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           織田信長本能寺の秘話 

   ―西山本門寺の信長首塚物語り―    原 作 白井勝文  協 力 杉山雅子 

        台詞入り主題曲  花の次郎長三人衆 ああ梶原景時公 ああ信康 青葉の笛 

        歴史を紐解けば「信長の前に名将なし、信長の後にも名将なし」

     その、優れた知略と武勇は比類なき、天才的武将として後世に名を留めている。

     更に信長の名将たるゆえんは、明智光秀の謀反に敗れながらも、その首を渡さず  

        光秀に本懐を遂げさせなかった事にある。

     信長の首を晒せなかった光秀は、生きているかもしれない信長の影に、怯える

     武将達を味方に付けられず、三日天下に終わってしまう。これこそ光秀最大の

       誤算であった。

 

     天正10年(1582)6月2日不覚にも、本能寺を襲撃された信長は、鬨の声にがばっと、跳ね起きる。

    「誰かある! この騒ぎは何事じゃ」

      「殿!一大事にございます。桔梗の旗印明智光秀の、謀反にござりまする」

    「何じゃと!光秀が!う〜ッ、かくなる上は是非も無い・・欄丸、弓を持てぃ」

     信長は弓矢をとりて応戦するも、つるは切れ、命運尽きたるを悟る。

    もはやこれまでと覚悟し、本殿に火を放ち自害するも、焼け跡からは髪一筋も残さぬ、信長の死は今も

    謎に包まれている。

 

      それより数日後、京より東へ百里、駿河之国富士芝川の、西山本門寺の黒門に、

      一人の男が辛うじて辿り着く。

      信長から厳命を託された、日海上人が密かに使わした原宗安であった。

    本能寺で信長と、囲碁の対極で同席していた日海は、蟻も這い出せぬ厳戒の中より

      秘策にて、信長の首を持ち出しかつて、修行をしていた西山本門寺に宗安を遣わし

    首を安置させたのである。

      手厚く埋葬された首塚には魔よけとして、柊の木が植えられ既に樹齢も450年。

    天敵は近づけぬと、構えを見せる大樹となって今も尚、信長公の霊魂を護っている。

 

      明智勢、一万三千の厳戒を破り、如何にして信長公の首級を持ち出したるか、

    何故に富士のふもとに眠りたもうか。

      いま此処に信長公より、語り継ぐべしと啓示有り。「祈りの芸人」白井勝文、謹みて

    これより本能寺の変、謎にせまらんお聴きあれ。

 

      信長がよく、好んで舞をした敦盛の謡。

    「人間50年、下天のうちを比ぶれば夢、幻の如くなり」

      その、50年の命も余すところ僅かとなった、天正10年。

    49歳にして信長は、新しい国創りの夢を果たせず、無念の想いを残して本能寺で生涯を閉じた。

    その年の2月信長は、天下統一への最終段階を向かえ、武田一族を討伐するため長男信忠と、

    滝川一益の兵団を甲斐に向け、出陣させる。

      既に信長は武力を以って、天下を治める「天下布武」を表明し、日本の中心地帯をほぼ、掌握していた。

      残る敵は甲斐の武田勝頼と、中国の強敵、毛利一族であった。

      その毛利に対しては既に、備中の高松城を羽柴秀吉が攻めている。

    「風林火山」と、強さを誇った武田一族はもはやその勢いは無く、押し寄せる信長勢の

      前に、勝頼は天目山にて自決する。

      こうして、甲斐源氏の流れをくむ武田一族もここに、終わりを遂げるのであった。

 

      戦の終結を迎える頃ようやく信長は、明智勢と共に安土城を出立する。

    その時、茶の相手として、千の宗易や公家の近衛前久ら数人を同行させていたが、

    それほどにこの戦は信長にとって、余裕綽々たるのもであった。

      信長は白馬にまたがり、襟を立てたヨーロッパ調のマントをまとって行軍していたが

    その奇抜な姿に行く先々で人々の目は、釘付けとなっていた。

      馬上の信長は既に、武田の領地を配分する恩賞と、噂で聞いた雪に輝く、雄大な富士

      に想いを馳せるのであった。

 

