精通する知識であり、行為行動を精神的と言うのです。
決に見えないとか、手で触る事が出来ないから、と言ったいわゆる五感で捉えられないものを、精神的と言うのではないのです。
また御先祖霊や神霊やその他の霊的知識なども、バガヴァッド・ギーターの世界では精神的知識とは言わないのです。
ギーターで扱う精神的とは、道徳で教える人に対する思いやりの心や、人を許す寛容の心、嘘を言わない正しい心、我慢する忍耐の心、など人間の質性に対する正しい知識とその行動ができていることが精神知識を身につけていると言うのです。
たとえ学校で学ぶ一般的知識をたくさん持っていてIOの高い頭の良い人でも、道徳心のない人は精神的には愚かなる人なのです。
しかし今の時代は知識偏重であり、道徳の教えは全くされていないのが非常に残念です。
その他にも、精神的知識というものとしては。
1−自分の本質は魂である。
2−その魂は、絶対神クリシュナの分霊であり、クリシュナと全く同じ質性をもっている。
3−至上神クリシュナは、ブラフマー(宇宙の光輝)、パラマートマー(物質の原子構造)、ヴァガバーン(全ての支配者)の三つの姿で編満、片鱗している。
まだまだ、精神的知識に関してはたくさんありますが、これらの知識はバガヴァッド・ギーターを学ばなければ絶対に得られない知識なのです。
その人の精神的知識の獲得段階によって、最高主神であるクリシュナをブラフマーの存在としてとらえたり、パラマートマーとしての理解ができたり、そして最後はヴァガバーンとしてクリシュナを理解しクリシュナに崇拝帰依することができるようになるのです。
仏教やキリスト教などあらゆる宗教では「戒律」と言うものが定められています。
その戒律の中で最も重い戒律として、不殺生と不偸盗(ちゅうとう)がりあます。
つまり、生き物を殺すな、他者のものを盗むな、と言うことなのです。
実は、この二つの行為は人間が生きていくには、絶対に犯さなければならない罪として、神が人間に課したのです。
人は生まれながらにして罪びとである、とはの真意はこの事なのです。
逆を言うならば罪を犯さなければ人間は生きていけない存在なのです。
この事は人間どもが定めた法律と言ったそんな程度のものでなく、絶対神、創造主神クリシュナが定めた絶対なる掟なのです。
先ず人間は、植物や魚や動物の生命を奪わなければ、肉体を維持できないようになっています。
つまり罪を犯しながらも生きる意義は、その食物を与えてくれる、創造主神クリシュナの存在に気付き、神に対する感謝と、私たちの命をつなぐ食として、生命を提供してくださった恩が無駄とならないように、精神修行をすべきであるとのことなのです。
ところが人間は味覚の欲望に囚われて、自然の恵みの食物から離れ、次々と加工食物をつくりだし、生活習慣病を引き起こす始末となってしまっているのです。
それにもう一つ、人間はたとえ石ころ一つ自分の物はなく、この世の全ての物質は創造主神クリシュナのものであり、人間はそれを加工して、人間の生活に必要なものや便利なものを、作りだしているだけなのです。
つまり私たちは、創造主神クリシュナの所有物を黙って使い込んでいる盗賊なのです。
しかし私たちはそんな罪の意識は全くなく、人間の欲望の赴くままに次々と自然を破壊をしています。
また戦争に勝つためには使ってはならない、禁断の鉱石であるウラニュウムを利用して、神の細胞である原子構造を破壊する原爆もつくりました。
当然その報いは来ているのです。
物質文明は確かに私たちに便利さを与えてくれ、快適な生活も享受させてもくれております。
しかしその反面、その物質文明を発展させるために企業間の競争が始まり、それに続き一流大学に入学させる進学競争が始まり、世の中がゆとりの無いぎすぎすした生活を余儀なくされる始末となっています。
物質文明の発展は、経済戦争を世界レベルまで拡大させ今や、戦争やテロや経済の混迷、終わりの見えない原発災害など、もう人間界も終末を迎える時までに至ってしまいました。
これは「必要は発明の母」の諺だけにとどめれば、神は自然物質を恵みとして与えてくれるのです。
しかし、今の時代は経済の発展のために、欲望をこれでもかこれでもかと喚起する「発明は必要の母」の世の中になってしまい、人間が機械や物にこき使われてしまっているのです。
これらの事は不殺生、不偸盗(ちゅうとう)の罪を犯した私たちも、クリシュナが施した天網恢恢(てんもうかいかい)疎にして漏らさずの掟からは逃れられない、と言うことを証明しているのです。
天の網は広々とした網目だが、一滴の水すらもらさない、神秘的な網である。
最近「人に騙された」と言う人と偶然にも続けて会ったので、今日は騙される事について話したいと思います。
自分はこれまで全く人には騙されたと思うことがなく、人生を過ごしてきたので、なぜ人は騙されるのかを改めて考えました。
私は騙された人には「騙す相手も悪いがあなたも半分は責任がありますよ」と言っています。
その理由は、物事は全てを相手の責任にしていては自分の人間的向上はないからなのです。
例えば、仕事を教えたが相手がミスをした場合「これは自分の教え方が悪かったのでミスをさせてしまったのだ」と捉えれば、今度はミスをしないために教え方の工夫がそこに生まれてくるのです。
それが教える人にとっても、人間的進歩につながるはずです。
つまり失敗を人生の教訓とすることができるのです。
しかし、人を騙すことは全て相手が悪いのだと、自らを省みる態度がなければ、その人は人生の体験を活かすことができず、また同じ失敗をおこす危険があるのです。
人の観察においては、その人の精神的状態をまず見る必要があります。
以前にも書きましたが、その人が物質自然の三様式(無知、激情、徳性)のどの精神的様式を帯びているかを判断する必要があるのです。
ここで、相手が無知の状態であれば、騙されること無いですし、また相手が徳性の状態の人であれば、人を騙すことはしないでしょう。
つまり人を騙し騙されると言うことは、激情の状態にある職業に就いている人どうしの間に起きうる、もめごとなのです。
もともと激情の特質は、執着、欲望、奮闘、果報的、渇望、と言った激しい感情の中で活発に活動する人たちの性質です。
その激情の人たちの職業は、いわゆる経営者やビジネスマンの人たちであり、もともとビジネスの本質は出し抜きであり、程度の差こそあれ騙しでもあるのです。
その騙された事が大きいから悔しいと思うのであり、その事が小さければ気になっていないだけのことなのです。
自らもその境遇に生きている経営者やビジネスマンにとっては、常にその危険性を覚悟して取り組むことが求められるのです。
大体のケースが、相手の素性をよく知らずに相手にゆだねたり、相手との関わりにおける人情やしがらみから、と言ったケースが多く、よく分析すれば自分の方にも半分の落ち度や欲があるからなのです。
でも騙されたと思うことを、今後の人生経験として活かせばそれはそれとして教材費と思い、自分の人間的発展に結びつければと思えば良いのです。
この様に激情の世界にあっては、騙し騙されは付きものであると、覚悟して相手の人間性を観察したり、相手の真意を見抜くなり、慎重に取り組む姿勢が必要であるとの事です。
幸い私は信条として、「人には願わず、求めず、頼まず、人から頼まれた事に最善を尽くし、やりたい事だけをやっていく」を掲げているので、人に騙されたことはありませんでした。
今日は物事や世間の関わりは、精神知識を持って俯瞰(高い位置から見渡す)する重要性を説きたいと思います。
ここで言う精神知識とは、躾、道徳、倫理、宗教、哲学の五つを言うのです。
決して学校で教えている教科とはちがい、人間として身に付けなければならなし資質をいうのです。
それは、人に対する礼儀であり、優しさであり、許す寛大さであり、正直に生きることであり、素直さであり、自分を高める忍耐強さなどを言うのです。
これらを身につけ実行できる人が精神性の高い賢い人であると言うのです。
躾を身につけることを例えて言うならば、学校のグラウンドで友達同士が遊んでいる関係を悟ることであり、道徳を身につけることは、学校の屋上からグラウンドで遊ぶ生徒全体を見渡す事ができ、人間関係の重要性を知ることができるのです。
つぎに倫理を身につけることは、こんどは小高い山に登る事であり、学校や工場や街並みや人家や車の動きや人々の往来も見ることができるようになり、人生の生き方を知ることができるようになるのです。
さらに宗教観を身につければ、飛行機にのる事であり、それは地上を離れ空間と言う別次元から、そこの市全体やその周りにある山や川や海などの存在も、手に取るように分かるようになり、人間の生き方を知り来世も悟る事ができる様になります。
そして哲学を身につけることは、今度は地球の引力圏を脱しスペースシャトルに乗って日本全体や地球の姿も見渡すことができるようになり、魂の永遠性の安息地である郷里を知ることができるのです。
この様に地上の生活から、地上を離れた空間の次元へ、さらには地球を離れ引力圏も脱し地球全体をも見渡せる高次の境地を知ることができる様になるのです。
この様に次々と次元を高め、高い次元の境地を得るには、精神的知識を身につけ実践しなければそれは味わえないものなのです。
その精神的知識とは、他者に対する思いやりの心、人を許す寛容の心、他者を認める称賛の心、正直に生きる心、素直な心、忍耐の心などを養い、毎日の生活の中で他者とかかわりながら実践することなのです。
これらを知って実践してこそ精神的知識を身に付けたと言うことになるのです。
これらの精神的知識は学校で教えている教科とは全く違ったものであり、人それぞれが自ら悟り求めなければならないものなのです。
そして、これを得た人こそ人徳ある賢い人と、賞賛すべき人なのです。
これらは神の科学であり真理なのですが、はやはりバガヴァット・ギーターを学ばなければ理解は不可能なのです。
今日は自己とは何かの最も秘奥な教えを書きたいと思います。
私たち人間を徹底的に分析すると、24の要素にまで分析できるのです。
その一つ一つを理解して、人間と言う生物体を客観的に捉える事が魂の向上にとって非常に大事なことです。
まず体の構造を分析しますと、肉体、血液、体温、流れ(血液や気の流れ)、幽体(目には見えない体)の五つがあります。
それを五大要素といい、宇宙構成している地、水、火、風、空の五輪を、私たちの体にも秘めていると言うことです。
地ー肉体(手で触感できる体全体)
水ー血液(血液を代表とする水分)
火ー体温(36度2分程度に保たれた温度)
風ー気流(血液の流れや、気(プラーナ)の流れ)
空ー幽体(体にそって覆っている、目には見えないもので死後はこの幽体になります)
それに、物質としては捉えられていないのですが、微細な物質として三つの微細体というものがあるのです。、
目、耳、鼻、舌、皮膚、の五感から感じた思いを心でおこす想念、頭脳で記憶する知識、そして自分が肉体であると認識している偽我識の三つがあります。
これも立派な物質エネルギーとしてギーターでは物質としてとらえているのです。
しかし、一般的な人は目に見えない、手で触れない、と言ったそんな程度の感覚でしか、その有無の理解をしていないのです。
よく死んでも念がのこり、自縛霊としてそこに留まる霊的現象は、この物質エネルギーが強烈なために、目には見えないけれども想念エネルギーとしてその場に残っているのです。
それに頭脳で得られた知識もエネルギーとして目には見えないけれども、りっぱなエネルギー物質なのです。
また頭脳でつくられる知識エネルギーは、歳と共に肉体同様に衰えが激しいく、死と共に消滅してしまうのです。
したがって、学校で学んでいる知識などは、生きている間だけ利用価値のある化粧みたいなものなのです。
そして、私たちは自分のことを肉体として認識している人がほとんどであり、その意識を間違った意識という意味で偽我識といいます。
これらを合わせて、人間の八大要素というのです。
それから人間には、目、耳、鼻、舌、皮膚、の五つの感覚器があり、またその感覚器によって視覚、聴覚、臭覚、味覚、触覚の五つの感触があるのです。
ここまでの人間の八要素と五つの感覚器、五つの感触をあわせて、十八になります。
そしてその次は、人間が生活を営むために手、足、口、生殖器、肛門、の五つの運動部位があります。
そして最後に、以前にも書きましたが、人間の魂がこの物質世界に入ると、三つの物質自然の三様式(無知、激情、徳性)に取り込まれてしまうことを書きました。
この取り込まれている状態を自分では認識できない、未顕現意識というものがあり、誰もが必ずこの影響下におかれてしまうのです。
これらを全てたしますと、二十四になります。
この人間の二十四要素は、人間を科学的に分析したものであり、知っていようが知らまいが歴然としたものなのです。
私たちは魂が精神修行するために、肉体人間と言うその人に合った、その人の為の、カスタムメイドされた、生体ロボットなのです。
これらの事はバガヴァッド・ギーター第7章5節と13章6節に書かれております。
昨日は市内の介護グループ施設に、ボランティアとして娘と共に公演をしてきました。
私は津軽三味線の演奏と、津軽三味線の物語 を語り、娘は懐かしい唱歌 を歌って参りました。
女房が写真係として記録写真を撮りました。
ここで社長さんの驚く話を聞かされたのです。
社長さんは四年半前から、介護グループ施設の運営を始められたそうです。
しかし、一年半前から全身にケロイドのよな痕が残る皮膚の難病におかされたのです。
最初は単なる皮膚荒れと思い、開業医の診断を受けていたのですが、どうも様子がおかしいと県立病院にかかり、そこでこれは難病であることが判明したのです。
そして、もう一週間遅かったら命も危ない瀬戸際にあったことも知らさせたのです。
その皮膚荒れは全身だけでなく、口の中にもできるほどの、ひどいものであったようです。
それでも不思議なことに顔と手だけはその症状が全くできず、ケロイドの様な痕もできなかったのです。
その時はもう自分はこれで終わりなんだと、覚悟を決めたそうです。
それでも、なんとか全身の痛さと苦悩に耐え、持ちこたえている間に、死に対する恐怖心もなくなり、またすべての欲からも解放され、逆に生かれている責務を果たす強い信念を持つことができたと言っておりました。
「私は地獄の底を観ることができたから、自分に課せられた人さまと世に尽くす使命を、実感させられたのです」と言っておりました。
この方はまだ五十歳ですが、すごく綺麗な女性です。
その女性の命である顔には全く症状が出なかったことにも、すごく驚かされました。
また使命を持った人には奇跡が起こり、さらに強い使命感を植え付けされるのだと、その奇跡を見せられたのでした。
私も過去を振り返ると、そのような奇跡としか思えない人との出会いが沢山ありました。
この何気ない人との出会いこそ、人間にとっては最高の奇跡であると思うのです。
その人との出会いの奇跡を、奇跡として捉える事の出来ない鈍感な感性が、その人の修行の障害となっているのではないでしょうか。
その最大の出会いの縁はやはり生涯を共に暮らさなければならない、伴侶の出会いの奇跡ではないかと思います。
私はその伴侶を生涯の修行相手とし、「女房の幸せは自分の幸せ、女房の不幸は自分の不幸」 と捉え、女房との関わりを如何に自分の修行とするかに、全力を尽くしています。
その姿勢をとことんやり尽くせば、「必要なものは与えられ大事なものは保護してもらえる」と言ったクリシュナの加護を得ることができると確信しているのです。
今日は自己とは何かの自己分析を、バガヴァッド・ギーター的解釈で行いたいと思います。
バガヴァッド・ギーターでは、五つの事柄について書かれております。
1−この宇宙の物質と精神を支配する至上絶対神について。
2−この宇宙を構成している物質自然の本質について。
3−この宇宙に生息する神々や人間を含めた生物体について。
4−人間がこの宇宙で輪廻転生するカルマについて。
5−この宇宙も大きなサイクルの中に生成消滅している時間について。
バガヴァッド・ギーターはこれら五つの事柄について、ヴェーダをはじめウパニシャドウ、ヴェーダンタスートラ、シュリーマド・ヴァーガバタム、プラーナ、マヌサンヒター、その他あらゆるインド哲学の精髄が集められ、それらに対して詳細かつ体系的に述べられています。
これらは永遠なる存在ですが、4番目にある輪廻転生するカルマだけは、精神知識を得て物質次元を解脱すれば、カルマから解放されるのです。
そして私たちの魂は、至上絶対神に基にかえり、創造主神クリシュナと永遠の歓喜を交わすことができるのです。
その為に私たちは完璧な自己の分析をして、肉体、魂、神の分霊(スーパーソウル)の三つについて、徹底的に学ばなければならないのです。
今までに何回となく自己の本質である魂について、また魂と創造主神クリシュナとの関係、そして創造主神の直接拡張体であるパラマートマーについても書いて参りました。
一般的に私たちは、肉体をもって自分であるとの認識する思いが非常に強いものです。
その自分は肉体であると思うその原因は、目、耳、鼻、舌、皮膚、の五つの感覚器から感じる感覚が強いために、その五感で感じる肉体が自分と錯覚してしまうのです。
それに五感で感じた事により、そこから暑い、寒い、きれい、汚い、気持ちいい、気持ち悪いなどの思いが心に生じるのです。
そのいろいろ思う心自体も感覚器でり、そこに想念が生まれるのです。
また人間にはいろいろ考える力うみだす頭脳があり知識を持つことができるのです。
その他に誰でも囚われている、自分は肉体である思っている偽我識(いがしき)があります。
さらには、以前も書きましたが物質次元に人間の魂が入ると三つの物質自然の三様式(無知、激情、徳性)に囚われてしまう、自分では感知できない未顕現意識というものもあるのです。
これらはすべて、肉体にまつわる物質次元の作用であり、この肉体作用によって人間の魂は、翻弄されたり自己を見失ってしまったり、しているのです。
本来はこの肉体を使って、魂の精神的向上を図るのが本来の肉体の存在意義なのですが、逆にその肉体の持つ、動物的本能や物欲や名誉欲によって、感覚満足を求める誤った道を突き進んでいるのです。
したがって、魂の乗り物である肉体の本質を徹底的に知ってこそ、正しい生き方ができるのです。
逆に言うなれば、肉体の正しい知識を得なければ永遠にその肉体の罠からは抜け出せないと言うことなのです。
これらは神の科学であり真理なのですが、はやはりバガヴァット・ギーターを学ばなければ理解は不可能なのです。
今日はイソップ物語のウサギとカメのお話をギーター的に解釈してみたいと思います。
まずは、ウィキペディアからあらずじと、その教訓を引用します。
あらすじ
ある時、ウサギに歩みの鈍さをバカにされたカメは、山のふもとまでかけっこの勝負を挑んだ。かけっこを始めると予想通りウサギはどんどん先へ行き、とうとうカメが見えなくなってしまった。ウサギは少しカメを待とうと余裕綽々で居眠りを始めた。その間にカメは着実に進み、ウサギが目を覚ましたとき見たものは、山のふもとのゴールで大喜びをするカメの姿であった。
教訓
過信(自信過剰)して思い上がり油断をすると物事を逃してしまう。 また、能力が弱く、歩みが遅くとも、脇道にそれず、着実に真っ直ぐ進む事で、最終的に大きな成果を得ることができる。
ギーター的に解釈
この話の中では、ウサギとカメが目標としたものの違いがキーポイントになるのです。
ウサギはカメをみており、カメは目標だけを見ていた点です。
この目標だけをが一番重要なことであり、ウサギは一番重要な目標をわすれ、今何をしているか、何をなすべきか、と言った一番大切なものをほったらかし、居眠りと言う快楽と怠惰の境地を味わっていたのです。
私たちが生きていく人生において、学生時代、社会人の時、家庭を持って生活する時、老後の時、それぞれの時点でそれぞれの果たすべき事があるはずです。
その人間としてやるべき、魂の向上という宗教的義務(ダルマ)を忘れ、物欲と快楽に酔いしれている人間はこのウサギと同じ生き方をしているのです。
人間としてやるべき目標を、人生の世代世代ごとにたて、その世代世代にやるべき事に向かって努力するのです。
まず一つ目の目標を達すれば、必ず次の目標が見えてくるのです、そしてまたその目標を達成すればまた次の目標が出てくるのです。
この様に人生は世代世代のつづらおりの山を、折り目折り目の目標にむけて一歩一歩登って行くことが大切です。
ウサギとカメの話は、この様に深い読みをすることで、人生と言う長い生き方においては目標を持った生き方が大事である、との教訓として理解ができます。
今日はイソップ物語のアリとキリギリスのお話をギーター的解釈してみたいと思います。
まずは、ウィキペディアからあらずじと、その教訓を引用します。
あらすじ [編集 ]
夏 の間、アリ たちは冬
の間の食料をためるために働き続け、キリギリス は歌を歌って遊び、働かない。やがて冬
が来て、キリギリスは食べ物を探すが見つからず、アリたちに頼んで、食べ物を分けてもらおうとするが、「夏には歌っていたんだから、冬には踊ったらどうだ?」と断られ、キリギリスは餓死する。
教訓 [編集 ]
将来のことを考えずに行動すると、その将来が訪れた時に、困ることになる。将来の事を考え、働ける好機を生かすことで、長期的に大きな効果を得ることができる。
これをギーター的な解釈をしますと。
キリギリスは鳴くことによって人々に秋の風情を与え、人々に対してその使命を命が尽きるまで果たしました。
したがって死して後は、高次の動物段階に生まれ変わるのです。
しかし、食べるためだけに働いているアリは、来性も食べるためだけに、一生働かなければならない、同じ体で生まれてくるのです。
これは一年を一生と置き換えて考えのです。
そうしますとキリギリスは一年で生涯をとじますが、アリは冬を越して来世も同じアリとして生まれ変わっていると言えるのです。
私たちがこの世に生まれてくるには、三つの意味があるのです。
なぜ、この世に生まれた生年月日が今だったのかの、何に故にがあり。
なぜ、男としてまた女として、そしてこの様な性分をもって生まれたかの、性があります。
そして、この世に生まれその性分を果たす使命は何なのかの、命があるのです。
この様に人間には、昆虫や動物とは違った、人それぞれにそれぞれの使命があり、その使命をはたす責務を負っているのです。
このことを知ろうとせず、また知っても実行していない人は、ただ食べるだけの生涯を過ごすことになり、当然ながら来世も同じ人間の肉体をもって、この厳しい娑婆世界に生まれ変わらなければならないのです。
その輪廻のメカニズムを、具体的に体系的に示してあるのがこのインド哲学バガヴァッド・ギーターなのです。
世の中はどんどん物質的に発展をしている。
その代表的な例としては、携帯の機能ではないかと思います。
そもそも携帯は電話であり、また電話の本質は遠くの人と話ができる、その為につくられたのです。
したがってそれだけの機能があれば携帯は、それだけで事足りるのです。
たとえば江戸時代に家庭電話だけでもあれば、その時代ではこれはもう凄いことになると思います。
ましてや携帯となったら、腰を抜かす摩訶不思議の驚きとなるでしょう。
しかし今やその携帯は、単なる話をするだけのものではなく、パソコンの端末としての機能まで持つことになり、これはもう凄い世界となりました。
それだけにこの携帯を使いきることができる人はすごい人であり、またそれを本当に使い切るには、どれほどの仕事やら活動などをしている人なのか、想像もつかないくらいの世の中になってしまっています。
これほど物質的に発展している社会にあっては、社会構造は複雑になり、便利にはなったもののその代償として、社会はどんどん矛盾と混沌と競争が激化し、またそれに伴い人々の心は狂気と残酷が助長されてしまい、お互いが助け合う住みやすい社会とは程遠い、住みにくい社会となってしまうのです。
そしてそれにともない、人間として生きていくために重要な道徳や宗教の心も失われてしまいます。
例えばバガヴァッド・ギーターで教えている、学僧期(ブラフマチャーリー)においてすべきことは、精神知識(ヴェーダ)を学び、感覚欲望の抑制に努めることがその修行とされているのです。
つまり異性とは決して交際をしてはならなず、当然のことセックスなどはもっての外なのです。
これは性欲盛んな思春期の男女にとっては非常に精神の修行となるのです。
しかし今では婚前のセックスはしてはいけないと、真面目に諭す教育などはなされず、それどころか正しい避妊のし方などを教える始末ではないでしょうか。
賢者に婚前のセックスはしてはいけないと諭せば努めてこれを行い、凡人に婚前のセックスはしてはいけないと諭せば半信半疑であり、愚な者に婚前のセックスはしてはいけないと諭せば「何をばかなことを言ってる」と嘲け笑われる、しかしこの愚な者に嘲け笑われるようなものでなければ本当の道とは言えないのです。
出来ない事にも、天地の差がある。テーマ:私のエッセー今日は「出来ない事にも、そこには天地の差がある」ことについて書きたいと思います。
私は津軽三味線の演奏家であり、また生徒を育成することも仕事としてやっております。
その津軽三味線の素晴らし演奏技は撥さばきにあります。
その撥さばきの奥義を教えるのに、三種類の技法があります。
またそれぞれの技法にもまた、数々のコツがあるのです。
これらの事を十分に知ってそのコツを飲み込み、それをやりこなすところに演奏技の奥義修得が可能となるのです。
しかし、これらの事を十分知ってそれを行っても、奥義を極めることは、なかなか簡単にはできないものなのです。
でも私はいつも生徒さんに言っているのです。
知っているけど出来ない事でも、努力してやれば必ずできる。
しかし撥さばの重要性や、三種類の撥さばきの技法、またその技法の数々のコツを、知らないでただやっているだけでは、その奥義は永遠に極めることはできないと。
ここに出来ない現状にも、努力していても今はできないのと、そのことの重要性や技やコツなどを全く知らないで出来ていない状態では、天地の差、雲泥の差ほどの違いがあるとのことです。
これは津軽三味線の演奏の奥義修得についてのお話ですが、これを私たちが生きて行く毎日の生活に置き換えて考えても、同じことが言えるのです。
私たちの人生の完成と言うことに置き換えても、当然そこには生きるための掟なり、宗教的責務などが定められているのです。
それらは物質自然の三様式であるグナの掟であったり、四制四住期(ヴァルナシュラマダルマ)であったり、またはカルマの法則なのです。
これら創造主神クリシュナが定めた、人間としてやるべき課題と言うものが厳格に課せられており、またそれらにそれぞれの仕来たりが定められているのです。
当然これらを学ぼうとしなかったり、無視したりしては、人生の完成は永遠に不可能となるのす。
つまり、知らないために出来ていない、知っていてもやらない、このような人は永遠に人間的完成はないのです。
これらは神の科学であり真理なのですが、はやはりバガヴァット・ギーターを学ばなければ理解は不可能なのです。
昨日まで、道徳は仁、義、礼、知、の四つを知りそれを行うことであると書いて参りましたが、今回はさらにもう一つ加えます。
創造主神クリシュナの定めた天の道である道徳の体系を知り、この物質界の宇宙を貫く道の存在を信じて「実践し確信して」生きていくことが、道徳の根本である「五徳」となるのです。
この物質界の宇宙を貫く天の道は、創造主神クリシュナが定められた掟であり、誰もがこの物質界で平和に争うことなく精神修行をするために施された理法なのです。
それは人間は最低限度の生きるための欲だけですませ、強欲、支配欲を排した、無為自然の心で生きよ、という天道の教えです。
そして、その無為自然に生きるには平和に過ごすための人としての「生き方の道」があるのです。
その人としての生き方の道の本質が「仁」、他者に対する思いやり、つまり「惻隠の情」と言うものです。
この他者に対する思いやりは心の世界のはたらきであり、どうしても強欲に消されてしまうのです。
そこで人間に、他者に対する思いやりの出来ないことは恥ずかしいことであるとの「恥の教え」である「義」を諭すのです。
この恥ずかしい事はどんな事なのかが誰もがその場でわかる具体的な行動として、他者に対して「譲る心」としての「礼」を教えるのです。
この、誰もがその場でわかる具体的な行動としての礼義をしっかり認識させるために、良い事、悪い事を分別する「知」を諭すのです。
その分別の物差しとなるのが、仁(思いやりの心)であり、義(恥じる心)であり、礼(他者に譲る心)なのです。
したがって人間が生きていくうえで、絶対に必要な行動基準は、他者に対する思いやり、恥ずかしいことはしない、自らは辞して他人に譲る謙譲の心、これらを知って、それを「確信して実践」して生きていく、そのような人を「五徳」を身につけた人であると言うのです。
この五徳をしっかり身につけ実践している人こそ、尊敬に値する上に立ち指導できる人物であると言えるのです。
道徳は仁、義、礼、知、の本質とその体系を知ることであると昨日書きました。
その根本はこの物質界の宇宙すべてを貫いている、永遠の創造主神クリシュナの掟があり、それを天の「道」と名づけ、我々を含めすべてがこの道に貫かれて生きていると言うことです。
その道を知り、その道に即して生きるのが我々に課せられたダルマ(宗教的義務)なのです。
この道に反する生き方に、カルマの報いが生じるようにその掟が創られており、誰もそれから逃れることはできないのです。
愚かにも人類はその掟を無視し、この世を支配しようとしゃかりきになり、物質文明繁栄のため、戦争、飢餓、自然破壊、などの道を突き進んでいるのです。
それもこれもこの「道」の存在を忘れ、またダルマを果たす教えもうけず、この世で快適に生きていくために、今の学校で教えている物質次元の知識偏重主義がその根源なのです。
人間は知性(ブッディー)と知識(ジュニャーナ)の二つを治めることが必要です。
知性(ブッディー)とは正、邪、善、悪の物事の本質を見ぬく力であり、また知識(ジュニャーナ)とは、物質次元と精神次元を見分ける知識なのです。
たとえば人間は肉体と言う物質と魂と言う精神的な混合した存在であり、またその中間的な心で感じる意識とか頭脳の知識なども分類的には物質次元であると言った、物質と精神の正しい知識(ジュニャーナ)をいうのです。
私たちが学校で学んでいる、国語、数学、理科、社会、英語、その他ほとんどの学科は、哲学の世界では知識とは言わず俗知であり、この世をうまく生きるための処世術であるとの分類なのです。
さらに、この知識の偏重をきたすと、精神的知識が損なわれ、人類が矛盾、疑念、妄想、狂気の世の中に貶められて行くようになってしまうのです。
まさに今がその様な世となっており、自殺者や精神異常者が増え、昔では考えられないような異常な事件も日常茶飯事となってしまっているのです。
これも人間本来が学ばなければならない道徳の精神知識が全くおろそかにされているからなのです。
しかし残念ながら、今の感覚欲望を満たすことが幸せであると言った価値観にどっぷりとつかり、無知の酒に酔いどれている愚集には、その真理はとうてい理解できないことでしょう。
私たちが住む、この物質次元の宇宙には、知ろうが知らまいが、分かろうが分からまいが、歴然とした法則なり掟なるものが存在しているのです。
それが創造主神クリシュナが定めた崇高なる法則であり「道」と言うのです。
この道である法則を知り、身に付けた人を「人徳」ある人と言い、この人徳を持った人が人々の上に立ち、国を治める資格を持つのです。
この道徳の重要性が説かれると言うことは、他人に思いやる「仁」の心、すなわち惻隠の情が薄れた故に道徳が説かれるのです。
またこの「仁」の重要性が説かれると言うことは、人の道である「義」が失われているから、「仁」が説かれるのです。
この義とは恥を知る心であり、この恥を知る重要性を説かなければならないとの事は、他人に対する「礼」が損なわれているからなのです。
またこの「礼」は、自ら辞して人に譲るの「辞譲」の精神であり、この「礼」の精神の重要性が説かれる必要があると言うことは、「知」が正しく行使されていないからなのです。
つまり学校で学ぶ知識が、欲望を満たすための誤った学びとなり知識偏重社会になってしまっているからなのです。
この欲望を満たす為の知識偏重社会こそ愚の本質であり、それは社会が乱れる、騒乱の始まりなのです。
この欲望を満たす為の知識なるものは、道徳の徳目の最下端の存在であり、それはうわべの化粧に過ぎない存在なのです。
ほとんどの学生が狂ったように目指している、知識偏重社会こそ愚の元であり乱の始まりなのです。
道徳とは、天道から始まり徳、仁、義、礼、知、の序列が何故に並んでいるのか、その本質を知ってこそ、道徳の意義が分かるというものです。
それからすれば如何に今の、欲望を満たすための知識偏重教育が愚かしく乱れた人間社会の元凶であるかが理解できます。
各月へリンク 平成24年 1月 12月 11月 10月 9月 8月 7月 6月 5月
昨日、道徳とはを、バガヴァッド・ギーター的視点から、その根本を考えてお話をいたしました。
まずこの世の物質次元は、全てが循環と言った大きなサイクルの中で繰り返しながら、らせん状に、人間を動物的次元から、魂の存在であると認識できる、精神的次元までに成長させる為にあることを書きました。
そしてそこには、歴然としてクリシュナが定めた、物質次元の掟である、トリグナがあり、カルマ・ヨーガがあり、輪廻転生があり、自然の摂理があり、動物の食物連鎖があり、季節の巡りがあり、それに伴う植物の循環などがあります。
そしてそこには、知ろうが知らまいが、分かろうが分からまいが、歴然とした法則なり掟なるものが存在しているのです。
その創造主神クリシュナが定めた崇高なる法則を「道」と言うのです。
この道である法則を身に付けた人を「徳」ある人と言い、この徳を持った人が人々の上に立ち、国を治める資格を持つのです。
これらの教えを道徳と言い、道徳を治めた人を「人徳」のある人と言うのです。
ほんらい人の上に立ち国を治めるのはこの人徳をもって行うべきですが、どうも今は人徳よりも、小賢しい知的能力の優秀さで、それを決めているようです。
確かに一時的に、部分的に、物質的発展は人間を豊かにしてくれたと、錯覚をおこさせてくれます。
