<人間を五頭立ての馬車に例えますと、五頭の馬はそれぞれ、眼、耳、鼻、舌、皮膚を表し、心は手綱であり、知性は御者を意味し、そして魂が馬車のオーナーに例えられます>
それではまた来週の先生とのご講義を楽しみにしております。
と、この様なご感想を頂きました。
「御両親さんにも読んでいただきたい」とありましたが、御両親さんもそうですが、これはすべての人々に、子供の時からこの様な、人間のメカニズムの原点を、知ってもらいたいものです。
車でも免許証を取るためには、運転技術だけでなく、車の大まかな構造の学科試験があるのと同じで、人間が肉体と言う乗り物に乗って人生を生きていくには、その肉体の物質的と精神的な両方のメカニズムの関連性を十分知る必要があるのです。
しかし実際には、ほとんどの人はそんな肉体のメカニズムには全く興味もなく、こんなに重要な事でありながらも、知ろうともしません。
いや、知ろうともしないよりも、気付きすらしていないのが現実です。
その為それらの人は、肉体の主人公またはオーナーが魂であることすら認識してないのです。
ただ五感(眼、耳、鼻、舌、皮膚)から刺激を受け、その刺激で心に想いを抱き、肉体から引き起こされる欲望に突き動かされて生活しているのが、人間生活の実態なのです。
主人公としての魂が、馬車を操る肉体の司令塔である頭脳に、魂としてやるべき責務、いわゆる人間としてどう生きるべきか、生きる目的は何か、その為には何をなすべきか、と言った生き方の根源的なる指示を、司令塔に全く指示していないのです。
ほんらい肉体の五感感覚器、心、頭脳は、魂がその目的を達成する為に、駆使する道具なのです。
しかしその駆使すべき道具は、一応自律した生体ロボットであるため、自分で生命を維持する為には、自分で思考し行動して、命をつなぐだけの自律行動は魂が無くてもできるように、精密に作られているのです。
しかしこの精密に作られた生体ロボットも、年数がたてばそれぞれの器官の機能は衰退します。
その衰退の最も激しい所が頭脳なので、その頭脳の認識力が低下して、認知症となってしますのです。
しかし、魂が自己の本質であると考える人は、先日のブログにも書きました。
<普段から肉体と魂は別であるとと言った認識を持っていれば、決して認知症にはならないのです。
魂が主体となって生きている人は、肉体の機能を魂が精神修行の為に使っており、その魂のエネルギーは頭脳をコントロールする力を働かせているからなのです>
要は、この部分が一番重要なのです。
この、ちょっとした魂としての気づきが、一生の生き方を左右するほどの重要なポイントなのです。
Mさんも気付かれました。
正しいでしょうか?なんて言う、そんな程度のものではないのです。
人間の本質は魂であると気づくことが、人間として生きる第一歩である、それほど重要な認識なのです。
しかし、ほとんどの人は、自分が魂であると認識せずに、一生を終えているのです。
つまりほとんどの人は、生体ロボットに閉じ込められ、自律した生体ロボットに好き勝手に動きまわされ、翻弄させられて、生体ロボットの一生に付き合っている、と言うことなのです。
私と共にギーターの真髄を求め、一生懸命インド哲学を学んでいる人から、次のような質問がありました。
先生、プロラトニックラブとクリシュナとゴーピーについて、十分に話ができなくて残念でした。
しかし、肉体と魂の段階までの話まではよくわかります。 また今度話をするのを楽しみにしています。
この女性には、まず始めとして、昨日のブログで書いた人間の基本構成を説明しました。
その要点として次のことを話したのです。
1−人間が生きている物質次元では、その人の行動を頭脳が司令塔として働く。
2−人間には五つの感覚器(目、耳、鼻、舌、皮膚)があり、器官からは美しい、美味しいなどの感覚が生じる。
3−それぞれの感覚器で生じた感覚で、こんどは愛情、喜び、悲しみ、不安、などの気持ちが心にわく。
4−心に湧いた優しさ、思いやり、素直など、心にわいた想いが長年積み重ねられ、今度は魂に刻まれる。
ここで重要なことは、物質的人間として生きている人は1〜3までの領域の中でしか、生活を営んでいない、と言う事なのです。
一般的に言われているプラトニックラブは、哲学的解釈からすればそれは、物資的肉体次元の事象なのです。
哲学的には、プラトニックラブは魂の活動としての愛の交歓(ラサ)を意味するものなのです。
それは必ずその人が解脱の境地であるモークシャに達していなければ、それは肉体次元である心で妄想をかき立てるだけの、見せかけのプラトニックラブなのです。
この解脱の境地(モークシャ)に達するには以前8月18日に、宗教の救われ方で書きました。
1−宗教道徳倫理などの義務(ダルマ)を果たす。
