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静岡市&清水市合併記念作品 原作 杉山雅子 脚本 白井勝文
<清水次郎長義侠伝>
次郎長と咸臨丸事件
花の次郎長三人衆 ああ梶原景時公 ああ信康 青葉の笛
時は幕末慶応2年(1866)、薩摩・長州が同盟し、尊皇攘夷の声を高め幕府を、倒そうとする運動が各地で、
繰り広げられた。幕府はこれに応じて、長州制圧の軍を起こすが惨敗し、日に日に衰える幕府の運命は風前の灯となっていく。
明治元年(1868)、新政府が誕生し日本は、新しい夜明けを迎えた。この、新政府に反発した旧幕府軍は、会津に官軍を迎え撃ち戊辰戦争となるが、武家社会から近代国家への大きな
変革に人々は動揺し、駿河一帯も不穏な空気に包まれていた。その年の3月、侠客として名高い清水の次郎長は突然、駿府町差配役判事、伏谷如水から呼び出しを受ける。
次郎長は何事かと、不安を隠しながらも駿府代官所に、赴いた。
「その方が次郎長か」
清水の次郎長「へい。次郎長こと清水湊の長五郎と申しやす」
「わしが判事の伏谷如水じゃ。その方の噂は以前より、聞き及んでおるぞ」
「おそれいりやす」
「本日、そちを呼び出したるは、余の儀にあらず。その方に、街道警護役を申し付ける」
脛に傷持つ次郎長は、思いもかけぬ言葉に驚いて顔を上げる。
「あっしが警護の、お役人に? とっとんでもござんせん。何かの、お間違いでござんしょう」
「黙れ。お上に間違いの、あろう筈がないわ」
「へい、しかし・・・・」
「次郎長。その方はこの駿府はもとより広く、東海道筋の事情に詳しいと、聞き及ぶ。
それ故そちこそが、警護取り締りを任せるに最も相応しき者と、考えてのことじゃ。
どうだわしに、力を貸してはくれぬか」
「勿体のうござんす伏谷様。・・・・あっし如きがお役人になったらお天道さまに、申し訳が立ちません。
せっかくのお言葉ではございやすがお断り致しやす」「うむ、わしが見込んだ通りの、男よ」と、如水は呟くと。
控えている役人より、書状を受け取り次郎長の前に、広げる。
「次郎長!これを見よ。その方が天道に申し訳ないと申す罪状がこれに、認(したた)められておる。
天宝10年よりそちが、足を踏み込みし裏街道での罪の数々。わしはそれを承知の上この
大役を、任命致したのじゃ。
それにこの役を引き受ければ、これまで犯した咎一切を、免じてつかわそうぞ」
「伏谷様。お言葉ではございやすが、そいじゃあこの次郎長は罪逃れに、お役人の手先になったと一生、笑われまさあ」
伏谷如水と次郎長「次郎長。己を捨ててよく考えよ。今は徳川も、薩摩も長州もなく天子様を、お迎えして新しい時代を、築かねばならぬ。 天子様のために尽くそうとは、思わぬか!」
「天子様? なんで、こんなあっしが天子様のお役に立つと、申されるんで・・・」
「清水の湊を守り、駿府・東海道の治安を守ることは天子様の、お役に立つことであるぞ。
これを期にそちも、生まれ変わったつもりで世のため人のために、尽くしてはどうだ」
如水の熱意に打たれた次郎長は、生まれ変わる転機となるその言葉を深く、肝に銘じる。
そして襟を正し、街道警護役を仰せつかりその後7月まで、駿府・東海道の治安に務めるのであった。
その頃江戸では官軍と、旧幕府の彰義隊が激しく戦い大混乱となっていたが、次郎長が取り締まる駿河一帯は平穏な日々を、