しかし、それが社会全体や地球的規模と言った大局的視点に立った場合は、その歪といったものは認識できないのか、無視しているのか、当たり前として知らず知らずに許容ているかです。
一言で言うと身の回りのことについては非常に便利になったが、逆に生きていくための生活費を稼ぐには、非常に住みずらい世の中になってしまった、と言うことなのです。
政治や国を治める立場にある人は、この人徳の心がなければ、国民は必ずその人たちの使役となり、搾取の対象としかなりえないのです。
とは言っても、一度この物質次元のサイクルに陥ってしまうと元への復帰はなく、人類滅亡の道にばく進して、最後は地球破壊に至るしかないのです。
宇宙的規模での大変革によって、地球が破滅するまでに肉体意識からはなれ魂的存在になれば、どんなことが起きようが、「魂は永遠不滅である」という確信のもと、無恐怖の境地にいたれるのです。
これらは神の科学であり真理なのですが、はやはりバガヴァット・ギーターを学ばなければ理解は不可能なのです。
今日は道徳とは何かと言った、根源的な事をバガヴァッド・ギーターの視点から話したいと思います。
まずはこの全宇宙を含めた、私たちが住んでいる物質世界は、ブラフマーが創造したものです。
創造主神クリシュナは、この物質世界をブラフマーに創らせ、その維持をヴィシュヌ神に、そして破壊をシヴァ神に行わせているのです。
この宇宙は創造され、維持され、破壊されるのです。
これがまず決められた、宇宙の生涯であり宇宙の法則なのです。
ブラフマーの一生は、地球的時間からすると、311兆4千万年です。<バガヴァッド・ギーター8章17節>
また身近に知っている宇宙の運行例では、太陽の周りを地球は365日でまわり、地球は24時間で自転を正確にしています。
また、地球が23,4度傾いているため、春、夏、秋、冬、の四季がつくられ、季節の循環が生まれるのです。
要するにこの物質次元はすべて大小にかかわりなく、歴然とした運行管理の基に循環しているということなのです。
この歴然とした運行管理の基の循環を、「道」と名付けます。
その循環の管理をしている、この宇宙の総元締めが、ブラフマーなのです。
また、宇宙の創造を担当するブラフマーや、この宇宙の維持を司るヴィシュヌ神も、破壊を担うシヴァ神もすべて、創造主神クリシュナの分神なのです。
ということはこの宇宙の運行や、自然の摂理、さらには動物の本能、植物の生育循環などの、自然界や生物界にいたるまで全ては、創造主神クリシュナの厳然たる管理の基に存続している、と言うことなのです。
その厳然たる全ての管理を、「道」というのです。
私たちは天、人、地の三つの中に立ち、その三つを「道」と言う目に視えない道理で貫かれていると言うわけです。
道徳の道とはこの「道」のことを言うのです。
これらは神の科学であり真理なのですが、はやはりバガヴァット・ギーターを学ばなければ理解は不可能なのです。
昨日まではバガヴァッド・ギーターに書かれている一部を、ピックアップしながら書いてきました。
今回は道徳というものを、ギーター的解釈に基づいて、書いてみたいと思います。
現在、この道徳について、具体的にかつ体系的に教えている家庭や学校は、ほとんど無いのではないかと思います。
今の世の中は、学校で教ている、数学、国語、理科、社会、英語、その他の教科はつまるところ、この世で快適に生きていくために、いい大学校に入り、いい就職先に努め、いい給料をもらって、いい生活をすると言った、ロジックを消化するための教えとなっているのです。
その根本は、動物の持つ保身という本能であり、快適にと言う人間の快楽という欲望がその原動力となっているのです。
これらはともに、動物次元の働きであり、人間本来の魂の本質ではないのです。
人間は魂であり、肉体と言う生命物質の心臓にやどり、肉体をつうじて魂の修行をすることがその本筋なのです。
魂は、以前にも書きましたが、四つの性質いわゆる荒魂、和魂、幸魂、奇魂、の四魂の性質を与えられ、その四魂の修行をするのが人間として生まれた目的なのです。
決して、快適に、楽しく、幸せにと言った刹那的な相対的な感覚的な、そんなものを求めるために人間の体をもらったのではありません。
それでは本質的に、犬、猫、猿、と同じ生活をしているのと変わりません。
猿より少しだけ、記力、計算力、言語力、などが発達しているだけで、本質的にはこの世で生きていくための、生活手段がそれらの動物より少し複雑で高度になっているだけなのです。
人間は魂の存在であり、その魂の質的向上を図るために、道徳、倫理、宗教、哲学と言った精神的に向上する義務を負わされているのです。
その、人間として身につけなければならない、第一歩がこの道徳なのです。
以前にも道徳や倫理について初歩的な事を書きましたが、今回は道徳の本質的なところを、ギーター的解釈に基づき、数回にわたりお話してまいりたいと思います。
これまで五回にわたり、ヨーガについて書いてきました。
ヨーガとは、人間の動物としての物質次元から、自己は魂という精神的存在と自覚し、生きる目的をはっきり認識して、その目標に向かって信念と意志を持って生活する、精神浄化のカリキュラムである、と書きました。
またそれは、人間的進歩をなす為の、階段でありはしごに例えられ、それは宗教と哲学が融合したものであり、哲学のない宗教は狂信か邪教であり、また逆に宗教のない哲学は頭脳的思索にすぎないとも書きました。
それから、そのはしごはどんなものがあるか、またその人にとってはそれがどのようなものかも書いてきました。
そのヨーガの種類としては、一番大事なものはカルマ・ヨーガであり、このカルマヨーガは誰もが、知ろうと知らずまいと、必ず果たさなければならない職業階級制度であり、輪廻を何回も何回も繰り返しながら、その職業で他者に奉仕をする、責務を全うしてこそ、次の職責につくことになるのです。
この他者に奉仕と言うことが非常に大事なのです。
この他者に奉仕という事を、シュードラでは御主人に、ヴァイシャは社会に、クシャトリヤは国民に、ブラーフマナは指導者にそれぞれ奉仕する修行の義務を負っているのです。
しかし、人々は自らが湧き起こす飽くなき欲望を果たすことにだけで、なかなか他者に奉仕しようと働こうとしないのです。
本当は、他者に奉仕する精神が、最終的に創造主神クリシュナに崇拝帰依する、心境の基になるのですが、人間は非常に愚かなる存在なので、それができないのしょう。
その愚かなる根源は渇望と言う飽くことない、次から次に湧き出る欲望です。
その渇望がその人自身を、どんどんトリグナの罠に落とし、ギシギシと縄で自由を縛りあげていくのです。
このトリグナの意味するところは罠であり縄なのです。
このカルマヨーガを果たしながら、具体的にジュニャーナ・ヨーガ(精神知識を学ぶ知的修行)と、ディヤーナ・ヨーガ(瞑想修行)、そして最終修行であるバクティー・ヨーガ(クリシュナに崇拝帰依する)へ進むのです。
それから一般的にヨガ、ヨガといわれ、美容や健康やシェイプアップなどの目的で行われている類のものは、アシュタンガー・ヨーガ(八段階の具体的修行) のほんの一部である、アーサナ(身体の調整)なのです。
本来ヨーガは、肉体から精神へ昇華するための修行でありその目的からすれば、肉体に関する美容やシェイプアップは目的外なのです。
またディヤーナ・ヨーガは、アシュタンガ・ヨーガの中のディヤーナ・ヨーガ(瞑想)であり、何も囚われない自由な境地である三昧の境地を味わうサマーディを目的としています。
いわゆるスプリチュアルの人たちが目的とする段階なのです。
このスピリチュアルの世界で停滞していた人が、そこに満足できなく、さらに深い真理を求めて向かうのがヨーガの最高峰であるバクティー・ヨーガ(クリシュナに崇拝帰依する)なのです。
このようにヨーガは体系的に捉えなければ、人はその部分だけに留まってしまう、いわゆるヨギーという辺境ヨギーに陥ってしまうのです。
ヨーガを理解し、またその修行することの意義を理解し、最終的にヨーガの最高峰であるバクティー・ヨーガ(クリシュナに崇拝帰依する)に至ってこそ、ヨーガの修行というものなのです。
これらは神の科学であり真理なのですが、はやはりバガヴァット・ギーターを学ばなければ理解は不可能なのです。
今まで、カルマ・ヨーガ、ジュニャーナ・ヨーガ、ディヤーナ・ヨーガ、とお話して参りましたが、今日はヨーガの最高峰であるバクティー・ヨーガ(クリシュナに崇拝帰依する)についてお話したいと思います。
ヨーガは、人間の動物としての物質次元から、自己は魂という精神的存在であると自覚し、生きる目的をはっきり認識して、その目標に向かって信念と意志を持って生活する、精神浄化のカリキュラムである、と書きました。
またそれは、人間的進歩をなす為の、階段でありはしごに例えられるとも書きました。
そしてその最終目標がこのバクティー・ヨーガ(クリシュナに崇拝帰依する修行)の修得になるのです。
まずは「自分は魂の存在であり肉体ではないのである」との意思をはっきり自覚することができなければ、このバクティー・ヨーガ(クリシュナに崇拝帰依する)の入門もできないのです。
これは、カルマヨーガの修行で徳性(サットヴァ)の境地まで上り詰めて行かなければ、バクティー・ヨーガ(クリシュナに崇拝帰依する修行)をやろうとする強い意志は持てないのです。
無知(タマス)や激情(ラジャス)の段階では、まだまだ自分は肉体的存在と意識しており、その肉体から発せられる欲望に突き動かされて、物質世界を狂ったように動き回っている状態なのです。
残念ながら今の99.99%はその段階の人でしょう。
カルマ・ヨーガの修行を経て徳性を持ったほんのわずかの人が、ジュニャーナ(精神知識を学ぶ知的修行)を実践する段階に入るのです。
また人によっては、ジュニャーナ・ヨーガよりも、アシュタンガー・ヨーガ(八段階の心身の修行)のほうを選択して、創造主神クリシュナの直接拡張体であるヴィシュヌを瞑想して三昧(我欲から解き放たれた安心の境地)を目指す人もいます。
このヴィシュヌを瞑想できる境地に至って三昧の心境になり、さらに魂の帰還すべき永遠の精神惑星ゴーローカ・ヴェリンダーヴァンにいる、人間の姿をした創造主神クリシュナを愛することができるようになるのです。
そのクリシュナの教えに迷わず確信し、クリシュナを崇拝し、帰依し、服従し、そしてその教えの世界に没頭することが、ヨーガの最高到達点になるのです。
この境地に至ればすでにクリシュナと共に生きているといった実感がわき、常にクリシュナが守ってくれ、必要なものは与えてくれ、大事なものは保護してくれます。
全てを完全にクリシュナに任せきれば、クリシュナい守られている安心感を得られます。
このバクティー・ヨーガ(クリシュナに崇拝帰依する)を修得すれば、この肉体を保ちながら、この世で生活しながらも、無欲、無恐怖、無執着の安心立命の境地を得られるのです。
実は私はもうその境地にいますので、その実感をそのままここに書いているのです。
これらは神の科学であり真理なのですが、はやはりバガヴァット・ギーターを学ばなければ理解は不可能なのです。
ヨーガとは、人間の動物としての物質次元から、自己は魂という精神的存在と自覚し、生きる目的をはっきり認識して、その目標に向かって信念と意志を持って生活する、精神浄化のカリキュラムである、と書きました。
またそれは、人間的進歩をなす為の、階段でありはしごに例えられ、それは宗教と哲学が融合したものであり、哲学のない宗教は狂信か邪教であり、また逆に宗教のない哲学は頭脳的思索にすぎないとも書きました。
ではそのはしごはどんなものがあるか、またその人にとってはそれがどのようなものかを書いてます。
ヨーガの種類としては、カルマ・ヨーガ、ジュニャーナ・ヨーガ、ディヤーナ・ヨーガ、バクティー・ヨーガがあります。
今日はディヤーナ・ヨーガについてお話いたします。
ディヤーナとは瞑想を意味するのです。
その瞑想するものは、ハートにやどる自己の本質である魂にいつも寄り添い、私たちの行動をすべてご覧になっており、そして過去のこと、現在のこと、そして未来のことを全て知り尽くしている、スーパーソウルであるパラマートマーを瞑想するのです。
そのパラマートマーの姿は四本腕をもったヴィシュヌ神であり、この宇宙を維持する至上主神クリシュナの直接拡張体なのです。
このアシュタンガー・ヨーガの八段階の終局点はサマーディ(三昧)と言い ハートに宿るヴィシュヌ(創造主神クリシュナの直接拡張体)をリアルに瞑想することです。
このサマーディ(三昧)においては、神の姿を人間の様な形として捉えることができるようになります。
それ以前の、ジュニャーナ・ヨーガ(精神知識を学ぶ知的修行)の段階としての神の存在は、自然界の造形や自然活動の偉大な力として、非人格として神の存在を感じるだけです。
しかし、ディヤーナ・ヨーガの段階になると、神の形を人間に似た姿として捉える段階まで来るのです。
そして、私たちは常にそのパラマートマーである、神の直霊と共に行動していることを確信して、誠実に経典に沿った生き方を目指すようになります。
この段階にまで心が浄化されてくると、自らの行くべき方向や、やるべき使命を実感し、それに向かって進む心境になるのです。
この段階に来ればもう自分は肉体ではなく、魂と言う精神体であると自覚ができている状態なのです。
これらは神の科学であり真理なのですが、はやはりバガヴァット・ギーターを学ばなければ理解は不可能なのです。
このバガヴァット・ギーターの教えに触れることの出来る人は、100万にのうち一人程度の確率と、私は思っております。
今日はジュニャーナ・ヨーガについてお話したいと思います。
ヨーガとは人間が動物としての物質の意識から、自分は魂の存在であるとする自己認識を高める精神修行の過程を、ヨーガと言うのです。
その修行カリキュラムはさまざまあり、先回までお話しいたしました誰もが否応なくさせられるヨーガの基本である、カルマ・ヨーガなのです。
このカルマ・ヨーガは、輪廻を何回も何回も繰り返しながら、職業を通じて魂の精神性を高めることであると書きました。
今日はジュニャーナ・ヨーガについてですが、一口に言いますと精神知識を学ぶ知的修行を、ジュニャーナ・ヨーガと言うのです。
その学ぶ対象は、神の御言葉とされる、ヴェーダやウパニシャドウやヴェーダンタスートラなどの聖典を学ぶことであり、それがインド哲学なのです。
ヨーガとは本来、宗教と哲学が融合したものであり、哲学のない宗教は狂信か邪教であり、また逆に宗教のない哲学は頭脳的思索にすぎないのです。
ジュニャーナ・ヨーガはヴェーダやウパニシャドウなどのインド哲学を学ぶことであり、本来の魂としての自己と、肉体としての物質的な自己とを分別する知識なのです。
つまり魂と肉体は別であり、魂こそ自己であると確信する知的修行を、ジュニャーナ・ヨーガと言うのです。
また特に、魂に関しての明確な知識、それに魂に寄り添うスーパーソウル(パラマートマー)について、それら本来の真理を学ぶものを、ヴィジュニャーナと言います。
この様に知識として学ぶだけでなく、人生の経験を通じてその真理を悟る、経験的精神知識の修行をジュニャーナ・ヨーガと言うのです。
またジュニャーナ・ヨーガをギャーナ・ヨーガとも言い、この知識に偏重したヨギーをギャーナ・ヨギーと言い、知的に優れた記憶能力をもちその知識を誇り、そのため知的優越意識に留まってしまう限界があるのです。
しかし、このジュニャーナ・ヨーガを経なければ、創造主神と自己との関係や自己に内在するパラマートマーの明確な知識を得られず、次の段階に確信を持ってステップアップできないのです。
これらは神の科学であり真理なのですが、はやはりバガヴァット・ギーターを学ばなければ理解は不可能なのです。
昨日は、カルマ・ヨーガについてお話をしました。
人間が何回も何回も、数多の輪廻転生で仕事をつうじて、その役割をはたし、そこで無知の状態から激情に、さらに徳性へ精神性を向上させるのがその目的であることを書きました。
このカルマ・ヨーガの全てにおいて共通していることは、他者への奉仕、と言うことです。
肉体労働者(シュードラ)は主人に仕え、農業、商業、工業の経営者(ヴァイシャ)は社会に貢献し、軍事行政の(クシャトリヤ)は国民に仕え、徳性をもつ者(ブラーフマナ)は精神指導者として世の中に仕える役目をそれぞれ担っているのです 。<バガヴァット・ギーター4章13節>
この他者に奉仕するということが、正しい方向にむかってこそ、世の中が平和で、それぞれが修業しやすい環境が保たれるのです。
この奉仕の課題を果たした者が、次の生まれでは、次の段階へ昇格した肉体的資質を得ることができるのです。
その昇格の証は、単純肉体労働から技術的労働へ、そして知的労働から芸術、精神的労働へと、その仕事をするのに必要な肉体的資質を持って、生まれてくるようになるのです。
これは人間として、人間界でのカルマ・ヨーガです。
しかし、魂の発展と言う観点からすると、人間になる以前に、それこそウイルスやアメーバー次元から始まり、魚類、植物、昆虫、鳥類、動物、そして人間になるといった、魂の発展工程があることを忘れてはなりません。
誰もが元始はウイルス程度の状態から、840万種の生物工程をへて人間界に生まれられたのです。
この過程を私たちは、妊娠した女性の子宮の中に相似形として見ることができます。
それは、男性のウイルスのような精子から受精した卵子が、人間の形に形成されていく過程そのものなのです。
このようにウイルス状態から輪廻を重ね、人間として生まれていると言うことは、非常に貴重な価値があるということなのです。
その、生物の最高峰である人間として、持って生まれた精神能力を発揮して、苦しみの輪廻を脱出し、魂の最終目的である、創造主神クリシュナがすむ永遠の精神世界ゴーローカ・ヴェリンダーヴァンを目指す、修行の第一歩がカルマ・ヨーガなのです。
昨日ヨーガとは、人間の動物としての物質次元から、自己は魂という精神的存在と自覚し、生きる目的をはっきり認識して、その目標に向かって信念と意志を持って生活する、精神的浄化のカリキュラムである、と書きました。
またそれは、人間的進歩をなす為の、階段でありはしごであると例えました。
ではそのはしごはどんなものがあるか、またその人にとってはそれがどのようなものかを書きたいと思います。
ヨーガとは精神修行のためのカリキュラムであり、それは人間の動物的状態から魂の精神的状態へ導くための修行カリキュラムであることをまずは認識することです。
決して肉体の健康や美容、ましてやヨガポーズの美しさ見せる、見世物なんかではないのです。
それにヨガを習得する間に特別な超常能力を身につけたりすることもありますが、これこそは優越意識を助長させる迷いの世界なのです。
ヨーガの種類としては、カルマ・ヨーガ、ジュニャーナ・ヨーガ、ディヤーナ。ヨーガ、バクティー・ヨーガがあります。
今回はカルマ・ヨーガについてお話いたします。
ヨーガの修行システムで一番重要なシステムがカルマ・ヨーガであり、心身浄化のカリキュラムの(T)と(U)で説明をしました、四制四住期(ヴァルナシュラマダルマ)がその根幹となっているのです。
この四制四住期(ヴァルナシュラマダルマ)は、創造主神クリシュナが人間の精神向上のために定めた厳粛なる修行システムなのです。
人間は肉体を持って物質世界に生まれてくると、だれもが物質界の三様式というトリグナ ((無智、激情、徳性)にがんじがらめに縛られ、肉体から発せられる動物的本能である食欲、性欲、快楽や、人間の持つ物欲、名誉欲、支配欲、などに猛進してしまうのです。
その物質自然の三様式トリグナ(無智、激情、徳性) から逃れる手段として、輪廻を繰り返しながらいろいろな職業体験して、精神的向上をするように意図されているのです。
決して職業と言うものは、自分の希望から、また世間体裁から、ましてや親の希望程度で決めるものではなく、その人に備わった肉体的特質、手先の器用さ、芸術的感性、思考能力、精神的能力など、その人が輪廻を通じて持って生まれてきた質性、つまりカルマ(業)にあったものから選ぶべきものなのです。
これがまず一番大事なヨーガの基本であり、これを何回も何回も輪廻をして果たすことがカルマヨーガと言います。
まず今日は、ヨーガで一番基礎となっているのが、このカルマヨーガだと言うことを知っていただきたいと思います。
これまで心身浄化のカリキュラムとして、三回にわたって記述して参りました。
ヨーガとは人間の動物としての物質次元から、自己は魂という精神的存在と自覚し、生きる目的をはっきり認識し、その目標に向かって信念と意志を持って生活す、精神的浄化のカリキュラムをヨーガというのです。
それは人間的進歩をなす為の、階段でありはしごなのです。
そのはしごは、神とはどんな存在で、どのように遍満、偏在、臨在、しているのか。
この世の物質自然の成り立ちや、法則、時間、カルマはと何か、それぞれを緻密に分析し、それを分かりやすく体系的に、まとめられております。
そして、最期は私たちがどの様にして、動物としての人間から、精神次元の魂へ昇華するかを諭しております。
さらに、その境地にたどり着けた人だけが、私たちの魂の故郷である、創造主神クリシュナのすむ永遠の精神世界へ赴くことができるのです。
創造主神は私たちの父であり、保護者であり、友達であり、私たちの全てをご覧になっている目撃者なのです。
その方は、精神世界の最高峰であるゴローカ・ヴェりンダーヴァにおわし、私たちはそこでクリシュナと永遠の愛の交歓を楽しむのです。
その境地は全て精神的歓喜であり、肉体的な刹那的快楽とはまったく次元が違うのです。
その精神的歓喜を得るためにこそ、精神的真理を知らなければならないのです。
それは、永遠真理を説くインド哲学バガヴァット・ギーターを学ばなければ絶対に不可能でしょう。
そのためには、心と肉体の両方を浄化させなければ、心の奥底からバガヴァット・ギーターを学ぼうとする意志さえ沸いてこないのです。
心と肉体の浄化とは、その判断とは、それぞれその人が生きている四制四住期によって、その人の使命や行動のあり方が違ってくるのです。
それに欲望もけっして悪いものではなく、どんな欲望をどの程度まで追求するのか、その見極めが大事なのです。
それが動物的肉体を持って、人間として生まれてきた最大の修行環境なのです。
人にはそれぞれ、想いどおりにできない、手かせ足かせをつけられての毎日や、幸福不幸、暑い寒い、金持ち貧乏、と言った二極相対の世界で生きていかなければならない様に、その修行環境を与えられているのです。
その精神的発展のための階段またははしごをヨーガというのです。
一般的に言われている、美容やシェイプアップ・健康のためといったものはヨーガの誤用であり、逆に肉体にとらわれずに、肉体から離れる修行こそがヨーガの本質なのです。
今まで二回にわたり、心身浄化のカリキュラムとして、四制四住期(ヴァルナシュラマ・ダルマ)について書いてきました。
ここでは、何回も何回も生まれ変わりの輪廻を通じて、四つの労働者区分のシュウードラ(肉体労働者)からヴァイシャ(農業、商業、工業経営者)、クシャトリア(軍事行政官)、ブラーフマナ(知的&精神的労働者)にだんだん上っていく修行過程があることを書きました。
その次は、その人の生涯を四つに分割して、学壮期、家住期、林棲期、遊行期をすごす修行があることも書きました。
今日は、もっと具体的に肉体の浄化に関する、ヨーガの方法があることを書きたいと思います。
そのヨーガは、アシュタンガ・ヨーガと言い、八つの段階からなっています。<バガヴァット・ギーター5章27&28節>
一般的にヨガといわれているのがこの、アシュタンガ・ヨーガなのです。
それは、ヤマ、ニヤマ、アーサナ、プラーナーヤーマ、プラティヤーハーラ、ダーラナー、ディヤーナ、サマーディーの八つで。
ヤマ、ニヤマは、躾や道徳的なおしえ。
アーサナ 座法、全身の整体
プラーナーヤーマ 呼吸法
プラティヤーハーラ 五感(目、耳、鼻、舌、皮膚)の統制
ダーラナー 心の統制
ディヤーナ 雑念をはらう瞑想
サマーディ ハートに宿るヴィシュヌ(創造主神クリシュナ)をリアルに瞑想
これは人生を通して何時でもやるべき、肉体と感覚と心を制御するための具体的な、修行徳目なのです。
この段階は、躾や道徳の理解からはじまり、次は身体全体の気流の円滑化、呼吸の沈静化、心の静寂化、そして創造主神クリシュナの分身の瞑想へと進むのです。
ヨーガは心身浄化の階段であり、宗教から哲学への前進であり、動物次元としての肉体感覚から自分は魂であるとする認識への意識の進化が目的なのです。
これらは神の科学であり真理なのですが、はやはりバガヴァット・ギーターを学ばなければ理解は不可能なのです。
人間は魂の存在ですが、その魂の浄化をはかるには、体と心の両方を浄化しなければなりません。
そのための過程は、人間の動物的段階から、まずは知識を得て、躾を身につけ、道徳、倫理、宗教、哲学を経て、最期に創造主神クリシュナの基に還るのです。
それは、人間界を何回も何回も輪廻転生して、魂は永〜い永〜い旅をしなければならないのです。
そのために創造主神クリシュナは、人間界に修行カリキュラムとして、四制四住期(ヴァルナーシュラマ) を制定しました。
それは輪廻を通して学ぶカースト制(職業的社会階級)と、一生涯を四つに分けて修行するアシュラマ(宗教的修行義務)を制定されたのです。<バガヴァット・ギーター4章13節>昨日は、四制(ヴァルナ)といわれるカースト制(職業的社会階級)についてお話いたしましたが、今日は人間が生まれて死ぬまでに行わなければならない修行、アシュラマ(宗教的修行義務)についてお話いたします。<バガヴァット・ギーター4章26節>
輪廻を何回もしながら学んでいくカースト制にたいして、生涯を四区分して修行する四住期といわれるアシュラマ(宗教的修行義務)があります。
1−学壮期(ブラフマチャーリー) 精神指導者の基で精神的知識の他に、作法や道徳の基礎的知識を学ぶ。
2−家住期(グリハスタ) 家庭生活を営み、先祖や崇拝や子供の教育をとおして、生計のしがらみを負いながら、修行を果たす時期。
3−林棲期(ヴァーナプラスタ) 子育てをななれ、今度は自分の個人としての修行に励む時期。
4−遊行期(サンニャース) それまでの人生をとうして得た教訓を、後輩たちに教え導く人生の最終過程。
例えば80年の人生があったならば、その人生を四つに区分して、各20年を目安にそれぞれの修行を行うのです。
ここで重要なことは、徳性(サットヴァ)の者は、学壮期(ブラフマチャーリー)には、精神的知識や作法や道徳を学ぶことの方が重要であり、一般知識は二の次であること。
家住期(グリハスタ)の目標が、先祖崇拝と子供の教育であり、決して物質的に豊かで便利な生活の追及ではないことが重要であること。
還暦を過ぎた人生の最期の遊行期(サンニャース)は、精神的教訓を後世の人々に伝えることを使命とすること。
特に徳性(サットヴァ)の人は、年代ごとに行うべき修行があることを知って、このアシュラマ(宗教的修行義務)を忠実に行ってこそ、最終的な精神指導の立場を得ることができるのです。
これらは神の科学であり真理なのですが、はやはりバガヴァット・ギーターを学ばなければ理解は不可能なのです。
今までは自己のとらえ方と魂の真理について書いてきました。
魂は創造主神クリシュナの分霊(ママイヴァーンシャハ)であり、私たちの心臓に宿り、その本質は信念、意志、精神知識であり、全身をめぐる活力のエネルギーなのです。
その魂は肉体に入り、物質自然界で活動することで、物質自然の三様識(トリグナ)によって無知、激情、徳性、の三つの資質に汚染されてしまうのです。
このトリグナから逃れて、清浄無垢なる神の資質をとりもどし、創造主神クリシュナがすむ精神界の最高惑星(ゴーローカ・ヴェリンダーヴァン)でクリシュナと永遠の歓喜を楽しむのが最終目的なのです。
そのためには、私たちの心身を人間の五欲から開放させ、道徳、倫理、宗教、そして哲学という永遠真理の学びへ導くことがそのその道筋です。
そのために創造主神クリシュナは、人間界に修行カリキュラムとして、四制四住期(ヴァルナーシュラマ) というカースト制(職業的社会階級)および人生におけるアシュラマ(宗教的修行義務)を制定されたのです。
まずカースト制(職業的社会階級)ですが、これはその人がもって生まれた肉体的や精神的な資質によって、その人に適した職業が四段階に決められているのです。
1−シュードラ(無知の資質) 肉体労働者であり、人に仕えることをその修行とする。 それは人間の足に例えられます。
2−ヴァイシャ(無知と激情の資質) 豊かな社会のために人を使い社会に奉仕することをその修行とする。 それは人間の胃袋に例えられます。
3−クシャトリア(激情の資質) 軍事と行政を担当し国民の生活向上のため国民に奉仕する義務を負っている。
それは人間の腕と手に例えられます。
4−ブラーブマナ(徳性資質) 知的労働階級の人々で科学者、教師、文学者、哲学者であり人々の知的精神的指導を司っている人。 それらは人間の頭に例えられます。
このようにカースト制は、その人が動物次元から仕事をとおして精神的に発展し人間として成長するために、設けられた修行カリキュラムなのです。
それは決して身分を差別的に定めたものではなく、あくまでも精神的発展の区分として定めたものなのです。
シュードラは足と例えられていますが、私たちは足がなければどこへも行けません。
汚れた土を踏んだり、体全体の重さを受け止めたりと、肉体的には厳しいことをしますが、しかしその足がなければ、私たちの行動は限られた範囲に狭められてしまうでしょう。
このようにそれぞれにはそれぞれの与えられた役割分担があり、それを全うしてこそ、次の段階に進めるのです。
今まで、自己のとらえ方と魂の真理について書いてまいりましたが、今回はそれをまとめてみます。
1−私達は肉体ではなく魂であり、それは創造主神の分霊(ママイヴァーンシャハ)であり、そのため創造主の永遠無限の資質である、名誉、支配、裕福、優美、無執着などの欲を、極わずかに備えているのです。<バガヴァット・ギーター15章7節>
2−私達の魂は、肉体をもって物質界に存在するため、物質界の掟である物質自然の三様式トリグナ(無智、激情、徳性)によって、無智、激情、徳性の状況に魂が汚染されてしまうのです。
3−魂は肉体をもってこの物質界で楽しみ苦しみながら修行をして、最期は出生の郷である創造主神クリシュナの元に還る壮大な魂の旅をしている。
4−魂の本質は信念であり意志であり、そして行動する為の知識であり、気流となって体内を巡り、活力の元となっている。
5−魂は物質自然の三様式トリグナによって汚染されており、このトリグナの掟から逃れ肉体を浄化する事が、物質界での修行なのです。
6−その修行は、魂が数多の輪廻転生を体験して、四つの職業的区分(カースト)を経て、徳性(ブラフマナ)にいたって宗教を理解し更に、最期は哲学の入門を許され 創造主神クリシュナの郷に還ることができる。
次回は魂の浄化のための修行カリキュラムについて書きたいと思います。
インド哲学バガヴァット・ギーターはこれらのことを、細かく分析的に体系的に語っている聖書であり、このバガヴァット・ギーターを読んでいると、ほかの書物には魅力を感じなくなります。
それこそ魂は知識であるため、真理に触れたことにより本物の歓びを感じているのです。
そして、どこかも好きなところから読むことができ、それでいて毎回新しい発見があり、幸福感に浸されます。
昨日まで魂の真理について二回にわたって書いてきましたが、今日はもっと魂について具体的に書きます。
1−魂の出生は、宇宙万物の創造主ブラフマーの息吹によって生まれたのです。そのブラフマーは創造主神クリシュナの拡張体である、ガルボダカシャイーヌ・ヴィシュヌのへそから生えてきた蓮の花から生まれたのです。
2−魂は私たちの心臓に宿り、その大きさは毛先の一万分の一の大きさであり当然、見ることも、殺すことも、焼くこともできず永遠不滅であり、肉体にある誕生、死、老化、病、などはありません。<バガヴァット・ギーター2章17節>
3−魂は心臓に宿りながらも、五種の気流(プラーナ)となって体の中をめぐり、それが活力となって活動するのです。それに人間は、活動せずにいられないようにできているのです。
4−魂は血液にもエネルギーを与えその力が血液の重要な作用となって、肉体を支えているのです。
5−魂が去った肉体はそれだけで、悲しくも死体と言われてしまいます。
6−と言うことは、肉体は魂が動かす死んだ乗り物 と言えるのです。
7−人間はおろかなる者であり、私たちの根源である魂よりも魂の乗り物に心血を注ぎ、肉体こそは私だと言った、偽我識(いがしき)に汚染されているのです。
この偽我識が、私たちに精神的自覚を促すための最大の障害となっており、この偽我識から開放されない限り、こ世の知識万能主義の偏った価値から抜け出せないのです。
本来ならば、学校で教えている一般知識よりも、人間の根源である魂の知識を教えている、道徳、倫理、宗教、哲学などの精神知識のほうが、はるかに重要なのです。
今の世の中は、物質的に恵まれて、快適に、便利にすることが人間の幸せになる道と、大錯覚を起こしているのです。
確かに今は便利な社会になりましたが、その代償として人間として生きていくのには、皮肉にも生きずらい世の中になってしまっています。
これは魂の本当の精神教育が、なされていないからなのです。
この魂の重要性を知り、正しい活き方を目指すにはやはり、インド哲学バガヴァット・ギーターを学ばなければ、それは不可能でしょう。
昨日までに、自己のとらえ方として、そして魂の真理として、その結論は「自分は肉体ではなく魂である」と、そしてその魂は、信念であり意志であり、そして行動する為の知識である、と説きました。
しかし、その信念も意志も知識も、この物質界では物質自然の三様式(無智、激情、徳性)であるグナの魔力 によってその人特有の信念、意志、知識を必然と持ってしまうのです。
この物質自然の三様式によって、グナ特有の質性やその人に合った職業 や、信仰する神々 や、食事の嗜好 なども影響を受けてしまう事もを、物質自然の三様式(トリグナ)の魔力として、四回にわたって記述してきました。
従ってどんな人でも、信念や意志を持って、本人の自覚に基づいた行動をしていても、それは当然グナの魔力 からは逃れられないのです。
本人は冷静に知的に自分の将来を予測し想定して計画していても、その思うこと事態がこのグナの魔力 に憑りつかれての発想の結果に過ぎないのです。
