三味線弾き語りコーナーへは、下記のナビゲーションからどうぞ           

          
     徳川家康 ゆかりの町
                   藤枝白子町誕生物語    
                                                                お披露目公演の新聞記事
         

原 作 土屋 勉

脚 色 山本 ちよ

脚 本 白井 勝文

 

    東海道は藤枝市の、活き活きとした商店街、その一角にある白子町は、徳川家康

    から賜った由緒ある地名である。

    今からおよそ四百二十年前の戦国時代、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康などの戦

    国大名が、天下統一を目指して勢力争いをしていた頃のこと。

    その時四十一歳の徳川家康は、甲斐の名門、武田一族を滅亡に導きその恩賞とし

て信長から、三河,遠江,駿河の三つの国が与えられ、三国大名となった。

    1582年(天正10年)515日、家康はその功労のねぎらいに与かるため信長

    の招きで、城安土城におもむいた。

安土城滞在中は、明智光秀が接待役を務め、信長の手厚い歓迎の宴が、連日催さ

れた。その時信長は家康に、せめてこの折りにと、京の雅と交易盛んな大阪堺の、

遊覧を薦めるのであった。

 

堺で遊覧を終えた家康は六月二日。信長にもてなしの御礼言上の為、わずかな供を

従え、京都の本能寺に向かっていた。

家康一行が飯盛山にさしかかった時、土煙を上げながら一頭の早馬が突進してくる。

ひと足さきに京へ向かった、本多忠勝であった。

金箔漆塗りの豪華な籠の横に、ひらりと馬から飛び降りた忠勝は堰を切ったように、

家康に告げた。

「殿、一大事で御座います・・・信長様が打たれました! 本日未明本能寺にて

 それが!・明智光秀の謀反によりまする」

「何〜ぃ〜明智に!、信長殿が打たれたとな。う〜〜ん光秀は何ゆえに」

安土城ではあのように、酒よ、馳走よと、連日の宴で采配を振るっていた光秀では

あったが。謀反など、微塵も感じさせなかった光秀に、家康は想いをめぐらせた。

「いや、それどころではない、ここぞとばかり次には我が一行を襲うやも知れぬ。

それに信長殿が討たれたとなれば、統一まじかの天下も再び、動乱の世となって

しまう」家康はがっくりと肩をおとした。

「京の雅が見納めとなり、わしもここで、終りを迎える時がきたのか。じゃが、

明智の手に打たれるよりは、京都の知恩院に入りそこで、潔く腹を切ろう」

予期せぬ突然の事態で、弱気になった家康に、服部半蔵が進言した。

「殿、早まってはなりませぬ。伊賀を越え、伊勢湾に逃れる道がございます。

信長様の後を追うより、信長様の意思を継ぎ、天下統一の世をつくるのが、残され

た殿の御使命であり命を掛けてでも、伊賀越えを致しましょうぞ」

「なに、生き延びよとな。そうか、生きてこそ天下統一の実現と言うもの、遥か彼

方にともし火が見えるようじゃ。分った半蔵! あとは頼むぞ」

家康は目を細め、かみ締めるように深くうなずいた。

それを合図に、京都へ向かっていた一行は、伊賀を越えて鈴鹿の、白子に出る道の

りへと、向きを変えるのであった。

服部半蔵は、伊賀忍者二百人、甲賀忍者百人を集め、家康一行の守りを固めさせた。

それでも伊賀の山中では山賊に襲われたが、京都の豪商、茶屋四郎次郎が大金をばら

撒き逆に、賊たちを味方に引き入れ難を逃れた。

第一の関門であった伊賀越えを成し遂げた翌日、今度は二つに分かれた道に出くわす。

その道を前に家康はほほに手を当て、迷いに迷った。

「さて半蔵、分かれ道だが、どちらに進めばよいかのう」

「殿、左の道は尾張から三河に逃れる道で御座いますが既に明智の、追討下知が回って

いる恐れがあります。他方右の道は加太越えと申しまして、伊賀と鈴鹿の境にある峠を

越える難所で御座いますがそれゆえ、発見される怖れはまず無かろうかと存じます」

「よしそれでは難儀とは思うが、加太越えにいたすぞ」家康は決断を下した。

狭くて険しい登り坂下り坂、道なき道をかき分け艱難辛苦の末六月六日、ようやく鈴鹿

の白子まで、逃げ延びる事ができた。

 

難所と言われた加太峠も、三日間かけてやっとの思いで無事に越え、ほっとした家康に

はたまた危機が訪れた。 「待て〜〜!そこへいく駕籠」

荒々しい声に振り返れば、木立の中にそこかしこと、人影がうごめいている。

またもや山賊の集団に、見つかってしまったのである。

襲ってくる山賊と伊賀忍者達が争っている間に、危険を感じた家康は駕籠を降り、無我

夢中で逃げ出した。 そしてたまたま畑で麦を刈っている百姓に助けを求めた。

「訳あって、盗賊に追われている、すまぬがしばしの間、身を隠してはくれぬか」

この時、声をかけられたのが小川孫三であった。

孫三はひと目見ただけで、家康が放つ威光に只者ではないと悟り「かしこまりました」

と頭を下げ、野積みされた麦わらの中に家康を隠れさせた。

そして、何食わぬ顔で麦刈りを続けたがまもなく、大勢の盗賊達がドサドサと現れた。

「一人侍がこちらへ、逃げ込んでいるはずだ、どこへ隠したか正直に申せ!さもなくば

家捜しするぞ」と脅しを掛けてきた。

「あっしゃ〜 朝からずうっとここで、野良仕事をしておりやすが、誰一人こちらには

お見えにはなりませぬ。なんなら気の済むように家捜しでも、何でもしてくだされ」

と孫三はすずしい顔で応えた。 「確かにこちらに来たはずだが」

そう言いながら盗賊達は、家の中をくまなく捜し回ったが、見つかるはずもない。

その時孫三は、腰を伸ばしながらふと、思い出したかのように言った。

「そう言えば、さっき裏街道を一人、向こうへ駆けて行くお侍さんを見ましたが、

もしかしたら、そのお方かもしれませんな〜」

「それだ!なぜもっとそれを早く言わん。あの街道を走っていったのだな。よッし! 

