2011-12-22 07:53:06 balkrishnaの投稿
同志のMさんから次のようなメールがきましたので、今日は中庸について書きたいと思います。
先生との講義のメモをまとめていて、中庸についてのご説明がありました。
とても大事な言葉なのに、「欲に対して中庸であれ」と「無執着」という
事しかノートを取っていませんでした。
明日の授業では中庸について、補足の説明を頂ければと思います。
先ず人間は、「あるものに突き動かされて生きている」、と言うことを理解して下い。
いや私は「自分で思慮深く理性的に自主的に行動しています」と言うかもしれません。
しかし、その思慮や行動も結局は、グナ(無知、激情、徳性)の肉体から発せられたもであり、その人の本質が無知の状態であれば、想うこと考えることはすべて、暗愚であり怠惰であり妄想の想いしかできないのです。
また激情の状態におかれた人はその起こす想いはすべて、果報的であり、果敢的であり、奮闘することを想うのです。
徳性の人は、その思うことが知的であり、穏やかであり、誠実で自制的な思考行動を起こすのです。
つまり人間の魂は、魂が宿っている肉体の性質である、自然の三様式によって、振り回されていると言うことなのです。
たとえ自分では冷静に判断を下していても、その判断自体がすでに無知、激情、徳性の様式からは逃れられないと言うことなのです。
従って、まずは自分がどの様式に一番影響を受けているかを、自己判断する必要があります。
それにこの世の中は、幸福不幸、金持ち貧乏、名誉不名誉、暑い寒い、綺麗醜い、その他全て二元対立、二極相対と言った、対立的概念の中で生きていくよう余儀なくされているのです。
この両極端の意識が、不幸の悲壮感や、喜びの有頂天の意識、となってしますのです。
しかし、この二つの極端の本質は結局は不幸なのです。
例え幸福と思い、有頂天となっていても、それが永遠に保証される事はなく、その奥底では常に不安を抱えているはずです。
それに、快楽と思える事を維持する為には、常に競争しなければならず、非常な努力をしなければならない苦労が付きまとうのです。
これが物資次元の二極相対における、絶対的に超える事が出来ない、物質次元の罠なのです。
文明社会が物質的にも利便的にも発展すればするほど、便利で快適になるけれども、非常に住みづらい世の中になってしまうのです。
この社会の状況も、個人レベルでの生活の状況も、本質的には同じなのです。
従ってそこで大事なことは、物質文明は人間が生きていくために、最低限度の物質環境に留めておく事が必要であり、それが欲望の赴くままに放置されれば、それは激情の世界であり、当然激しく苦しみの世界に突き動かされていくのです。
発明は必要の母でありますが、しかし今は、発明は必要の母となり下がってしまいました。
豊かな暮らしを求めて造ってきた原子力発電所は、人が生きていくための最低条件すら許してくれない、過酷な生活環境を創ってくれました。
これ自体が既に、今の物質文明社会の限界を示しており、文明社会の行き過ぎによる矛盾が原発事故に代表するように、各所に出てしまっております。
この物質次元の罠から逃れる処方箋としては、足るを知る「知足」であり、物事の行き過ぎを抑える「中庸」がカギとなるのです。
同志からのメール(12月17日のブログについて)テーマ:同志からのメール
2011-12-19 08:05:26 balkrishnaの投稿
昨日、同志のMさんからメールが来ましたのでご紹介いたします。
認知症についてのブログは、魂と肉体の関係がとても解りやすく説明されていますね。
両親にも読んで貰いたいと思いました。
人間の魂はほんの些細な気づきで大きく成長する様に思えますが、正しいでしょうか?
甥たちと一緒に居て楽しかったですが、話題は「未来への不安;職を失ったらどうしよう等」、「どうしたら人生に勝ち抜く事ができるんだろう」という物質的な事ばかりでした。
「心配しても仕方ないでしょ。(神に)ゆだねることも大事じゃない?」と言ったら、「それは甘い」と言い返されてしまいました。
まさに目隠しをして欲望の馬を走らせてる図です・・ね。(笑い)
<人間を五頭立ての馬車に例えますと、五頭の馬はそれぞれ、眼、耳、鼻、舌、皮膚を表し、心は手綱であり、知性は御者を意味し、そして魂が馬車のオーナーに例えられます>
それではまた来週の先生とのご講義を楽しみにしております。
と、この様なご感想を頂きました。
「御両親さんにも読んでいただきたい」とありましたが、御両親さんもそうですが、これはすべての人々に、子供の時からこの様な、人間のメカニズムの原点を、知ってもらいたいものです。
車でも免許証を取るためには、運転技術だけでなく、車の大まかな構造の学科試験があるのと同じで、人間が肉体と言う乗り物に乗って人生を生きていくには、その肉体の物質的と精神的な両方のメカニズムの関連性を十分知る必要があるのです。
しかし実際には、ほとんどの人はそんな肉体のメカニズムには全く興味もなく、こんなに重要な事でありながらも、知ろうともしません。
いや、知ろうともしないよりも、気付きすらしていないのが現実です。
その為それらの人は、肉体の主人公またはオーナーが魂であることすら認識してないのです。
ただ五感(眼、耳、鼻、舌、皮膚)から刺激を受け、その刺激で心に想いを抱き、肉体から引き起こされる欲望に突き動かされて生活しているのが、人間生活の実態なのです。
主人公としての魂が、馬車を操る肉体の司令塔である頭脳に、魂としてやるべき責務、いわゆる人間としてどう生きるべきか、生きる目的は何か、その為には何をなすべきか、と言った生き方の根源的なる指示を、司令塔に全く指示していないのです。