      3月19日信長は、上諏訪の法華寺に陣を据える。

    武田信玄の、脅威にさらされて以来20年、宿敵を壊滅した信長はその夜、盛大な祝宴

     を催し、将兵達の労をねぎらうのであった。

     「日向守、手ごわいと思っていた武田も、思もよらぬ惨敗であったが、こたびの敗因をそちは、

   いかに思うか」

   「されば、武田は身内の離反に兵も集まらず勝頼は、戦わずして自害しておりまする故、

    重臣達の寝返りが敗因と思われまする」

     「例え重臣とは言え、負け戦と見れば脱落や思いもよらぬ裏切り者がでる、将たるもの常に、

    配下の心を掌握しておかねばならぬ。

      野望だけでは家臣は付いてこぬ、そこには天の理をまっとうする、大儀が必要じゃ。

    所詮、武田の風林火山は兵法の旗印、単なる戦術の御旗じゃ、それゆえ天下を治める事では出来ぬ。

      日向守、そちも重臣としてわしの天命をしかと、重く受け止めておくがよいぞ」

 

       4月12日一行は甲府をへて、家康の案内のもと駿河之国へ入り富士の裾原に出る。

       この裾原ではかつて、鎌倉幕府を開いた頼朝がその折、10万人規模のまき狩りを行

       なっている。

     また富士山信仰の篤い信長は、清洲城主であった頃、鬼門となる犬山の尾張富士に、

       厄除けと戦勝祈願をし、合わせ兵士達の戦意高揚を図っていた。

       天下統一をめざす信長は、富士の霊験にあやかる為この折に、将兵の軍事訓練と巻き

       狩りを広大な原野で行うのであった。

 

       その後信長は、白糸の滝や溶岩の風穴を見物し、富士を御神体とする浅間神社に陣を張り、

     茶会を開いた。

     亭主役は千の宗易、相伴は公家の近衛前久をはじめ重臣たちであり、信長は主客の席に座る。

     その時信長は天下平定後の、新しい世の構想を、打ち明けるのであった。

 

     「天下布武を掲げわしは、戦なき泰平の世を創る為、あらゆる既得の権益を打ち破ってきた。

      仏の教えを利用し、民百姓をたぶらかす邪教を潰し、商権に胡坐をかき、懐を肥やす商人らの座を

    廃止し、天下を掌握できぬ、お飾り将軍も追放してきた。
残るは、諸大名の牙を抜き、全ての

    軍事力をわしの下に置く。

      それに近衛、暇を持て余す公卿どもの、特権を無きものにする事じゃ。

      天下布武とは矛を納め、武器のいらない世を作ることじゃ。

      百姓達は田畑を増やし、商人達は自由に商売を拡げ、豊かな領地を諸国大名は競って創る。

    そんな、泰平の世にするのじゃ」

    「でぇ右府様、その構想の世は、何時頃になられまするか」

    「人間50年、わしが死んでからの事かもしれぬ」

    「ではどなた様がそれを、お継ぎ成されまするか」

     「たわけめ!死んだのちの事など、分かる筈があろうか、だがのう天下泰平を旗印とする者が、

    最後に成すであろう」

                     

       同席した者達は信長の構想に、動揺を隠しながらも皆、神妙に聞き入っていた。

       富士の浅間神社を後にその後も、家康の護衛のもと、心行き届いた案内で各地の名所を見物

     そのつど茶会を楽しんでいった。

       戦に明け暮れ、一度も心身を休める事がなかった信長にとってそれは、心に残る満悦

       の帰路となったのである。

       憧れであった神秘の霊峰、富士を見ることを目的とした凱旋の旅も終わり、4月21日、

     安土城に帰着する。だがその時既に信長はあと、40日の命と迫っていた。

 

      安土に戻ると直ちに信長は、家康を城に招き、誠意を尽くした警護の返礼に盛大な持

    て成しをすのであった。

    「浜松殿、駿河の名勝は肝に染み入ったぞ、今度は心ばかりの返しじゃが、堺の南蛮

     文化と京の雅を楽しまれていくがよいぞ」

      この時、接待は明智光秀が取り仕切っていたがその途中、高松城を攻めている秀吉から救援の要請が入る。

    「猿め、高松城攻めに手こずっておるようじゃのう。光秀、直ちに出馬し、双方力を合わせ毛利を一挙に

    壊滅せしめよ。

   その暁には出雲と石見の二国をその方に、与え参らすぞ」

    「さすれば、わが近江と丹波の所領は、お召し上げと言う事でござりましょうか」

   「光秀、これは先々南蛮と、交易の要所となる九州を平定する為の布石、行く行くは

     猿と共に九州を固めるのじゃ。それに、朝廷の権威も無きものとする故、これからはその方の、

   京での外交も不要となるのじゃ」

      光秀は過去、将軍足利義昭に信長を引き合わせた功労により引き立てられ、織田家臣の中で重要な地位を

    築いてきた。

      更に光秀は、京都奉行も勤めるなど、将軍や朝廷とも深くかかわりを持っていた。

 