送っていた。
上野で官軍と戦う彰義隊
だがその、穏やかな日々を打ち破る大事件が、突如として起こる。8月半ば元、海軍副総裁榎本武揚は、彰義隊の生き残りや同志と共に軍艦七隻で、品川沖から新天地を求め北海道へ向かったが、大嵐に見舞われ、時化の海を漂う。
その内の1隻咸臨丸は、帆柱が折れ補修の為、清水の港に入るがその修理中に、悲劇は起きた。
9月18日突然、三保沖に三隻の、軍艦が現れ一斉に砲撃を、仕掛けてくる。
砲撃される咸臨丸応戦かなわずと咸臨丸は、白旗を掲げたが官軍は、容赦なく船内へ、斬り込む。
多勢に無勢、激しく斬り合うも皆、殺され更に、遺体は海に、放り込まれた。
突然の大砲の音に、飛び出した次郎長はその襲撃を、目の当たりにするが官軍の、惨い仕打ちに拳を、震わすのであった。
清水の町は上を下への大騒ぎとなり、札(ふだ)が辻には厳しい罰則の、高札(こうさつ)が立つ。
「賊軍、咸臨丸の屍に、触れるべからず」
「咸臨丸残党を、匿うべからず」
「右掟を破りし者、厳しく処罰」
食糧と資材を買うため既に、陸に上がっていた船員達の捜索も始まり、港に近い次郎長の家にも役人の手が入る。
「咸臨丸、残党取り締まりの者だ。次郎長はいるか!」
「へい、あっしが、次郎長でございやす」
「咸臨丸の残党を、探しておるよもや匿っては、おらぬであろうな」
「旦那あっしゃ,この前(めえ)まで警護役を、仰せつかった身でございやす。信じておくんなせえ」
「念を押しておくが、一味を匿えば同罪それに、港に浮いている屍は賊軍である指一本、触れてはならぬ、
申し付けておくぞ!」役人達は目の色を変え、一人も逃すまいと町中を、虱潰しに探し回っていた。
その後も港では、厳しい見張りと厳罰の掟に誰一人、波間に漂う遺体を、埋葬する者はなく
人々はただ、手を合わせるだけである。
とうとう漁師達はその、異様な有様にやり切れず次郎長の所に、泣きついてきた。
「お上(かみや)はいつまであの死体(してえ)を、放っておくずら。死体(してえ)が腐ってくりゃあ、漁どころじゃねえ」
「なあ小政さんよお親分さんに、何とかしてもらうよう、頼んでおくんなせえ」
「おめっちゃ厳しい、おっ達しを見てねえのか!それとも親分が、お縄にかかっても、ええとでも言うのか!」
「と、とんでもねえ。おらっちゃ親分より他、頼る人はいねえ。藁にも縋りてえ気持ちで、来たんだ」
「そりゃ期待(きてえ)はづれだあ親分は代官所の、伏谷さんて偉(えれ)えお方に、認められたんだぜ。ご法度に触れる
ような事(こた)あ、する訳(わきゃ)あねえ。」「でも親分ならきっとええ、智恵を出してくれるに違(ちげ)えねえ。とにかく、頼みまさあ!」
「駄目な物は駄目だ。親分も言ってなさったが今に大潮が、外海に運んでってくれるずらそれまで、待つんだなあ」
と、小政は冷たく漁師達を、追い返すのであった。
それから半刻(とき)後駿府に縄張りを持つ、安東の文吉の所へ、所用で出かけた次郎長が戻って来た。
「親分お帰り(おかん)なせい」
「小政今すぐ、皆を集めてくれ」
「親分、怖(こえ)え顔をなさっておりやすが何か、ありなすったんでごぜいやすか。」
「くわしい事(こた)あ皆が、集まったところで話す、でえじな用だ、すぐ集めろ」
「へい、判りやした」
突然の呼び出しに何事かと子分達は、次郎長が話し出すのを不安げに待っている。
「急に集まってもらったが他でもねえ今、文吉親分の所に行ってきたがそこで、草鞋を脱いでいた会津の、