哲学と言う言葉を、その人その人の「信念に基づいた活き方」と定義いたしますと。
哲学と言う目標や道は、その人その人が信念としてもつ無数の道がある、となるのです。
実はこのグナの魔力 を知り、このグナの掟から逃れる事が、物質界での修行なのです。
それは魂が、数多の輪廻転生を体験して、四つの職業的区分(カースト)を経て、徳性(ブラフマナ)にいたって宗教を理解し更に、哲学の入門を許されるのです 。
自己とは魂であり、その魂は至上主神クリシュナの分霊であり、それは個別性をもち、信念と意志と知識を持った、五感ではとらえられない精神エネルギーである。
しかし、この程度の知識を得ても、その魂を包むグナの魔力の存在を知らなければ、更にはそのグナを超越する術を知らなければ、つまりバガヴァット・ギーターを学ばなければ、根源的なる人間の苦しみからは、逃れられないと言う事なのです。
昨日までのブログは、自己のとらえ方として二回書いてきましたが、その結論は「自分は肉体ではなく魂である」と断言しました、それがまず自分と言う真理なのです。
その魂は、信念であり意志であり、そして行動する為の知識である、と説きました。
その知識も、肉体から発する欲望を満たす物質次元の知識と、自己の精神的完成を目指す精神次元の知識の二つがあることも書きました。
そして、私達の魂は創造主神の分霊(ママイヴァーンシャハ)であり、そのため創造主の永遠無限の資質である、名誉、支配、裕福、優美、無執着などの欲を、極わずかに備えているのです。<バガヴァット・ギーター15章7節>
しかし、その欲を自分の快楽の為に使っているところに、人間の不幸があるのです。
当然、人間の誰にでも備わった、創造主神のもつ質性は、自己の精神的進歩の為に使うべきものなのです。
決して自分の欲望を満たす快感の為に、至上主神から授かった純粋なる性質を誤用してはならないのです。
魂は永遠不滅であり、さらに不老、不死、不病、なのです。<バガヴァット・ギーター2章18節&30節>
私達は、肉体を基準に物事を考える習慣がガッチリ染み込んでいる為、肉体の衰えがそのまま精神力までも減衰させてしまうと錯覚しています。
しかし、ほんらい魂は信念や意志といった精神的なものであり、肉体の衰えとは全く関係ないのです。
しかし肉体の一部である頭脳は物質であり、その頭脳で記憶したこの世のあらゆる知識などは当然老衰し、最期は肉体の死と共に消滅するのです。
だが、魂に刻み込まれた信念や意思と言った精神的知識は肉体が消滅した後でも、永遠にその人の魂の資質として残り、来世の生命体に引き継がれ輪廻転生していくのです。
それと大事なことは、魂は個別性をもっており、そのため個人としてそれぞれの自覚があるのです。<バガヴァット・ギーター2章12節>
その個別性が、それぞれに活かされ、それぞれのカルマがうまれ、それぞれの人生が形成されるのです。
残念ながら、この世で生きている人達は、正しい信念と意志とそれを実現する為の正しい、精神知識を持ちあわせることなく、ただ毎日毎日を惰性と習慣で生きているのが、ほとんどではないかと思います。
この魂の重要性を知り、正しい活き方を目指すにはやはり、インド哲学バガヴァット・ギーターを学ばなければ、それは不可能でしょう。
先回は自己のとらえ方として、哲学的観点にたって考えてみました。
そこでは、私達の魂の出生の真理、魂の本質的な性質、物質界の物質自然の三様式であるトリグナ(無智、激情、徳性)によって、今の自分の肉体と性質を含めた状態があること、そしてこの物質界で修行をして、最期は出生の郷である創造主神クリシュナの元に還る壮大な魂の旅を、私達はしていることを書きました。
今回は、今までいろいろ話しをしてきたまとめとして、人間を分析的にとらえてみたいと思います。
先ずほとんどの人は自分を、肉体の固体としてとらえている人が、ほとんどであると思います。
とわ言っても、20年前の写真と、つい最近の写真を比べれば、絶対にその違いは分かるはずです。
しかし、20年前の自分も今の自分も、同じ自分であると認識をしているはずです。
と言う事は、固体としての肉体は自分ではないということなのです。
20年前も今も自分と認識しているその認識こそが自分と言う事なのです。
つまり肉体をはなれ、自分を認識できる自分がいると言うことなのです。
その認識者を魂と言うのです。
したがって魂の本質は意識と言う事なのです。
その意識を、更に強烈に意識する事を、信念と言ったり、意志といったりするのです。
またその強烈に信念や意志を持つと、そこにはその意志を具現化するための知識が存在してくるはずです。
その知識が、肉体から発する欲望を具現化する物質的知識なのか、また人間的成長を計る精神的知識なのかこの二つがあります。
しかし今の学校で扱っている知識はすべて、肉体から発する欲望を具現化する物質的知識であり、このよで肉体を維持する為の処世術であり、この世で肉体が存続している間だけしかその価値はなく、魂が存続する永遠性からみれば、それは瞬時の価値でしかないのです。
魂がほんらい必要とする精神知識とは、道徳(仁、義、礼、智、信、)であり、また人生を正しく生きていく為の倫理(親、分、義、序、信)であり、そして過去性や来世の生き方までを規定する宗教であり、絶対真理(チット)、永遠不滅(サット)、至高至福(アーナンダ)を知る哲学の知識なのです。
魂は意識あるもの、その意識を精神知識に同化させる事こそ、この世で人間として生まれてきた、人生の意義のなのです。
その為に、人間には五感があり、心があり、知性と知識を磨く頭脳を持っているのです。
肉体から発せられる動物的本能の食欲、性欲、保身や、人間だけがもつ物欲、名誉欲、支配欲にとらわれることなく、本当の自分である魂の向上を司る精神知識の修養と、肉体を浄化するヨーガの修行こそがこの世に生きる意義なのです。
昨日は哲学のとらえ方を書きましたが、今日は哲学的観点から、自己とはどんなものなのか、を説きたいと思います。
以前に、創造主神の科学について書きました。
そこで、私達の魂はこの宇宙の動植物や自然の造形を創造した、ブラフマーから誕生したと書きました。
そしてそのブラフマーを生んだのが、全ての宇宙の創造主神クリシュナの直接拡張体である、ガルボダカシャイーヌ・ヴィシュヌであると書きました。<バガヴァット・ギーター7章4節>
この真理からすると当然、私達の魂は創造主神の間接の拡張体、創造主神の分離的魂であると結論付けられます。<バガヴァット・ギーター15章7節>
これこそが私達の出生の真理なのです。
私達は神の分霊であり、その性質は、創造主神と全く同じ純粋な性質なのです。<バガヴァット・ギーター15章7節>
その創造主神の質性を、この世的に形容しますと、名声、権力、富裕、優美、英知、無執着、の六つの無限大の永遠性となるのです。<バガヴァット・ギーター2章2節>
その六つの性質を、人間の魂は創造主神の分霊であるために、ほんのごくわずかに備えており、人間も名声、権力、富裕、優美、英知、が欲望としておこるのです。
しかしその欲望が物質次元に入ると、トリグナの罠にはまり、純粋性がゆがめられしまうのです。
さらに、創造主神は名声、権力、富裕、優美、英知、の質性の他に、無執着を備えておりますが、この無執着こそ、我々をその欲望から、またグナの罠から解放してくれる、救いのカギとなっているのです。
先ず私達は、創造主神の分離的魂である事を自覚し確信することにより、私達の自己の原点と質性を認識できるのです。
これなくして、自分はどこから生まれたのか、また母親が誰あるかを知らずに平気で生きているようなものです。
子供の頃よく、「お前は安倍川の橋の下から拾ってきたのだぞ」と言われていました。
それで私は、橋の下で誰かに生み落とされたのかと信じていたのです。
人間は正しい出生の源を知り、その原質を知り、そして生まれの元に還る術を知るべきなのです。
その還る術はバガヴァット・ギーターを理解し、クリシュナを崇拝し全をクリシュナに帰依する生活を実践しなければ、輪廻転生しない永遠の郷に、還ることはできないのです。
これらは神の科学であり真理なのですが、はやはりバガヴァット・ギーターを学ばなければ理解は不可能なのです。
このバガヴァット・ギーターの教えに触れることの出来る人は、100万にのうち一人程度の確率と、私は思っております。
しかし、その100万人の中の一人の為に私は毎日このようにブログを書いているのです。
昨日は哲学のとらえ方を書きましたが、今日は哲学的観点から、自己とはどんなものなのか、を説きたいと思います。
以前に、創造主神の科学について書きました。
そこで、私達の魂はこの宇宙の動植物や自然の造形を創造した、ブラフマーから誕生したと書きました。
そしてそのブラフマーを生んだのが、全ての宇宙の創造主神クリシュナの直接拡張体である、ガルボダカシャイーヌ・ヴィシュヌであると書きました。<バガヴァット・ギーター7章4節>
この真理からすると当然、私達の魂は創造主神の間接の拡張体、創造主神の分離的魂であると結論付けられます。<バガヴァット・ギーター15章7節>
これこそが私達の出生の真理なのです。
私達は神の分霊であり、その性質は、創造主神と全く同じ純粋な性質なのです。<バガヴァット・ギーター15章7節>
その創造主神の質性を、この世的に形容しますと、名声、権力、富裕、優美、英知、無執着、の六つの無限大の永遠性となるのです。<バガヴァット・ギーター2章2節>
その六つの性質を、人間の魂は創造主神の分霊であるために、ほんのごくわずかに備えており、人間も名声、権力、富裕、優美、英知、が欲望としておこるのです。
しかしその欲望が物質次元に入ると、トリグナの罠にはまり、純粋性がゆがめられしまうのです。
さらに、創造主神は名声、権力、富裕、優美、英知、の質性の他に、無執着を備えておりますが、この無執着こそ、我々をその欲望から、またグナの罠から解放してくれる、救いのカギとなっているのです。
先ず私達は、創造主神の分離的魂である事を自覚し確信することにより、私達の自己の原点と質性を認識できるのです。
これなくして、自分はどこから生まれたのか、また母親が誰あるかを知らずに平気で生きているようなものです。
子供の頃よく、「お前は安倍川の橋の下から拾ってきたのだぞ」と言われていました。
それで私は、橋の下で誰かに生み落とされたのかと信じていたのです。
人間は正しい出生の源を知り、その原質を知り、そして生まれの元に還る術を知るべきなのです。
その還る術はバガヴァット・ギーターを理解し、クリシュナを崇拝し全をクリシュナに帰依する生活を実践しなければ、輪廻転生しない永遠の郷に、還ることはできないのです。
これらは神の科学であり真理なのですが、はやはりバガヴァット・ギーターを学ばなければ理解は不可能なのです。
以前、5月30日のブログで 、哲学の解釈<哲学は生き方の美学>について記述しました。
そこでは、哲学のとらえ方を次のように書いておりました。
哲学の解釈は、人それぞれだと思いますが、私なりにそれを分類すると。
1−哲学をアカデミックの分野と捉え、東西哲学の歴史や比較分析をはじめ文献としての研究を、知識として学ぶ世界。
2−偉大な人物の教訓を、生きていく為の有効的処世術として、利用する世界。
3−その人の行き方の信条としてその人なりに、確信して実践する世界。
この様に分けられますが、そのわけ方として、知識として学ぶ形と、実際に行動して活用する形の二つに分けられます。
更にその活用が、ビジネスの成功や物質的豊かさ、生きる充実感、を達成させる目的として取り入れるものと、もう一つは、自分自身の自己完成を目指す生き方の哲学として、取り入れる形の二つに分けられます。
と記述しています。
この様にその人の性質や知識や精神レベルによってそれぞれの解釈やとらえ方が違ってくるのです。
それは哲学の世界だけではなく、人間とは何か、同行二人とは何か、人間の幸せとは何か、その他のことも含めてそれぞれに、その人なりの解釈があるのです。
それを信念として、生き方として、実践するのがその人の哲学になる訳です。
それでは、「人間とは何か」を、道徳の教えとして、宗教の立場から、哲学の視点からと、三つの立場で解釈しますと
1−人間は、人と人との関わりの間で生きていくので、人間と言う。(道徳的解釈)
2−人間は、六道輪廻(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)の修羅と天上の間で生きているから人間と言う。(宗教的解釈)
3−人間は、動物としての物質次元から、魂としての精神次元を目指して生きるから人間と言う解釈。(哲学的解釈)
また同行二人の解釈は。
1−説法をするには何時も二人で行きなさい(仏教的解釈)
2−何時も弘法大師さまは貴方といっしょですよ(密教的解釈)
3−貴方のハートにはパラマートマー(神の直霊)が寄り添っているのです(哲学的解釈)
となります。
しかし人間の幸せとはどんなものですか?問いに対する解釈となりますと、今度は色々なものが出てきます。
これこそ正に、人それぞれであり、ある人はお金持ちになること、病気で苦しんでいる人なら健康になること、
また女性なら何時までも若く美しくありたいなど、様々な解釈が出てくると思います。
しかしこれこそ、人間の迷いをつくる欲望であり、宗教的解釈なくして最上の幸せはありえません。
その最上の幸せについて仏陀の教えとして、私もブログですでに記述しております のでそちらをお読み下さい。
しかしこの最上の幸せについても、この物質界の輪廻を脱する事はできず、更なる永遠の精神的至福を得るには、やはりバガヴァット・ギーターを学ばなければなりません。
バガヴァット・ギーターを理解し、クリシュナを崇拝し全をクリシュナに帰依する生活を実践しなければ、この世の物質次元を越えた永遠の歓喜は得られないでしょう。
これらは神の科学であり真理なのですが、はやはりバガヴァット・ギーターを学ばなければ理解は不可能なのです。
今日は神の概念と、その理解力のお話をしたいと思います。
一言で神と言うと、人それぞれがその人の精神的進歩度合いによって、その人が信仰する、また理解できる神があるのです。
8月28日に記述した物質自然の三様式(トリグナ)の魔力(U) で
その人のトリグナ(無智、激情、徳性)の性質によって、その人のグナに合った神々に魅かれる信仰心がある、という事をお話しいたしました。
1−無智(タマス) 地霊、動物霊、幽霊、などの低級霊を崇拝する。
2−激情(ラジャス) 七福神などのご利益神々、菅原道真のような歴史上の偉大な人物を崇拝する。
3−徳性(ブラーフマナ) 宇宙の創造神ブラフマーや、神々支配者インドラや、太陽神などの主神を崇拝する。
この様に無智(タマス)は低級霊、激情(ラジャス)はご利益神々、徳性(サットヴァ)は主神の神々、とトリグナの特質によって、信仰する神々も変わってくるのです。
その後五回にわたってに記述してきた、創造主神(クリシュナ)の科学では、神様の最高至上神は、三つに拡張した姿で存在するのこと、宇宙を創世する過程のこと、そしてその宇宙に遍満、偏在する状態のことなどを書きました。
この創造主神(クリシュナ)の科学は、徳性(ブラーフマナ)の境地に昇りつめている人でなければ、この真理はとうてい理解できず、また受け入れできないものなのです。
多分、今日までのブログの内容に興味を抱き、また理解できる人は、一万人に一人いるかどうかのレベルと、私は思っております。
至上神クリシュナが創られた、人間を精神的に発展させるシステムによって、精神的発展をとげた人の精神性に応じた神々が、その人が受け入れられる神々となっているのです。
したがって、その人が受け入れられない神様は、たとえバガヴァット・ギーターで教えていても、存在しない事になっていまうのです。
それがその人の知的および精神的限界と言うものなのです。
創造主神(クリシュナ)の科学は、とうぜんブラーフマナ(徳性)の境地に至っている人でなければ、初歩的なブラフマーの存在や遍満のかたちすら理解できず、更に哲学の知識の思量だけでなく、体の浄化を目的としたアシュタンガ・ヨーガの修得をしなければ、各人の魂に寄り添い、私達の全ての行動を目撃しているスーパーソール(パラマートマー)の臨在も理解できません。
創造主神クリシュナは、もともと精神の存在ですが、そこに物質界を創りました。
したがってこの世は物質と精神の二つがあると言う事です。
物質は五感でとらえられる世界のもの、精神とは至上神クリシュナの真理であり、知識(チット)であり、歓喜(アーナンダ)であり、永遠性(サット)なのです。
ほんらい人間とは、この物質と精神の間に在る存在であるから人間(じんかん)と言うのです。
その精神のあり方が、快楽、性欲、食欲などの肉体的欲望や、物欲や名誉欲などに突き動かされている人は、動物段階の人間であり、いわゆる物質的な人なのです。
逆に自分は、肉体ではなく魂であるとはっきり認識して精神活動をしている人は、精神的境地の人であると言うのです。
この宇宙は精神から始まっており、私たちも物質の状態(動物)から最終的には魂(精神)に戻るのがほんとうの姿なのです。
私達の魂は創造主神クリシュナの分霊(ママイヴァーンシャハ)なのです。<バガヴァット・ギーター15章7節>
それゆえ、本来は至上神の分霊ですから、至上神と同じ質性を持っているのです。
しかし人間の魂は、物質次元に誕生した事で、物質自然の三様式(無智、激情、徳性)の性質に侵されカルマによって輪廻の世界をぐるぐる回らされているのです。
それに気付き、物質次元の動物人間から、精神次元の魂人間に進化を遂げなければ、輪廻を脱することはできないのです。
そして最終的には、二度と物質次元の世界に還ることのない、至上神クリシュナの精神惑星ゴーローカ・ヴェリンダーヴァンに戻ることです。
宇宙の創造神ブラフマーから発せられた私達の個別魂は、精神的なものであり、本物の歓喜も当然精神知識なのです。
決して肉体から発せられる、快楽、性欲、食欲などの肉体的欲望や、物欲や名誉欲なのではないのです。
しかしそれが分からず、何時までもその幻惑に侵され、飽くなき欲望に埋没しているのが、今のほとんどの人の生き方なのです。
そこに今の矛盾、混迷、困惑、妄想、狂気にいたる社会になってしまっているのです。
これらは神の科学であり真理なのですが、はやはりバガヴァット・ギーターを学ばなければ理解は不可能でしょう。
神の科学をつづってきましたが、今日も更に詳しく、書きたいと思います。
昨日は神の存在の三相である、タットヴァ・ヴィットについて書きました。
それは、創造主神クリシュナは、全宇宙の至上なる最高神(バガヴァーン)、であり。
動植物や私たちの魂を創ってくれた宇宙のブラフマーであり。
そして、私たちのハートに棲み、活動を全て観ているパラマートマーなのです。
このように創造主神クリシュナを三つのかたちで、その存在をとらえることを、タットヴァ・ヴィットというのです。<バガヴァット・ギーター3章28節>
この、神の三っつの相を知る、三つの段階を太陽の真理を知る三つの段階で例として説明します。<バガヴァット・ギーター2章2節>
先ず第一に太陽を光としてとらえる段階の人。
その人は太陽の光で、明るさや暖かさ、更には我々を生かしてくれる、自然の恵みの根源として、感謝して生きている人は、神の存在を宇宙の創造者ブラフマーとして捕らえている人です。
その次には、太陽の光の事だけでなく太陽の表面までを知る人です。
その人は、人間の肉体も小宇宙であると認識し、宇宙の存在も自己の肉体の相似形と理解し、自分のハートに神の存在をパラマートマーとして、とらえる事が出来る人。
この段階の人は自分のハートに、創造主神をヴィシュヌ神として瞑想し、自分は内在する神と共に生活しているのだと自覚できる人です。
そして最期には、太陽の光も表面も知り、更には太陽の内部までも知る最高の知識を得た人です。
その人は、創造主神をクリシュナととらえ、クリシュナこそがこの世の精神と物質を含めた、あらゆる原因の大原因であると理解し、このクリシュナを至上神ととらえて崇拝し帰依する生活を実践できる人です。
この神をとらえることは死後の行方にも通じるのです。
ブラフマーを知る人は、物質次元の最高の天国(ブラフマローカ)に赴き。
パラマートマーを瞑想した人は、精神惑星(ヴァイクンタ)に赴き。
クリシュナを崇拝帰依した人は、もう二度と物質世界に戻ることのない、精神惑星の最高惑星(ゴーローカ・ヴェリンダーヴァン)に還る事ができるのです。
宗教の最高目的は、至上神クリシュナに崇拝帰依する事であり、それによって私達はクリシュナの住む永遠の目的地である最高惑星(ゴーローカ・ヴェリンダーヴァン)に還るのです。
そこは私達の故郷であり、憩いの部屋であり、慰めの地なのです。
そこ住む至上神クリシュナは、私達の産みの親であり、私たちを見守る保護者であり、友であり、そして私達の行動を全て御覧になっておられる目撃者なのです。
これらは全ての根源であり、創造であり、破壊であり、永遠の種子なのです。<バガヴァット・ギーター9章18節>
この様に至上神を三つの存在としてとらえる事を書きましたが、このとらえ方はその人の精神的進歩によってのみ、至上神のあられる姿を理解できるのです。
逆を言うなれば、精神的進歩なくして絶対にクリシュナに崇拝帰依は出来ないということなのです。これらは神の科学であり真理なのですが、はやはりバガヴァット・ギーターを学ばなければ理解は不可能でしょう。
バガヴァット・ギーターを読み深めてくると、哲学は科学であると、確信を深めてくる。<バガヴァット・ギーター1章1節>
逆を言うならば、あらゆる自然科学こそ、哲学の範疇である、と言えるのです。
この物質界の自然科学などは、物質次元だけでなく精神次元まで扱う哲学からすれば、ほんのほんの僅かな部分の、さらに一部分程度の事象に過ぎないのです。
ただ哲学の場合は、全ての事象を実証するのには、現世を越えた輪廻を含めたカルマの法則などの立証が不可能であるため、科学の分野として認められていなのです。
そのため哲学も信仰の分野に押し込められているのですが、インド哲学バガヴァット・ギーターこそ、創造主神(くりしゅな)がこの世を厳正に統治している、科学そのものなのです。
人間は五感で認識できる、再現性の事象は科学的であると、素直に認めるのですが、それが五感で認識できないものは、非科学的とばっさりと切り捨ててしまう愚かな認識しか持ち合わせていないのです。
そのため哲学は難しいと言う理由だけでなく信仰の対象とされてしまい、ほとんどの人から排斥されているのです。
それは、創造主神クリシュナの永遠不滅の真理を学ぶ事を拒否する事であり、それが今のこの世における不幸の最大原因になっていると私は思っております。
先回までの二回にわたって私は、創造主神クリシュナは三つに拡張して、全ての現象に偏在している事を書きました。
その第一の拡張は、マハーヴィシュヌとしてし無数の宇宙を構成しました。
そして、その無数の宇宙に第二の拡張としてガルボダヴィシュヌとして入り込み、そのヴィシュヌのへそからブラフマーを誕生させ、宇宙の物質的造形や動植物、そして我々の原子魂までも誕生させたのです。
そして第三の拡張は、全宇宙に存在する物質の全ての素粒子として、また私達の魂に寄り添うスーパーソウルとして、宇宙全てに遍満している事を書きました。<バガヴァット・ギーター7章4節>
また創造主神クリシュナは、ゴーローカ・ヴェリンダーヴァンの精神惑星に、精神的ボディーの人間の姿で住まいながらも、全宇宙の全てに素粒子として遍満しておられるのです。<バガヴァット・ギーター9章5節>
それは創造主神は、クリシュナであり。
私たちの魂を創ってくれたブラフマーであり。
私たちの活動を全て観ているパラマートマーなのです。
この三つのかたちで神を知る人を、タットヴァ・ヴィットというのです。<バガヴァット・ギーター3章28節>
これらは神の科学であり真理なのですが、はやはりバガヴァット・ギーターを学ばなければ理解は不可能でしょう。
人間の不幸は神から離れる事であり、幸せは神を知る事である。<バガヴァット・ギーター6章32節>
この世の全てを創造し、物質だけでなく五感でも心でも感じる事ができない、神秘の精神世界も神の御技であり、それなくして全ての存在はありえないのです。
この世で知られている全ての、どんな奥深い知識でも、創造主神クリシュナの真理と比較すれば、人間が知っている知識などは、ほんのほんの極わずかの一片にしか、過ぎないのです。<バガヴァット・ギーター10章42節>
この宇宙のあらゆる原因の大原因は創造主神(クリシュナ)であり、その大原因である創造主神(クリシュナ)を知る事により、自己とは何か、精神とは何か、物質とは何か、自己の存在目的と使命は何か、と言った、根源的な真理探究の旅が始まるのです。
バガヴァット・ギーターには、人間がこの世で肉体を持って生きていく為に生じる、必然的疑問に対する解答が余すことなく書かれております。
まず創造主神(クリシュナ)は、精神世界の最高惑星ゴーローカ・ヴェリンダーヴァンに精神体として人間の姿で存在しているのです。<バガヴァット・ギーター15章6節>
それは、宇宙全ての、この世のあらゆる全ての、存在の支配者であり、創造主として、統括者として、最高のエネルギーとして君臨しているのです。
それでいながら、物質次元の宇宙の全ての物質の原子構造として遍満し、また、あらゆる生命体の魂にも、寄り添っているのです。<バガヴァット・ギーター10章42節>
一言で言えば、私達の全ては、創造主神(クリシュナ)の御手のなかで(マイ・テ)全て見通されて、生きていると言う事なのです。<バガヴァット・ギーター9章29節>
そこには厳格なカルマの掟があり、物質自然の三様式(トリグナ)の掟があり、そして物質界を管理している太陽神、月神、その他自然界を司る多くの神々の目があるのです。
その自然界の神々もまた、創造主神(クリシュナ)の分身なのです。
創造主神クリシュナは、精神惑星に居ながらも、全ての物質世界に遍満している、これが創造主の神秘(ヨガム・アイシュヴァラム)と言うものなのです。<バガヴァット・ギーター9章5節>
この神秘は私達の物理的思考では、とうてい理解できない神の存在の神秘であり、この驚異的な真理を受け入れなければ、野蛮で、無謀で、浅はかな、愚かしい行動から抜け出そうとする決意は生まれないでしょう。<バガヴァット・ギーター10章42節>
創造主神(クリシュナ)は、過去、現在、そして未来の全ての貴方を、知っているのです。<バガヴァット・ギーター13章15節&15章15節>
これらは神の科学であり真理なのですが、はやはりバガヴァット・ギーターを学ばなければ理解は不可能でしょう。
昨日は物質次元の創造として、宇宙の成り立ちを書きました。
創造主神クリシュナは自らを三つの拡張神として、物質次元の宇宙を創り出しました。
第一はマハー・ヴィシュヌとして、カーラナ海と言う海の物質を創り、そこに横たわります。
次に、カーラナ海に横たわったマハー・ヴィシュヌは同じような宇宙を無数に創ります。
その無数に創られた宇宙の中に、こんどはガルボーダ・ヴィシュヌとして拡張してカーラナ海に横たわります。
そのガルボーダ・ヴィシュヌのへそからブラフマーが生まれ、そのブラフマーが宇宙の自然の造形や人間を含めた動植物を形成させたのです。
さらにその形成された、宇宙全ての物質の原子構造として、第三の拡張体であるクシローダ・ヴィシュヌが遍満しているのです。
このクシローダ・ヴィシュヌはスパーソール(神の直霊)またはパラマートマーと言われ、全ての生物の魂に寄り添って、その動物を支配しているのです。
一般動物はに対しては、動物の本能として働き、人間に対しては心の奥底の良心として存在します。
しかし、人間には自由意志が与えられている為、その自由意志によって貪欲の行動に突き動かされている時はこの心の奥底の良心の声は貪欲に埋もれてしまうのです。
日本に密教を広めた空海は「同行二人」と言う真理を説きました。
それは常に「お前は神の分霊と共に、旅をしているのだぞ」の教えなのです。
その「同行二人」のもう一人の人は、このスパーソールまたはパラマートマーと言う、神の分霊なのです。
そしてこの神の分霊は、その人の行動をじ〜と、何も言わずに全て、ご覧になっているのです。
そしてその人が死んだ後は、その人の行なって来た所業に相応しい、次の生物体を提供してくれるのです。
それは、その人が好むと好まざるとに関わらず、厳格なる所業の結末の姿なのです。
人間に生まれ変わる保障は無いのです。
それがカルマの掟であり、欲得に行動すればその行動の結果はすべて、次の生まれ変わりに反映されるのです。
それが、善であろうが悪であろうが、人間の価値基準に関係なく顕われるのです。
ただし、その人が道徳、倫理、宗教、更にはインド哲学バガヴァット・ギーターなど、経典の教えに添った行為や活動であるならば、それは神聖なるゆえにカルマは生じることなく、すべて神の捧げ物(ヤグニャー)となってカルマの作用は吸収されるのです。
この様な厳粛なカルマの掟を知ったならば、悲惨な肉体を持たなければならないような、貪欲にまみれた生き方は慎むべきだと思いませんか。
これらは神の科学であり、はやはりバガヴァット・ギーターを学ばなければ理解不能でしょう。
今日はまたバガヴァット・ギーターに戻り、今度は根本的な、創造主神のお話をしたいと思います。
私はこの宇宙の、物質次元の、それに精神次元の、あらゆる全てのものは、創造主神から創られたものであると、確信しています。この創造主神の存在を先ず認めることから、信仰は始まるのです。
この信仰心こそ、高度な人間の思考能力なのです。
この全ての原因の大原因を、創造主とか絶対神とか至上神と言い、バガヴァット・ギーターではクリシュナと名付けているのです。
クリシュナは精神界の最高惑星ゴーローカ・ヴェリンダーヴァンに精神体として存在しています。
クリシュナは精神世界だけではつまらないので、物質世界をつくりだしました。
ここはちょっと人間臭いですね。
逆を言うなれば、人間はクリシュナと同じ性質を持っているということなのです。
この物質世界を創るため、クリシュナは自分を三つの存在に拡張したのです。
その第一の拡張体はマハーヴィシュヌとして拡張し、物質エネルギーでカーラナ海をつくり、そこに横たわりました。
その次にそこで、無数の同じような宇宙を創り、今度はそれぞれに創られた宇宙に、次の拡張体であるガルボダ・カシャーイー・ヴィシュヌとして横たわりました。
そしてこのガルボダ・カシャーイー・ヴィシュヌのおへそから、蓮の花が伸びてきてその花からブラフマーが誕生します。
このブラフマーが、宇宙の惑星や自然環境や動植物、そして人間を創ったのです。
宇宙はブラフマーなり、この宇宙の物質次元の創造主はブラフマーなのです。
それは何時から始まったとも知れず、いつ無くなるとも知れず、無始無終なのです。
そして、この物質次元に創られた、全ての物質の原子構造として、創造主の第三の拡張体クシーロダ・カシャーイー・ヴィシュヌが遍満してるのです。
この物質宇宙の創造はバガヴァット・ギーター第7章4節にあります。
この様に創造主神クリシュナは、常にゴーローカ・ヴェリンダーヴァンに居ながらも、全ての宇宙の原子構造としても遍満していると言う、我々の物理概念では到底理解できない、能力なのです。
そして、もう一つ大事なことは、私達の魂も全てもとを正せば、それはブラフマーから生まれ、そのブラフマーはガルボダ・カシャーイー・ヴィシュヌから生まれたのです。
と言う事は、私達の魂は創造主神クリシュナの分霊であるという事なのです。
そして、私達の究極の故郷はクリシュナの住む、最高惑星ゴーローカ・ヴェリンダーヴァンなのです。
という事は私達の魂は、ブラフマーから発せられ、物質次元で魂の修行をして、創造主神クリシュナの郷に還れる精神知識を獲得し、クリシュナの住むゴーローカ・ヴェリンダーヴァンでクリシュナと愛の交歓を楽しむ事なのです。
その真理と言うのは、私達はクリシュナの分離魂であると自覚し、人間の強欲をすて、道徳(仁、義、礼、智、信)や倫理(親、別、義、序、信)の教えである精神知識を修得する、永〜い永〜い旅路なのです。
この精神知識が備わらない限り、神のもとには永遠に還れないように、クリシュナはこの物質次元を創っているのです。
それこそこのこと事態、バガヴァット・ギーターを学ばなければ、何を言っているのかちんぷんかんぷんでしょう。
今日は、毎日生活しているなかで実感した事を、書きたいと思います。
その一つに、ちょっとした時間でも「待てない社会」になっている、こんな事を実感しています。
最近の出来事で、細い道ですれ違う時に、私が狭い道から進行して来ましたが、広い道からワゴン車のが突っ込んできて、やはりすれ違いが出来ずに、当然ワゴン車がバックしなければならなくなりました、そしたらすれ違い際に、「バカやローこのジジ〜」と女性の声がしました。
今の女性は男性と同じような下品な言葉を吐くのかと、まずその罵声に驚かされました。
その次には、大きな車でありながら広いところで、ちょっと待つゆとりすらないものなのか、と思ったのです。
そう言えば、これまでの社会は便利というキーワードで、人間に待たせない、スピーディー、といった事に価値を置き、その為に色々と商品開発をしてきました。
それによって、人間は待つという忍耐することから解放され、ストレスをもたなくても良い生活をしています。
新幹線は時間どうりに来て待たすことはない、電話をかけたければ携帯があり、テレビもスイッチを入れれば直ぐに映り、ステレオも真空管時代と違い直ぐに音も出るし、車は冬でも自動チョークによって直ぐスタートできるし、そのほか家庭電化製品などはこの便利さを売り物にしてどんどん出てきます。
この便利さは確かに、人間に待たなければならないストレスから解放してくれました。
しかし、その代償として逆に、待たさる事のストレスを与えられたのです。
昔は時間の流れがゆったりとしていたと思えるのは、この待つことが当たり前の事であり、乗り物自体もスピードが遅く、それが時の流れをゆっくりと感じさせていたのです。
そのため人々も、あくせくすることなく、ゆったりのんびりと、していたのです。
物質次元の世界は全て相対的であり、その相対で物事は判断したり感じたりしているのです。
この物質次元の社会が発展するという事はまさに、快適な生活を求めてますます人間は住みにくい社会を創っていると言う、逆説(バラドックス)になっていると思います。