    5月17日、家康の接待役を解かれた光秀は坂本城に戻り、出陣の準備に取り掛かった

      しかし、住み慣れた城との別れにその時光秀は、言い知れぬ寂しさを感じていた。

      そして行く末を失望した光秀は、想い悩んだ末ついに、決断するのであった。

  「朝廷の権威を無くす、破壊的改革を阻止せねば大混乱となるそれに、都落ちの生活ともなればもはや、

   生きる甲斐があろうものか、この身を捨ててこそ、浮かぶ瀬もあれと言うもの、幸い徳川も羽柴も身動き

   できぬ状況、これこそ神の計らい」

      坂本城を後にした光秀一団は丹波の、亀山城に集結し兵量米や、弾薬の準備を済ませ、出陣の時を待った。

    その間光秀は、大願成就の為愛宕山に参詣し細川藤孝と最期の歌会を催した。

      そこで光秀は、「時はいま、雨が下知る五月かな」と謀反の決意を歌うのであった。

 

    5月29日信長は、天下統一への最後の砦である、毛利を攻略する為、京都の本能寺に入る。

    本能寺は、鉄砲伝来の種子島の僧侶も管主を勤めるほど、種子島とは深い関係を持っていた。

    天下を左右する鉄砲の流通を握る事は信長にとって、重大な戦略である。

    その為上京の折には信長は、この本能寺を常宿としていた。

 

 

      そして運命の日の前夜、囲碁に嗜みを持つ信長は寂光寺の僧、日海上人と利玄を迎え、

    囲碁の対局をさせ観戦をするのであった。

      日海上人は、囲碁の世界では本因坊算砂の異名を持ち、信長の囲碁の指南役を務めていた人物である。

     「本因坊、久々の名勝負楽しみにしておったのじゃ、今宵はお主らの攻めの技をとくと、観せて貰うおうぞ」

   「恐れながら小心の愚僧、御前様の対極に日頃の力が発揮できるか、不安でござりまする」

   「何を申すか都で、天才棋士と言われているその方じゃ、あっけなく決着がつくであろうに」

       だがその対局は、伯仲した展開となり遂に、勝負が着かない三劫の状態となってしまう。

   「なんじゃこれは!お主達ほどの者が戦の前に、この様な結末になるとは何たる事じゃ」

    と不吉な手と言われる三劫の局面に信長は腹を立て、不機嫌に寝室へ引き揚げてしまた。

      だがこの時、天才棋士日海は既に、公家達の不穏な動きを察知しておりその為、勝負を捨て、

    不吉な予兆をそれとなく信長に、伝えていたのである。

                        

      6月2日未明ついに運命の時を迎える。

      予期せぬ光秀の、謀反の襲撃に信長は、暫く応戦するも多勢に無勢、もはやこれまでと覚悟し、

    欄丸と日海供に本殿に立て籠もった。

   「ハゲめ、その器で天下が取れるとでも思っておるのかこの、たわけも者めが!

     じゃがのう、そのたわけ者に牙を向かれるとはわしも、迂闊でおったわもはや、此処に至っては天命に従う

   のみじゃ、下天平定の夢も諦めざるを得まい!」

      「殿、ご無念で御座いりまする」

     「日海、光秀は女と坊主は切らんはず、最後の頼みじゃ富士の修行寺に、わしの首を祀れ。

    霊峰富士をわしの墓標とするのじゃ、これよりふじの頂から天下の行く末を見定めて行くぞ」

     「さすればこの日海、御本尊様の胴区に、御前さまのみしるしを隠して持ち出し必ずや、富士を仰ぐ地に

   安置いたしまする」

     「欄丸、わしを介錯し火を放て! この地下には火薬が蓄えられておる、これで統べてを、わしの夢も!、

   吹き飛ばすのじゃ」

 

      その後、轟音と共に本能寺は炎に包まれ、信長の下天平定の夢も、幻の如く消え去るのであった。

      本能寺の変より数日後、日海上人に託された信長の首は密かに、原宗安によって運ばれ富士のふもと、

    西山本門寺に安置されたのである。

      歴史の謎とされる本能寺の変、信長首塚の真相を知る柊の大木は、四百余年の歳月を経た今もなお、

    西山本門寺の裏山でひっそりと生き続けている。
                   
                                                     
                                                            平成201120 語り完了

         

                    静岡県富士郡芝川町西山の西山本門寺

     
                  西山本門の黒門                       本堂

     
                 信長首塚の碑                      樹齢450年の柊の樹

 


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