2−社会活動をして利得(アルタ)を得る。
3−享楽(カーマ)を楽しむ。
4−解脱(モークシャ)の境地を得る。
この四つの段階を正しく経てきた人だけが、持つことのできる、肉体的動物欲望を完璧にそぎ落とした本物の精神的愛情がプラトニックラブなのです。
当然そこには、その人の人生で醸造されてきた個性があり、その熟成された精神的個性でもって、精神愛が交わされるのが、プラトニックラブなのです。
また、この愛の交歓(ラサ)は、同じ種族どうしで交わされるものであり、ペットとの愛情交歓はラサとは言わず、それはまだ物質次元の心で沸き起こる愛情段階なのです。
そしてまた、人間世界で一般にかわされる恋愛感情での愛の交歓もラサとは言わないのです。
プラトニックラブにおいては、肉体的動物欲望を完璧にそぎ落とした感情とお互いが交歓しあう、精神的に確立された個別性が必要なのだからです。
そして、人生をとおして、四つの宗教の修行を成しながらも、人間の純粋性を保ち、精神哲学まで意識を昇華した人だけが、人生の醍醐味としてのプラトニックラブを楽しむ事ができるのです。
この境地に行けば死後は当然、クリシュナとの精神的愛の交歓(ラサ)を、交わす事ができるのです。
これらをまとめてみるとプラトニックラブとは。
1−解脱(モークシャ)の境地にあること。
2−すべてが魂の精神的次元であること。
3−精神的個別性が確立されていること。
以上この、三つの条件をみたしてこそ、本物のプラトニックラブなのです。
この教えはバガヴァッド・ギーターにはなく、ギーターを超越たシュリーマド・バーガヴァタムに説かれている真理なのです。
Sさんとは知り合ってからまだ二カ月しかたっておりませんが、これまでも何回となくメールを下さり、以前11月25日にも質問をしてくださり、このブログでも紹介させて頂きました。
そこでのメールからも、どんどん意欲的にギーターを学ばれている姿勢が伺われますした。
そんな素晴らしいSさんからのメールをご紹介いたします。
先月の11月30日に、友達の紹介でカナダに住んでいる方とインド哲学やクリシュナについて、スカイプで話をする事になりました。
その方も、精神的な話には大変興味があるようで、私の話にも素直に受け入れてくれる感じが伝わってきました。
しかし、その後メールで次のようなご質問がありました。
先生、昨日の初講義はとても楽しかったです。
この様な質問をされているこの方は、クリシュナの真実を観ているのではなく、クリシュナの教えを基とする宗教団体の実態を肌で感じてその感じをもって、クリシュナのイメージとしているのです。
従ってクリシュナ自体の真理とは全く違った側面から、クリシュナを捉えているのです。
クリシュナの実態は、全知全能の真理、至高至福の歓喜、永遠不滅の存在、これら三つをすべて同時に兼ね備えた(サッチダーナンダ・ヴィグラハ)の存在なのです。
つまり、クリシュナの教えを利用してさまざまな活動をしている、宗教団体の活動自体とは全く無関係なものである、と言う事です。
クリシュナの実態と、その宗教団体の活動実態はまったく別物であり、それを混同して捉えることは完璧に間違いなのです。
事実、私とお話をしている時は初対面にも関わらず、この方にとっては時間がたつのを忘れるほど、至福の時であり、喜びに浸っていたひと時であったはずです。
そして、初対面でのお話でも、この方がもっていた疑問も晴れ、その夜は安らかに眠ることもできるようになったのです。
言うなれば、私がインド哲学バガヴァッド・ギーターの話をするのは、この方はクリシュナと直に話をしているのと同じことなのです
それはバガヴァッド・ギーターはクリシュナの御言葉であり、その話をする私はバール・クリシュナ、つまりクリシュナから使命をうけた降臨者だからなのです。
教えはその人の全人格そのものです、その人の人格によって教えはどのようにも解釈できてしまうのです。
つまり教えの教義よりも、それを説くその人物その者の精神性の真価を見抜くことが大事なのです。
私の教えの原理原則は、人を集めず、お金やお布施を求めず、去る者は追わずなのです。
そしてこの人に私は、人に頼ることなく自分で自立する自主独立と、他者に依存することなく自らを尊ぶ、独立自尊になることを求めるのです。
そんな精神的に発展する学びこそが、バガヴァッド・ギーターの真の学びなのです。
先日、バガヴァッド・ギーターを学んでいる生徒さんから次のような質問がありました。
先生、質問です。
いま、草食男子ってよく言いますが…
細い男の子、増えているように感じます…
体形で言えば、サットゥバなんですが…。
そう言うタイプが、最近ふえていることと、世の中の流れって、何か関係があるんでしょうか…?
