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インド哲学 入門

                                                                               
           


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     インド哲学を学ぶにあたりひと言 メディアプレー
                                著作&語り
                             バール・クリシュナ・フミオ




インド哲学をヤフーで検索をしてみると、そこに出てくる記述は殆どが、哲学に関する歴史の記述やその哲学の体系、ギリシャ哲学とインド哲学の比較分析、そして哲学と言うものの大まかな内容の説明程度で終わっている。しかもどの表現も分かりづらい文脈を並べ立てたり、あえて難しい単語を使って権威付けをしているかのようである。たぶんどの大学でも、この様に張子の様な哲学を学ぶだけで、単位修得と言う事になっているのであろう。

しかし、この様な張子哲学を喩えて言うならば「蜂蜜のたっぷり入った壷を、蜜の香りを嗅ぎながらも、その蜜を味わう事も無く、外から壷を舐めているようなものである」と言えるのではないでしょうか。

人間の究極の生き方を説いている、インド哲学の精髄に迫る事もなく、ただ哲学に関する事柄について研究しているような哲学を、壷舐め哲学と言う。これは本当の蜜の味を知らずに、蜜を味わった錯覚を生涯持ち続けるだけである。

自己の存在を消滅させるほどの人生の大問題に直面しても、大学で得た哲学的知識程度では、解決の糸口さえも掴めないからである。

人間の生き方や、救いを求める為の、本当の意味の哲学を、学ぶ目的からするならば、それらは無価値なる学びでしかなく、時間の浪費でしかない。

人生のどんな難解な局面においても、不動の哲理とゆるぎない確信を持ち、平静な心で、生き抜く精神的知識を得る事こそが、哲学を学ぶと言う事でありその目的は、無欲、無恐怖、無執着の境地に達する事である。これこそが悟りの境地というものである。



 インド哲学入門 
     人間が進歩発展するとはどんな事かを考えるメディアプレー
                                  
   著作&語り
                                バール・クリシュナ・フミオ
                                       


    人間が進歩発展する、と言う事を考えると必ず「人は何の為に生きる
   のか」とか「生活の為に仕事をするとはどんな事か」「この世で生き
   る目的は何か」など、同じような疑問が必ず出てきます。この様な疑
   問が出ること事態、人それぞれに人間が生きる究極的な意義が、分かっ
   ていないからなのです。

     又その様な精神的探求は、その人がどんな精神的発展段階にあるかに
   よって、
その想いや程度は様々に違ってきます。
     しかしながら今では、殆どの人がそんな疑問すら浮かばない程度の、
   貧弱な精
神性の中に、埋没しているのが現状であります。
     先ず、「人は何の為に生きるのか」を完全に理解すれば、自ずとその
   応えは観
えてくる筈です。
     この世で人間が生きていくと言うことは、動物次元の段階から人間と
   しての
営みの段階、そして精神的境地の段階へと発展させていくプロ
   セスこそが、こ
の世で人間が生きていく本来の目的なのです。

                 この世で生きる目的

    動物次元の段階から人間としての営みの段階→精神的境地の段階
      
      この三つの段階を経て、最後は魂として神の元に帰する事である。
     
     精神的(スピリチュアル)とは「絶対神に精通する知識」なの
   です。

     ご先祖霊さまとか、守護霊さまがどうのこうの程度の話を、精神世界
   の話と
言う事は、不適当なものなのです。
     精神的といった言葉の中に、絶対神との関わりが無いような話で
   あれば
それは、単なる観念的思考でしか過ぎないのです。
     精神的とは常に、自己の魂と最高神との関わりの、真理を求める思考で
   あり、
神の元に帰する為の思考なのです。それを、精神的と言うのです。
     それはインド哲学でも示されている、人間の究極の目的でもあるのです。


      人は何のために生きるのか

           生活の為に仕事をするとはどんな事か メディアプレー
                                     著作&語り
                                  バール・クリシュナ・フミオ