いまこそ本当の人間の生きる目的や価値を学ばなければ、ますます混迷の渦に巻き込まれてしまう状況なのです。
その渦に巻き込まれないように、神の、宇宙の、人間の絶対真理を知ることが必要です。
それにはインド哲学バガヴァット・ギーターを学ぶしかないでしょう。
各月へリンク 平成24年 1月 12月 11月 10月 9月 8月 7月 6月 5月
昨日まで、物質自然の三様式(トリグナ)の魔力について、その魔力はグナの力で職業、信仰対象、食べ物などを無意識的にその人を突き動かしてしまう、という事について書きました。
今日はちょっと食に対する件で面白い事がありましたので、そのことについて書きたいと思います。
私は毎日、インド人のSさんとスカイプで、このブログに書いたお話しを説明しております。
さくじつ、徳性の人の食べ物について、私は小魚と鶏肉を食べると書きました。
そしたらその点で、インドの人はそれすら食べない人がいると言われました。
一瞬私は、自分の書いた事が間違いかなと思いました。
でも自分はその件では自分でも実践している事であり、決して間違ってはいない見解だと確信を持っていましたので、次のように説明したのです。
小魚を食するわけは、骨のカルシュームを摂るために、鶏肉を食べるのは手羽元のコリコリした部分を食べる為で、これは骨のクッション部分の為に食べている事を説明しました。
これは決してその持つ、味覚の美味しさを求めて食するのではなく、健康の為に食べる事を説明したのです。
本来の食事の目的は、肉体生命と健康維持の為に食するのであり、決してその味覚の美味しさに捉われ、美味しさの為の食餌であってはならないのです。
また逆に、肉食という事を厳しく律する事も、これは不殺生を戒める修行の為の行いであって、これを厳格に行なうのは一つの偏った見方であり、中庸のバランスを欠くことにもなります。
元来人間は日に三十種と言われるくらい、色々なものを食しなければならないように創られているのです。
それは人間に食された事により、食された生命体がカルマの進化を一機に昇ることが出来るからなのです。
これは自然界の中で日常的に行なわれている、食物連鎖にその真理が込められています。
食べ食べられ、また食べ食べられしながら、生命の進化を、全ての生命体はやっているのです。
当然、食する私たちは、生きていく為に、食としてその命を捧げてくれてた食物に感謝の気持ちを持つことが必要になるのです。
命を捧げてくれた動物達に感謝の気持ちで、魂の修行に励まなければならないのです。
決して、味覚の美味しさに食べ過ぎたり、美味しさを追求したグルメ旅行などはしてはいけないのです。
食する目的は、魂の修行の為に、肉体生命を維持し健康を保つ、それが食することの目的なのです。
この食する本質をつかむことは、生物全体のカルマの意義を知り、感謝の気持ちを持ち、魂の修行の目的を知る事なのす。
それを知らずして、味覚の美味しさにおぼれるものは、病気という結末があるのです。
この深い真理を知るにはインド哲学バガヴァット・ギーターを学ぶしかないでしょう。
トリグナの特徴は、職業だけでく、宗教、食べ物、信念、などにもその特徴が顕われ、無意識的にその人をその方向に自然と突き動かしてしまうという事を書きました。
それから前回までは、そのグナによって職業や信仰する神々も、その人のグナの状態によって、自然と求めるものも決まってくる事も書きました。
今日は物質自然の三様式(トリグナ)の、無智、激情、徳性、に捉われると食べ物や嗜好も突き動かしてしまうお話を致します。
先ず、徳性の人の食べ物は、穀物、野菜、海藻類、小魚、乳製品がおもな食べ物で、肉食は控え食べても鶏肉であり、四つ足動物は進化している動物との理由で食べません、また特に牛肉は神から使わされた神聖な動物として、特に食べてはいけないのです。
その理由は、人間がこの物質界で修行していく為に有益な労働者として神から遣わされた善き友であるからなのです。
牛は、雑草でも枯れ草でもそれを食料とすることができ、糞は有機肥料、燃料、壁土などにも使い、そして労働力として農作業に貢献してくれます。
この様に徳性の人は、昔から食されていた食材中心に自然食品を食べる傾向に進むのです。
激情の人の食べ物は、刺激物の効いた香辛料をつかい、味の濃い食べ物を好みます。
そのうえ肉食を好み、栄養よりも美食と飲酒が常になる傾向にあります。
これはグルメを過度に求める飲食業界全体にも言える傾向に有り、それはグルメを求める消費者がそのような形の食事が家庭でも日常化している事の証左でもあります。
私も、今年の夏は暑かった為に、久しぶりにコンビニでアイスクリームを食べましたが、その極甘の味に参ってしまいました。
私が子供の頃のアイスクリームは、こんなに甘くは無かったように記憶しています。
その他、スナック菓子を食べても非常に刺激的で味も濃く、すぐ喉の渇きをもよおしてしまいます。
こんな味の濃いものが好まれる社会は激情の社会であり、正に今の社会状況そのものであると思います。
江戸時代の食事は、穀物と野菜が主であり、味も薄味が上品とされていました。
もともと日本人は、薄味でも食材のうまみを味わう感性豊かな民族でした。
特に京都料理には今でもそのうまみを味わう習慣があります。
外国人に京都の吸い物を差し出したら「これは海の水を薄めたのか」と言ったエピソードがあるくらいです。
そして無智の人々の食べ物は、食感を満たす事を主とするために、どんなものでも食べあさり、安い酒で毎日陶酔することを好み、またその習慣から抜け出せないのです。
徳性の人は食材のもつ自然の味を好み、激情の人は刺激的な味を好みそして肉食と飲酒を求め、無智の人は満腹感と陶酔があれば満足になるのです。
この様にトリグナによってその人の嗜好自体も自然に、トリグナの特質に突き動かされてしますのです。
自分が好きな食べ物は、自分自身の嗜好であると思っている人がほとんどですが、その真実はその人のグナの特質がそのような嗜好にその人を突き動かしているという事であり、バガヴァット・ギーターを学ばない限り、その罠から抜け出せない、グナの恐ろしい魔力というものなのです。
そのインド哲学バガヴァット・ギーターのもとに来れる人は100万人に一人程度の確率と、私は思っております。
しかし、その100万人の中の一人の為に私は毎日このようにブログを書いているのです。
昨日は、物質自然の三様式(トリグナ) 無智、激情、徳性、によって信仰する神々が違ってくる事を書きました。
そして、このグナの特質によって、そのグナに合った神々に魅かれる信仰心がある、という事もお話しいたしました。
1−無智(タマス) 地霊、動物霊、幽霊、などの低級霊を崇拝する。
2−激情(ラジャス) 七福神などのご利益神々、菅原道真のような歴史上の偉大な人物を崇拝する。
3−徳性(ブラーフマナ) 宇宙の創造神ブラフマーや、神々支配者インドラや、太陽神などの主神を崇拝する。
この様に無智(タマス)は低級霊、激情(ラジャス)はご利益神々、徳性(サットヴァ)は主神の神々、とトリグナの特質によって、信仰する神々も変わってくるのです。
今日はこの徳性(サットヴァ)である神々の崇拝でもそこに限界があることを知っていただきたいと思います。
と言うのは、トリグナによってその人の信念というものが、無智の特質である愚かさがわざわいし、激情の特質は物欲がわざわいし、徳性(サットヴァ)は、頭脳活動や宗教的活動ですが、更にその上の哲学的で精神的な活動の道を理解できない、からなのです。
たとえ徳性(サットヴァ)と言えども、哲学的な精神的な心に至ることは出来ず、輪廻転生の世界を知るだけの境地に留まるだけなのです。
この徳性(サットヴァ)を越えた、永遠真理を諭したインド哲学バガヴァット・ギーターに目を向けない限り、輪廻転生から離脱し、至上神クリシュナの住む永遠性の境地には至れないのです。
私たちがこの世で肉体を持って魂が修行するその目的は、輪廻転生を離脱し、至上神クリシュナの棲む永遠不滅、至高至福の、精神の郷に還る事なのです。
精神的とは絶対神、創造神、至上神、と形容されるクリシュナの諭した真理に精通することであり、クリシュナに崇拝帰依する行為を精神的と言うのです。
これからはインド哲学バガヴァット・ギーターの時代です。
それは、今あるほとんどの宗教の教えでは輪廻転生の離脱が不可能であり、またこの宇宙の物質次元の深い真理を教えておらず、また魂の修行における修行カリキュラムが分析的に体系的に科学的に、なっていないからなのです。
このインド哲学バガヴァット・ギーターの元に来れる人は100万人に一人程度の確率と、私は思っております。
しかし、その100万人の中の一人の為に私は毎日このようにブログを書いているのです。
昨日は物質自然の三様式(トリグナ)に捉われた魂は無智、激情、徳性の三つの特殊な性質に侵されることを書きました。
その特性とは。
1-無智(タマス) 愚か、怠惰、狂気、妄想
2−激情(ラジャス) 欲望渇望、奮闘努力、常に果報的、執着、
3−徳性(サットヴァ) 知的志向、道徳心、宗教心
この三つの特質によって、その人の肉体的、頭脳的、精神的、などの能力によって、どのようなことに興味を持つかなどの志向が生まれてきます。
その自分がやりたい方向性や肉体的適正が、その人本来そなわったグナの性質になるのです。
それが四つの職業区分(ヴァルナ)である、シュードラ(肉体労働者) ヴァイシャ(商工農、業経営者) クシャトリア(軍事行政官) ブラーフマナ(教育、聖職者)の仕事を通じて魂の向上を図りなさいとの、至上神クリシュナの定めとなっているのです。
さて今日は、このグナの特質によって、そのグナに合った神々に魅かれる信仰心がある、という事をお話いたします。
1−無智(タマス) 地霊、動物霊、幽霊、などの低級霊を崇拝する。
2−激情(ラジャス) 七福神などのご利益神々、菅原道真のような歴史上の偉大な人物を崇拝する。
3−徳性(ブラーフマナ) 宇宙の創造神ブラフマーや、神々支配者インドラや、太陽神などの主神を崇拝する。
この様に無智(タマス)は低級霊、激情(ラジャス)はご利益神々、徳性(サットヴァ)は主神の神々、とトリグナの特質によって、信仰する神々も変わってくるのです。
したがって、どんなものに信仰心を持つか、また興味をもつかによって、その人のグナの状態も分かるというものです。
一般的には、激情の人達はその信仰対象が物質的利益であり、徳性の人達は精神的向上を求めるのです。
本来人間の向上とは動物としての人間状態から、魂としての認識まで自分を高める事であり、その信仰対象も当然物質次元から精神次元に行くのが、人間の進歩というのです。
どんな一流大学を出てどれだけ物質次元の知識を得ようともその本質は、この世で生きていくためだけの、生物としての命を維持する為の、処世術にしか過ぎないのです。
このような深理はやはり、バガヴァット・ギーターを学ばなければ決して理解できない奥義なのです。
今日は何回も何回もでてきた物質自然の三様式(トリグナ)について書きたいと思います。
このトリグナのことはグナの掟として6月23日にブログで 記述しておりますので、こちらも御覧下さい。
このトリグナは人間の魂が物質界に入ると愚か、激情、徳性の三つの性向に向かせ、その人の活動を自然とトリグナのもつ特性に突き動かすのです。
元々人間は肉体の中に閉じ込められ、肉体から発せられる五欲(寝る、食べる、性交、財欲、名誉欲)に突き動かされながら、生活させられているのです。
更にその五欲の上に、トリグナの魔力によって、欲望を満たそうとトリグナによって突き動かされるのです。
このトリグナに侵されること事態が、本人が気付きにくいといった事が、この魔力の恐ろしさなのです。
このトリグナに侵されると自然とその行動はそのもつ特性に侵されるのです。
その特性とは。
1-無智 愚か、怠惰、狂気、妄想
2−激情 欲望渇望、奮闘努力、常に果報的、執着、
3−徳性、知的志向、道徳心、宗教心
この様な性向を持つのがトリグナの特徴であり、その特徴にあった社会的職業区分があるのです。
本来インドのカースト制は、このグナの特質によってその職業区分が、シュードラ、ヴァイシャ、クシャトリア、ブラフマナーと四つに分けられ、魂の修行カリキュラムとして、クリシュナが定めた修行システムなのです。
無智のクラスの人は肉体労働で雇用主に使えることをその使命とし、激情の人は豊かな社会を作り出す為に農業、工業、商業、金融などの経営者として使命を果たし、徳性の人は知的能力を活かし、教師、科学者、医者、文学者、宗教者などで、その目的は庶民の知的に精神的に向上を図る為の仕事に従事することなのです。
これは、人それぞれに持っている特性ですが、その配分が多い部分がその人の特徴となるのであり、もしそれが三等分の人は、特徴のない平凡の人であるといえるのです。
またある一つが特出すればその他の二つの性質は抑えられるので、特出した部分がその人のグナの特性となるのです。
このグナの特徴は、職業だけでく、宗教、食べ物、信念、などにもその特徴が顕われ、無意識的にその人をその方向に自然と突き動かしてしまうのです。
本人が自分で考え決断しても、そのもの自体がグナの性質によるものである事を知る人は、バガヴァット・ギーターを熟知している人でしょう。
今まで、「我々は錯覚と幻想で生きている」について四回にわたってかいてまいりましたが、今日は大きな勘違いをして生きている事を書きたいと思います。
錯覚と勘違いの違いは、ともに思いちがいしているという事の意味でありますが、しかしその本質は似て非なるものなのです。
錯覚は心で思っている事と客観性が違っている事ですが、勘違いはある事柄を間違って思い込む事ことです。
具体的には、人間のこころで感じた想いや、知識で得た霊的観念を精神的と認識して思い込んでいる事は勘違いというのです。
哲学的解釈においては精神的とは 8月23日のブログに詳しく書いてありますが、絶対神(クリシュナ)に対する精通した知識であり、崇拝的行為を精神的というのです。
したがって、人間の想念や知識で得た観念は全て物質次元のものであり肉体の消滅と共に消えうせるものなのです。
しかし、その思いが魂まで刻み込まれれば、それは自分が意識していようが、無意識であろうが次の生まれ変わりに非常に大きな影響力を持つことになるのです。
魂まで刻み込まれない想いは、正しく肉体次元の思考であり、肉体の消滅と共に意識として肉体から消えます。
本物の精神生活とは、瞑想で得る心の安らぎや、あの世的思考や霊的な知識などを言うのではないのです。
絶対神クリシュナが示した教えを熟知し、その教えを確信し、崇拝し、服従し、没頭する生活こそ、正真正銘の精神生活というのです。
本当の精神生活をするには当然、バガヴァット・ギーターは必修科目となるのです。
今日は、「我々は錯覚と幻想で生きている」の四つ目の。
4−自己の生き方は、自分自身で自由に選択し行動する事ができるのだという錯覚。
という事についてお話したいと思います。
この自分の行動は自由に自分の意思で選択し決断して行動しているのだと言った錯覚は、この前に8月26日から29日の三日間にわたって「我々は突き動かされて生きている」でその具体的なことを書いております。
この突き動かされて行動している事を更に分析しますと、日日の行動や活動と将来的な目的に向って行動してい意志に基づいて行動や活動していくものとの、二つに分けて考えます。
日々の生活において、突き動かされている事柄は、それが動物的本能によるものが基本になっています。
今回は自分では気付きにくい、本当は突き動かされているのに、自分で選択し決断したように錯覚している事を知って頂きたいと思います。
それはカルマと無智、激情、徳性に分けられる物質の三様式グナによって、無意識のうちに選択と決断をさせられているのです。
このことはそれこそバガヴァット・ギーターを学ばなければ理解できない人間が正しく生きていく為の哲学というものなのです。
これこそ神の厳格なる目に見えない天網であり、カルマとグナの掟を理解する事こそ生きる鍵なのです。
グナとは罠であり、人間を縛る縄の意味を持っているのです。
グナこそは人間の目に見えない、また認識しずらい罠なのであり、その罠にはまった人間をどんどん縛り付けていく縄なのです。
このように、自分で意志を持って決断したそのことすら、実はカルマとグナによって、意志を決断させられているのである。
この恐ろしいカルマとグナから逃れるにはやはりバガヴァット・ギーターを学ばなくしてその罠からは逃れられないのです。
今まで、「我々は錯覚と幻想で生きている」について二つ書いてきましたが、今日は三つ目の。
3−自然の恵みは人間の快適生活を楽しむために利用すべきであるという錯覚。
について書きたいと思います。
この自然の恵みは、太陽の光、水、空気、をはじめ田畑から獲れる穀物や野菜、そして海から取れる魚貝類、更には現代生活に必要な鉱物資源など、これら全ては絶対神(クリシュナ)の所有物なのです。
私たち肉体もその一つであり、たとえ毛の一本すらそれはクリシュナからの借り物なのです。
数多の宇宙における全ての物質と、宇宙の主神であるブラフマーやシヴァ神でさえも、絶対神(クリシュナ)の創造物でありその支配下にある存在なのです。
先ずこの認識なくしてこの回答はありません、言うなればそれが答えとなっているのです。
人間は、本来自分のものでない物を自分の物として、ちゃっかり使い込んでいるのです。
それはその許しを得ないで使っているのは、盗賊に同じる行為であるといえます。
自然界における物質の存在意義は、人間が物質界で修行をするにあたり、その肉体生命を維持する為に、神は自然の恵みとして太陽の光、水、空気、穀物や野菜、魚貝類、鉱物資源などを与えてくれているのです。
それは、肉体生命を維持する為が主たる目的であり、その次に生活の便利さに対して与えられているのです。
それはあくまでも至上神から定められた修行を行なうのが目的であり、その修行の最終目的も、物質界の中で楽しみながらも、至上神に対して崇拝と帰依の生活をすることなのです。
決して人間の欲望をどんどん満たす、快楽を求める事がその目的ではないのです。
「必要は発明の母」と言う言葉がありますが、この必要に対して人間は考え、物を創り出してきました。
しかし現在は、「発明は必要の母」となり普通に生活していく以上に、欲望の為に自然破壊活動がなされております。
戦争の為に強力な武器を作り出し、また貨幣経済の為に欲望を喚起し、必要以上に便利商品を作り出し、結果として自然破壊を猛烈にすすめています。
人間は自然復帰の循環範囲の中だけで、その便利さを許されているのです。
鉄は自然にほって置けば土に返ります、しかし科学製品はなかなか土には還れません。
今問題になっている原子力のウラニューム鉱物は、人間が使ってはいけない禁断の鉱物なのです。
その誤りのつけを今、人類が全体で払わされようと、なっています。
結局は人間の自然支配欲は、最終的にその行き先を、人類の滅びという形で支払わされるのでしょう。
この様な自然の真理のからくりはやはり、バガヴァット・ギーターを学ばなければ決して理解は出来ないことでしょう。
「我々は錯覚と幻想で生きている」、の第一回目は、自分の本質は魂ではなく肉体であると認識しているという、錯覚について書きました。
今日は二つ目の大きな錯覚として。
人間の喜びは、五感(目、耳、鼻、舌、皮膚)の感覚的快楽を楽しむのが幸せであるという錯覚。
について書きたいと思います。
この人間の喜びや幸せ感は、五感や心で感じた快楽が幸せであるする思いこそ、救われないほどの大きな錯覚であり、妄想と言うよりも幻惑されて生きているとまで言えるのです。
この五感で感じる感覚や、その感覚によって引き起こされる心の想いを、自分の魂の向上の為だけに使うべきであるのが、本来の感覚機能の役目なのです。
しかし、ほとんどの人がその感覚の快楽におぼれ、もっともっとと言った渇望に突き動かされ、物質社会の発展が人類の幸せである、と言った妄信に捉われているのです。
先回に、人間の本質は魂であると断言しました。
魂の本質は信念であり意志である、とも書きました。
と言う事は、魂は精神的なものであり、物質的なものではない、その精神的魂の本当の歓びの対象は当然、物質的なものや、人間の五感で感じる肉体的歓びではないのです。
ここで精神的と言う言葉が出てますが、この精神的の定義はバガヴァット・ギーターの解釈では。
絶対神(クリシュナ)に対する、精通した知識であり、崇拝する行為を精神的と言うのです。
一般の人々が言っている、また思っている、精神的のそれとは全く次元が違うのです。
一般の人々が言っている精神的とは、心で感じる感覚的なムード的な、そして霊的な事を精神的といっていますが、本来の精神的の意味はそんな曖昧なものではないのです。
精神的とはインド哲学のヴェーダ、ウパニシャドウ、ヴェーダンタスートラ、スムリティなどで示された、絶対神クリシュナの言葉そのものであり、それらに精通した知識とそれに基づく行為を、精神的と言うのです。
この精神的世界こそが、魂が歓ぶ本物の歓喜であり永遠なる真理なのです。
それを、サッチ・ダーナンダ・ヴィグラハ、何と素晴らしい最高の境地、と言うのです。
この、本物の精神的世界を知るには、バガヴァット・ギーターを学ばなければ、絶対に理解不能なのです。
ここ三回は、我々は突き動かされて生きている、という事について書いてきました。
自分で判断し決断して行動しているのではなく、無智、激情、徳性といった三つの潜在意識によって。
それから動物が持っている食べる、味覚、性交、喋る、怒る、動かずにはいられないなどの肉体的欲求によって突き動かされて生きている。
更には自分では気付かない過去に犯した行動の反作用として、また自分が魂の修行としてやるべきものとして、つまりカルマによって突き動かされている事を三回に分けて書きました。
今日は、我々は錯覚と幻想で生きている、という事について書きたいと思います。
私達は、次の錯覚と幻想で生きてる事に気付かないので、苦しんでいるのです。
1−自分の本質は魂ではなく肉体であると認識している錯覚。
2−人間の喜びは、五感(目、耳、鼻、舌、皮膚)の感覚的快楽を楽しむのが幸せであるという錯覚。
3−自然の恵みは人間の快適生活を楽しむために利用すべきであるという錯覚。
4−自己の生き方は、自分自身で自由に選択し行動する事ができるのだという錯覚。
以上の四つのことは、人間が犯している錯覚なのです。
今回は第一の、「自分の本質は魂ではなく肉体であると認識している錯覚」、についてお話いたします。
先ず、人間の本質は肉体ではなく、肉体に宿った魂こそが自己の本質なのです。
その魂は、信念と意志であり、その信念と意志を持って行動する、行為自体が魂の現われなのです。
したがって、生活のおいて、信念と意志を持って主体的に行動している事が大事なのです。
魂の主体的行動以外の行動は、そのほとんどが肉体が持つ生物的作用であり、人間を突き動かしている動物的行動なのです。
その人が魂に目覚めていなければ、肉体の生物的作用に支配され、肉体から発っせられる突き動かす力によって、ただただ突き動かされて生活しているだけとなってしまうのです。
「いや違う私はじぶんで冷静に判断して行動しているのだ」と言っても、その冷静と思われる主張自体もインド哲学バガヴァット・ギーター修得しなければ、錯覚そのものなのです。
我々は、無智、激情、徳性の三つのグナの潜在的な力によって突き動かされ、また動物的本能の力によって、結局は快楽的感覚に赴いてしまうという事を書きました。
今回はもう一つの我々を思いもかけない方向に突き進める力のあることを、お話いたします。
それは、カルマの力なのです。
このカルマには二つの意味があります。
1−自分が過去に犯した行動の反作用として、自分に降りかかってくる観えざる力。
2−自己の魂の修行としての、修行カリキュラムとして、与えられる観えざる力。
例えばこの世で、人の為に尽くさなければいられない人は、過去世において人々を苦しめたその反動として、今生は人の為に尽くす立場が与えられるのです。
ただその事が、前世に犯したことの反動である為、そのこと事態に気付かないのです。
しかし、普通の感覚以上にそのことに執着する人は、そのカルマを消す為にどうしてもやらなければならない感覚になってくるのです。
二つ目の、自己の魂の修行としての突き動かされる力は、その仕事をどうしてもやりたいとの想いがこみあげてきます。
そのような人は、肉体的や知能的に適した仕事に付くように、特別な資質を持って生まれて来るのです。
肉体的に優れた人はスポーツや肉体労働に、手先が器用な人は職人や技術者などに職を求め、芸術的感性に優れた人は芸術家や芸能者にあこがれ、また知的に優れた人は先生や科学者や医者などの、知的能力を必要とする職に付こうとするのです。
これの持って生まれた能力や才能は魂の修行として、カルマの推進力となって、その人を突き動かすのです。
この突き動かす推進力も、人がなかなか気付かない力ですが、それよりも本来与えられた魂の修行よりも、世間体や欲望によって身分不相応な仕事を求めようとしてし、苦しんでいる人が多くいるのです。
現在は仕事の種類も多く、仕事の選択が非常に難しくなっています。
本来自分の性質や資質を見極めた仕事選びが重要なのです。
そのヒントが、バガヴァット・ギーターで示されているのです。
バール・クリシュナ・フミオ
昨日は、我々は物質自然のグナの力によって、無智、激情、徳性の生き方に突き動かされている、と書きました。
この三つの無智、激情、徳性の性質はそれぞれ誰もが持っているものでありますが、無智、激情、徳性の中の一つが大きくなると、他の二つの性質は抑制され、その性質が顕著となり、その人の生き方の基本構造となってくるのです。
その人は、無智の人であるとか、激情の人であるとか、徳性の人であるとか、その人柄が決まるのです。
今日はもう一つ、我々を突き動かすものとして、六つの衝動についてお話いたします。
この六つの衝動は基本的には動物の本能の働きです。
1−胃袋の衝動。(空腹によって、食べ物を求める行動)
2−味覚の衝動。(美味しいものを食べたいと行動する)
3−性の衝動(子孫を残すための、生殖行動)
4−言葉の衝動(何か話したい、喋りたい行動)
5−動きの衝動(じっとしていられない、動きたい行動)
6−怒りの衝動(ついつい怒ってしまう、怒りの行動)
この六つの衝動が、人間に色々な災いを招く衝動となっているのです。
これは動物としての肉体が求めてくる、根源的な衝動であり、この動物的衝動を、時と場合と、相手と程度によって、どのように抑制するかによって人間か動物かの分かれ道となるのです。
この六つの衝動の抑制と中庸の行使が重要であり、これを出来る人が理性的な人であり、このコントロールが出来ない人は動物次元の、低レベルの人間の段階にあると言えます。
人は生きる為には、肉体維持の欲望として寝る、食べる、性交、防御の四つの基本行動を余儀なくされますが、それを行使するにあたっては、厳格な人間界のルールが定められているのです。
その原則はヴェーダによって定められており、このヴェーダこそは神の息吹によって書かれた絶対なる理法なのです。
道徳や倫理そして宗教などの作法しきたりなど、全てはこのヴェーダから流れてきているのです。
人間はそのヴェーダの教えを、ただただ確信し、それに従い、その生き方を忠実に実践してこそ、身の浄化が図れるのです。
この身の浄化こそが、徳性にいたる絶対条件となっています。
バガヴァット・ギーターはこのヴェーダをはじめ、ウパニシャドウ、スムリティー、などインド哲学の精髄を集めた聖典なのです。
人間が最終的に赴く境地をこのバガヴァット・ギーターは示唆してくれると思います。
自分は自分の意思をもって、行動していると思って人は生きている。
それでも自分の意思というものをもって生きている人はまだ良い。
ほとんどの人が、惰性と習慣でがむしゃらに生きているのが実情であると思います。
毎日習慣として仕事に行き、学校で学びまたは、ある一定のパターンで行動をしているだけなのです。
その行動は、習慣的なものであろうと、衝動的なものであろうと、自分が判断したと思っていること自体が、あるものから突き動かされているのだと意識する人はまずいない。
それはバガヴァット・ギーターを学ばない限りそのことには気づかないはずである。
気付かないと言うよりも気付けないのです。
それはその真理があることを知らないからです。
しかし、知っていてもその真理を実践していなければ知らない事と同じと言えます。
その突き動かす正体が、物質自然の三様式(グナ)の推進力なのです。
この物質自然の三様式の言葉自体バガヴァット・ギーターを学ばなければ、知りえない言葉なのです。
この物質自然の三様式のグナとは、未顕現識という自分では意識できない潜在意識なのです。
この未顕現識という潜在意識が、その人に気付かない独特の推進力でその人の全てを突き動かしているのです。
それはその人が自分で判断したと思っていても、その判断自体が既にこの三様式(グナ)の影響に侵されての判断であると言うところに、この三様式(グナ)の恐ろしさがあるのです。
その三様式のグナとは、無智(タマス)、激情(ラジャス)、徳性(サットヴァ)の三つです。
この三様式グナにはグナの掟 が創造神によって定められており、人間はこの掟からは逃れる事ができないのです。
その掟から逃れる為には、徳性(道徳と倫理を身につける)の性質ことから始まり、更には身体の浄化も必要になってきます。
この心身の浄化ができなければ、たとえ徳性であってもグナの掟から逃れる事は出来ないのです。
人間が輪廻転生するのは、このグナの掟の存在を知り、この掟から逃れ輪廻を脱して永遠の郷に帰郷することです。
そして、永遠の郷で父親である絶対神クリシュナと永遠の歓喜(プレーマ)を味わう事なのです。
バガヴァット・ギーターを学ぶ事はこの重要な真理を知る事になるのです。
私達は宗教を学ぶという、本当の意味を知らなければならないのです。
ふつう宗教を学ぶと言いますと、仏陀の教えとか、キリストの教えとか、宗教家の説いた教えを学ぶ事だと一般的には捉えられています。
しかしその教えを学ぶ事は、宗教のほんの一部の、枝葉の部分を学んでいるだけなのです。
宗教家の説く教えは、道徳とか倫理の一部をも含んでおり、尚且つ道徳と倫理を越えた、過去世、来世、更には輪廻の事も説かれています。
しかし、宗教の根源的な意味を知ることはバガヴァット・ギーターの解釈をもってしなければ理解できず、また宗教を超越して、哲学の世界に入ることもできないのです。
その宗教を修する目的は四つの道を知り、それを身体でもって味わい悟らなければ、永遠の救いである哲学の道に入る事は出来ないのです。
1−道徳倫理(ダルマ)道徳倫理を知り身につける事。
2−実利(アルタ)道徳倫理を実践し、それを踏まえて実社会で富を得ること。
3−享楽(カーマ)その財を得た富で、欲望の快楽を味わう事。
4−解脱(モークシャ)欲望の快楽は本物の快楽でない事のむなしさを悟り、魂の歓びである精神的世界に旅立つ事。
宗教家の教えを知るだけでは、宗教の目的を知る事ができず、輪廻をただただ繰り返す、苦しみの生活を送るだけになります。
それどころか、道徳や倫理すら知らずに、いきなり実利の目的のために学校の勉強だけで得た富と享楽は、その先にある解脱に向う気持ちが起こらず、欲望の渦の中にどんどん巻き込まれ、矛盾と混迷困惑混沌の世界に入り込み、最期は狂気と妄想の中に消滅していく運命になるのです。
いま正に、道徳と倫理が退廃した日本は、狂気と妄想の中に消滅していく運命状態にあるのです。
神は人間に備えた欲望を充分楽しんで、楽しみ疲れたその果てに、肉体的歓喜から本物の精神的歓喜に来なさいよと言っているのです。
従って、道徳、倫理、宗教を勉強して、今度は実社会で思いっきり働き稼いで財をつくり、肉体的欲望を満たしきってから、精神的に歓ぶ世界に来なさいと言ってくれているのです。
しかしここで重要なことは、その欲望を満たすには分相応と中庸が絶対条件であることを忘れてはならないのです。
このようにバガヴァット・ギーターの真理を学ぶには、頭での学びだけでなく、生身で苦しみや快楽を体得する事が絶対条件になっているのです。
今日は、インド哲学バガヴァット・ギーターを学ぶ事とは、どう言うことかを分かりやすくご説明いたします。
私達は例えて言うならば、物質社会という大海で生活していると仮定いたします。
さらに生活をしてる状態を、泳いでいると仮定してください。
当然、泳ぎの出来ない人は、あっぷあっぷと苦しみながら泳ぐ事になると思います。
そこで、躾、道徳、倫理と言った泳法を教えてもらい、身に付けたならば、今度は苦しまずに楽しく大海原で泳いでいる事が出来ます。
しかし、その大海原もサメの危険や、時々台風や低気圧の影響で荒れる時があり、この時は例え上手に泳げても、苦しまなければならないのです。
そこで今度は宗教と言う船に乗れば、直接肉体は苦しまずに航海ができるようになります。
これは、肉体が直接受ける苦悩を、宗教と言う精神的教えで、肉体の苦しみから解脱した事になるのです。
しかし、直接的な肉体の苦しみから逃れられても、どんな大きな船に乗っていても荒波に翻弄される事態からは逃れられないのです。
そこで、今度はインド哲学バガヴァット・ギーターと言う空中を飛ぶヘリコプターに乗れば、どんな荒波の海原でも、全く船酔いする苦しみはなくなるのです。
これは物質の海である娑婆世界から、物質次元を変えた精神的次元で生きるという事になるからなのです。
この例えは、物質次元の大海で躾、道徳、倫理の泳法を学び、そしてその苦しみか逃れる為に宗教と言う船に乗る智慧を身につけ、そして最期は次元を超えた、哲学と言うヘリコプターに乗るという永遠の救いの境地に至ると言うことなのです。
その人間の苦しみを救う哲学こそが、インド哲学バガヴァット・ギーターなのです。
蒙昧に陥っているだけならまだ良いのですが、矛盾と混沌、さらには妄想と狂気に突き進んでしまっています。
親の子殺し、子の親殺し、聖職者の破廉恥行為、子供の自殺と、私たちが子供の頃には全く想像も出来ないような事態が日常茶飯事に起きています。
もう犬、猫、猿、の動物以下の次元にまで成り下がっています。
その原因は、人間として身に付けなければならない、躾け、道徳、倫理、の教育がないがしろにされ、家庭や学校でそれらを教えていないからなのです。