小鉄一家の者(もん)から話を聴いた。会津じゃ官軍に殺された何千もの死体(してえ)があちこちに、うちゃられてるそうだそりょう、カラスや野良犬が
食い散らかし町中(まちなか)も、死体(してえ)の匂(にえ)えで飯も喉を通らねえとの事よ。・・そりゃあ地獄じゃね
えかぁー。俺ぁ今日まで迷いに、迷ってきたがその話しょう聴いて、覚悟したぜ」「まさか親分、港の死体(してえ)を、引き上げるつもりじゃ、ありやせんねえ」
「何―にその、まさかを、やらかすんだ!幸い今夜は月の出も遅え、月明かりもぼんやりっと照らしてくれるて寸法だ、
今夜しかねえぞ」「まっ、待っておくんなせえ。港や浜にゃあ厳しい、見張りがいるんですぜ」
「でえ丈夫だここに、見廻りの時刻が調べてある。子の刻の見廻りが済んだ後、丑満つまでにゃあ仕事を、片付けろ」
「親分!あっしゃ反対(はんてえ)でっせ」
「仙右衛門、どうしてだ」
「たとえ今夜、見廻りの眼を逃れても必ず、次郎長親分の仕業と判りやす。親分に縄目が付く
ようなこたあ、させられねえそれに、清水一家四十五人の子分の行く末は、どうなるんでえ」
「仙右衛門俺の、弱えとこを突きゃがるなあ。正直言やあその事が最後(せえご)まで、二の足を
踏ませてたんだ。だがなあ俺(おりゃ)あもう、我慢ならねえ。大政お前(めえ)なら、判ってくれるな」
大政「へい、親分が仰るからにゃあ考えに、考えた末のこと。あっしゃー親分に、従(してげ)えます。
仙右衛お前(めえ)は、親分の気性は良く判ってる筈じゃねえか。 曲がった事(こた)あ大(でえ)嫌(きれ)えそれに、
一度やろうと思ったこたあ誰が何と言おうと、やり通す。そんな親分に惚れて、保下田の久
六をやっつけたり荒神山で、暴れ回ってきたんじゃあねえのか」
「ちょ、ちょっと待ってくれ、大政兄い!それに親分も」
「何だ!・小政」
「思い出しておくんなせえ親分。切った張ったで役人に追われ二十五年今、やっと清水で一家を、構えられたんですぜ。
お願えだどうかあの、仏さんのこたあ目を、瞑っておくんなせえ」子分達の意見が二つに割れるがそれまで、黙って聴いていたお蝶が堪えきれずに半腰を上げ、
言い放った。
「なにが瞑ってておくんなせえだい! 私しゃあんた達ちょう、見損なったよ。親分はねえ
一から十まで、胸算用あっての相談さねなぜ親分を、信用しないんだよ」
「お蝶お前(めえ)は、黙ってろ」
お蝶
「いいえ、言わせてもらいますよ。私ゃねえ、お侍さん達の亡骸をいつお前さんが、引き揚げ
ると言い出すのか、待っていたんですよ」
「俺(おりゃ)なあ遺体(いてえ)が海に、投げ込まれるのを見た時、必ずこの手で、葬って差し上げると誓った
んだ。例(たて)え見知らぬ者(もん)でも、そこで仏となりゃあ、その土地の者が供養するのが人の、情け
ってもんだ! それを無くしちゃちゃあ人間、お終めえだぜ!」
「親分!判りやした」 「判りやした!」
次郎長の言葉に胸を打たれた一同は、用意周到に手はずを整え、夜を待った。
子の刻の鐘を合図に三艘の、船をそっと漕ぎ出し冷たい海の中から七つの、遺体を引き揚げる
が遺体は既に、異臭を放っていた。
船はそのまま巴川を遡り埋葬の、穴が掘ってある向島に向うそして、遺体はそこに埋められ梅
蔭寺の、宏田和尚の読経がひそかに流れる。こうして次郎長と子分達は首尾よく、埋葬を済ま
せ、無残に捨てられた船員達の冥福を、祈るのであった。