    これから皆さんは、学校でいろいろ勉強して進学し、ほとんどの人は
    就職され、生涯何かの形でお仕事をすることになると思います。そこで
    今日は、この仕事を通して、生きる目的についてお話したいと思います。
    まずは仕事をする目的は、大きく分けて二つあることを、知っておいて
    下さい。

    その一つ目は
           生命活動のために仕事をする事(肉体維持の活動)
    二つ目は
           人間性を高めるために仕事をする事(精神的活動)

    と、二つの目的があります。今回は、「生命活動のために仕事をする」
    と言う事はどんなことであるかを、お話ししたいと思います。
    ちょっと難しいこの、生命活動と言う言葉ですが、これはどんな事かと
    言いますとそれは、生物が命を維持する為に、仕事をしたり何かの活動
    をしたりする事、これを生命活動と言うのです。
    人間は動物の一種です。人間を含め鳥類、魚類、昆虫などの生物は、生
    きていくためには最低限の活動として、次の四つの行動を必ず行うもの
    です。これは生きていく為に与えられた本能と言うもので、体の内から
    湧き起こる、生きていく為の自然の欲求なのです。

    その四つの欲求とは。
               生物の本能   人間の場合
             1−食べること・・・・(食欲)
             2−寝ること・・・・・(睡眠欲)
             3−子供をつくること・(性欲)
            4−身を守ること・・・(物欲)

    この四つの行動は、どんな小さな虫から大きな動物まで、人間を含め
    あらゆる生き物が、生きていく為には必ず行わなければならない必要
    な行動なのです。この四つの行動を生命活動というのですが、この生
    命活動を人間の社会では、「生活」と言っているのです。
  
ここで重要なことは、四つの欲求「食べる食欲、寝る睡眠欲、子供を
   つくる性欲、身を守る為の物欲」は生きていくために、私達の体の内
    から自然に沸き起って来るものであり、そしてそれは誰もが、「どう
   し
ようもなく突き動かされてしまう」欲求となって現れてくる、と言
   う
ことです。
    この「どうしようもなく突き動かされてしまう」と言うことが、ルール
    を守り共に助け合って、生きて行かなければならない人間社会にあって
    は、勝手気ままな行動は許されず、我慢しなければならないという、
   苦
しみの原因となってしまうのです。
    また人間社会は自然界の動物と違って、高度で複雑な社会生活を営ん
    でいる為、その社会生活に対応した高い能力も求められます。
    これもまた生きていくうえでの、苦しみの要因ともなっているのです。
    現代社会では、サラリーマンとして会社勤めをしたり、個人事業者と
    して仕事をしたり、その他いろいろな経済活動をして、最終的にはお
    金を手に入れるのですが。ほとんどのひとが、そのお金を手に入れる
    目的は、健康で快適な生活を、楽しく送る為だと思うのです。
    しかし、ここでよく理解して頂きたい事は。これらの生命活動(生活)
    はどれほど、高度にかつ複雑に行っていても、根本的に掘り下げて考
    えてみると、食べること、寝ること、子供をつくること、身を守るこ
    となどは、自然界の動物でも、全く同じ生活をしているのだと、理解
    して頂きたい事なのです。
    どんなに立派な会社勤めや役所勤めをしても又、一流スポーツ選手や
    有名芸能人となって高給取りになったとしても、その目的が衣食住、
    教育、健康、娯楽の充実をはかる為に仕事をしている、と言った目的
    だけのものであったならばそれは、自然界の動物と全く同じ、生命活
   動
の次元であるとはっきり、認識しなければなりません。
    でなければ、他の動物とは違い、圧倒的な知性と精神性を持って生ま
    れてきた人間として、この世に生まれてきた本来の目的を、見失って
    しまうからです。
    生命活動の本質を深く、掘り下げて見据えることがなければ、生きる
    目的を見失い、苦悩と落胆を繰り返す人生を送らなければ、成らなく
    なってしまうからなのです。


      人は何のために生きるのか

      この世で生きる目的は何か 
メディアプレー
                                     著作&語り 
                                  バール・クリシュナ・フミオ
                                     