明治大正昭和の始め頃まで、学校では教育勅語や修身といった徳育が重要な教科となっていたのです。
この、躾け、道徳、倫理の人間としての教育の原点をなくし、自由、民主、権利といったキーワードが重要視され、個人の欲望を自由に求める事が、社会の発展になると錯覚しているからです。
確かに物質に恵まれることは人間生活に便利さをもたらし、それはそれなりの目的として叶った事であると思います。
それは、人間の物造りの能力を発揮することであり、それは創造主神も認めている事だと思います。
しかし、それはあくまでも必要であるといった条件の元でのことで、さらにさらにの渇望となっては、それは毒となるのです。
どんな良薬も一度に全部飲んでしまったら、毒となってしまうのと同じで、物事にはほどほどとか中庸といった戒めの教えがあるのです。
この渇望の興る原因は、その人の肉体的特質がそのような無智なる行為に駆り立てるのです。
ここが一番の問題ですが、自分が判断して決断した行動であっても、その愚かしい事や欲得の行動が、肉体的資質によって、突き動かされているのだといった認識がないことです。
たとえ自分で冷静に判断しても、その冷静の決断でさえも、その人の肉体的資質によって、愚かしい行動に突き動かされてしまっているという事が分からないのです。
だから聖職者の破廉恥行為などというものが起きてしまうのです。
これは普通に教えられている程度の教えでは決して理解できない肉体資質の真理なのです。
これこそインド哲学バガヴァット・ギーターを学ばなければその真理は理解できないのです。
私達はこの世で人間的に進歩向上の為に、生まれてきているのです。
ただ、感覚欲望や快楽を満たす為に生きているのではありません。
しかし、今の世の中の風潮は、社会的に認められ、経済的にも安定した職業を得る為に、勉強して良い大学へそして優良企業に入ろうと、学生時代から苛烈な生存競争をしています。
その一つには、今の社会が物質的に高度に発展し、その高度な経済を支える為に、消費サイクルが短くなり、次々と欲望をあおる製品を開発しなければ競争に負けてしまう、世の中になってしまっているのです。
この物質的に恵まれるという事は、世の中を矛盾と混迷と困惑の社会にどんどん巻き込んでいくという、グナ(物質自然の法則)があるのです。
要するに社会的に発展するという事は、ライフサイクルがどんどん短く複雑になっていくという事なのです。
その為に人間は、経済的にも精神的にもどんどん追い込まれ、生きていくことで精一杯になってしまい、精神的向上といったことなど目にも入らなくなってしまっているのです。
皮肉なもので、人間が物の豊かさで、人生の豊かさを求めてきた事が逆に、生きにくい社会構造を作ってしまったという事なのです。
その原因は、人間のもっともっとと欲望を求め続けようとする渇望が原因なのです。
しかし、その渇望も精神的発展に対して起こすのであれば、その欲望は非常に素晴らしい事なのです。
自分の感覚的満足や快楽の為の、肉体的欲求は物質次元の欲であり、それは際限なく求められ、そして精神と肉体をどんどん蝕んでいくのです。
しかし、道徳、倫理、宗教、哲学といった、精神的な向上心は肉体や精神的に全く害は無く、逆に肉体から発せられる欲望から解放され、精神的歓喜を得る事ができるようになるのです。
欲望を自由に満たす錯覚の喜びから、欲望から解放される精神的歓喜が、本当の自由なのです。
私は使命を持ってこの世に遣わされて来た降臨者です。
その使命は「バガヴァット・ギーターの教えを以って、世の人々を救いなさい」との使命です。
私はそのこと確信を持ってこの場で宣言いたします。
降臨者とは、至上神クリシュナから使命を受けて、目的を持って遣わされてきた人を言うのです。
したがって、カルマの修行をしながら魂が輪廻転生している一般的な人達とはその生き方が全く違い、降臨者はクリシュナから託された使命の元にこの世で修行して生きている人です。
この降臨者は私だけでなく、スポーツや芸術その他、抜き出た才能を持って社会に活躍している人々も降臨者なのです。
降臨者は、普通の人では出来ない優れた才能を生まれながらにして備えられているのです。
いわゆる持って生まれてくるのです。
その特殊な才能を、この世で磨きそして人々の為に尽くしてこそ、降臨者の務めなのです。
しかしながら、この世では肉体を持って活動しなければならない為、その肉体から発せられる欲望が、降臨者の目的達成の大きなハードルとなってしまうのです。
せっかくの才能を持ちながら、この世的な価値観や習慣や社会的常識などの障害によって、その才能が、蓄財の為とか、名誉を得る為とか、と言った別の目的に向けられてしますのです。
そのため、せっかっく降臨者として持って生まれた才能を、世の為人の為の目的に使わずに埋没していく人々が、沢山いるのです。
特に、若いときにその才能に恵まれ、人間としての精神的柱がしっかり出来ていないうちに世間に名の出る人ほど、その危険性は大きいのです。
また最近は、テレビや新聞や雑誌、更にはインターネットなどのマスメディアが発達してますので、名声を高めるには昔と違って簡単に広める事もできるようになったのです。
この世で輝く存在の人々はみな選ばれし降臨者なのです。
しかしその輝ける存在を、他の人々のお手本として、その輝ける奥義を伝えなければならないのです。
スポーツの世界では「心、技、體、」の精神が重んじられていますが、これは武道でも芸術の世界でも共通の秘義としての言葉でもあるのです。
それは人間性を磨く、奥義に通じる言葉だからです。
その奥義をもって人を指導してこそ、降臨者の務めなのです。
私はバガヴァット・ギーターを伝える降臨者としてこの世に生まれてきました。
この先、道を外すことなく使命を全うしてクリシュナの元に還りたいと思っております。
この世に生まれて、何を成し、どんな人間性を構築し、死後はどこへ行き、そこで何をするのか。こっれらの修行過程は、今世だけでの生涯では、決して成せるものではないのです。
人間界に入った魂は、先ずは他人と接する為の、言葉使い、挨拶、礼儀、などの基本的な躾から身につけなければならないのです。
その次には、団体生活や多くの人々と接する時の大事な、道徳の五徳(仁、儀、礼、智、信)を身に付ける。
さらに所帯を持って社会生活をするときには倫理の五倫(親、別、義、序、信)を身に付ける。
そして躾け、道徳、倫理と、三つのこの世で生きる為の基本的事項を修してその後に、宗教と哲学を身につけ、死後の世界を理解することが出来るようになるのです。
この様に人間は、死後の世界を理解し、死後はどこで何をするかを知り、その為の生き方をするのが人間修行なのです。
そのどこかとは、精神世界の最高惑星ゴーローカ・ヴェリンダーヴァンへ赴き、そこで最高神クリシュナとの永遠の歓喜を得る、これが人間の最終目的なのです。
それはクリシュナが私達の魂の産みの親であり、還るべき郷であるからなのです。
バガヴァット・ギーターでは最高神を、クリシュナと定義しています。
そしてそのクリシュナが住む精神惑星をゴーローカ・ヴェリンダーヴァンと言っています。
日本人ではインド神のクリシュナを、なかなか受け入れがたいものがあると思います。
しかし、真理を掴むには男女の性別を越え、日本人インド人と言った国籍や人種を超えた本質的な象徴的なことを掴む事が大事なのです。
私の一番の生徒さんは、12年間教えているインド人のSさんなのです。
哲学を学ぶにあたっては、その教えが真理であり哲理であるゆえ、決して国や人種などに惑わされることなく、その本質や象徴的なことを掴まなくてはならないのです。
宗教の段階では国や人種による区別の部分が残されており、その為に争いがあるのでが、哲学は永遠不滅の真理であるから、性別や国籍や人種を超えた普遍的なものなのです。
これらを悟る、つまりバガヴァット・ギーターを修得するのが、この世に生まれた意義なのです。
だが、このバガヴァット・ギーターを理解するには、それこそ気が遠くなるほどの厳しい修行を成した、輪廻の結果に悟ることができるのです。
この世だけで、これらの事を悟る事の出来るひとは、非常に稀なる存在であり、バガヴァット・ギーターを独学で理解し解釈できる人は、更に更に稀なる存在の人なのです。
そのような人は、それらの真理を諭す使命を持って生まれた、降臨者(アヴァターラ)なのです。
今日は非暴力の真意を、バガヴァット・ギーター的解釈で致したいと思います。
最近の暴力は、肉体的だけでなく、言葉による暴力や精神的に与える暴力など、その行使は家庭や学校そして職場などで、様々な形となって行なわれています。
この暴力は他人に肉体的な苦痛だけでなく、精神的な悲しみや苦悩を与える事で、これは決して許されるものではありません。
そのような他人に不幸を与える一義的暴力は、誰でもその行為は必ず否定されるものです。
今回私がお話しする非暴力は、他人に対しての非暴力を説くものではなく、自分自身にも誰もが知らないうちに暴力を行なっている事にたいする、警鐘としてお話しいたします。
この自分に対する暴力という事の意味が多分ほとんどの人は解釈できないと思います。
この自分に対する暴力の解答を得るには、次のような超越的思考が必要なのです。
その超越的思考から定義しますと、肉体は魂の修行、向上の為に使われなければならないのです。
我々の肉体は、この世で生きていく為に、肉体を維持する為の必要最小限の行動と、魂の精神的修行の為にだけ使うべきものであるからなのです。
逆を言うならば、魂の修行を行う行動こそが非暴力であり、その目的を忘れた人々の行動は、多かれ少なかれ自分に対して、暴飲暴食、夜更かし、享楽の行動となって自分自身に気づかぬ暴力をしているのです。
しかし世間では、自分のことに関しては、他人に迷惑をかけていないといったことで、その自己に対する暴力は問題視されていません。
せいぜい健康に悪いから程度の認識しかないのです。
しかし、人間がこの世に生まれて来た、魂の修行をすると言う目的からすれば、他人に対する暴力は問題外でありますが、自分の魂を向上させる為の修行こそが、最高の非暴力であるとその真意を捉えるべきなのです。
他人への暴力は誰でもが気づき関心を持ち、その抑制に努めます。
しかし自分自身にの肉体に対する、暴飲暴食、夜更かし、享楽などの無知なる暴力には、気づく人はほとんどいないでしょう。
このようにバガヴァット・ギーターの超越的視野をもたなければ、このような解釈はできないです。
勤行とは仏教用語で、毎朝仏様にお経を上げたり、水やご飯の供物を捧げることです。
人間は毎日やらなければならない事が必ずあり、無意識的にも習慣的にもそれを行なっているのです。
その最も基本的なことは、寝ることと食事を摂ること、それに大小便の排泄をすること。
この事は、動物として生命を維持する為に、肉体が求めてくる、生理的現象であるため、無意識的に毎日やっているのです。
その次に、習慣的に行なっているのは、仕事に毎日行く事です。
これは生活する為の経済活動であり、昔は農業や漁業の一次産業が主体であり、次に製造業の二次産業、そして流通、サービス、通信などの三次産業と、社会が物質的に発展するに従って、その仕事内容も多様的になっていきます。
それらに従事する人はすべて、結果的には、生活費を稼ぐ為に毎日行なっている行動なのです。
動物の基本行動は、寝る、食べる、性交、防御の四つの行動であり、動物における身を守る防御は、逃げるか戦うかの二つの選択しかありません。
しかし人間界では、動物の防御にあたる行動が、複雑な社会活動を営む形となっているだけなのです。
たとえそれが高度な知的労働を伴う行動となっていても、本質的には生活費を稼ぐ動物の防御程度の行動と同じと言うことなのです。
つまり信仰を持たない生活は、つきつめれば食事と快楽の生活を求める事が目的の生き方になり、また子供を持てば、子供を育てる為にのしがらみ的な生き方となってしまうと言うことです。
信仰心をもったならば、人間としての活き方は、その生きる意義を知り、その修行として家庭生活を行い、仕事を通じて人間修養を行い、自己完成を目指す方向性が出てくるのです。
その為には、必ず神仏に対する毎日の勤行があるはずなのです。
その神仏に対する勤行なくして、その人の精神性は絶対に高まらないのです。
私は、三十歳の時にそれを行動を以ってすることが大事と悟り、般若心経 の読経からはじまり観音経 、修証義 、理趣経 、と毎日唱えてきました。
そして今は毎日バガヴァット・ギーターを読んで、魂の修養をしております。
それは絶対神を崇拝し絶対神に帰依する為に、人間としての修行として、毎日没頭しているのです。
人間として大切な要素は「知、情、意」であると言われています。
知は知性、情は情緒、意は意志を、それぞれ意味しています。
この「知、情、意」を私なりにバガヴァット・ギーター的解釈をいたしますと。
まず知は「知識、智慧、」といった頭脳で処理するもので、この世で生きていく為に駆使する働き、と言えましょう。
一般的には、学校で教えている一般教養を身につけることで、社会で知的能力を使って活躍する人たちです。
次に情は「情緒」であり、嬉しい、悲しい、美しい、醜い、といった目や耳や鼻や肌などから感じて、ひきおこす想いを情緒と言い、一般的には形容詞で言いあらわされた想い、と言えましょう。
この情緒が優れている人は感性があると言われ、芸術家や作家などの感性を必要とする仕事に向いているのです。
そして意は「意志、信念」と言ったものであり、思いを実現、実行する力であり、信念は真理や教理を固く信じて確信する力だといえます。
この強い意志と信念を持った人こそが最高位に発展した人間であり、神の存在を確信し、崇拝し、教えに服従し、そしてその世界に没頭できる人なのです。
実はこの知、情、意とは、知は頭であり、情は心であり、意は魂を表しているのです。
知性は、頭脳処理
情緒は、心の感情表現
意志は、魂の認識と、魂こそが自己である、との強い確信を得る事
この三段階を昇っていく事こそが、完成された人間へ向う修行なのです。
情緒は知性より勝り、意志は知性と情緒よりも勝るのです。
全ては意志をもって、主体的に哲学を学び行動する事が、人間のこの世における存在意義なのです。
人間の能力には、頭を使う知的能力と心を使う精神的能力の二つがあります。
この知的能力とは何か、精神的能力とは何か、この二つを知りその違いをしっかり区別できることが智慧の本質なのです。
知的能力は主に、読んだり、書いたり、計算したり、記憶したり、予測したりの、言わばコンピューターが持っている能力です。
それに比べて心の能力は、人に対する思いやりの心、赦す心、褒め称える心、その他自分に対しては、正直な心、守る心、我慢する心などであり、これらの能力を精神的能力と言います。
知的能力は、この世で仕事をしていく為に必要な、生活手段としての重要な能力です。
また精神的能力は、人と人との関わりにおいて、人間関係を円滑に運ぶ為に、また楽しく暮らす為に、必要な心を使う能力なのです。
この二つの能力は、共に神から与えられた能力ですが、知的能力はこの世で生きている間だけ、つまり肉体が生存している間だけ機能するものです。
それに比べて心の能力は、死んだ後にもしっかり機能する能力なのです。
この生きているときだけと、死んだ後にもしっかり機能している、と言う違いを確信することです。
言わば、こころの能力こそが、人間が魂に刻みつけなければならない、精神知識なのです。
あの世へ行けば、この世で必要とされている知識は全く必要なくなるのです。
それよりも、心に刻まれて残った性質や気質がその人が死後に赴く世界を創り上げるのです。
したがって、何がこの世の知識か、どんな事が心を働かす精神的能力なのか、を分別する能力が智慧なのです。
この心を使う能力を定めたのが、道徳の五徳(仁、義、礼、智、信)であり、倫理の五倫(親、儀、別、序、信)なのです。
この道徳と五倫を修することこそが、この世に生きていく精神修養となっているのです。
先回は、この原発事故はその現象として、それは宇宙創造神ブラフマーの怒りであると書きました。
それは物質構成の原子レベルである、ブラフマーの細胞を破壊したことの、怒りの熱であり放射能であると書きました。
物質の原子レベルの破壊は、その副産物として自然界に存在にない様々な物質を創ります。
それは人智を超えたものであり、その処理と対応は苦慮するものであると思います。
さらにその未知なる物質からは、放射能やその他自然界にない未知の放射線が放出されているのです。
その放射されているものこそ、至上主(ヴィシュヌ)の分霊なのです。
神は、我々が手にする物質を、素粒子レベルの存在になって物質を構成し、人間が目で見たり手で触ったりする事のできる物として、提供しているのです。
さらには、太陽の光のように物質を越えた光の光子としても存在し、もっと細密な存在としては意識としてその存在があるのです。
ですから、放射能(線)は神の意識レベルからすれば、まだまだ波動の荒いエネルギーの状態であるため、人間の肉体に強い影響を与えてしますのです。
しかし、人間の意識はその放射線よりも更に細密なエネルギーですから、当然その意識次第では、放射線の作用を変えることができるのです。
要するにこの放射能(線)を神の存在として、畏敬崇拝の念に意識を持て行けば、人間にプラスの作用として働き、逆に嫌悪感や恐怖心を以ってすればそれは、人間の肉体にマイナスの作用として働くのです。
ここで重要な事は、意識を持つという事は、ただ意識を持つだけでなく、その食生活をはじめ、毎日の生活習慣、そして人生観を含めてまでの、日常における生き方が、神ながらの生活になっていると言うことなのです。
私は今回の福島原発を、日本人が安全性よりも経済性に猛進した愚行のモニュメントとして、永久に残されるのでないかと思われます。
戦争の愚を犯した懺悔のモニュメントが広島と長崎にあり、今回は経済猛進の愚の懺悔のモニュメントがこの福島原発であると、私は思っております。
この放射能(線)を善と観るか悪と観るかは、その人の宗教観や哲学思想がその分かれ道になると思います。
いま問題となっている福島原発事故、その収束や被害の広がりの対処など、様々な問題が日本人に突きつけられています。
どれをとってみてもこれは非常に困難な矛盾をはらんだ問題だと思います。
これだけ、大きな災害を出しながらも、この悪魔様をどうにかなだめすかし、利用しなげればならないほどに、原発に依存した社会システムとなってしまっています。
神は人間に快適な生活をさせる為、自然界の資源を無料で自由に供給してくれているのです。
しかし禁断のウラン鉱だけは使ってはいけないと、アメリカのホピ族にその予言を託されていたのでした。
そのホピ族を居留地においやり、ホピ族が住み守っていたウラン鉱を採掘し、原子爆弾が造られました。
それから原子爆弾にいきづまり、その後は平和利用と言う虚言のもとに、この原子力エネルギー政策が進められてきたのです。
言うなれば、この原子力自体は人間が利用してはならない禁断の果実であったのです。
この原子力が、なぜ禁断の果実であるかを分析しますと、それは原子構造を破壊して、自然界に存在しない物質を創り上げているからなのです。
この原子構造物は、この宇宙の生物や物質の全てを創り上げている神(ブラフマー)の細胞であるからなのです。
そのブラフマーの細胞を、人間の欲の為に破壊したのです、この破壊による熱や未知の物質である放射能はブラフマーの怒りの熱なのです。
当然、未知の物質を造ってしまった人間どもの浅智慧なんかでは、とうてい処理でる訳がない。
今回の原発事故の諭しは、原子構造までも支配する創造神の存在に、畏敬と崇拝の姿勢を持たなければならない事を、そしてその神聖なる核物質を軽んじた扱いに反省すべき諭しだと思います。
本来は利用すべきではない、神の細胞を破壊する核分裂作用を、人間の経済性という強欲によって、禁断の領域に踏み込んでしまったのです。
この哲学的視野を持って今回の原発事故を考察しなければ、これからこの地球で生かされる我々に、安住の地は訪れないと思います。
いま日本中が原発問題で右往左往している。
それは原子燃料から発せられる、放射能が人体に悪影響を及ぼすと考えられているからなのでしょう。
しかもその半減期が、数十年や数千年更には数万年と、人類が消滅する以上にその存在が永いのです。
そのうえ、その放射能は人間の五感を超えた存在のため、見えない敵となり、その恐怖は更に増しております。
またその防御手段も処理手段も全くめどが立っていません。
これは元々人類が手にしてはならない禁断の果実であり、それは神の掟 であった訳で、その結果が出ているだけなのです。
元々人類は自然の循環の中でしか、その生存を許されていなかったのです。
神は我々を循環の環境におき、その循環をめぐりながららせん状に精神性を高めるように修業道場を創られました。
自然の循環は、一日の単位で始まり、一年、うるう年、一世紀、千年紀、とありますが、人間の歴史なんかはこの千年紀程度なのです。
しかし、その上には地球の歳差運動があり、この歳差の周期は約25,800年あります。
更にギーターの教えではユガがり、この宇宙の寿命は311兆4000万年となっているのです。
その宇宙の寿命もブラフマーの生涯として、循環の中で繰り返されているのです。
原子力は、人類の循環を遥かに超えた寿命だから、その処理が人類では出来ないのです。
これからは、この放射能にもびくともしない、身体を遺伝子の改造によって、何代にもわたって獲得していくしかないと思えます。
いわば今は、放射能によてその耐性を身につける選択された民族として日本がその役割を担ったと言えるのでしょう。
魂を本来の自分と確信している者にとっては、肉体なんかは季節ごとに換える洋服のようなものであり、服を着替えるのに何を騒ぐ必要があるのか、と思えます。
人間にとって、最も大事な魂の事を忘れている人こそ、その騒ぎに翻弄されている人でしょう。
人間の発展段階における倫理修行は、家庭における躾けの段階から始まり、次は学校などの集団生活における道徳を学ぶ段階に入り、更には社会に出て、そして家庭を持って、社会生活をする段階でこの倫理の修行が始まるのです。
その倫理は親子関係に於いて親和を学ぶ事、雇い主に対して忠義を尽くすこと、夫婦としてあるべき道を行う事、人間関係における序列を尊ぶ事、友達関係において信頼を保つ事。
これら、の五つの関係において定められた、親和、忠義、区別、序列、信頼、この五つを社会生活をしながら
悟る事が、倫理を修する事になるのです。
人は、生活を維持する為には、また商売を発展させる為には、会社経営を成り立たす為には、多少なりの不正をしなければやっていけないように、この世は創られているのです。
しかし、その不正をどの程度までなら許せるのか、時と、場合と、相手と、程度によってどこまでなら許せられるのか、その判断を養うのが倫理の修行になるのです。
綺麗すぎる水では生物は棲めないものです。
蓮の花は泥沼の中にありながら、その泥に染まることなく綺麗な花を咲かすから蓮の価値があるのです。
社会生活こそは、実戦の場であり、それこそ生きるか死ぬかの生存競争の場でもあるのです。
それだけに、ともすると過当競争におちいり非道に走ったり、独善的になったり、回りとの関係を築けなくなってしまう事にもなります。
倫理はこのように、親子、君臣、夫婦、長幼、朋友における大事な徳目をしめしており、二律背反に創られた社会でどこまでこの徳目を守りながら、人間的成長を計るかが、その目的となっているのです。
この倫理の修行が終えた後に、今度は死後の世界や輪廻転生を考える、宗教の世界に入っていくのです。
そして、その宗教を正しく修してこそ、次の最終段階である哲学の領域に入れるのです。
この世に現象したからには物事はすべて何か、目的があるはずである。
それが人間によって造られた物でも、自然界で生まれてくる動植物でも、また自然に起きる季節の変化、や毎日の気象や、時々起きる地震ですら、その発生の意義がある。
何の為に生まれたのか、その意義は何か、そしてその目的とすることは何か。
この三つを完璧に捉えて、その真意を深く考察してこの世を生き貫いていかなければ、人はその目的を見失うことになるのです。
この世の一般的社会通念や価値観なんかでなく、本来の目的とした深い真理に目を向けなければ、迷いと混沌の渦の中にどんどん巻き込まれてしますのです。
毎年3万人以上の自殺者や、精神障害者が多発する社会が、その結末として物語っています。
その原理原則基本は何かを学ぶ事が、精神知識を学ぶ事であり、学校で教えている一般教養知識とは、完全に分別しなければならないのです。
その精神知識としての、初歩の初歩は家庭で行なう「しつけ」から始まるのです。
「しつけ」の基本は、言葉遣い、挨拶、礼儀、身の振り方、身だしなみであり、これは人と接する為の最低限のルールを、家庭で親が教える事なのです。
この「しつけ」も、高度になれば人間の品格を顕す美学にも通じるのです。
「しつけ」ができればその次は、道徳を身につける段階にはいるのです。
道徳の徳目は仁、義、礼、智、信、の五つであり、これは人と人とが関わり合って生きていく為の、重要な心得となります。
仁は、人に対する思いやり、やさしさ、許すこころ、寛容な精神などを言います。
義は、恥を知ることであり、約束を守る信義がその柱であり、その他社会のルールや、慣習などを守ることなのです。
礼は、自らは辞し他人に譲る「辞譲」の精神が基本になっており、それが発展して他人を尊敬したり、神を崇拝する気持ちまで高める事なのです。
智は、善悪をみわける分別であり、それはこの精神知識である道徳が基になります。
人の行いは大まかに、正、邪、善、悪の四つに分かれますが、この四つがどんなものであるかを分別する事が正しい生き方をする為の基本になるのです。
そして最後の信は、信仰の信であり、目に見えない物事を信ずる事なのです。
この信の基本は、家庭で毎日行なう先祖崇拝や掃除そしてお盆、年忌、などの宗教行事から身を以って、目に見えない存在を悟る事なのです。
この精神知識を得る事こそ、人間が生きていく為の原理原則基本となります。
そしてそれから、人間が赴くべき最終目的地を教えるインド哲学バガヴァット・ギーターの世界が待っているのです。
物事の真理を究めるには「その教えの本質をしっかり見極めそして、その教えに服従し没頭する事が大事である」、これが私の人生哲学なのです。
本質を見極めずに、枝葉末節をとらえて、あーだこーだと思索を重ねていては、その時代の価値観に影響され、どんな時代でもどんな状況下でも、変わることのない絶対的思考基準を持つことが、できなくなってしまう。
バガヴァット・ギーターの教えには、クリシュナ意識で献身奉仕せよと、盛んに教えている。
この献身奉仕とは、身を以って尽くすことであり、それはまだ肉体と言った物質次元の段階です。
私はこの物質次元の奉仕や布施の、献身奉仕を乗り越え、更にその先のクリシュナ(絶対神、至上神)にただただ崇拝帰依せよと、説いている。
この献身奉仕は「自分の身体を使って、他者に奉仕せよ」といっている訳で、それはまだ物質次元の修行段階にあるからなのです。
それにクリシュナは人間に奉仕などは求めていません。
クリシュナはただただ「私を崇拝し、添敬し、そして私の基に帰り、そこを拠り所にしなさい」と言っているのです。
その純粋なる気持ちを抱く為に、物質次元からの解放が絶対必要であり、その解放を得る修行段階として、献身的に他者や社会に奉仕と貢献の、肉体活動が必要であるとの事なのです。
私の使命は、人生で人間として行なうべき、道徳、倫理、宗教を修行してきた人に、最後に本当の哲学の学びである、バガヴァット・ギーターを教える事であると自覚しています。
私の求める学びの友は、他者を頼る事のない独立個人の人であり、自らを尊敬し敬う独立自尊の人であり、集団を求めず、共に学びあい、励ましあい、歓び合う、善き友の集まりなのである。
当然そこには、組織などは存在せず、互いが尊敬しあう同心円の関係であり、人は集めず、金を集めず、来るものは拒まず、去る者は追わず、受け入れらりぬ者は去れ、なのです。
私は、無知なる百万人の人々に崇められるよりも、百万人の中の智慧ある一人に慕われたい。
バガヴァット・ギーターを求めて私にスカイプをしてくる人は、それこそ百万人に一人の割合であろう。
私は、一トンの鉄よりも、一グラムの金塊に価値をおく。
たとえ一トンの鉄でも、千年後には溶けて無くなり、その原型を留める事はないであろう。
カリの時代の無知なる人は、唯物的で好戦的で享楽的であり、寿命も短く残酷的になる。
これは神が定めた世の循環(カルパ)により、その様な世相に埋没していくように創られているのです。
そんなカリの時代にありながら、藁の山から針をみつける程の価値ある出会いをブログをしながら待っている。
なぜなら、このバガヴァット・ギーターを学ぶ事は、何トンの金塊よりもダイヤモンドよりも価値ある、永遠の真理
で完全無欠の教えを獲得する事だからなのです。
この世の価値基準は、より多く、より強く、より速く、より高く、より硬く、より小さく、その他たくさんの「より」があり
ますが、それらは全て肉体欲望の価値基準であり、物質次元の現象に過ぎないものです。
それは、一瞬の非実在であり、それらの価値は人間が活きている時だけの、幻想に過ぎないのです。
しかし我々には肉体の感覚がありその為、肉体で感知した、暑い、寒い、嬉しい、悲しい、幸せ、苦しい、快感、
不快感、などの感覚として捉えているのです。
この感覚は肉体が生存している間だけのものであるが、死後に残って付きまとっていくモノこそ、その人の根性
なのです。
その根性を、永遠真理を得た智慧ある状態にすることこそ、この世で活きる目的なのです。
聖なる習慣とは、経典に添った行動であり、それは神仏を崇拝し先祖を供養する事なのです。
その具体的な行動は。
1−毎朝、神棚または仏壇に、水やお茶、そしてご飯をあげ、時には果物や花を添える。
2−毎朝、読経する。
3−毎日、経典の教えを読み書く事をする。
これらの行為が、聖なる習慣であり、これを毎日毎日くり返しくり返し貫く事が重要なのです。
私は、30歳の時に人生の活きる意義を求め、仏陀の思想を学び始めました。
その時から毎朝、般若心経の読経を初め、その後は観音経、修証義、不動経、理趣経、を50歳まで20年間あげ続けてきました。
その後50歳でバガヴァット・ギーターに出会い、それからはこのギーターを毎日読んだり、書きつづったりして現在に至っています。
家庭はこのように、聖なる習慣を行ない続ける、修行道場でなければならないと思っています。
決して、食べたり、寝たり、セックスしたいり、団欒したりの、動物小屋であってはならないのです。
家は、修行道場としての神聖なる場所でなければならないのです。
我が家の祭壇 バール・クリシュナを中央にその周りにもクリシュナが沢山おられます。
その他、不動尊、薬師如来、観音さん、仏陀、親族、ペットの写真も添えて有ります。
そのためには当然、修行の為の神仏を祭った祭壇が必ず必要なのですです。
この祭壇が無いと言うだけで、先ず第一の条件すらクリアーできないのです。
核家族化した現代社会では、その条件を維持して、神聖なる習慣を身につけることが非常に厳しい環境となってきている事に私は危惧を抱いております。
岡本天命が神から啓示を受けた日月神示に、一日に10万人が死ぬ事が起きたら事の始まりである。
と言う事が書かれており、そんな一日に10万人が一機に死ぬような事はどんな事だろうと、ずう〜と思ってきた。
そしたらその結果が、スマトラ沖地震での津波による死者の数であり、その時いよいよ終末の時期が始まったかと、その予言に感心していた。
そしたらその次にハイチの大地震が起こり、そこでも10万人以上の人が一機に亡くなり、更にその予言の信憑性に確信したのです。
もう今は何時、どんな想像を絶する事が、予想もつかない事態が起きても何にも驚かず、「やはり来たか」の心境で臨んでいます。
ここに想像を絶するとあるのですから、我々が今まで生きてきた永い歴史的な体験を越えた事態である訳で、
当然予測も想像もつかない、驚天動地なことが起きることは間違いないのです。
神が定めた物質次元のグナ掟 は、自然のサイクルの中でしか人間の活動は許されておらず、それを越えた時点から、破滅に向う法則になっているのです。
しかし実情は、自然を相手にした農業界でも、物を作る製造業でも、金融や株式を扱う金融業でも、その他運輸、通信、更には資本主義経済自体も、すべて人間の欲によって際限なくいけいけどんどんの状態になっている。
本来ならば「必要は発明の母」で終わっていればいいのに、最近は「発明は必要の母」となり、際限なく欲望の喚起に驀進している、ゆがんだ社会になってしまったのです。
その為、人間が快適に生きていく為に行なわれた経済活動が、いつの間にか過当競争のなかで翻弄されてしまう事になって、苦しんでいるのです。
これらの現象は、既に現界に来ており、アメリカの債務不履行の問題がいつ爆発するか、今回こそは年貢の納め時ようにも思える。
その時の世界の経済的混乱は今までの歴史にない、想像もつかない大変な事態になると思います。
本来ならば、人々は他者に奉仕し、社会に奉仕し、国々が助け合う、国際関係を作り上げるのが神の修行の定めであるのですが、今の世の中は全く逆に進んでいる。
今こそ、本来人間が目的とする生き方を諭しているバガヴァット・ギーターを学ぶ時である。
我々は、自己の本質はアートマー(魂)である事を意識し、またそれはクリシュナの永遠なる個別的分霊であると自覚し、最後はクリシュナの住む最高位の精神惑星に帰郷し、そこで父親であるクリシュナと精神的交歓をはたす。
これはインド哲学バガヴァット・ギーターの究極の結論なのです。
この最終目的を果たす為に、二元相克に創られた物質次元が創られ、更に自然界の影響が強く出るように造られた、魂の修行の惑星である地球を造られたのです。
この地球は魂が修行する為に、わざと自然の猛威が出来るように、地球は23,4度傾かせて四季を創り、また天候を激しく変化させる為に水分の海を創り、海流も創り、そして地震が起きるようにマントル対流も創りました。
これは人間界に苦役を与える為に、神が人間の修行の為に、あえて創られたのです。
そして、人間は外観では皆同じ体型をなして人間として同一視していますが、人間以外の動物は全て外観がひと目で違いが分かるように分類さています。