またお会いしたときでも良いですが、先生のご意見が聞きたいなと思いました。
この回答としては、物質次元の観点と精神的次元の視点の両方の観点から観る必要があります。
創造主神であり至上主神であるクリシュナは、この宇宙における全ての存在を、物質エネルギーと精神エネルギーの二つのエネルギーで創造されております。
自己そのものである魂は精神エネルギーであり、その魂の修行をするために創られた人間肉体は物資エネルギーなのです。
そして、それはそれぞれは、物質と精神と完璧に独立した存在なのです。
しかし、哲学的思考をもっていないほとんどの人は、肉体も魂も同一視しており、そもそもそこからして全ての真理が、理解不能の状態に置かれてしまうのです。
とうぜん生理学的にはその原因は環境ホルモンによる影響である、と言った提言も以下になされております。
最近、東京・多摩川に住むオスの鯉から精巣の中に卵を持つものが見つかっています。また、全国の海岸で見られるイボニシ(巻き貝の一種)のメスにペニスが生えるという現象も起きています。こうしたインポセックスを始めとした「生殖異常」の例が、近年世界各地より報告されています。巣を作らないワシ、孵化しないワニやカモメの卵、子供を生まないミンク等その数は非常に多くなっています。
私も調べましたが驚いた事に、環境庁が示した環境ホルモンの化合物質の一覧では、67品目もありました。
先ずは肉体における、草食系男子と男系女性の出現はこの環境ホルモン(分泌物かく乱物資)の影響が大きいと言えると思います。
しかし大事な事は、このような状況を精神的における意義としてはどんなものかを考えるべきであり、それこそがバガヴァッド・ギーターを学ぶ意義がそこにあるのです。
その点につきましては、次回に書きたいと思います。
先日、バガヴァッド・ギーターを学んでいる生徒さんから次のような質問がありました。
先生、質問です。
いま、草食男子ってよく言いますが…
細い男の子、増えているように感じます…
体形で言えば、サットゥバなんですが…。
そう言うタイプが、最近ふえていることと、世の中の流れって、何か関係があるんでしょうか…?
またお会いしたときでも良いですが、先生のご意見が聞きたいなと思いました。
この回答としては、物質次元の観点と精神的次元の視点の両方の観点から観る必要があります。
以上が昨日までの初頭文ですが、今日はこの問題の回答を精神的次元の観点から、考察したいと思います。
彼らの性格は、優しく、争いを好まず、控え目で、女性に対しても積極的な恋愛アプローチをしなし、この様な特徴を持っているようです。
一口でいえば、昔の男性像とはかなり離れた女性的なイメージがする、中性的な男の感じです。
それに、男性の特徴である、物事に対して勇敢、果敢、と言った攻撃的な部分が抑えられているので、余計に中性的イメージが強くなるようです。
まず哲学的に言えば、「魂には男も女もない」と言う事がその原点です。
これは、以前にも9月11日から16日に4回にわたり書きましたが魂は「一霊四魂」と言って、神の直霊と四つの魂の資質として、荒御霊、和魂、幸魂、奇魂、があります。
荒御霊と奇魂、は男性的資質であり、和魂と幸魂は女性的資質をあらわしております。
そして、人間としての魂を完成させるには、この四つの質性をバランスよく持ち合わせることが、人間の魂の完成とされているのです。
このバランスと言う事が大事であり、四魂におけるそれぞれの大きさは、その人の人間的特徴なのです。
それに精神的観点からの人間としての価値は、人に対する優しさ、思いやり、許す心、敬う心、であり、そして自分に対する実践行動は、正直であること、規則や礼儀を守ること、我慢すること、反省することなのです。
これらの事ができる人こそ精神的に高い人であり、それを知らず出来ない人を無知な人と言うのです。
一番大事な事は、肉体的には環境ホルモンの影響で男性的特徴がうすめられ、また精神的にはその根本である道徳と倫理が軽んじられている社会の中にあっては、彼らの性格が正しく評価されず、精神的自信を失ってしまっている状態が問題であると思われます。
せっかく人間として、サットヴァの高い資質に恵まれながらも、精神的学びのチャンスを得ることなく、生存競争の激しい社会で、うつや自殺や孤独でつぶされていく人が多いことは、悲しいことです。
しかし、こんな時代だからこそ、永遠真理を説いたインド哲学バガヴァッド・ギーターが必要なのです。
先日よく、質問をされてこられるS氏(69歳)と二時間ほど話をしました。
彼とは平成23年10月14日に、仕事の関係で初めてお会いしたのです。
その時は、私は「インド哲学塾」の日でしたので彼を誘いました。
するとその場で「参加させて頂きます」と即答されたのでした。
Sさんも仕事での悩みや人生の生き方に疑問をもち、苦悩していた時でした。
それでも、50キロ以上離れている沼津市まで行くことを決意をしたのは、それなりに救われたいと言った想いがあったのだとおもいました。
「本物の出会いは一瞬」と以前このブログでも書きました。
正にその出会いでした。
その後何回となく彼の疑問に、ギーター的解釈をもって、これからはインド哲学の時代であり、その必要性を説いてきました。
そして先日二時間以上、喫茶店でバガヴァッド・ギーターの話を、じっくりしたのです。
その時の感想がメールできましたので、私も100万人の一人に出会えた喜びとして、ここで御紹介させて頂きたいと思います。
先日ある読者から、現在の宗教に対する人々の非常に的を得た質問が来ましたのでここでご紹介いたします。
インド哲学があり、それに沿ったインド仏教がありますが、「日本の仏教はインド哲学(インド仏教)が持つ世界観、論理、認識等が切り捨てられ、念仏とか座禅の形のみが残った」という説がありますが如何思いますか?