   パートTでは、生活の為に仕事をするとは、どんな事かと言うことを、
   お話して参りました。そこでは肉体を維持していく為には、どうして
   も行わなければならない生命活動があり、その生命活動はどんな生物で
   も根本的には、「食べる食欲、寝る睡眠欲、子供をつくる性欲、身を守る
     為の物欲」と「四つの欲求」によって、突き動かされているに過ぎな
     い事を、お話しして参りました。
     そして今度は、この世で生きる本当の目的は、一体なんだろうか、と言
     うことを、お話ししたいと思います。結論からズバリ言いますと。
  
               人間が生きる本当の目的

それは人格、人間性の向上です!

   まず人間とは(じんかん)とも言うのです。じんかんとは「ある間にある」
   存在の、状態を言うのです。
     ではその、ある間にある状態とは、どんな人間かと言いますと。

    1−生物としての人間自分を肉体的として捉えている人)

      生物と精神との間にある状態を人間(じんかん)と言うのです

       2−精神的に目覚めた人間(自分は肉体ではなく魂であると理解している人)

     この、生物としての人間と、精神的に目覚めた人間、つまり生物と言う物質の状態と、
   精神性に目覚めた状態の、二つの状態の間にあるから

     じんかん(人間)と言うのです。
     このことは、一般的にはなかなか理解されていませんけれども実は、
   非
常に重要な真理なのです。
     この様に人間とは、その活動のありかたや考え方によって、動物として
    の存在であったり、精神的に目覚めた、高度な人間となったりするのです
     では、生物としての人間とは、どのような生き方をしている人かと言い
    ますと。
     パートTでもお話しいたしましたように、その生命活動(生活)が、
   食
べる事、寝る事、子供を育てる事、生活を楽しむ事の、四つの欲求だけ
     で活動している人間の事です。
     たとえ、どんなに高度な社会生活や、生命活動を営んでいたとしても
     それは、生物(生き物)として人間社会をつくり、維持しているだけの
     ものであり、本質的には動物世界と全く同じ生命活動(生活)をしている
     のだと、言わなければなりません。
     このように根本的に本質を見据えると言う事が、非常に重要な事なのです。
   
    では今度は、「精神的に目覚めている人」とは、どんな状態の人なのか、
    と言う事を、お話したいと思います。
     その前に、人間が持つ能力として、大きく二つの能力があることを先ずは、
     知っておいてください。その二つの能力とは。

  1−知的能力(記憶力、計算、予測、読解力など頭を使う能力)

     2−精神的能力(道徳とは、好かれる人とは、立派な人とは、

人間性を高めるとは、など心と頭を使う能力)

   一つ目の知的能力とは、学校で学ぶ知識や、会社で仕事をしたり、一般
   社会で生活をする為の知識を、身につける能力のことを言うのです。
   二つ目の精神的能力とは、道徳とはどんなものだろうかとか、なぜ道徳
     が必要なのか、好かれる人とは、立派な人間になるには、とか、この様
    な人間性を高めるために、心と頭を使い行動する能力を、精神的能力と
     言うのです。
    そこで先ず、「精神的に目覚めている人」とはどんな意識を持っている
   人
かと言いますと。
             精神的に目覚めている人とは   

1−自分は肉体的存在ではなく、精神的存在であると自覚している人。 

2−さらに、精神的存在であると認識する自分こそが、であると
          自覚している人。
   この二つの認識をはっきり、断言できる人が「精神的に目覚めている人」
   であると、言えるのです。
   ここで魂と言う言葉が出て参りましたが、精神的に目覚める為にそして、
   魂を理解するためには大事な関門を、通り抜けなければなりません、
     それは  
 