しかしその人間界も実際には、その人の体格、運動能力、手先の器用さ、芸術性、精神的、知的能力などの素質によってその人がやるべき職業区分があるのです。
その職業区分をクリシュナはカースト制と言って、その制度を創られたのです。
本来ならば、その人がやるべき仕事は、その人が持って生まれた質性に添ったものでなければならないのです。
しかし、今の様に物質文明が発達した社会では、仕事が経済的に効率が良いように細分化され、多様化され、
そして短期化されてしまし、魂の修行としての継続的な仕事になかなかありつけないような現状となっています。
これは魂の修行を果たす為に、この現界で生かされている人間にとっては、その目的から外れた形であり、人間
が魂の修行の為に仕事に携わるのではなく、単なる経済の道具と化となっていることに危惧を抱きます。今の世の中は、物質的に豊かに恵まれ、快適に、五感の快感を満たす事を目指した生活がその価値観であると
言った、狂った状況だと思います。
こんな社会だからこそ、自己とは何か、何の為に生きているのか、その目的は何か、と言った魂の有り方を説い
たバガヴァット・ギーターを学ぶ時なのです。
昨夜インドから帰国したインド人の生徒とスカイプした。
彼女はインドと日本をそれぞれ二ヶ月ごと交互に、往復している。
そのため最新のインドでの情報が手軽に入手する事ができる。
更に彼女は聡明な才女でキャリアウーマン、五ヶ国語を流暢に話もできるクシャトリアの女性です。
日本には20年間住み続け、日本でインターナショナルな優秀な子供も二人育てあげてきた素晴らしい生徒で、ギーターを指導し続けて12年の付き合いの人です。
今回はインドでも有名なヨガスクールのライセンスを取るために子供さんと一緒に帰国していました。
このヨガスクールの看板は世界的にも認知された権威のあるものだそうです。
そこで見たヨガスクールの先生の生活ぶり話してくれたのですが、その中でも高位の先生はほとんど人との交流をもたず、クリシュナマントラをあげたり農業生活をしたりで、この世とは隔絶した生活をしているとのことです。
その言葉を聞いて、これはグリハスタの段階で止まってしまっている人なのだと私は理解した。
ヨガの八つの段階(アシュタンガーヨーガ)では、ヤマ、ニヤマ、からはじまり最後はサマーディーの段階までの境地に達するのが最終目標となっている。
しかし、バガヴァット・ギーターではその場に留まらず、その境地に行けた者がその次の、クリシュナへ崇拝帰依する最終段階に入っていくのです。
ヨガの修養はあくまでも、その為のファンデーション(基礎づくり)であり途中なのです。
このバガヴァット・ギーターを修してこそ、ヨガ(ヨーガ)の最終目的なのです。ヨガを、健康の維持増進や美容目的、シェイプアップなどの目的としているのは、ヨガの誤用でなのです。
クリシュナへの崇拝帰依に行き着く精神性を創り上げる為の肉体浄化の過程がアシュタンガーヨーガの修行なのです。
つまり、ヨガの最高峰はバガヴァット・ギーターを修得する事なのです。
中学校の生徒カウンセリングをしている人の話です。
このごろカウンセリングする生徒は、女子よりも男子生徒の方が多いと言う事です。
私が中学校の昭和30年代頃は、先生に相談に行くなどまったく考えられない事であった。
自分のことは自分で処理する、それが当たり前の感覚であり、相談に行く事は恥ずかしい事でありそんな気すら起きなかった。
それは、物が無かった頃では、自分のことは自分で処理するが必然的に培われる習性と思える。
また私が小学校子供の頃は家庭も貧しく、お腹いっぱいご飯を食べた事が無く、その為食べられるものは何でも食べるようになっていた。
そして五人兄弟の末っ子であった為、服はすべてお下がりの服を着させられ、ひざ当て、ひじ当て、けつミットがあてがわれていた。
それに、毎朝決められた階段の雑巾がけや、お風呂焚き、蒔き割りなどが日課として課せられていた。
また親は働きに行っていたので野放図に育てられ、その為か何事も自分でやる事が当たり前になっていた。
私は高校卒業するまで一度も学校で親の顔を見たことが無かったし、小学校の時からも、雨がどんなにふっても台風であろうが、一人で家に帰っていた事を覚えている。
それでも高校生の時は三年間無欠席の表彰状をもらっている。
今はではこの様な学校生活や、日常生活ぶりは想像できず、物や食事に恵まれ物質的には不自由のない快適な生活が普通にできる社会となっている。
でも逆に物質的には恵まれていても精神的には、迷い苦しんでいる社会のようである。
その一番の原因は、過激な競争社会となっているからだと思います。
この物質的に豊かな社会にする為に、社会全体が競い合って製品開発をしなければならない状況に陥っているからなのです。
一口に言えば生存競争が激烈になっているからなのです。
その競争種目が学校で教える教科であり、本来人間として学ぶべき、道徳や倫理そして宗教が全く教えられていない事が最大の原因なのです。
子供の時からこの道徳や倫理そして宗教を学ぶ事は、基本中の基本であり、これらの初歩的教えが先ず土台にあってこそ、その先の学校での学びとなるのです。
そうは言っても、私の子供の頃を振り返ってみると、道徳や倫理などの教えとはほど遠く、悪戯坊主で先生にビンタばかり張られていたターザンみただった事を覚えている。
しかし私は過去性において、これら道徳、倫理、宗教、哲学を修してきていたから、これらを学ぶことなくそれを超越した活き方をしていたのです。
昭和24年の戦後に、貧しい家で五人家族の末っ子として生まれたが、その時代、その境遇が、今の自分には必要なことであったと、素直に思えます。
昨夜、インド哲学塾で話したことの一つをお話し致します。
インド哲学の入門として重要な事は、先ずは自己とは何かの完璧なる知識の修得からしなければ成りませんん。
人間は肉体と魂が結合して活動している、生物体である。
人間が死ねば、意識がなくなる事が分かります。
人間は意識(魂)によって動かされるている死んだ乗り物なのです。
と言う事は、意識こそが魂の本質であると言えるのです。
意識=魂
でもこの意識は生物体がもっている五感による意識されるその意識ではなく、もっとその奥の生物体が死んでもなお残る根源的意識を言うのです。
そしてその意識を更に確信的に認識すると信念になり、さらにその本質を極めるとそれは精神知識となり、肉体を主体的に行動させる行為者となるのです。
この自己と言うものを、肉体的にも精神的にもはっきり分離してこそ、肉体から発せられる生理的欲求、本能的欲望、そして、人間だけが持つ物欲、名誉欲、支配欲のそれぞれが、どのように人間の活動に影響を及ぼすかを知る事ができるのです。
そして、その肉体から発せられる欲望からどのようにして逃れ、またそれらを抑制し、正しい欲望処理を行なうかを学ぶのがインド哲学なのです。
人間は自分で判断し決断して行動しているようだが、しかしそれは間違いであって、逆にそのような思考に常に突き動かされているのが正しい見方なのです。
愚かな人は常に愚かな事しか考えず、激情の人は常に欲望に突き動かされ奮闘し、徳性の人は精神的向上を図ろうと精神知識の養成を行なおうとするのです。
この様に自分の行動は自然と、肉体のもつ生命維持をする為の本能的行動と、人間だけが持つ「無知、激情、徳性」という三つの特性によって、突き動かされてしまうのである。
たとえ自分が判断し決断したとしても、その決断も突き動かされている事をはっきり認識しないと何時までたっても、苦しみの世界の同道巡りとなるだけなのです。
要は自分の身体と精神性を徳性の境地にまで、高めなければ苦しみからの解脱の道は無いとのことなのです。
その解脱の方法を説いたのがインド哲学バガヴァット・ギーターなのです。
今朝NHKNのニュースで、中国の新幹線が追突によって大事故を起こしたと報道していました。
やはり、もうか、この二つの思いが直ぐに、こみ上げてきまた。
やはりとの思いは、原理を無視した開発はこの様な厳格な法則によって、結果を生み出すのだ。
もうかとの思いは、スピード化の今の時代を反映している、急速結末の現象である。
先ず、オカマ事故そのものが、日本では考えられない度肝を抜かれるような事故だと思います。
新幹線のハード面は、日本やドイツやフランスの最高技術を駆使した車両を開発しましたが、その高度な超スピードで疾走する車両の運行ソフトにはあまり注意が払われていないように思えた。
日本では運行している全車両を、運行管理センターで一括して全ての車両を監視しており、またATMも装備されてりる。
この様に、ハードに相応しい運行ソフトが一体となって、安全な運行が出来るのであって、ハードだけが突出しての車両運行は、この様な大事故になることは明らかであろう。
これは、鉄道運行だけでなく、航空事業、それに原子力発電事業にも言えることなのです。
この事故は落雷による突発的な停車によって、オカマ事故となったと言っているのですが、まさか自然災害の「想定外」と言う、言い訳をするとは思いませんが、この程度の原因で、こんな大事故が起こっては、おちおち中国の新幹線には乗っていられないですね。
この様な現象は決して物質文明社会での事だけでなく、精神次元における人間性の崩壊にも当てはめる事ができるのです。
物質文明の発展と共に、本来は精神的にもそれに相応しい精神教育が施されなければ、物質文明の毒に人間性が侵されてしまい、矛盾と困惑の社会にどんどん巻き込まれていくのです。
そしてその行き着く先は、激情と無知の状態に人々は落とし込まれ、凶悪、残忍、狂気、妄想の世の中にどんど変質していくのです。
これは神が定めた物質次元の掟(グナの掟) であり、それは人をどんどん縛り上げる縄であり、人の判断を狂わす罠なのです。
そして、この神の掟 には何人とたりとも逃れる事は出来ないのです。
神様はこの世の中を修行の為に、陰陽のと言った対極的な存在として創っており、この二極のバランスをとりながら、中庸の精神で進めていく事を定めているのです。
物質文明が進歩すればするほど、人間の本質や大宇宙の真理を学び、絶対神の教えにまでその思いを至らせなければならないのです。
正にそれこそは、インド哲学バガヴァット・ギーターを学ぶ事なのです。
昨夜の風はもう秋風でした。
七月でこんな涼しい秋風のような夜は、生まれて初めてです。
昨日も、Uターン台風の件でブログしましたが、生まれてはじめての体験がこの様にどんどん出てきています。
また、世界を見回しても真夏に雪が降ると言った、今までにない事態が全世界的に頻発 しています。
これは地球のカタストロフィー(地殻の激変)や宇宙の周期的現象のまえぶれと、捉える事が必要と思います。
しかし私は、この様な事態になっても全く不安も無くおたおたする事もななく、毎日が充実した生活で過ごしております。
それは自分は魂の存在であると、認識しているからです。
肉体は、生老病死を免れぬが、魂そのものは永遠不滅であり、老いることも無く、病めることも無く、そして死ぬことも無い、と確信しているから何も不安はないのです。
それにバガヴァット・ギーターを修すると、死後の世界を肉体を持っていながら、この世で活きていく事ができるのです。
それは人間が持つ、欲望から解放された無欲の境地、将来起こるどんな事態にも怖れない無恐怖の境地、そして明日の命にも執着しない無執着の境地、この三つの三無の境地に至っています。
さらに毎日の活動は。
1−人には願わず。
2−人には求めず。
3−人には頼まず。
4−人から頼まれた事に最善を尽くし。
5−やりたい事だけをやる。
この五原則で活動をしています。
そして人から求められた事で最高の価値は、精神的にその人を導くことであり、いわゆる精神指導が最高の行為であると、私は思っております。
その導きはインド哲学バガヴァット・ギーターであると確信しています。
今回のUターンするような台風進路は、62歳の私が記憶している限りでは、全く無かった。
私が子供の頃の台風は、教科書にも載っていた様に、季節ごとにその進路がほぼ決まっており、そのような季節ごとの通り道があった。
また梅雨の時期も6月10日頃から7月15日頃までと、その時期もほとんど毎年変わらずに、暦どうりに到来していました。
またその梅雨の降り方も、しとしとと言った降り方で、夕立のような大粒の雨は全く有りませんでした。
また梅雨と言っても、低い山まで雲が掛かる事もなく、またその雲ももくもく黒ずんだものでなく、その雲も高い空によどんでいると言った具合でした。
この様に、台風の進路や梅雨の様相などからしても、自然界が激変している事が分かります。
そして気象の変化だけでなく、蝉の鳴き順 やすずめがいなくなった 生態変化についても、ブログのなかで指摘してきました。
また先日も、蝉の鳴き声と共にうぐいすの鳴き声も聞こえてきたり、私の子供の頃では想像できない事がどんどん起きてます。
その他、東日本大震災と原発事故をきっかけに人々の行動が、どこに住んでいるか、どんな生活をしているか、どんな価値観をもっているか、など個人レベルでその人が感じる恐怖感がまったく違ってきている。
いよいよこれからの時代は個人レベルで、どのような思考基準を持って行動するか、またどんな価値基準で世の中を生きるかによって、同じ境遇にあってもその感じ方が全く人それぞれとなってくるのです。
この個人レベルは家族の中にも入り込んできており、その為にたとえ家族であっても強いあつれきが生じるのです。
それは、個室時代からはじまり携帯時代となり、家族それぞれが子供の頃から孤立しているからなのです。
それに、人間が生きる意義とか、生き方としての道徳とは、また人生を生きていく倫理観などの精神知識が世の中から軽視され、親や先生といった指導的立場にある者がそう言った事を全く知らない世の中になってきてしまっているのです。
この様な異常現象は、気象の世界だけでなく、動物、植物、鳥類、昆虫類、魚類、そして人類と全ての生態系の中にどんどん現れてきています。
そして何時か、世界中が一挙に体験したことのない、宇宙的規模の大災害がやってくるのだろうと思います。
これらの現象はその前兆現象と捕らえるべきだと、私は思います。
バール・クリシュナ・フミオ
私達は宇宙の中で、神の掟の中で、神の手の中で生きているのです。
その掟は厳然たるものであり、永遠不滅の真理であり、不動の哲理なのです。
それには何人たりとも、その掟に逆らう事はできず、どうあがこうとも最後は道理に添った結果に行き着くのです。
例えば釈尊が唱えた真理に、諸行無常があり、この世は二元対立(相対)の世である。
この二つは、その代表的な真理なのです。
諸行無常のにおける苦しみの代表が、生老病死であり、この掟からは誰一人逃れる事はできないのです。
そしてもう一つは、私たちは、寒暑、苦楽、幸不幸、賞賛非難、名誉不名誉、と言った二つの対立した世界のなかで、翻弄されながら生きているのです。
これは、神が修行の為の世界として創った、マーヤー(物質世界)における掟なのです。
その他にもまだ、前にも書きました様に、この世に生きる人々に対する罠でもあり、我々を縛り上げる縄を意味するグナの掟 があるのです。
この様に神が定めた掟を認めた格言が昔から有るのです。
1−天網カイカイ疎にして漏らさず。
(天の網のその網目はとても荒く、その網目は目で見ることは出来ないが、一滴の水さえも漏らさない緻密さである)
2−非理法権天
(非道は道理に勝てず、その道理も法律の前には勝てず、その法律も権力者には曲げられるが、その権力者も天の裁きには勝てない)
またその他にも「お天道様はお見通しだ」の格言があります。
これらが諭している事は結局、私たちは神様の掟の中で生きているのであるから、その掟に逆らうことなく、真理の勉強をして、正しい生き方を実践しなさいと言っているのです。
正にその学びが、インド哲学バガヴァット・ギーターなのです。
エネルギー(シャクティー)からの視点(W)は、人間界においてのエネルギーの高低を話したいと思います。
先回は、人間が物質自然界の中に取り込まれると、徳、激情、無知の三つの性質に影響される事を書きました。
この三つの特性グナ(徳、激情、無知)は、四つの職業区分でその性質が活かされるのです。
その人間の職業的区分は
1−シュードラ(肉体的な労働で主人に奉仕をする人)
2−ヴァイシャ(社会を潤す商業、農業、工業、流通、など経済をもって社会に奉仕する人)
3−クシャトリヤ(国防、政治、行政を司り国民に奉仕する役人)
4−ブラフマナ(自然科学、宗教芸術哲学、社会学、文学などので精神指導する人)
この職業区分が人間界でのエネルギーの高さを現しているのです。
この四つの階層を四制(ヴァルナ)と言い、何回も何回も輪廻を経て、この職業区分を上昇していくのです。
ここで重要な事は、この四制(ヴァルナ)は決して身分差別であってはならないのであり、それぞれが重要な魂の体験カリキュラムなのであり、その行動は全て他者に奉仕する事なのです。
シュードラは人間の魂が無知の状態に置かれたところであり、とにかく人に労働奉仕をしながら、人間界の第一歩を歩み始めるのです。
次のヴァイシャは頭を使い、社会の中で自分の能力を発揮して、社会に奉仕する段階に登るのです。
そしてクシャトリヤは、国民を守るとか国民の生活制度を創るとか、国民の福祉と言った立場で国民に奉仕する段階に入るのです。
最後のブラフマナは、精神指導者としてクシャトリヤを指導する立場にあり、また社会の知的、精神的発展の為に人々に奉仕する人たちもその中に含まれます。
この様に、知的精神的な指導段階になるまでには、神が定めた人間界のシステムがある訳で、人間はこのシステムを体得しながら奉仕の精神を育てる事こそ、その意味するところなのです。
他者の為に、社会の為に、国民の為に、そして最後はこのシステムを創った創造主、絶対神の為に奉仕をすることこそその学びの原点なのです。
決して自己の、物欲、支配欲、名誉欲、などの欲望の為に働いては、道を誤る事になるのです。
まさに今こそ、その真の教えである、バガヴァット・ギーターを学ぶ時なのです。
先週は、京都の祇園祭で仕事が入り、そのためブログの更新が出来ませんでした。
最近、私に対する仕事の依頼や新しい人間関係が出てきたり、人間関係が激しく動き出した感じがします。
またその関係する人が、精神性が高い人ばかりで、その人も精神的に向上しようとしている人ばかりです。
この傾向は原発事故が起こってから徐々に動き始めた様ですが、特に最近その動きが更に加速的になっているように思えます。
この様な現象は特別なものではなく、物質文明が発展すればするほど当然の結果として色々な動きが加速的に成る事は分かります。
乗り物のスピード化と長距離化によって、相対的に時間の短縮と地理的縮小が起きるのは当然です。
しかし、この物質次元の事は物理的に理解できますが、精神的に相応した結びつきまで、現象化している事には非常に神の采配を感じるのです。
と言う事は、良い行いをしてきた人はいい結果がどんどん出て来て、道理に外れた活き方をしてきた人は悪い結果がどんどん出て来る、と言う事なのです。
つまり、これは因果の法則が、厳しく正等に急速に出てきていると言う事なのでしょう。
私は、これからが自分のやってきた評価が世に問われる時期が来たのだと、期待しているだけに、大変嬉しい時代になったと思っています。
正にこれからは、真理を実践し真理を広める時機到来、である。
エネルギー(シャクティー)からの視点の三回目と成ります。
一回目は、物質と生命体との違いは、生命があると言う事でそのエネルギーは生命体の方が大きいと言う事。
その次は、動く事ができるか出来ないかによって、動くほうが動けない生命体より、そのエネルギーは大きいと言う事。
そして、その動く生命体も食べるか食べられるかによって、食べる立場の動物の方がその生命エネルギーは大きいと言う事。
これは創造主が創られた物質自然の決定的な理法なのです。それが一時的に意思をもって立場を逆転させても、必ずその反作用がはたらき、最終的にはこの物質自然の理法に従わされる事になっているのです。
この食物連鎖の中で最高位についているのが人間ですが、その人間界も歴然たるエネギーの高い低いがあるのです。
以前にも触れましたが、人間が自然物質ので肉体を持って生活をすると必ず、無知、激情、徳性 の三つの性質(トリグナ)に縛られ束縛される運命になっているのです。
人間界においては、この三つの無知、激情、徳性 がエネルギーの高い低いの基準となっているのです。
当然の事ながら、徳性の性質を持った人間が一番その存在エネルギーが一番高い位置にあるのです。
その徳性としての性質と能力は「穏健、自制、謹厳、純粋、誠実、忍耐力、知識、智慧」のこれらを備えた人こそ、徳性をもった人の特徴なのです。
この様な徳性をもった人をブラフマナと言って、国を治める王様より高いエネルギーを持った人物として、尊敬されるべきなのです。
このブラフマナの精神性を備えてこそ、創造主のエネルギーの質と同等の位までに修行して来た証なのです。
創造主の質と同等と言う事が大事であり、この同等の精神性を身につけてこそ、創造主と交流する事が許され、
至高至福の歓喜に包まれた永遠なる神の国に行く事ができるのです。
その教えを、緻密に具体的に体系的に説いているのが、インド哲学バガヴァット・ギーターなのです。
昨日に続き、エネルギー(シャクティー)からの視点を進めたいと思います。
この宇宙は、物質と精神の二つの存在から成り立っているのです。
石ころと言う物質も、素粒子レベルまで分析すれば、当然目に見る事も、手でさわって感じる事さえ出来なくなります。
人間の感覚レベルは、石ころの本質は素粒子であると言う事が分からない程度の、非常に性能の低い感覚器なのです。
この宇宙を構成している、目に見える全ての物質は、本当は目に見えない素粒子が結合しあってそれぞれの物質を特徴づけているのです。
それに岩石のような物質は、たとえどんなに大きくても硬くても岩石には生命というものはありません。
しかし、どんなに小さな動物や植物でさえも、生命があります。
この生命があると言う事において、そのエネルギーは岩石よりも動植物の方が、そのエネルギーが高いと言います。
この生命があるかないかが、宇宙における自然物質のエネルギーが高いか低いかの基準となっているのです。
そしてその次には、生命を持っている植物と動物の比較において、こんどは動く事ができるか動く事ができないかによって、そのエネルギーは高いか低いかが、決まるのです。
当然、植物は動く事ができませんので、動く事ができる虫の方がそのエネルギーが高いと言えるのです。
それだから植物は虫に食べられ、虫たちの成長に役に立つよう、その存在意義を持っているのです。
当然、穀物や野菜や果実は人間を養う為に神から与えられた役目を持っており、この宇宙のエネルギーの大源である、太陽のエネルギーを植物が光合成によって摂取し、それを人間に食物と言う形で与えているのです。
また動物の世界では、そのエネルギーの高低を食物連鎖と言う、自然摂理のなかに組み込まれているのです。
今回は、動くもの動かないもの、生命があるもの、生命がないものによってその存在エネルギーが序列化されている事を書きました。
これも、インド哲学バガヴァット・ギーターの教えにあり、神の定めなのです。
我々が生きていく為の、物質世界の構成は完璧なるシャクティーの序列が歴然とあります。
それは創造主の秘技でもあるのです。
この秘技を知れば、私達は迷うことなく確信を持って、不安の無いこの世での生活ができるのです。
自然科学の世界でも経済社会の中でも、更にはスポーツや芸術の世界でも、何事も原理、原則、法則と言うものを理解できてこそ、その道を極める事ができるのと同じで、私達の活き方においてもそれと全く同じ理屈なのです。
その活きていくて行く為の真理を教えているのが、バガヴァット・ギーターなのです。
私達はこの教えをただただ疑うことなく素直に受け入れ、その世界に没頭すればいいのです。
先ずは、私たちが住むこの物質世界は、物質と精神の二つのエネルギー(シャクティー)が存在しているのです。
物質は大きく分けて生命のない無機質と生命を持つ有機質に分けられ、また次に生命を持つ生物でも、木々の様に動かないものと、虫、魚、動物などの様に動くものとに分かれます。
とりあえず、ここまでの結論としては、命を持った生命体は生命を持たない物質よりもエネルギーが高く、また動物の様に動く命体は木々の様に動かない生命体よりもエネルギーが高いと言うことです。
この様に、生命か物質か、次には動く事ができるのか、動く事ができないのかの視点から、その物のエネルギーの高低を考え方てみることが哲学的思考の始まりなのです。
その次の理解として、創造主はこの宇宙に840万種の生命体を創造されたと言うギーターの教えがあり、そしてまた、その生命体の最高位に位置づけられているのが我々人間であると言うのです。
従いまして生命体の中では人間として生まれているのが、他の動物として生存しているよりも、その存在エネルギーが一番高いと言う事なのです。
それは人間には他の動物にはない、手先の器用さ、優秀な頭脳、豊かな感性、そして来世や永遠性を理解できる宗教や哲学を持っている事なのです。
そして、人間としてのエネルギーの最高峰はインド哲学のバガヴァット・ギーターを究めることなのです。
釈尊は、物事は中庸に処すこと、それは過ぎたるは及ばざるが如しであり、ほどほどの大切さを説いている。
昔は、「必要は発明の母」との格言があり、快適な生活をする為や、生活の不便さをなくす為に、科学の発展に力が注がれて来ました。
しかし今やその欲望の限度に際限が無くなり、「発明は必要の母」となってしまった。
こんな商品を開発したので、それをどのようにPRして利用させようか、どんなものが消費者に受けるのだろうか、と言ったように、その発想が経済的利益に基準が置かれ、一言で言うと「金儲けのために」の行動になっているのである。
そしてその歯車はどんどん大きくなり、その経済的規模も原料から製造からそして販売からと全世界的な大きさとなっている。
それに伴い、それらの経済的サイクルに携わっている生産者は、その経済の影響をもろにかぶってしまう境遇にあるのです。
神はこの物質自然の環境を、あくまでも人間が魂の修行に適した利便性を享受するために、その使用を許しているのであって、そこにはほどほどの限度と言うものが課せられているのです。
しかし人間は姑息な科学知識によって、禁断の果実であるウランを更にはプルトニュームを利用して、悪魔のエネルギーを夢のエネルギーと偽り、原子力に携わる人が独占的に暴利を得てきた。
そしてその原発事故が起き、今やその原子力利用の是非が盛んに論議されており、経済界からは原発事故の行方も分からない事態にあるにもかかわらず、盛んに推進の必要性を訴えております。
これこそここに至は、人類の破滅か、欲望の推進かの矛盾の極致に今があることを理解すべきであると思います。
人間や物質自然は全て神のパラマートマー(神の御手)のかなにあり、全ては神の掟に収束される事を我々は知るべきでり、それは中庸の掟なのです
今こそ、この矛盾した世の中をどう生きて行けば良いのかを知るには、インド哲学バガヴァット・ギーターを学ぶ他にその救いはないのです。
私は還暦を過ぎた時点から、その活き方が猛然と変わり始めました。
今までは生活をする為に、そのしがらみとして仕事をしてきましたが、年金をもらえる様になってからは、完全に自分の信念と意志で行動する事が出来るようになりました。
その行動も世の為人の為と、他者を利する利他の心で行動する事が出来るようなったのです。
そして、身に於ける大きな変化として、禁酒、小食、NOSEX、を完璧にこなす事ができるようになりました。
現在は一日二食で、菜食、穀物、小魚、が中心で、また家庭菜園では、胡瓜、なす、トマト、ピーマン、青葉、もろへいや、つる紫、バジル、ねぎ、を作っており、野菜はそれを中心に食べています。
体重は15歳の時と同じ60キロで、身長は18歳の時と全く同じで170cmで1ミリも縮んでおません。
それから睡眠時間はその時の疲労度によって違いますが、8時間程度はとります。
それよりももっと大事な事として、寝る時刻の方を大事にしており、9時までには横になって体を休めるように気をつけてます。
その横になっている時間は、バガヴァット・ギーターを読み大事な部分を書きつづることを毎晩日課としているのです。またその時の姿勢はヨガスタイル で行い、体のストレッチと気流促進を図っているのです。
この毎晩の日課が、魂(精神)と身体にとって非常に重要な習慣となっているのです。
この様な生活を行なえば毎夜、寝ている間に半覚醒の時が何回と無く有るのですが、その時はリンリンと勃起状態となり、それが朝まで何回も繰り返されるのです、そしてこの間は全身がほのかにしびれる快感に満たされ、魂が肉体から抜け出したような、虚脱状態になるのです。
これこそ男性にとって最高の至福の精神的快楽だと思います。
人間は善き習慣を身に付け、永遠不滅なる知識であるバガヴァット・ギーターを修得することが最高の幸せの手段だと言えるのです。
人生、善き友を得るは、最良の人生である。
私はこの善き友と、毎月二回、ファミレスで一時間半の会話を楽しんでいます。
善き友との関係においては三つの「共に」の条件があります。
1−共に歓びあえる関係
2−共に励ましあえる関係
3−共に学び向上できる関係
この三つの共にできる関係があってこそ、善き友の関係なのです。
そして、学び合うものは、精神的なものであり、永遠不滅の真理についての、学びなのです。
この真理に触れる学びであるからこそ、自己の本質である魂が歓び、飽きることなく続ける事ができるのです。
私は善き友からも、自らも気付かなかった事を教えてもらったり、また友の体験から新しい事を学んだり、自分もこのように教えられているのです。
この様に善き友との関係は、精神的な学びが絶対条件となり、その原点はインド哲学バガヴァット・ギーターなのです。
この善き友は、私と会っている間中ずっと笑顔が耐えません、その眼は歓びにあふれ、魂の底から発散されているのがよく分かるのです。
そして、その歓びにあふれた友の眼が、また私をこの上なく喜ばさせてくれるのです。
現在私にとって善き友は、最も身近に生活している家族がその第一であり、その次に二人の善き友がいます。
この二人の善き友は、クリシュナを通じて一瞬のうちに善き友になった間柄で、12年と4年の、二人のお付き合いとなっています。
善き友を得ることは丁度、夜明け前の空の様に、これから明るい太陽がでる兆しを思わせるものであり、それは希望にあふれ、歓びに満ちた未来を予感させてくれます。
この善き友を得る事こそ、人生の総てであると断言できます。
最近は時間の動きが特に加速的に早くなって来ているように思えてきました。
今月の1日、静岡市の由比小学校で講演を行ないましたが、その時校庭から「つくつくほうし」の蝉の鳴き声がしました。
私が子供の頃の昭和30年代に、つくつくほうしの鳴き声は八月のお盆が終わった頃から聴き始めていたのを覚えています。
それに蝉の鳴き始める順序もあり、にいにい蝉から始まり、油蝉、くま蝉、それからつくつくほうしとその順番も整然とありました。
そんな体験を持っている私としては、現在の蝉の鳴き順がとんでもない事になっていると奇異をかんじます。
そういえば先日長幼の序と言う事に触れました。
物事には順序が有り、年齢や年功によってその敬意を払うしきたりを教えていすが、自然界でもその序列が乱れているようにおもえます。
そう言えば近所の若い人が、目上に対する態度も、居住年数に対する配慮も無く、不躾なる言葉で遠慮ない要求をしてきました。
人間界の乱れは自然界の乱れとなっているのか、はたまた、逆に自然界の乱れが、人間界の乱れとなっているか、とにかく言葉にしても態度にしても、そして政治や経済をも含めて世の中の乱れが気になります。
しかしこの様な現象は、今のカリの時代 においては、その特徴とするものです。
寿命が短い、争う、享楽的である、唯物主義、そして神に対する信仰が忘れられてしまう、と言った特徴を持っているのです。
今朝の啓示に、精神的歓喜こそ、その人の魂の浄化であるとお告げありました。
これからは自分は魂である事を認識し、魂の知識を獲得し、そして最後は魂の浄化をする事が、大事な時代となりました。
その魂の浄化は、精神的歓喜であり、その精神的歓喜は、世の為人の為に自分の存在価値をもって奉仕する事であり、それを使命と確信して実行する事に他ならないのです。
今の様な複雑多岐わたる、高度な文明社会においては競争が激しく、昔に比べるとその生存競争は激烈なるものであり、生きていく為にやっと仕事に着くと言った、大変な時代となってしまいました。
その様な厳しい生存競争のなかにあっても、世の為人の為に自分の存在価値をもって奉仕する事がその人の魂の浄化になるのです。
この魂が浄化されると言う事は、精神的な歓喜でありその人自身も輝いてくるのです。
その輝きは周りの人々に勇気と喜びを与え、自然にその輪も広がっていきます。
今、原発事故によって放射能の低線量被爆についてすごく心配されていますが、その結論は全くでておりませし、今後どのように対処すれば良いかも、人それぞれにその判断に負かされている状態です。
この様な問題は、わが国では初めての事であり、今こそこの問題にどう対処するか、課題を神様から突きつけられたのです。
この様な時こそ、その人の生き方、精神的歓喜のあり方が、この低線量被爆の解決の鍵であると思っております。
人の為に奉仕する生き方、人から感謝される生き方、この二つの生き方を実践している事が、自分を放射能から守る生き方であると、私は思っております。
やみくもに低線量被爆におびえるのではなく、それよりもこんな未曾有の時代だからこそ、奉仕と感謝の活き方を徹底的に積極的にやるのです。
今、宮城県の村井知事復と松本興相とのやりとりで、マスコミが騒がせています。
この問題の原点は、松本大臣に対して3〜4分遅れて入室した事にそれが、この騒動の全ての原因である。
その後のやり取りでの発言は、大臣の憤慨によっての感情の乱れによる発言もあり、それを更に重大にとマスコミが言葉尻を盛んに捉えて非難している。
この時松本大臣は「長幼の序」に反する行為であると叱責していた。
県知事たるもの大臣を出迎えるには、先に入室し起立して待つべきであるとも言われていました。