九月の終わり頃はやくも、駿府藩の役所より次郎長の所に、出頭命令がくる。やはり来たかと、
覚悟を決めた次郎長は、駿府城に赴き少参事、松岡万の取り調べを受ける。
「本日取調べの儀は、清水の港に浮いておった屍、不明の件である。
見廻り役の届けによれば、咸臨丸船員の屍が、一夜のうちに失せたと、それに、手下の者が
向島に穴を、掘っていた事も認められておる。更に町中(まちなか)では、次郎長を措いて外にできる者
はおらずと噂も、流れておるそうじゃがその方、身に覚えがあろう」
「へい、あっしが引き揚げ、葬らせて頂きやした。」
「次郎長!遺体には、触れてはならぬと高札を立てた。それを破っての行いその方朝廷に、
楯突く気か」
「めっ、めっそうもありやせんあっしは只、人の道として当たり前(めえ)の事を、しただけでごぜい
やす」
「だまれ! それでは掟が、人の道に反しておるとでも、申すのか」
「憚りながらそうじゃ、ございやせんか。・・白旗を揚(あ)げ、降参なさったお侍えさん達を斬り殺し死体(してえ)を、
海に投げ捨てた官軍の慈悲も、情けもねえ所業をこの目で、見ておりしやした。これが人の道に、叶った事でごぜ
いやすか。こんな、無体(むてえ)な仕打ちじゃあ仏さんも浮かばれねえせめて、埋葬だけはしなきゃあならねえと
あっしゃただ、供養する想(おめ)えで、やりやした」「では朝廷に、楯突くものではないと、申すのじゃな。」
「へい、これこそが、止むに止まれぬ仁義ってもんでごぜいやす」
「だがそのほう高札(こうさつ)には、掟を破りしもの厳罰に処す、とも定めておるそれを、承知の上での事であろうな!
・・ むろん、手を下した子分達も厳しく、罰っせねばならぬ」「まっ、まっておくんなせえ。子分達(たちぁ)あ、こっ・こっぶん・」
「子分がどうしたと言うのじゃ?」
「松岡様、子分達(たちぁ)あ皆「親分が,お縄になるような事(こta)あさせられねえ」て大(おお)反対(はんてえ)しやした。
その反対(はんてえ)を押し切りあっし一人で、決めた事でございやす。子分達にゃ責めはねえはずどう
か、仕置だきゃあしねえで下せえ。お頼み致しやす。・・・
「そうであったか。そうは言っても次郎長、咸臨丸の船員達は新政府の軍艦を盗み、反逆を起
こさんとする賊軍であるぞ。それ故掟を破りし者、厳しく処罰するは当然のこと」
「お言葉ではございやすが共に、主君のため官軍となり賊軍となって皆、戦っておりやす、が、
仏様になりゃあ、敵も味方もございやせん。仏になった者にゃあ罪はねえ筈せめて、骸だ
きゃ手厚く葬ってやらにゃあ清水港の、恥でさあ!。・・・あっしゃ今でも、悪(わり)いことをしたたあ、思っちゃあ
おりやせん」「だがのう次郎長そのほうが、何と申そうが掟は掟じゃ。掟を破りし者を、見逃しておっては
世の中は治まらん。わしもそれでは御役目が、務まらぬ。判っておるな」
「松岡様わしゃあ例(たて)え、この世の掟で裁きを受けようとも世間様が、次郎長を認めて下さりゃ
それが、本望ってえもんでさあ。さっ、すっぱり、お裁き下せえ!・・・・・・・」
「まっ・待て待て急くではない、まだあるのじゃ。・・・ところで浜の漁師達の話によれば、清
水の港は大潮の時、潮の流れがきつくなるそうじゃがそちは、どう思うか?」
「へい。潮の流れでごぜいやすか?・あっしが思いますにゃ外海を、三保の岬が隔てており湾も深く、入り込んでおり