     「自分は肉体ではなく、精神的存在なのだ」という意識

これが大事な関門なのです。
   ではその「自分は肉体ではないのだ」と言うことを理解して頂くためには、
   次の事を思い浮かべてください。
     例えば10年前の写真の姿と、最近の写真の姿を比べて見て下さい。
    するとその肉体的変化はすごくあるものだと、認識できると思います。
     しかし、10年前の自分も今の自分も、肉体の変化はすごくあっても、
    昔も今も同じ自分であることは、理解していると思います。
     と言うことは、肉体は10年前と今は著しく変わっていても、肉体を
    通して自分と言う認識は、10年前も今も、全く変わっていないという
     ことが分かりますね。
    つまり肉体は常に変化している物質に過ぎず、その肉体の中に、
   自分を
認識する意識がある、と言う事を、分かって頂きたいのです。
     その、「自分として認識している自分」こそがである、と言うのです。
    この「自分として認識している自分が魂である」と言う事を、確信を持
     って断言できなければ、一生涯の生命活動(生活)を通して、人間とし
    て生きる本当の目的を知ろうとは全く、思わなくなってしまうからなのです。

「自分は肉体ではなく、魂の存在なのだ」

     と精神的自覚があってこそ、人格や人間性を高める道を、歩み出すこと
    ができるのです。
     それは、人格、人間性の向上をなす力はすべて、心と頭を使って行動す
     る、精神的能力にあるからなのです。



       最上幸福(しあわせ)とは メディアプレー
          
          著作&語り バール・クリシュナ・フミオ
                                   

    我らが求める、「最上なる善きものは何であろうか」この問いに対しては
   「それは幸わせに他ならない」と、たいがいの人の答えはほぼ一致する。
    ではひとたび、「幸わせとは何であろうか」と言う問いになれば人々は、
    それぞれその見解を異にしている。 
    ある人は財の豊かさを、ある人は名誉なることを、またある者は、いつま
   でも若く健康であることを、と、
さまざまにその見解を違えてくる。
    ではいったい人間にとって本当の幸せとは、どんなものであろうか。
    釈尊は人間の成長に応じて、様々な生活において、 様々の幸福を説き
   ついに、最上の幸福に説き至っている
それはかの祇園精舎においてのこと
   であった。

   世の人々はことごとく、様々の幸福を願い、様々の吉祥を念ずるが、
    我がために真なる、幸わせを語りたまえかように問える者のあった時釈尊
   は
それについて次のように語り教えた。

    愚かなる者に、親しみ近づかぬがよい 賢き人に近づき 親しむがよい
     
また使うるに値するものに、使うるがよい、これが人間最上の幸わせである

   よき環境に住まうがよい常に功徳を積まんことを思うがよい
   
 また自ら正しき誓いをたつるがよい、これが人間最上の幸わせである。

   広く学び、技術か芸術を身に付けるはよく、規律ある生活を習うはよく、
    よき言葉になじむはよい、これが人間最上の幸わせである。

    よく父と母とに使うるはよく、妻や子をいつくしみ養うはよく、
   
 正しき生業にはげむやよい、これが人間最上の幸わせである。

    布施をなし戒律を保ち、血縁の人々を恵み助け、恥ずべき事を行わざるは
   よい、これが人間最上の幸福である。

    悪しき行いを楽しみとしてはならぬ、酒を飲まば程を過ごしてはならぬ、
    また、もろもろの事において節制せねばならぬ、これが人間最上の幸わ
   せである。

    人を敬い、自からへりくだるはよく、足るを知って恩を思うはよく、
     時ありて教えを聞くはよい、これが人間最上の幸わせである。

     こと忍び、穏やかなるはよく、しばしば、悟りし人と交流し、時ありて、
   真の道をかたり、談ずるはよい、これが人間最上の幸わせである


     
よく己を制し清浄なる行いを修め、真の道を悟りてついに、不動の心を
   得なば人間の幸福はこれに勝るものはない、そのとき人は、誉められても、
   貶されても心を、乱されることもなく得ると得ざるとによりて心を、動か
   されることもなく、憂いもなく、怒りもなく ただこの上もなき安らぎの
   中にある、人間の幸わせはこれに勝るものはない、人よくかくの如きを行
   いおわば何処にあるも打ちかたるることなく、何処に行くも幸い豊かなら
   ん、かかる人々にこそ、最上の幸わせはあるであろう。