これは当然たるものであり、その「長幼の序」が行われていなかった事に対する、政治家の危機と誰も感じていない事態が、今の日本に憂える姿と思えます。
今回の場面は、戦国時代であれば即刻切腹ものであったと思います。
この長幼の序は、人間が社会生活をしながら生きていく為に必要な倫理の一つであり、孟子の五倫の一つとして古来から重んじられていた、人間に課せられた理法である。
この原理原則を徹底的に守って260年の戦争のない平和な国を統治してのが、徳川家康であり、その家訓に家督相続は長子に限る事と、その後継者の能力の優劣にその重きを置かなかったことである。
今回の騒動の元々の原因は、この長幼の序を重んじる松本大臣と、それを無視した村井県知事の軽率さにあったと思います。
その後の松本大臣の言論の是非は、各自の価値観によってその是非は決まりますので、私はこの場ではコメントいたしません。
ただ、人間界の理法として定められている哲理の重要性が無視されたことを、問題としなかったマスコミも村井県知事なみの見識であろう。
今日はちょっと政治に関与してしまいましたが、長幼の序と言った哲学に関する問題を含んでいたので、政治の話題でも突っ込んでしまいました。
今日は引き寄せの法、相応の理、マッチング についてお話をしたいと思います。
この三つの言葉は本質的には同じ事で、一言で判り易く言えば、昔から言われている「類は友を呼ぶ」の諺になります。
私は、人と人の結ばれる関係を非常に重要視しているのです。
私はもう還暦を過ぎ平成23年の時点で63歳です。
その人の年齢にもよりますが、これから人生の勉強をする人にとっては、これからあの世の方が近く人生を体得してきた私の考え方は、少し受け入れがたい事になるかもしれません。
それでもこの三つの「引き寄せの法、相応の理、マッチング 」の言葉をよく理解して、人とのお付き合いをすることが大事だと思うのです。
この世の中では人と人との結びつきによって、色々な人生模様が描かれます。
それは自分で選択していくものもあり、偶然に結び付けられる事もあるのです。
例えそれが偶然的な出会いや、結びつきであっても、それは決して偶然と言う事は絶対にないのです。
それは自分では気付かないだけであり、それは神の采配であったり、自分のカルマの修行であったり、そして因果の果であったりの事なのです。
それだけに、関わっている人との意味合いを充分に思慮する事が大事なのです。
仕事上での縁なのか、昔からの友達の縁なのか、友達から紹介された縁なのか、また何かの活動の仲間の縁なのか、そしてその関係が、経済的関係、遊行的関係、親愛的関係、理知的関係、宗教的関係などその人との関係をよく理解して、どの位の程度でお付き合いしていくのかを吟味する必要があるのです。
そして人との縁は、自らの精神的成長によって、自分に関わって来る人の職業、趣味、またその人の人間関係間までも含めて、関わりが違ってくるのです。
当然ながら、付き合う人々から影響を受けることになり、それだけに自分の人間性を高める事が非常に大事であると言う事です。
自分の人間性に相応しい境遇が、自分の意志であったり、神の采配であったり、因果の結果であったりしているのであり、結局は全てが自分で蒔いた種によって人生は動いているのだと知る事が大事です。
私はもう、この世のしがらみは全く無く、現在は人には願わず、求めず、頼まず、の三ずの活き方をしており、そして、人から頼まれた事には最善を尽くし、自分のやりたい事だけをやって生きていくの境地なっています。
私の今一番したいことは、インド哲学バガヴァット・ギーターを求めてくる人だけに諭してあげたい、ただそれだけです。
あれもこれも、から、これなんだの生き方へテーマ:本当の活きる道 活き方
最近、付き合う人の取捨選択をするようになった。
それは、この人とのお付き合いは、何を目的としているのか、どんな関係でお付き合いをしているのか、この二つの選択基準でもって、その取捨選択を行ない始めた。
それは自分の人間的、精神的成長に合わせて、これまでの様にただ惰性として流されていて良いのか、との観点からである。
それは、還暦を過ぎたのであれば、人生体験としての「あれもこれも」の生き方から、あの世へ行く為の準備としての、迷いのない「欲望を自制し精神的に哲学的に活きるこれなんだ」の生き方をしなければならないからなのです。
その生き方において、有用な人物であるかどうかが、その判断基準となってくる。
その良き同志を得る事は、精神的発展をするためには絶対なる条件であり、「朱に交われば赤くなる」の例えのとうり、付き合う人間の影響力は大きいものなのです。
もう私は人から影響を受ける事は全くありませんが、それよりも、少しでもお付き合いする人が良くなってもらおうと、その人にあった生き方の教えを諭すよう心がけています。
でも、ご縁によって付き合う人が、少しでも良くなってもらおうと一生懸命その人の為に尽くしても、人によっては全くエネルギーと時間の浪費となっている事もある。
そんな時は、不思議にも先方から絶縁のサインが送られてくものです。
これはもう無理だから、無駄なエネルギーは使わず、もっと自分のやるべき事に専念しなさいと言われているのです。
そんな時は、携帯の番号を削除してこちらからは連絡できないようにセットし、その人との関係も消去するのです。
この様に、人間関係もあの世に還るにあたり、厳しく取捨選択の基準を高める事が必要であると思います。
惰性と習慣に流される事なく、常に前向きに新しい出会いを創り、どんどん自分を高める事が大事ではないかと
痛切に感じるこのごろである。
バガヴァット・ギーター第二章69節に、
あらゆる人間が、夜としている時は、
自制の賢者にとっては昼である。
あらゆる人間が、昼としている時は、
内観する聖者にとっては夜である。
と有りますが、これは物事を物質次元的に観ているか、精神的視野で観るのかによって、その見解としている。
この物質的次元とは、この世で肉体を持って生きていく為に必要な、あらゆる知識や時間やお金や人間関係であり、欲望を満たす事を求める一般的社会活動をさしている。
また、精神的視野とは、道徳、倫理、宗教、哲学の教えに添って生きていく事を、基本にした、肉体から発せられる欲望に捉われずに、自己を内観する生活態度を言います。
ほとんどの人が欲望に任せた活動をしている中で、欲望を自制し正しく生きる自制の賢者にとっては、その欲望的活動は寝いているような、無活動なのである。
また逆に、ほとんどの人間が人として正しく尊い生き方には見向きもせず、眠るこけている時は、内観する聖者にとっては、その精神的活動は昼間の活発な活動となるのである。
要するに、人の活動は精神的観点から捉えるのか、また逆に欲望的、物質的に捉えるかによって、その人の活動は全く、逆の活動となり、物質次元に生きているほとんどの人にはこの精神的視野を持って活動すると言う意味が理解不可能となると言う事です。
今こそ精神的次元で生きる意味を知る為にも、インド哲学バガヴァット・ギーター を学びましょう。
非理法権天とは< 非道は道理に勝てず、その道理も法律には勝てず、その法律も権力者には勝てず、その権力者も最後には天の裁きには勝てない>という意味であり、楠木正成が旗印としたものです。
この最後の時が、原発人災に至って正に訪れているのではないでしょうか。
この原子力のエネルギー政策は、禁断の果実である、ウラニュームを人類が手にした時からすでに、神の裁きとして始まっていたのです。
人類は、人間の都合のいい事ばかりを考え、飽くなき欲望を満たす為に、頭脳を駆使して邁進してきたのです。
その行き着いた結果が原発人災となって、恐怖と不安の中で右往左往している現実の姿なのです。
非道と道理は個人対個人のかかわりにおいて交わされ、道理と法律は個人と社会活動において適用され、法律と権力は民衆と権力者の間で交わされ、権力者と天においては最後は天道によって裁かれるのです。
民主的政治と言っても、マスコミを使って情報操作誘導されており、実際には目には見えない権力者によって行なわれているのです。
大前提である禁断の果実に触れた人類は当然、神の裁きを受けなければ成らない運命を背負ったと言う事なのです。
その神に対して行なうべき最後の行動は、神に対する畏敬と崇拝であり、その全ての理屈を教えた、インド哲学バガヴァット・ギーターを学び、その教えを実践する事にしかその救いの道はないのです。
この様な、非理法権天のシナリオを実施する為に、神は禁断の果実を施しているのです、これは神の慈悲でもあるのです。
こんな事にでもならなければ人間の自然を破壊し尽くす傲慢さは止まらないのでしょうし、神の存在も知りえないでしょう。
逆に考える人の割合は千人に一人程度の割合でしょう。
そしてその「自己はどこから来て、どこへ行き、何をすべきか」を知っている人となると、1万に一人程度に成ってしまうでしょう。
さらに、その為に真理を学び、その真理を実践して生活している人となると、今度は100万人に一人程度のオーダーと成ってしまうと思います。
この自己とは何かの問に対して、バガヴァット・ギーターの教えでは、絶対神の分霊であり(ママイヴァーンシャハ)、独立した自由意志を持った魂であることを言っています。
そしてその資質は、絶対神と全く同じ純粋な完全無欠な知識を持ち永遠不滅の生命を持っているのです。
この教えこそ、先ずは絶対なる真理であり永遠不滅の哲理なのです。
私達は先ずこの真理を素直に受け入れ確信することから始めなければなりません。
太平洋の海からスポイトで注入した一滴のわずかな海水も、成分的には全く同じであるとの理屈です。
その様に本来は、私達の魂は絶対神と同じように純粋な完全無欠な知識を持ち永遠不滅の生命を持っているのです。
しかし、物質次元(マハタットワ)の世界に入ったとたんに、肉体の欲望やグナの掟 のなかで生活を強いられ、次第に魂は物質次元の意識に固まってしまい、本来の魂のほんしつである純粋な完全無欠な知識を持ち永遠不滅の生命である事を忘れてしまい、物質界で苦しみの輪廻を過ごさせられているのです。
我々は、魂の本質を知り、しかるべき絶対神の基に帰郷し、完全無欠の真理の中で、歓喜に満ちた絶対神との永遠の愛の交歓(プレーマ)をすることが、その最終目的なのです。
そうは言っても、今日の魂についてのお話事態も、納得できる人は10万人に一人いるかどうかのことでしょう。
今こそ迷える魂にとって必要なのは絶対真理を説いた、インド哲学バガヴァット・ギーターしかないのです。
覚者よ我を観よ、智者よ真理を聴け、勇者よ我に従え
現在の社会の動きをよく観ますと、ますます混沌と矛盾の渦にどんどん巻き込まれている様に観えます。
それもどんどん加速的に拡大的に広がっているようです。
原発の収束のめどが付かない混沌。
政治がしっかりしなければならない大事な時期に、全く機能しない矛盾。
大企業における社会公器としての、責任放棄。
赤字経営でも報酬を増額する経営者としての資質。
その他、社会の動きや出来事を観ると、欺瞞、混沌、矛盾がどんどん大型化と加速化している。
そう言えばアメリカでは、竜巻の巨大化と増加の現象もあり、自然界でもその相似形としてそれらの現象が顕われている。
これは絶対神が定めた、物質自然を構成する循環における、必然的現象なのです。
一般的に認識いている社会の発展とは、物質文明を指す。
しかし、哲学や宗教の観点からすればそれは、神との距離がどんどん離れていき、人間にとっては混迷を深める道を行く事になっているのです。
人間として物質世界生きるサイクルは四つの時代に分けられているのです。
バガヴァット・ギーターではその四つのサイクルをユガと言っています。
1−サテァー 悪徳は全く無く信仰心に満ちあふれた社会。
2−トレーター 少し悪徳がでてきて、信仰心が少し衰える社会。
3−ドヴァーパラ 悪徳がはびこり、信仰心が廃れる社会。
4−カリ 信仰心が全く無視され、悪徳ばかりの社会となる。
現在はカリの時代であり、悪徳がはびこり、個人の欲望がどんどん追求され、絶対神の教えには見向きもせず
争いと、刹那的な快楽を求め、永遠の真理の道を求める崇高なる生き方からは程遠い社会なのです。
どんなに繁栄した社会でも、神の教えに背いた生き方は、必ず矛盾と混沌に縛られるように創られているのがグナの掟 なのです。
そして、宇宙的規模のリセットタイマーが仕組まれており、その神一厘の采配がなされる時は、一瞬にして人間界の活動などは消え去ってしまうのである。
その時その人はどんな行動をするかは、それまでの生き方で決まるのです。
人は生きてきたようにしか生きられず、生きてきたようにしか死ねない。
覚者よ我を観よ、智者よ真理を聴け、勇者よ我に従え
このこの身を具しながらにして、死後の世界を生きるの解釈は、自己は精神的存在であり、それは「自己を自己と認識するリアリティーある意識、絶対神と自己との関係を知る聖典知識、それに自覚を持った行動意志」の三つを確信し行動してい生きることを言うのです。
つまり自分は魂の存在だと認識しそれを基に、肉体から発するグルメ、セックス、陶酔欲、そして人間特有の名誉欲や支配欲などの欲望から解き放たれ、またそれらを抑制コントロールできる意志を持ち、人間として高い精神性を身に付け、行動する事なのです。
その行動は崇高なる絶対神の教えであるインド哲学バガヴァット・ギーターの知識の習得であり、その実践に他ならないのです。
決して知識として知るに留まっては成りません、その教えを実践してこそデーヒーの真髄なのです。
私はすでにその境地に達しており、毎朝の清清しい目覚めと、今日はこれをしなくてはの責務の充実と、全く不安の無い、全てをクリシュナに捧げきった全託の快感に包まれております。
この最後のクリシュナにすべてを捧げきった全託の快感こそが、この身を具しながらにして、死後の世界を生きるに繋がる事なのです。
全てを最高なる絶対神クリシュナの教えに
1−迷うことなく確信し、
2−全身全霊で崇拝し、
3−聖典の教えに絶対服従し
4−その教えに完全に没頭する。
この四つの境地ができてこそ、この肉体を具してそのまま最高の死後の世界を味わっている事になるのです。
しかしこの境地に達する事ができる人は、1億人の中で一人いるかどうかの確率だろう。
覚者よ我を観よ、智者よ真理を聴け、勇者よ我に従え
3・11日を切っ掛けに、世界中の動きが加速的に動き出したようです。
その最大に原因は原発人災である。
これはその原因となった、三陸沖地震と津波であるが、それだけではなく原発に取り組む、侮った姿勢がその主因となっていると思います。
本来ならば、超高度なテクノロジーを駆使する、原発運営と管理を行なうにあたっては、安全に対する慎重すぎるくらいの考察がなされるべきであると思われます。
世界でも最高な地震国日本では、そもそも54基もある原発自体が、その驕りと侮りの顕われではないでしょうか。
事故が起きた時の対処もさることながら、使用済み燃料のリサイクル問題や放射性廃棄物の永久的処理など、問題の未解決のまま、そのエネルギー政策が進められてきたのです。
神は人間の快適な生活をさせてあげる為に、自然界の物質資源を供給してくれているのですが、禁断のウラン鉱だけは使ってはいけないと、アメリカのホピ族にその予言を託されていたのでした。
そのホピ族を居留地においやり、ホピ族が住み守っていたウラン鉱を採掘し、原子爆弾が造られました。
それから原子爆弾にいきづまり、その後は平和利用と言う虚言のもとに、この原子力エネルギー政策が進められてきたのです。
言うなれば、この原子力自体は人間が利用してはならない禁断の果実であったのです。
それは、原子力を利用する事は矛盾と混迷を深める、神のグナ掟 が施されているからです。
私はそこが、今回の原点ではないかとと思います。
この禁断の果実を手に入れた人間は、尊大となり傲慢となって、神の存在を忘れて欲望を満たす、文明社会に驀進してきたのです。
ある意味では、この事故が無ければまだまだ、欲望邁進の社会行動は直らないと思います。
図らずも今年の夏は「節電」の為の社会的行動が促させらています。
しかし、それは今起こっている問題に対しては、蚊に刺された程度の行動であり、これから益々我々の価値観まで、大きく変革されなければ、この危機の本質は乗り越えられないほどの、啓示であるように思えます。
それは、絶対神への敬虔なる信仰心に目覚める事だと思うのです。
私は、津軽三味線を始めて来年で40年を迎えますが、そのほとんどを独学で切り開いてきたのです。
それに、独自の弾き語りも開拓し、また世間に公演として広める方に力を注いできました。
今までは、ただ津軽三味線の技を教えるだけで、その後の生徒さんのフォローは全くして来なかったのです。
それは、自分の演奏家としての仕事に注力したかったからです。
ところが、ある商店街でのイベントで、合同演奏を始めてさせた時、彼らがお互いに刺激しあって、発奮したのです。
それを切っ掛けに、生徒さん達の練習に取り組む意欲も、明らかに違ってきたのです。
この生徒さんたちの自発的な発奮は、私の力では絶対に出さす事は出来ないものであると、その時悟ったのです。
各自が誰の刺激も受けずマイペースでやっている場合と、お互い習いあっているもの同志が、合奏する機会がある場合とでは、その発達度合いが著しく違うと言う事です。
そんな事を実感した私はこれを期に、各教室で教えている生徒さんを対象に、「輝きの会」を発足させたのです。
その趣旨は「自楽 他楽」であり、その意味とするところは 先ずは自分が楽しむ事、そして他人も楽しませてあげる。
そして音楽とは 音を楽しむ事であり、その綺麗な音を出す為のテクニックとして、撥さばきがり、その撥さばきを表現する手段として曲がある。
普通の演奏j団体では、演奏できる曲の数を以ってその人の演奏能力の評価をするのですが、私の輝きの会では、いかにその本人が楽しんでいるかが一番の運営理念としているのです。
そして身につけた技を以って、多くの人に演奏曲で楽しんで頂き、世に奉仕する心で、自らが輝く人になること、それが輝きの会の趣旨なのです。
8月20日に私の町内で、夏祭りが開催されますが、その会場が初舞台となるので今から皆、一生懸命練習に励んでいます。
バール・クリシュナ・フミオ
最近ずずめの数がめっきり減っている事に気付く。
ここ2〜3年とくに思った事ですが、5〜6年前には毎朝すずめの会話を交わすような、鳴き声で目覚めをしていた私は、それが、野鳥の鳴き声に変わってしまっている事にうすうす気付いていました。
もっと前には、すずめが夜は洗濯干し場を寝床として毎日おとずれ、朝は彼らの会話によって目覚めさせられていたのです。
それが昔なら山奥へ行かなければ聴けない、おおるりが時々さえずっているのです。
そのほか、じょうびたき、ひよどり、山鳩と言ったメンバーが、何時のまにかすずめと入れ替わってしまったのです。
昔から、人間の生活の中に一番身近にどこでもその姿を見ることが出来たすずめが、最近はムクドリやその他の野鳥の方が、簡単に目に入るようになってしまっています。
それもう一つ昔と違う大きな現象としては、200mほどの低い山にでも雲が掛かると言う事です。
これは私が子供の頃の昭和30年代では考えられない事です。
昔は雲も、秋にはうろこ雲とか筋雲といった非常に高い空に出来る雲が良く見られたものですが、最近はその様な雲は全く見られず、そのかわり不気味なもくもく黒々とした雲が、低くどんよりと立ち込めるのです。
これも最近感じられる、忍び寄る不気味な現象です。
この雲の低い状況は、天が圧縮されたようなもので、現界と霊界の堺が縮まった状態であり、輪廻のサイクルもその分早まってきているのだと思います。
そのほか、私は家庭菜園を少しやっていますが、10年前の野菜の成長ぶりとは明らかに違い、成長過程でも早くから花をつけ、実をつける準備が始められてしまう。
まだ他にも、私達の子供の時代と大きく違うのは、赤ちゃんの成長が著しい事にも驚かされます。
私の子供は一年以上はいはいしてましたのが、最近では数ヶ月でもう立ってしまう赤ちゃんも珍しくありません。
この様に自然界を見回してみると、生物の淘汰や成長の変化や環境の違いなどがかなりあり、それこそ次元の上昇が顕著に出ている事に気付きます。
これも絶対神の御技であり、定められた修行過程なのだと思います。
即身成仏とは「この身そのまま仏の境地」であり、この世で肉体を持って生きていながらにして、全ての苦悩から解放されよ、との意味なのす。
これをサンスクリット語では「デーヒー」と言い、肉体に位置しながらも、精神的知識を深めれば、この世のあらゆる苦しみを超越できることを言っているのです。
そして、同行二人とは「己の魂と絶対神の直霊が誰の肉体に同居して」その人の行動全てを管理している、という意味なのです。
この絶対神の直霊を「パラマートマー」と言い、あらゆる生物の魂に付随して、その生物の行動を全て管理し、輪廻の管理を司っていると言うのです。
昔から日本では、「お天道様はお見とうしだぜ」の言葉でその人の行動を戒めていたものです。
このお天道様がパラマートマー(直霊)なのです。
従って私達の行動の全てを、お天道様が見ていると言う事なのです。
それだけに、お天道様の存在を確信し、お天道様を崇拝し、そして教典のおしえに沿った生き方に完全に服従し、最後はその教えに基づいた行動に没頭しするのです。
それでこそ、このデーヒーにおける、物質自然の三様式(グナ) の苦悩から解き放たれる事ができるのです。
その経典の教えとは一般的に言われている、行動において守ること「不殺生、不偸盗、不邪淫」 言葉において守ること「不妄語、不綺語、不悪口、不両舌」、そして心において守ること「不慳貪、不瞋恚、不邪見」の10の戒律を守ることなのです。
これらの戒律をしっかり守って、自分に任された職業を完全にこなし、家庭をしっかり守って生きていけば、このデーヒーの境地を味わう事が出来るのです。
私はその現実を今、毎朝毎日体得し、不安も心配もない無恐怖の境地で、さわやかに生きています。読者の皆様もこの永遠真理であり、絶対神の御言葉である、インド哲学バガヴァット・ギーターを是非とも修得していただきたいと思います。
覚者よ我を観よ、智者よ真理を聴け、勇者よ我に従え
グナとは物質自然の三様式であり、その三様式とは徳性、激情、愚昧の三つの性質を意味するのです。
このグナは絶対神、クリシュナが物質世界の中に施した、罠であり人間を縛る縄でもあります。
この物質世界自体も、マーヤーと言い、非実存なるものとしてが、その実態なのです。
丁度、映画のスクリーに写し出された映像を我々が現実だと思っている世界と思えばいいとおもいます。
そのマーヤーの世界の厳然たる掟が、グナの掟です。
物質社会(文明社会)が発展すればするほど、グナの力によってどんどん、矛盾した混沌となる社会に引きずり込まれ、がんじがらめに縛られる事になるのです。
それは、人間が物質自然に触れると、グナの本質である徳性、激情、愚昧、の性質になると言う絶対神クリシュナの掟なのです。
神に対する信仰心を持てば、その性質は徳性となり、物事の真理を捉え無恐怖と浄化された精神性を身につけることが出来ます。
しかし、現在のほとんどの人は、神の教えであるバガヴァット・ギーターの真理を無視し、快適生活を満たす為の、経済活動という機関車で驀進して来たのです。
その行き着いた先が、原発人災というグナの罠に引き込まれ、矛盾の縄でどんどん縛られていくのです。
人間の快適生活を思わせる、オール電化のフレーズも今では、節電の動きが高まると、その宣伝文句の影もありません。
また、政治においても今まで支持してきた総理大臣を、お荷物とばかりに引きずりおろそうと躍起になっている、これまた矛盾した政治にもなっています。
そして、肝心の原発事故も収束のめどは全く立っておらず、毎日おびただしい放射能を撒き散らしております。
当然ながら放射能の影響が大きい、周辺地区の人たちはこの先どうなる事やら、それこそ混沌とした状況なのです。
この様にいま正に、グナの掟が示されているのです。
私はこの状況下をギーター的視点から捉え、そしてギーターの教えに従って、迷うことなく確信を持ってギーターの世界に没頭しているので、全く不安も恐怖もない歓喜に満ちた生き方ができるのです。
バガヴァット・ギーターはインドのマハト・ガンジーが生きる指南書として生涯携えた聖書なのです。
今こそこのバガヴァット・ギーターの教えで永遠の真理を獲得し、永遠の歓喜を得ようではありませんか。
覚者よ我を観よ、智者よ真理を聴け、勇者よ我に従え
6月10日にアセンションの解釈 という事で、コメントを書きましたが、今日は別の意味でアセンション(次元上昇)を語りたいと思います。
先回の次元上昇は、人間の進化発展における比喩として、蝶の生態をその活動環境に置き換えて、お話を致しました。
その本質は行動環境が、点から面そして空間への三つの次元を上昇していく、という捉え方でありました。
今回の災害も、次元上昇しているとの解釈は。
1−災害が目に見る現況と、災害が目にも見えず、手にも触れられない人災である事。
2−機械や人手で復興できるものと、機械や人手だけでは解決できない人災である事。
3−復興期間がある程度予測が出来る災害と、復興に全く予想が付かない混沌とした人災である事。
4−災害の発生がある程度時間的に限られている災害と、災害が後世まで影響を及ぼすような人災である事。
5−災害の範囲がある程度限られている災害と、災害範囲が地球的規模の人災である事。
もっと細かく分析すれば、今までの自然による災害と、原発による人災での比較は、その質的悪影響においては、雲泥の差となって我々に襲ってきている。
今回の地震と津波の災害は、従来の戦争のように、人命や生活環境を一瞬に破壊して、焼け野原のような惨状にしています。
しかし、原発での惨状は目に見えず、手にも触れられず、いつ終わるかも知れず、その影響が何時でてくるかも分からず、それだけに不気味な恐怖に襲われているのです。
この原発の人災こそ、今までにない次元上昇した災害であると言えましょう。
それだけに、その対処も機械や人手のような物質的な対応だけでなく、生きていく生き様のような精神的な個人的要素まで、その解決が求められているのだと思うのです。
それの解決は外に求めるものではなく、自分自身の精神的生き方に解決を求めなければならない、次元上昇した人災だと思うのです。
この人災である事がその解決も、人の生き方よってその影響力が変わってくると思うのです。
正にこれからはどんな生き様を以って、生きていくかが鍵となる時代です。
インド哲学バガヴァット・ギーターを会得すれば、全く不安も恐怖も感じない、境地を得る事ができのです。,
覚者よ我を観よ、智者よ真理を聴け、勇者よ我に従え
一見、専門に徹すると言う事は、素晴らしい事のように思えます。
その道一筋何十年なんて言われると、それだけで凄いものだと思ってしまいます。
確かにそのフレーズはそれで、素晴らしいことだと思いますが、更にそれ以上にやるべき事もあると思うのです。
専門にその道一筋では、狭い世界だけに埋没していまう恐れがあるからなのです。
究めようとする道が深くなれば深くなるほど、偏狭で独善的に陥ってしまい、ニーズの変化に対応できず、取り残されてしまう事にもなるのです。
私は一つの道として、津軽三味線の演奏を極めてきましたが、それと平行して途中から、津軽三味線の起源や津軽地方の歴史などを調べて、その語りを始めました。
それは、津軽三味線の演奏家としては、三味線の演奏だけでなく、三味線の音色から訴えられてくる情念を語り伝える使命を感じたからなのです。
その後は、郷土の歴史人物の、無念の想いや、武士としての誇りや生き様を語りつぐ、「三味線の弾き語りの世界」を創り出しました。
ここでは自らも、その人物が訴えたい想いなどを、心に想起させて脚本をつくるのです。
そして、演ずる時はその人物になりきって、その人物の情念を訴えるのですが、これはもう霊媒師の領域に入っているようなものなのです。
この弾き語りの世界が、演奏だけでない別の芸域として、学校教育の場 でも活躍しているのです。
多分今の私の活動は、この弾き語りの世界が無ければ半分以下になっていたのではないだろうかと思っています。
昨夜は、初めてのインド哲学塾が開校され、女性一人を含め六名の生徒さんが集まってくれました。
先ずは自分の生い立ちからその後の経歴を簡単に話し、どんな体験をしてきて、現在に経っているかを、知って頂きました。
それは自分の過去の足跡の認識であり、そこから振り返る教訓でもありました。
過去は懐かしむものではなく、新たに行動を興すにあたっての、軌道の確認であり、教訓の戒めとするもので無ければならないのです。
人生は「生きてきたようにしか生きられず、生きてきたようにしか死ねない」、それは毎日毎日の積み重ねであるからなのです。
精進の本質は反省であり、今まで生きてきた道筋を振り返り、それに基づき新たな決意をする為に、その過去があるとするのです。
過去は懐かしんだり、感傷にふけったりするものではないのです、常に前向きに正しい道に歩む為に省みる為にあるのです。
そんな意味から自らの過去を振り返る事によって「足跡があり、今があり、これからの道がある」事をしっかり認識できるのです。
そしてこれからの道は、肉体のが滅びる寸前まで行なわなければ成らない、人の道なのです。
またここで言う人の道を説く仕事は決して、「教えの対価を以ってその生業(なりわい)としてはならぬ」の厳しい掟があのです。
それだけに、生きるための生活費はちゃんと賄える境遇でなければならず、でなければその教えは何時しか、教える事が職業になってしい、本当の教えにはならないからなのです。
参加された女性から一言「人の道を説く仕事を持つ人こそ、最高の道を歩んでいる人である」と。
この言葉に意を得た私は、何時までも消える事のない、後味のいい気持ちで帰路に着くことができました。
今日は初めて、募集して開かれるインド哲学塾開校日 です。
この募集をしてくれたところは、静岡県駿東郡清水町にあるウォーター・ヴィジョン と言うNPO法人で、国際支援活動や文化芸術活動、それに福祉活動を柱に、地域に密着した活動をしている団体さんです。
私は先月にこの団体の依頼で、津軽三味線演奏と弾き語り「次郎長と咸臨丸事件」の公演 をやりました。
その時に理事長の松浦さんと知り合い、松浦さんもインド哲学に興味を持たれ、今回の開校となったのです。
今日は私の自己紹介として、過去の経歴の話しを通じて、津軽三味線の演奏とインド哲学へたどり着いた経緯などを話し、先ずは退屈しないように、哲学のさわりからゆっくりと説明を始めたいと思っています。
もともとインド哲学を学ぼうとする意志を持つ人は、数万人に一人いるかどうかの確率であり、さらにその世界に没頭できる人は、百万人に一人いるかどうかの世界なのです。
でもそんな希少な生徒さんであっても、それだけ価値のあるインド哲学であるからこそ、この機会を大事にし、またこれを切っ掛けに、どんどん広めて行きたいと思っております。
会場までは静岡から50キロ離れていますが、そんな距離の隔たりは何とも思っていません。
それよりも私は、どんな人と合えるか楽しみで、初デートのようにワクワクした気分で今から夜をまっているのです。
これからは、宗教を越えた永遠の真理を学ぶ哲学の時代 だと思っています。
物質社会が発展すればするほど、その物質自然の力によって、矛盾と混沌した世の中にどんどん引きずり込んでいくのが、絶対神が潜めた法則なのです。
物質社会の発展と供に、社会が発展すればするほどそれに従って、絶対神が定めたインド哲学のヴェーダやウパニシャドウ、スムリティーなどの精神知識を得なければならないように定められているのです。
本来ならば、物質文明が発展すればするほど、人間生活は楽しくなる筈ですが、現状を見ますと、失業、過労、貧困、自殺、その他、全く逆の悲惨な世界が繰り広げられております。
そんな矛盾した状況であるからこそ、生きる原点を知る為に伝えられた、精神知識の宝庫であるインド哲学を、学ばなければならないのです。
それは、人類が発明したその機器によって、人類が自然に滅亡するように神の秘技として法則が定められているからなのです。
奇しくもその「神の秘技」が、原発事故として人類に示されたようです。
覚者よ我を観よ、智者よ真理を聴け、勇者よ我に従え
これからはインド哲学バガヴァット・ギーターの時代です。
ステージに置かれたアトラクション看板
私は生まれて初めて、公営ギャンブル場に行きましたが、その設備や環境に驚きました。
一見ホテルと思われるような、豪華な建物が目に入り、また建物の中に入ると、広々とした吹き抜けロビーや、エントランス、食堂、それに空調の効いた大観覧席と、これがギャンブル場かと目を見張るものばかりでした。
せっかく行ったのだから、ただ観戦するだけでなく興味を増すためにもレースの予想を立て、三レース分の券を買いました。
初めての人でも、選手のクラスや、最近の勝率、年齢、出身地などの資料がある為、素人でも手軽に予想が出来、当てる事も難しいものではなかった。
その為、始めて一レースを当て、払い戻しの430円を手に入れました。
その他、レースの合間に、若手選手のトークショーも催され、美人選手やイケ面選手が、レースの魅力や選手生活などを、楽しく語り合っていました。
このトークショーを見て私は、公営ギャンブルが若い人でもまた、女性にも手軽に楽しんでもらう為に、この様に努力しているのだなと、感心したのです。
それに営業効率を上げるためにも、券の販売と換金は全て機械でやっており、人件費の節約も行なわれている。
また、一部のエリアでは、他のいろいろなところで行なわれているレースにも、掛ける事もできるように、場外売り場も設けられていた。
これなら、一回100円から掛けられ、レースを楽しむ程度に来るならば、一日ゆっくり楽しめる娯楽施設だな、と思った次第である。
公営ギャンブルは初めての体験であり、今日は楽しい仕事になりました。
今年の梅雨は少し変な感じです。
先ず何時もの年より、寒いのです。
この分だと冷夏となり、お米の作柄も心配です。
特に米どころである、東北地方の震災による影響や、福島県の放射能による減反にくわえ、梅雨期から盛夏期にかけて吹く北東風の「やませ」が心配です。
この「やませ」とは、オホーツク 海高気圧がもたらす冷湿な風で、長く続くと冷害の原因となるのです。
それにこの「やませ」は、お米の減反だけでなく、福島原発の放射能が「北東風のやませ」に乗って、関東地方に降り注ぐ恐れもあるのです。.