それっ追うんだ」と、盗賊達は一斉に駆け出していった。

ようやく日が暮れた頃孫三は、麦わらの中に隠れている家康に、盗賊達が去った事を

告げ、家の中に招いた。そして、粗末ながらも、心づくしの夕餉でもてなしをするの

であった。

孫三の機転で危機を乗り越え、腹も満たされ一息ついた家康が、興味深く家の中を見

回わしてみると、古い鎧兜が床の間に飾られていることに気付いた。

「農家だというのに、どうしてこの様なものが飾ってあるのだ」

と尋ねる家康に孫三は、先祖が源氏の家来であったことから、源氏にまつわる

「ヌエ退治」の話を聞かせた。
          
      「ヌエ退治と言うのは、頭は猿、胴はタヌキ、手足はトラ、尻尾は蛇に似ていると言

う、得体の知れない怪獣を、源頼政様が退治したと伝えられる話です。これは源氏の

豪傑ぶりを知らしめるものであり、わが小川家もその、源氏の流れ汲むものである」

誇らしげに語る孫三の話を聞いた家康は。

「我も同じ源氏の流れであり、この者ならば信用できる」と感じ取った。

そこで家康は身分を明かし、事の経緯を話し改めて、座りなおして頼み込んだ。

「この、天下動乱を治める為どうしても岡崎城に戻り、兵を立て直したいその為に

も、力を貸してくれぬか」

家康の正体を知り、腰を抜かさんばかりに驚いた孫三は襟を正し、かしこみ申し出た。

「徳川様、陸路はいずこも危険かと思われます。手前は櫓漕ぎを心得えておりまする

故、今宵のうちに急ぎ船で、常滑にお渡りになっては如何で御座いましょう」

「それは有り難い、明朝ともなれば先ほどの盗賊達が再び来るやもしれぬ、幸い月夜

も明るく、我らに味方をしている。手数をかけるがよろしく頼むぞ」

家康は大いに喜び、大きくうなずいた。孫三はその夜のうちに、白子の若松浦から船

を出し、伊勢湾を横切り知多の、常滑を目指し漕ぎ出すのであった。

「徳川様、ここまでくればもうひと安心で御座います。ご領地の三河大浜までは目と

鼻の先、今宵は成岩(ならわ)の寺で、長旅の疲れを癒されては如何で御座いましょう」

「孫三、こたびは、一方ならぬ世話となったが、この恩は生涯忘れぬぞ。困った時は

わしを頼ってくるがよい」

成岩(ならわ)の常楽寺で一夜を過ごした翌日家康は、明智討伐の態勢を整えるため急

ぎ、岡崎城に向うのであった。

 

大役を果たした孫三が、意気揚々と白子にもどると、城主の神戸信孝が、家康を逃が

した者の厳しい取調べを始めていた。

驚いた孫三は、取る物も取りあえず妻子を連れ、夜逃げ同然に白子を抜け出した。

とは言えどこ行く当てもなく、おのずと孫三の足は家康を頼り、岡崎城に向かって

いた。 家康と再会した孫三は、白子での事態を話し、助けを求めた。

「徳川様もう私は、白子には戻ることはできませんどうか、徳川様の領地で余生を送

らせては、頂けませんでしょうか」

ガックリと肩を落とした孫三を、労わる眼差しで家康は語りかけた。

「そうであったか、わしとの関わりでその方に不憫をかけ、恩が仇となってはわしも

心苦しい。う〜ん そうだ!雪も降らず余生を過ごすには、うってつけの所があるぞ。

新たに領地となった駿河に田中城がある、その藤枝宿の、芝間の地がよかろう」

「徳川様ありがとう御座います。これで私も行く先、明るい希望が持てます。

でぇ〜、ついでと申しましてはなんでは御座いますが、白子は伊勢型紙発祥の地、誇り

ある郷里は忘れがたきもので御座いますしかるに新天地を白子と名づけたいのですが」

「さようか、そちも生まれ故郷を離れさぞ、心残りであろう。だがのう、わしにとって

も白子は忘れがたき地名じゃ、なぁ〜孫三」 「は〜〜恐れ入ります」

「ではそこを伊勢の郷里と思い、地名も新らたに白子町と名づけ代々暮らす事を許すぞ」

孫三は家康の志を有り難く受け取り、早々芝間の地に家を建て、その地を白子町と名づ

け暮らし始めた。

こうして藤枝の宿に、家康から賜った白子町が誕生するのであった。

 

当時、芝間の地は、雑草が生い茂るだけの寂しい所であったが、孫三の熱心な開墾によ

って土地は生まれ変わり、大勢の人達が移り住むようになった。

その後、白子町の人々は畑を耕し、商いにも励み、活き活きとした町に大きく発展させ

たのである。 

盗賊に追われ、孫三に助けられてから四年後の1586年(天正14年)、家康は居城を

駿府城に移した。

そしてその年の夏、久しく孫三と再会した家康は「諸役御免の朱印状」を授け改めて、

伊賀越で九死に一生を得た恩義に、報いるのであった。


三味線弾き語りコーナーへは、下記のナビゲーションからどうぞ          

                              管理者ポリシー      このHPの特徴

 パラン・ダーマへようこそ 各コーナーへは、下記のナビゲーションからどうぞ。迷子になったらホームに戻って下さい