やすんで、そんな事(こた)あねえ筈でございやす」「それは腑に落ちぬな。漁師達がその方の家に、遺体の始末を頼みに行っておる筈じゃその時
小政、とやらが「そのうち大潮が外海に、運ぶだろう」と言って漁師達を、追い返したと聞
いておるが」
「松岡様、そっ、そんな事までご存知で」
「わしは元、いかさま壷振りの言うことは、信用せぬやはり。漁師達が言っておるように、清
水の港は大潮の時、潮の流れがきつくなる。うー その時遺体は外海に、流されたかもしれぬのう」
「ま、松岡様〜」
「次郎長お上には、大潮に流されたと、届けておく。よってその方は無罪じゃ」
「松岡様、有難うごぜいやす、有難うごぜいやす。この次郎長ご恩は生涯(げえ)、忘れは致しやせん
きっと、向島の仏さんも、喜んでおられやしょう」
「次郎長こんな、非人情な掟はいつまでも続くもんではない。掟が解かれたらわしにも向島へ
線香を、あげにいかせてくれ」
かつて幕臣でもあった松岡万は、さらし者にされていた勤皇の志士の遺体を盗み、手厚く埋葬したほどの武士の鏡。
・・・死ねば仏と言い切った次郎長の、思いに打たれた松岡はその、男気に劣らぬ裁きを、するのであった。
年改まり、雪解けを迎えた会津の春。折しも次郎長の、咸臨丸遺体引き揚げの噂が流れこれに、
勇気を得た会津の人々は遺体埋葬の、嘆願書を出し続けついに埋葬禁止令は、解かれる事にな
った。
こうして歴史に隠された埋葬禁止令に、決然と立ち向かった次郎長はその後、山岡鉄舟の教え
を受け、社会事業に生涯を捧げた。
明治26年(1893)6月12日、次郎長は74歳で自ら造った船宿[末廣]にて大往生を遂げたが今なお、多くの参拝者が
絶えない清水の名刹、梅蔭寺に祀られている。平成15年6月24日
咸臨丸の前にて 梅蔭寺の次郎長のお墓の前にて
杉山雅子先生 白井勝文
<平成15年6月12日末廣にて初公演>
伏谷如水と清水の次郎長交流記念碑建立3周年記念祝賀会
津軽浄瑠璃節<次郎長と咸臨丸事件>
時 平成16年2月22日(日)
式典午前10時〜 津軽浄瑠璃節 午後13時〜
所 千葉県市原市鶴舞公民間
問い合わせ TEL0436−92−0149(塚原)
参加無料
時 平成16年11月19日(金)午後1時半〜
所 南総中学校体育館
この度私は、郷土の歴史人物顕彰供養シリーズの第5弾として清水の次郎長物語を完成いたしました。 内容は、一般的に侠客のイメージである清水の次郎長が、後世は立派な社会事業家になるのですがその、 また時代背景も、幕末と明治元年をまたがった日本が歴史的に大変革する時でもありました。それだけに 一口で言えば、ちょん髷対散切り頭、刀対鉄砲、袴対ズボンと言ったいわゆる武家集団と近代軍人との戦い その時の薩摩、長州軍は帝国主義侵略国の尖兵として圧倒的に有利な近代兵器で幕府軍を制圧し、敗者の この作品は埋葬禁止令に決然と戦い、会津の惨劇極まりない状況を救う動機ともなった、次郎長の仁義と人情 史実に関しては実際の歴史事実でありますが、ドラマの細部に関しては創作となっております。また次郎長はこ 最後に今回の作品制作にあたりましては、杉山雅子先生の絶大なる御協力をいただきました、その感謝の念が 平成15年5月14日水曜日 |
<静岡市清水の梅蔭寺にある次郎長像>
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