この地震と津波に原発事故と、三つの同時災害がトリガーとなって、今までの生き方に大きな変化がもたらされている。
表面的には、節電、反原発運動、放射能食品に対する注意、生活環境の放射能測定など、生活するための意識が高まっています。
しかし、未だにその解決のめどは立っていなく、放射能の空気と水がどんどん出されている状況は最悪の状態です。
もしかしたら既に、地下水から海に、どんどん流れ込んでいるかも知れません。
この最悪の事態が現在進行形のかたちで、毎日が過ごされている事と、またそれが何時まで続くのか全く予想がつかない状態は最悪だと思います。そんな今まで経験したことのない危機に対して、それぞれの立場でそれぞれの人が、それぞれの行動を行なっているのです。
私はこんな時期だからこそ、この世に生きてきた意義を自らに問い、自己とは何か、この世に人間として生まれてきたその意義は何か、そして何を成すべきか、この精神的課題に取り組む時機到来とおもえるのです。
もちろん、将来の生活の心配も必要ですが、肉体を維持することだけにその心配をそそぐのではなく、今こそもっと精神的な、人間が生きる意義を問いただすべきであると思うのです。
こんな大惨事が無ければ、ほとんどの人は人間の感覚欲望の満足の為に、それまでの物質的生活に驀進していたのだと思います。
今回の惨事は、その方向性を神の技で、気付かせてくれているのだと思うのです。
こんな危機の時は、その人の本性がむき出しとなり、その人なりの生き方がその人なりに、どんどん突き進んでいく事になるのす。
その人が今、どこに住み、どんな仕事をし、どんな生活境遇にあるのか、これらは全て運命であり、その運命を踏まえて、これからどう生きるかが、各自の突き進み現象として、生活志向に顕著に出て来るのです。
こんな時だからこそ、じゃ〜君はどう生きるのか、何をするのかを決意する時だと思います。
昨日はオーブ(霊体)のお話を致しましたが、今日は学校講演 でもこのオーブが何時も出るお話を致します。
私は平成13年から、静岡市教育委員会が主宰している次世代育成プロジェクトの派遣講師をしています。
これはスペシャリストの技や経験を、生徒達に体感し学んでもらう授業なのです。
私は毎回、津軽三味線の演奏と津軽三味線の起源、始祖仁太坊や津軽の凶作の歴史など語りを交えながら約一時間の前半をやります。
その後も休みを入れずに続けて、道徳として人間の生き方のお話や、武士の生き様として『平敦盛』の弾き語りを30分やります。
この様に一時間半の講演を一気にやりますが、毎回どこの学校でも、生徒達は話もせずに最後までしっかり聴いてくれます。
特に三味線の演奏となると、生徒達は微動だぜに吸い込まれるように聴き入っています。
ただ聴いている時の静けさとは違い、聴き入っている時の静けさは、暗闇の中にブラックホールが出来たようであり、全てがその穴に吸い込まれてしまうような、そんな静けさなのです。
そして生徒さんたちは、講演時間中はタイムスリップした状態になり、津軽地方に行ったり、源平合戦をしている神戸の須磨の浜に一兵士としてその場で、熊谷直実と敦盛との人間味あるやり取りを見守っているのです。
この時空を越え、生徒達もその時代や場面にまで誘ってしまうほどの全精力をかけ、講演時間も忘れさせてしまうほどの熱意で、毎回講演しています。その為か、その情念は霊界まで届いており、何時も写真にはオーブが写っているのです。
先生方もこの写真をごらんになって誰もおどろかれます。
私は講演では何時も、祈りを込めて全身全霊で津軽三味線のお経を奏でているのです。
昨夜、町内で毎年行なわれる、夏祭りの実行委員として会合に参加しました。
今年で13回目となりますが、祭りも大変だから今までに何回も「止めましょう」との意見があり、アンケート調査も行なわれました。
その結果、6割の人がやはり反対という結果となりましたが、でもせっかく始めたのだからと言う事で継続との判断になったのです。
この半数以上の人が止めたいという理由は、毎年ごとに替わる班長さんが、その難しさに苦労する為なのです。
特に祭りの成否の要となる「魅力あるアトラクション」の企画が難関となっているためです。
過去に私が班長になった時は、私の津軽三味線演奏をはじめ、和太鼓演奏、七福神踊り、南京玉簾、マジックショー、バナナの叩き売りなど多彩なアトラクションを入れて盛り上げました。
出演者は私の声がけに快くボランティアで協力してくれましたので、経費もほとんど掛からず、その割にはすごく楽しめたとの評判になりました。
そんな事情から、これからは実行委員としてアトラクション担当になってもらいたいと、依頼されたのです。
この、誰もが苦手とするアトラクションの企画は、私にとっては専門分野ですので悩むことなく、皆と楽しく出来る行事なのです。
それに、この夏祭りの趣旨は盆踊りからきており、当初は盆踊りとして始められたのですが、最近は踊りをやる人がいなくなってしまい、盆踊りはなくなってしまったのです。
この盆踊りは、私たち人間が楽しむだけのものではないのです。
この祭りには多く、オーブ達も現れ一緒に踊ったりして楽しんでいるのです。
それはご先祖さんの御霊であったり、神々であったり、町内周辺に昔から棲み付いている、成仏できない御霊であったりするのです。
それらの目には見えない御霊がオーブと言われ、この祭りにも沢山参加している写真があるのです。
それは「雨がこの様に見えるのではないのか」と言われるくらいに沢山でているのです。
私達はこのように、目に見えない世界の事を軽んじずに、ご先祖様や、八萬の神々、そして成仏されない御霊にも思いをはせて、供に楽しみ喜び合うのがお祭りの趣旨だと思います。
私はこの実行委員会発足にあたり、この写真を皆に見ていただき、その趣旨を自覚して祭りの実施に取り組んで頂きたいと、願った次第です。
昨日、私と良くバガヴァット・ギーターのお話をする方から、インド哲学塾発足のご案内をメールしましたら、次のような返事を頂きました。
会 場 |
ウォーター・ビジョン長沢教室 (長沢郵便局2階) |
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講 師 |
白井勝文 津軽三味線奏者 静岡市 |
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開 講 日 |
6月19日(日) 夜7時30分 |
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会 費 |
1回 1.000円 |
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白井勝文(しらいかつふみ)さんは、昭和23年靜岡市に生まれ、現在静岡市葵区にお住まいの津軽三味線の演奏家です。
去る5月14日(土)、清水町地域交流センターで開催された「第267回泉のまち音楽会〜一弦供養津軽三味線コンサート〜」に出演いただきました。
白井さんの津軽三味線の素晴らしい演奏に多くの皆さんが感動しましたが、白井さんは、単に津軽三味線の演奏家としてだけでなく、30歳の時から仏陀と老子を学び始め、空海の密教そして現在はインド哲学の「バガヴァット・ギーター」に出会い、インド哲学を独学で学び、「人生の生き様をとうして、独自の精神哲学を確立し、多くの皆様にインド哲学を理解してもらう活動を行なっていきたい」と語っていました。
白井さんの「バガヴァット・ギーター」との出会いは、平成11年。その時、大書の「バガヴァット・ギーター」を食い入るように一ヶ月で読みきり、その後も飽きることなく繰り返し読み続けて12年。バガヴァット・ギーター」は、今から5千年前の古代インドで至上主なる最高神、シェリー-クリシナが神の言葉として諭された永遠不滅の言葉といわれており、叙事詩 『 マハーバーラタ 』の一部となっており、サンスクリット で書かれた詩編です。
この度、白井さんのご理解によりウォーター・ビジョン塾「白井勝文インド哲学塾」を毎月1回開催することが決まりましたので、ご案内いたします。
参加ご希望の方は、ウォーター・ビジョン事務局(&Fax
055-972-6112)まで、ご連絡いただきたいと思います。
主催:特定非営利活動法人ウォター・ビジョン
411-0905 駿東郡清水町長沢306の6
Tel&Fax:055-972-6112
四つの段階テーマ:本当の活きる道 活き方
1−学僧期(がくそうき) 精神指導者の基で、ヴェーダを学び、托鉢断食などの厳しい修行をする時期。
2−家住期(かじゅうき) 家庭生活をしながら、先祖供養と、子育てをする。
3−林棲期(りんそうき) 家庭生活から離れ、世間らの関わりを捨て、托鉢断食の生活で修行する。
4−遊行期(ゆうぎょうき) 托鉢をしながら、人々に教えを広める。
これをそのまま、今の日本に於いて取り入れることは難しく無理もありますが、しかしその本質としての活動は、
意味があります。
特に、最後の遊行期は非常に意味のある修行期であると思います。
その遊行期は、今の時代に置き換えますと、定年を迎え年金生活に入った時期に相当するのです。
ほんらい還暦と言う意味は、あの世へ還る準備を始める時期という意味なのです。
定年後の残りの人生は、今まで体験して得た人間としての大事な生き方を、後世の人々に教え伝える重要な時期なのです。
遊行期とは、老後を趣味やその他の楽しみで過ごす時期ではないのです。
積極的に、自分の人生で得た価値を世間様に、奉仕、お返しする時期であり、それは死の寸前まで行なうものなのです。
この死の寸前まで、世間様にご奉仕できること自他がそのまま、人間にとってす晴〜らし事であり、幸せな事なのです。
人様に喜ばれ、世間様にご奉仕できるその精神性に成就する事が、人生の成否の証なのです。
ただ自分ことや家族だけでなく、世間様に無償のご奉仕が出来てこそ、その人の存在価値となるのです。
この境地に至るには、その前段階までの三つの修行階段を、完璧に成してこそたどり着ける、遊行期なのです。
その人の充実した遊行期こそが、人生の成否の証となるのです。
実践哲学は、学校で一方的に教える一般知識の教えとは違うのです。
その人がその人なりに抱いた疑問に対して、気付きや悟りを与えると言った事であり、知識を教えると言った一般的な教えではないのです。
人それぞれに、その人の精神的レベルがあり、その精神レベルに添った疑問があり、
その解答もその人が理解し、気付き、悟るところまで導いていく事を、その指導とするのです。
それだけに実践哲学を学ぼうとする人は、
1−今までの生き方が純粋であった人。または純粋な性質を持っている人。
2−人生を真剣に前向きに生きて来た人。または向上しようと努力している人。
この二つの条件を持っていなければ、なかなか実践哲学の領域までたどり着くことは難しいとも言えます。
多分ここに来れる人は、百万人の中で一人程度だと思います。
しかし、その百万人の一人の為に私はこのブログを書いているのです。
1−タマゴとして産み落とされている状態。
2−タマゴから孵化して、ちっちゃな幼虫となる状態。
3−幼虫の青虫として、這いずりながら、キャベツの葉っぱを食べ回り、だんだん大きくなる状態。
4−さなぎとなって固まり、青虫とは全く違った形と色となり、今度は固定してる状態。
5−最後は、さなぎから脱皮して、蝶として大空を飛び回る状態。
これらの状態を次元と言う言葉で捉えると
1−のタマゴの点の状態は、一次元の状態と言います。
次の2〜4までの状態は、葉っぱの上を這いずり回って生活している、二次元である面の世界の状態と言えます。
そして、最後の5−の蝶になって大空を飛んでいる状態は、三次元である空間の世界の状態であると言えます。
この様に点として固定している一次元の世界。
面の世界で移動して生活できる二次元の世界。
そして自由に空間をも移動しできる三次元の世界。
この様に、三つの次元としてその成長を考えると、次元成長とはどう言う事かを判り易く理解できます。
ではこれを人間世界の次元上昇として、どうそのことを捉える事がでるかと言うと。
1−この娑婆世界で生活をする為の行動すべである、勉強、就職、経済活動、結婚、子育て、
人間付き合いなど肉体を維持する為の肉体的活動の一次元の状態。
2−肉体を維持する為の活動や肉体から湧き出る欲望を満たす活動から全て解き放たれるた精神活動の二次元の状態
この二つの次元がるある事を先ずは理解して、肉体的苦しみから解放される事こそが、人間として学ぶべき絶対真理である。
その絶対なる真理の教えが、インド哲学なのです。
このインド哲学を修得して。
1−自己の本質とは何か。
2−その本質である魂はどんなものか。
3−その魂はどこから来て、どこへ行くか。
4−そして最期に魂は何を成すべきか。
この四つの解答を求めながら、肉体によって起きる、全ての悩み苦しみから解放される事が、
人間にとってのアセンション(次元上昇)であると言えます。
そのアセンションは、インド哲学バガヴァット・ギーターを学ぶ事でしか、その道はありません。
これからは正に、哲学の時代です。
「さわり」は、「触り」と書きますと分かりやすいと思いますが、つまりちょっと触れる、と言う事です。
昔からの例えとして、「味気ないことを、触りのない三味線みたいだ」と言ったりすることがあります。
それだけこの、触りの効用はちょっとした事で凄い効果があるのです。
私の本業は、津軽三味線の演奏家であります、津軽三味線を始めて今年で40年を迎えます。
私は、サラリーマン時代に20年間、殆ど独学でその技を、自分なりに極めて参りました。
そして、脱サラ後はプロの演奏家として現在20年目を目指しております。
演奏活動の時は、何時もこの「触り」に接しており、その効能の素晴らしさに感銘しているのです。
さわりの原点は、琵琶にあり、琵琶の「チュワ〜ン、チュワ〜ン」と言った、ほんの僅かに濁ったような音色が、その魅力です。
この僅かな濁りがあってこそ、魂の奥底に呼びかけるような、玄妙な音色となるのです。
それは、無意識を越えた、輪廻の過去性を呼び覚ますものであり、また魂の癒しとなり、侘び寥の音色ともなるのです。
触りの構造は、三味線の棹の先に、ねじで調整して突起物を上下させ、その突起物を糸に触らせ、
濁りの響きを調整する構造になっているのです。
この触りは強すぎてもダメであり、また弱すぎても効果が出ません。
三味線の調弦の時はそのつど、完璧な触りの調整をしてこそ、最高の響きを出せるのです。
ピュアーな音色は、楽器自体の純粋性として基本的なるものであり、非常に重要な要素です。
しかし、ピュアーだけでは味気ないものです。
純粋なピュアーな音色に、僅かな濁りがあってこそ、魂までも揺り動かす玄妙さが醸しだされるのです。
この「触り」の教えから学ぶものは、純粋性は純粋性でそれは非常に大事ではあるが、
しかしそれだけでは妙味を味わう事が出来ず、純粋の中に含ませる僅かな濁りがあってこそ、えも言えない世界を生ずる
と言う事です。
これは人生の生き方にも共通する、ヒントになると思うのです。
総評としてドラマの展開が、策略的であったり、裏切りであったり、奇襲的であったり、兵法や風水が出て来たり、
非常に変化に富んだ場面構成となっている。
そしてその中で繰り広げられる、武人としての活き様が、特に魅了的であり感動したのです。
例え朋友であっても、ひとたび敵味方に分かれてたら、その場合は正々堂々と刃をまじえる武人としての責務。
主君に仕えては、人道にもとる事さえ、主君の命に従い尽くす忠誠心。
義理と仁義の、身を引き裂かれんばかりの苦悩の選択。
これらは正に人情を越えた、永遠なる魂としてのあるべき活き方を諭している。
この映画を、二時間も一気に観ていられたのは、バガヴァット・ギーターに出て来る、クルクシェートラクの戦場で
最高神クリシュナが、戦士アルジュナに諭した、永遠不滅の真理が散りばめられているからだと理解した。
それは私の魂が、人間としてなすべき責務の真理に触れ、歓んでいたからなのでしょう。
これはどうも、しばらくは中国の三国志にはまりそうである。
これを守る決意が出来たからこそ、はれて公にバガヴァット・ギーターの無料指導を、
自信を持って宣言できるようになったのです。
この講演事業は、静岡市教育委員会の主催事業。「次世代育成、スペシャリスト派遣」の講演活動です。
私はこの事業に、7年携わって参りました。
今回は、静岡市の安倍川をかなり上った山間部にある、小学校一年生から中学二年生までの子供たちが対象で、
それに父母や地域のお年寄りの方々も自由参観という形で行なわれました。
津軽三味線の演奏と、津軽三味線の生い立ち、ボサマと言われた目の見えない人達が始めた、
厳しい生活でのその生き方、などを話しました。
また自らの、小学校時代の自分の姿なども、ありのままに語りました。
勉強が出来なく、どうしようもない悪戯小僧でも、努力すればこの様にもなるれるんだよ、と語ってきました。
最後に、皆の感想を聴きましたが、「三味線の音色がスッゴク良かった」と、小学生のほとんどが、言ってくれたのです。
私は、音についてはオーディオ専門メーカの山水電気を25年努めており、音に対する哲学を持っておりました。
その為、現在手にしている三味線は、納得した音色を出したいと、三味線の材料は自ら原木から音色で吟味した特注品であり、
また一番重要な皮も自分で吟味し、ばち、糸、コマ、に至るまで、全て音色の良いものを選んで使用している。
その音色に拘る私の探究心が、私の生き様であり、その音色の素晴らしさが、ストレートに言葉でない説得力として
伝わっていた事に、非常に満足を覚えました。
これはどこの学校で行なっても何時も同じ反応なのです。
私の学校講演は、その演奏の卓越なる技と、楽器から放たれる澄み切った音色と、語りの声音から伝わる情念そのままが、
無言の説教となっているのです。
学校講演の紹介/darsana/gakkoukyouiku.htm
今朝はその中で、一瞬の言葉として浮かんだのがこの、「忍耐は向上、快楽は堕落」として出てきました。
この格言は、人間の長い生き方を省みた時に、その人の習慣的、志向性をとらえての言葉です。
人の一生は、苦楽を繰り返して流れる連続性の中にあります。
その殆どが不快、辛い、苦しい状態であり、その合間にちょっとた歓びや快感がある。
釈尊は、そんな人間が生きる世界をはっきりと、「この世は苦しみなり」と喝破しているのです。
その、逃れる事ができない三つの苦しみがあります。
1−自然界から来る、暑さ寒さや災害からの苦しみ。
2−家族を含め、自分以外の他者との関係で苦しむ人間関係の苦しみ。
3−自分自身の肉体におきる、飢える、老いる、病める、の苦しみ。
これらの、苦しみに耐え忍び、それを乗り越える生活習慣を身につける忍耐こそが人間の向上であり、
その忍耐を快感としてこそ、本物の歓びなのです。
決して一瞬の快感は、本物の喜びではなく、それは蜃気楼の様な幻想であり、ほんの一瞬の事だけなのです。
またその蜃気楼の快楽を求め続ければ、更に苦しみの世界にどんどん深く入り込んでしまう事になるのです。
今の世の中は、この幻想的な欲望を追求する事が、人間社会の進歩向上だと、錯覚に捉われてしまっている、と思います。
しかし、それこそは人生の長いスパンで捉えるならば、それは堕落の道のりでしかないと、断言できます。
人生の真理は逆に、この苦楽にふかく関与しないで、苦しみに耐え抜く忍耐力を養う道にこそ、人間としての向上があるのです。
これからは、哲学の時代だと私は提唱しています。
その哲学は、時代や世界の民族違いを乗り越えた、人間に与えれれた、普遍的なおしえであり、絶対神、至上神、
創造主と形容されている、最高なる神の言葉としての、永遠不滅の真理、哲理なのです。
その教えを具体的に、体系的に教えているのが、インド哲学バガヴァット・ギーターであると思います。
釈尊の教え 最上の幸福(しあわせ)とは
我らが求める、「最上なる善きものは何であろうか」この問いに対しては「それは幸福に他ならない」と、
たいがいの人の答えはほぼ一致する。
ではひとたび、「幸福とは何であろうか」と言う問いになれば人々は、それぞれその見解を異にしている。
ある人は財の豊かさを、ある人は名誉なることを、またある者は、いつまでも若く健康であることをと、
さまざまにその見解を違えてくる。
ではいったい人間にとって本当の幸福とは、どんなものであろうか。
釈尊は人間の成長に応じて、様々な生活において、様々の幸福を説きついに、最上の幸福に説き至っている、
それはかの祇園精舎においてのことであった世の人々はことごとく、様々の幸を願い、様々の吉祥を念ずるが、
願わくは、我がために最上の幸せを語りたまえ、かように問える者のあった時釈尊は、
それについて次のように語り教えた。
愚かなる者に、親しみ近づかぬがよい、賢き人に近づき 親しむがよい。
また使うるに値するものに使うるがよい、これが人間最上の幸わせである。
よき環境に住まうがよい、常に功徳を積まんことを思うがよい、また自ら正しき誓いをたつるがよい、
これが人間最上の幸わせである。
広く学び、技術か芸術を身に付けるはよく、規律ある生活を習うはよく、よき言葉になじむはよい、
これが人間最上の幸わせである。
よく父と母とに使うるはよく、妻や子をいつくしみ養うはよく、正しき生業にはげむやよい、
これが人間最上の幸わせである。
布施をなし戒律を保ち、血縁の人々を恵み助け、恥ずべき事を行わざるはよい、
これが人間最上の幸わせである。
悪しき行いを楽しみとしてはならぬ、酒を飲まば程を過ごしてはならぬ、また、もろもろの事において節制せねばならぬ、
これが人間最上の幸わせである。
人を敬い、自からへりくだるはよく、足るを知って恩を思うはよく、時ありて教えを聞くはよい、
これが人間最上の幸わせである。
こと忍び、穏やかなるはよく、しばしば悟りし人と交流し、時ありて、真の道をかたり、談ずるはよい、
これが人間最上の幸わせである。
よく己を制し清浄なる行いを修め、真の道を悟りてついに、不動の心を得なば、人間の幸福はこれに勝るものはない。
そのとき人は、誉められても、貶されても心を、乱されることもなく、得ると得ざるとによりて心を動かされることもなく、
憂いもなく怒りもなく、ただこの上もなき安らぎの中にある、人間の幸福はこれに勝るものはない、
人よくかくの如きを行いおわば、何処にあるも打ちかたるることなく、何処に行くも幸い豊かならん、
かかる人々にこそ、最上の幸福せはあるであろう。
人間の本当の幸せはとは、幸福感を味わえる、ある一定の状態をさすものではないそれは、
生きていく状況と境遇において、人間だけが持つ、理性や知性に即した、 善なる生き方こそが、
永続性を伴う真の、幸福なのである。
台本制作&語り バール・クリシュナ・フミオ
これ以来、この言葉を胸に刻み、仕事だけに没頭することなく、家族に、自分の趣味の世界にと、三つのやるべき事を、
時と場合によってバランスよく、力を注ぐ大切さを覚えました。そてしその後は、老子の思想、密教の世界、
そして最高なるインド哲学バガヴァット・ギーターの世界へと、つながっていったのです。
これからは哲学の重要性が必ず注目を浴びるようになります。
私は毎朝、半覚醒の状態で、今日はどんな事を書こうかと、心から沸き立つ想いを廻らせている。
普段から書きたい事は、沢山沸き立っていますが、それらを書き留めず、その朝に想い興された事を書くことにしている。
それは作家としての論文やエッセイを綴るのではなく、その日その場での新鮮な、自分の心のあり方を
伝えてたいからなのです。
それこそ,それがブログの本質ではないかと思うからなのです。
下書きもなく、予定も無く、その朝に思い起こされた事をブログする、これこそがブログの醍醐味なのでしょう。
そんな訳で、これから書きづづって行く間には、同じような事を何回も、書き綴る事もあると思いますが、
それはそれだけ、私の心の奥底に、深く刻み込まれた思いだとして、大切な事だと思ってください。
さて、今朝は昨日、哲学の解釈として、三つの哲学の捉え方のお話を致しました。
1−アカデミックに哲学を捉える。学者さん達の教理哲学。
2ービジネスや、生き方の有効的手段として捉える、教訓的哲学。
3−人間の本質的生き方を実践する為のものと捉える、実践哲学。
今日はこの三つをもう少し、判り易く例えをもってお話したいと思います。
ここに蜜が入った壷があります。
この壷をめぐって蜂たちがいますが、それぞれ三つの立場に蜂たちはいるのです。
先ず、1−の教理哲学者の蜂は、蜜の入った壷から離れて、その壷の形や色や模様、その他作者は誰か、
何時頃作られたものか、どんな材質で造られているか、値段はどれくらい掛かっているか、
などその壷をめぐって色々な角度から、蜜の味ではなく、蜜の入った壷を研究している蜂さん達と言えます。
次の、2−の教訓的哲学者の蜂は、蜜の入った壷にとまって、蜜のにおいを嗅ぎながら、ああこれが蜜の味かと錯覚し、
これが蜜の味かと思い込んで、蜜の入った壷をなめている蜂さん達と言えます。
そして、最後の実践哲学者は、壷の中に入り蜂蜜の味を楽しんでいる蜂さん達と言えます。
その人達は、インド哲学バガヴァット・ギーターを正しく理解し、その真理の実践に努め、
この世の幻想的な一時的な幸福感ではない、永遠不滅の精神的歓喜を味わっている、本物の活き方をしている人たちです。
しかし、その様な人々は一千万人の中で、数人程度しかいない、非常に稀有な人々です。
それらの人は必ず、その生き方として、下記の五つの条件を満たした人達でしょう。
1−ギーターの真理に迷わず。
2−ギーターの真理を確信し。
3−ギーターの真理を崇拝し。
4−ギーターの真理に服従し。
5−ギーターの真理に没頭している。
実は、これは私の今の生き様としての状態なのです。
哲学の解釈は、人それぞれだと思いますが、私なりにそれを分類すると。
1−哲学をアカデミックの分野と捉え、東西哲学の歴史や比較分析をはじめ文献としての研究を、知識として学ぶ世界。
2−偉大な人物の教訓を、生きていく為の有効的処世術として、利用する世界。
3−その人の行き方の信条としてその人なりに、確信実践する世界。
この様に分けられますが、そのわけ方として、知識として学ぶ形と、実際に行動して活用する形の二つに分けられます。
更にその活用が、ビジネスの成功や物質的豊かさ、生きる充実感、を達成させる目的として取り入れるものと、もう一つは、
自分自身の自己完成を目指す生き方の哲学として、取り入れる形の二つに分けられます。
この自己完成と言うことであるが、この自己完成こそが我々が他の動物とは違った人間の形として、
この世で生活しているその意義なのです。
その自己完成の為に、人間いは普通の動物とは違った、知性、理性、感性、そして手先の器用さなど、
その優越なる肉体と精神の両方を神から与えられているのです。
そして、その能力を使って、豊かな社会で快適な生活をしながら、最終的にはこの、
自己とは何か、何処から来て、何処へ行き、何をする事を最終目的とするかをインド哲学バガヴァット・ギーター、
で学ぶのです。
この自己完成を生涯において成す事こそ、哲学を修得する意味である。
人間は大きく分けて、二つの能力を持っている。
それは、知的能力(右の能力)と精神的能力(左の能力)である。
学校での勉強の本質は、記憶力、計算力、読解力、記述力、そのほか分析力、推計力などの、能力がその基本となっている。
この種の能力が非常に長けた人は、東京大学などの一流大学などに行く人々である。
このように、今の学校で教えている教科に対する知的能力を、私はそれを人間の持つ右の能力と言っています。
それともう一つの能力は、人間として持つべき資質としての能力。
他人に対する思いやり。
人としてなすべき義務。
人とて守るべき礼節。
人として弁えるべき分別。
これらの能力を精神的能力と言い、私はそれを人間の持つ左の能力と言っています。
この世で全うに生きていくためには、この二つの能力のバランスが非常に大事なのです。
特に左の能力(精神的能力)は、至上神から課題として人間に与えられた、修行徳目なのです。
右の能力(知的能力)を身になければならない事は、人間が物質次元のこの世で、
肉体を持って生きていくために必要な知識であり、言ってみれば生きていく為の処世術を身につける事なのです。
そしてそれは、この世で生きている間だけ価値のあるものであり、死んで49日の間に全て消去させられてしまうものなのです。
それとは対照的に、左の能力としての精神的能力は、その人の根性として魂に植え付けられるものであり、
それはその人が死後に赴く世界を、決定付ける基礎となる大事な能力なのです。
しかし、この大事な能力の啓発は今の世の中では全く無視されてしまった、嘆かわしい世の中になってしまっています。
現在、原発事故を起こして我々に歴史的な大変革を迫らせている、原発推進の中枢組織の人は、
殆どが東京大学の出身の人であると聞いていますが、正に何を言わんとするかです。
人間の真の幸福実現は、知的能力ではなく、究極的には精神的能力の獲得であると言えます。
正にこれからこそ、真の哲学バガヴァット・ギーターを学ぶ時、到来なのです。
私は哲学をするということは、学ぶ事ではなく、最後は「実践して体得する事である」と提唱している。
言うなれば、実践哲学をもってその完成であり、学んで理解しただけでは五合目なのです。
でもこの五合目で終わっている人が殆どだと思います。
しかし、本当はここからが登山の辛さや忍耐が必要な段階となりますが、それを乗り越えてこそ、
本物の精神的歓びが待っているのです。
哲学を学ぶその目的は、実践し体得して得た精神的歓びこそが、その醍醐味なのです。
その段階に行くまでは。
1−哲学の存在を知る段階。
2−哲学を学び理解する段階。
3−哲学を実践して、魂の向上を図り、歓喜を得た完成の段階。
この三段階があり、この階段の存在を理解して、最後の完成段階を修得してこそ、哲学の完成とするものです。
しかし、物質次元に捉われている人々は、哲学という言葉を聴いただけで、難しいと拒絶反応を示すのが殆どです。
また、哲学に辿りつけても、学ぶ事に喜びを得て、知ると言う知識欲を満たしてだけで、その段階で止まってしまう。
到底、第三段階の哲学の教えを生活の中で、実践して本当の哲学の美味を味わう人は百万人に一人程度のオーダーであると、
想像に難くないのです。
私はこの、百万人に一人程度の人の為に、この実践哲学の重要性を提唱します。
学問としての知識だけでなく、永遠不滅、至高至福の絶対なる歓喜となる精神知識を修得する為にも
バガヴァット・ギーターを学びましょう。
バガヴァット・ギーターとは /darsana/baga.mp3
このバガヴァット・ギーターは、今から五千年前の古代インドで至上主なる最高神、シュリー・クリシュナが
神の言葉として諭された。その場面は、クル王朝の遺産相続にまつわる、従兄弟同士の戦いの戦場で、
友のアルジュナに諭した、永遠不滅の言葉である。それは、人類史上最高の宗教哲学であり、
このバガヴァット・ギーターは「神の御言葉」という絶対的な意味がある。その中には、世界のあらゆる宗教の教えが
含まれているだけではなく、いかなる宗教の教えにもない、絶対真理が述べられている。最高神シュリー・クリシュナは
五千年前、この地球に現れた歴史上の御方である。彼は百二十五年間この地球に留まり、あたかも人間のごとく振舞われ、
地球を去る瞬間まで、神の御業を遺憾なく顕されたのである。このシュリー・クリシュナこそ、至上主なる最高神と確信し、
主の教えである。バガヴァット・ギーターを学ぶ事で、物質的豊かさが幸せのバロメーターと言った、物質次元の錯覚から
解放され更に、永遠なる喜びと、永遠の知識を得る事ができるのである。最高神シュリー・クリシュナ私たちは一人の
例外もなく、何かしら悩みや痛みを持っている。その理由はただ一つ。「それは物質界で肉体を持って生活をしている
からである」悩み苦しんでいる多数の人間のうちで、ごくわずかの人々が疑問を持つ。「いったい自分は何者なのか、
どうしてこんな不便な思いをしながら、生きなければならないのか、その意義は何なのか?と」この種の疑問を持った
時そこで初めて、苦しみもがいている者も、人間らしさに芽生えてくる。なぜ自分は苦しんでいるのか、自分はどこから
来て死後はどこへ行くのか、こう言う事に疑問を持ち始めた人こそ、バガヴァット・ギーターを学ぶにふさわしい者だと
言える。
覚者よ我を観よ、智者よ真理を聴け、勇者よ我に従え
これからはインド哲学バガヴァット・ギーターです。
人生の意義を知り、本当の人間としての幸せを掴んでください。
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バール・クリシュナ・フミオ
2−道徳を学ぶ段階(仁、義、礼、智、信、)この五徳を、人と人の交わりの中で実に付ける、小学校の段階。
3−倫理を実践する段階(父子に親あり、夫婦別あり、君臣に義あり、長幼に序あり、朋友に信あり)肉体を保つ
為にの生活をしながら、社会の中で仕事をし、子供を育て、人間としての自己の成長を成し遂げる、中学校の段階。
4−宗教観を持つ段階、今の自分は、過去世、現世、来世の輪廻の中の現世にあることを悟り、人間は肉体と
魂の混合性の存在であることを悟る事ができる、高校生の段階。
5−哲学を知る段階、自己の本質こそは、魂であると言う事に確信を持ち、その魂は絶対神の分霊であり、永遠
不滅、不老、不死、不病、非誕生、の存在である事を悟る、大学の段階
更にその上には大学院がありこの大学院こそがバガヴァット・ギーターを学ぶ段階である。
私はこの度バガヴァット・ギーターの無料指導を始めました。昨日鳥取県にお住まいの方から早速スカイプの
コンタクトがあ り一時間以上も話し込んで、至福の時を過ごさせたいただきました。
もし興味のある方はこちらをごらん下さい。/darsana/indo.htm
その方もこのページの語りを聴いて、私に興味を抱いてくれたのです。
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私の格言 誰もやらない事、出来ない事に奥義を深めよ
/darsana/daremoyaranai.mp3
私の格言 限界を超えたところに真理はある
/darsana/genkai.wma
私の格言 奥義は言葉にすると矛盾する
/darsana/okugi.wma
私の格言 自分の死は、演習するものである
/darsana/siwaensyutu.wma
私の格言 人生は無視と、諦めと、許しが肝心である
/darsana/musi.wma
私の格言 世代は課題であり、世代ごとにやるべき課題がある
/darsana/sedai.mp3
私の格言 人には願わず、求めず、頼まず、頼まれた事には最善を尽くす
/darsana/negawazu.wma
私の格言 女房の幸せは私の幸せ!一生愛し貫く。 自分を如何に変えるか
/darsana/nyoubou.wma
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