     人間の本当の幸せはとは、幸福感を味わえる、ある一定の状態をさすもの
   ではない
それは、生きていく状況と境遇において、人間だけが持つ、理性
   や知性に即した、善なる生き方こそが、永続性を伴う真の、幸福なのである。
 

         人間が進歩する為の発展カテゴリー メディアプレー 
                             著作 バール・クリシュナ・フミオ

    

   人間が精神的に進歩発展するためには、身に付けなければならない精神的段階
   が四段
階あります。 
                   1−躾けの段階(団体生活の準備)
                   2−道徳の段階(人間性の目覚め)
                   3−宗教の段階(精神性の目覚め)
                   4―哲学の段階(精神性の極め)

     本来、人間とは「じんかん」と言い、ある間にある状態をさしていう言葉なの
   です。
     その第一段階の人間は、幼時の段階であり、この時は父と母の間にある状態を
   人間と
する段階。
     この段階では、日常生活における幼児教育として、日常会話や言葉使い挨拶、
   それに
最低限人には迷惑をかけないことを教え込ませる時である。
     人としてこの世に生きて行く為の、最も基本となる躾を身に付ける、躾の段階
   である。


     次の段階の人間は「人と人との関わり」の間にある状態を人間とする段階。
   
この段階は主に、学校という集団生活の中で、道徳を身に付ける段階である。
   この学校という集団生活を通して「なぜ道徳が必要か」とか「道徳の価値と意義
     などを学び、そして身に付ける時である。

     その次の段階の人間は、宗教的観点からの六道輪廻(地獄界、餓鬼界、畜生界、
   修羅
界、人間界、天上界)である、修羅界(戦いや競争)と天上界(幸福感や
   安心感)の
間にある境地を人間とする段階。
     ここにきて初めて、肉体的に関わる言葉使いや行動から、今度は肉体を離れ精神
   的活
動における人間、と言うものを捉える段階に入って来るのです。
     ここでは人間としての精神性や宗教観、人生観など社会生活を通じて、精神的尊
   さの
自覚を持つようになってくる段階なのです。
     
     そして最後の段階での人間は、動物としての肉体的状態と、自己を魂と認識する
   状態
の、間にある段階。
     人間はこの動物的本能(食欲、性欲)や世俗的欲望(財欲や名誉欲)から超越し、
   自
己の本質は魂であると認識する段階へと、上り詰めなければならないのです。
     この段階になれば、「この世に生きる目的は真理を求める事だ」と言った哲学的
   思考と
なり、魂の永遠性や絶対神の知識、物質次元と精神的次元の相違などが理解
   できる様に
なる。
   自己とは何か、絶対神とは何か、自己と神との関係とはどんなものか、魂の赴く

   き最終目的地と、そこで何を成すかを確信し、絶対真理の教えを実行し、それに没
   頭
しなければならないのである。
 
   以上、これらの事を次の表にまとめてみましたので御覧下さい。

                                                                     

         
 人間が進歩する為の発展カテゴリー
                                    

 

精神の発展カテゴリー

学びの対象(何を学ぶか)

教える人

精神的境地
自己を魂として認識している

哲学の段階

家庭生活を果たし、人生の体得を通じて、魂の自覚と絶対神との関わりを知り、そして魂の赴くべき究極の真理を学ぶ

 

 

インド哲学の精髄から自己とは何か、絶対神とは何か、自己と神との関係とは何か、自己の行くべき最終目的地と、そこで何を成すかを確信し、教えを実行し没頭する


 

精神指導者

(グル)

 



人間としての営み段階

 

倫理、宗教の段階

会社や集団や家族生活を通じて、人間性を高める生き方を、生涯を通して学ぶ

 

 

倫理、儒教、宗教を学び、人間として集団社会で生きていく順法精神を身に付け、高い倫理性と人間性を築き上げる

 

 

 

導師 教祖

道徳の段階

学校生活を通して、友達との集団生活をする為の規範を学ぶ

 

 

学校生活に於いて道徳、校則、約束の大切さを、友達との関わりの中で、一般知識の修得と共に身に付ける





教授 先生


動物次元の状態

躾の段階

家庭の中で、他人と関わる為の学びを、日常生活を通して身に付けさせる

 

 

家庭での日常生活における育児教育として、礼儀、挨拶、言葉使い、身だしなみを習得させる

 





父親 母親




        人間とは動物としての存在と、魂としての精神的存在の間に存在するから
         人間(じんかん)と言うのである。





      哲学を学ぶにあたり、次の事柄についてお話したいと思います。

           1−哲学とはどんな事なのか。

           2−なぜ哲学を学ぶ事が大事なのか。

           3−哲学を身に付けるとどうなるのか。

      それでは、以上の三点についてお話いたします。
      先ずは哲学とはどんな事かと言いますと。それは真理であり永遠不滅の不動の
         原理であり法則でもある、というものです。
         分かりやすい具体的な例としては、お釈迦様が説かれた、諸行無常という真理
         があります。諸行無常とは「この世の中の物質世界と精神世界は総て、留まる
         ことなく常に永遠に変異し、一瞬たりとも留まることはない」と説かれている。
         そして、人間の根本的な存在の真理についてもインド哲学では、人間は肉体で
         はなく魂の存在であると説いており、又その魂は神の分霊で神とは同質の純粋
         霊であり、それは不老、不死、永遠不滅の存在であると説かれています。


        
 <真理のほんの一例> 
1−諸行無常とは、この世の中の物質世界と精神世界は総て、留まる
   ことなく常に永遠に変異し、一瞬たりとも留まることはない。
2−人間は肉体ではなく、魂の存在である。
3−魂は神の分霊でありそれは純粋霊である。
4−その魂は、不老、不死、永遠不滅の精神的スパークであり、
  更に総て
に個別性を持つ存在である。

 

      これはほんの一つの真理ですが、大昔からインドの哲学書であるヴェーダ、や
         ウパニシャドウ、プラーナ、マハーバーラタ、ヴェーダンタ・スートラ、
         バガヴァット・ギーターなど、絶対的権威を持つ大哲学書に書かれているものです。
         それは絶対神の御言葉であり、神の息吹で告げられた永遠不滅の絶対真理であるか
         らなのです。
         したがって私達はこの絶対真理に対しては全く疑うことなく、ただただ信じ、迷う
         こと無く、確信を持って、真理に沿った生き方をすれば良い、只それだけなのです。
         それでは二つ目に、なぜ哲学を学ぶ事が大事なのかをお話いたします。
         この世には様々な価値観があります。人間はその価値を求めて行動したり、働いた
         りしているものです。
         でもこの価値と言うものが今は、殆どの人が自分の欲望を満たす為のものが、価値
         であるといった認識になってしまっております。
         その代表的な欲望は、物欲を満たす為の金銭欲、美食や性欲など快楽を満たす欲望、
         そして美的感覚や名声を求める名誉欲であったりするのです。
         しかしこれらは総て、肉体に関わる物質次元の欲望であり、自分の人間性を高めた
         り、自己の本質を探究したり更には、絶対真理を学ぼうとする精神的活動ではない
         のです。
         この肉体的で物質次元の欲望は、これを求めようとすれば必ず、激しい奮闘努力が
         必要となり、更に際限の無くつぎからつぎへ欲望がうまれてくるものなのです。
         と言う事は人間は肉体的感覚の欲望を満たそうと求めても、結局は永遠に安住した
         境地は絶対に得られないと言う事なのです。 
         これも人間がこの世で生きて行くために、知っておかなければならない絶対的真理
         なのです。

          生きていく上での絶対的真理
             1−人間はある価値の為に行動したり、働くものである。
             2−それは肉体快楽や物質的欲望だったり、名誉欲のためであったりする。
             3−しかしそれらはすべて 一瞬の喜びはあっても終には、苦しみの元
            となる。

では本当の価値の為に、行動し働くとはどんな事だろうか。


                 この後は随時追加して参ります。