ほんらい肉体の五感感覚器、心、頭脳は、魂がその目的を達成する為に、駆使する道具なのです。
しかしその駆使すべき道具は、一応自律した生体ロボットであるため、自分で生命を維持する為には、自分で思考し行動して、命をつなぐだけの自律行動は魂が無くてもできるように、精密に作られているのです。
しかしこの精密に作られた生体ロボットも、年数がたてばそれぞれの器官の機能は衰退します。
その衰退の最も激しい所が頭脳なので、その頭脳の認識力が低下して、認知症となってしますのです。
しかし、魂が自己の本質であると考える人は、先日のブログにも書きました。
<普段から肉体と魂は別であるとと言った認識を持っていれば、決して認知症にはならないのです。
魂が主体となって生きている人は、肉体の機能を魂が精神修行の為に使っており、その魂のエネルギーは頭脳をコントロールする力を働かせているからなのです>
要は、この部分が一番重要なのです。
この、ちょっとした魂としての気づきが、一生の生き方を左右するほどの重要なポイントなのです。
Mさんも気付かれました。
正しいでしょうか?なんて言う、そんな程度のものではないのです。
人間の本質は魂であると気づくことが、人間として生きる第一歩である、それほど重要な認識なのです。
しかし、ほとんどの人は、自分が魂であると認識せずに、一生を終えているのです。
つまりほとんどの人は、生体ロボットに閉じ込められ、自律した生体ロボットに好き勝手に動きまわされ、翻弄させられて、生体ロボットの一生に付き合っている、と言うことなのです。
プラトニックラブ(精神愛)についてテーマ:質問コーナー
2011-12-18 08:48:49 balkrishnaの投稿
私と共にギーターの真髄を求め、一生懸命インド哲学を学んでいる人から、次のような質問がありました。
先生、プロラトニックラブとクリシュナとゴーピーについて、十分に話ができなくて残念でした。
しかし、肉体と魂の段階までの話まではよくわかります。 また今度話をするのを楽しみにしています。
この女性には、まず始めとして、昨日のブログで書いた人間の基本構成を説明しました。
その要点として次のことを話したのです。
1−人間が生きている物質次元では、その人の行動を頭脳が司令塔として働く。
2−人間には五つの感覚器(目、耳、鼻、舌、皮膚)があり、器官からは美しい、美味しいなどの感覚が生じる。
3−それぞれの感覚器で生じた感覚で、こんどは愛情、喜び、悲しみ、不安、などの気持ちが心にわく。
4−心に湧いた優しさ、思いやり、素直など、心にわいた想いが長年積み重ねられ、今度は魂に刻まれる。
ここで重要なことは、物質的人間として生きている人は1〜3までの領域の中でしか、生活を営んでいない、と言う事なのです。
一般的に言われているプラトニックラブは、哲学的解釈からすればそれは、物資的肉体次元の事象なのです。
哲学的には、プラトニックラブは魂の活動としての愛の交歓(ラサ)を意味するものなのです。
それは必ずその人が解脱の境地であるモークシャに達していなければ、それは肉体次元である心で妄想をかき立てるだけの、見せかけのプラトニックラブなのです。
この解脱の境地(モークシャ)に達するには以前8月18日に、宗教の救われ方で書きました。
1−宗教道徳倫理などの義務(ダルマ)を果たす。
2−社会活動をして利得(アルタ)を得る。
3−享楽(カーマ)を楽しむ。
4−解脱(モークシャ)の境地を得る。
この四つの段階を正しく経てきた人だけが、持つことのできる、肉体的動物欲望を完璧にそぎ落とした本物の精神的愛情がプラトニックラブなのです。
当然そこには、その人の人生で醸造されてきた個性があり、その熟成された精神的個性でもって、精神愛が交わされるのが、プラトニックラブなのです。
また、この愛の交歓(ラサ)は、同じ種族どうしで交わされるものであり、ペットとの愛情交歓はラサとは言わず、それはまだ物質次元の心で沸き起こる愛情段階なのです。
そしてまた、人間世界で一般にかわされる恋愛感情での愛の交歓もラサとは言わないのです。
プラトニックラブにおいては、肉体的動物欲望を完璧にそぎ落とした感情とお互いが交歓しあう、精神的に確立された個別性が必要なのだからです。
そして、人生をとおして、四つの宗教の修行を成しながらも、人間の純粋性を保ち、精神哲学まで意識を昇華した人だけが、人生の醍醐味としてのプラトニックラブを楽しむ事ができるのです。
この境地に行けば死後は当然、クリシュナとの精神的愛の交歓(ラサ)を、交わす事ができるのです。
これらをまとめてみるとプラトニックラブとは。
1−解脱(モークシャ)の境地にあること。
2−すべてが魂の精神的次元であること。
3−精神的個別性が確立されていること。
以上この、三つの条件をみたしてこそ、本物のプラトニックラブなのです。
この教えはバガヴァッド・ギーターにはなく、ギーターを超越たシュリーマド・バーガヴァタムに説かれている真理なのです。
2011-12-11 07:49:33 balkrishnaの投稿
昨日、私と知り合いで、インド哲学バガヴァッド・ギーターとクリシュナの素晴らしさに魅了された、Sさんからメールが来ました。
Sさんとは知り合ってからまだ二カ月しかたっておりませんが、これまでも何回となくメールを下さり、以前11月25日にも質問をしてくださり、このブログでも紹介させて頂きました。
そこでのメールからも、どんどん意欲的にギーターを学ばれている姿勢が伺われますした。
そんな素晴らしいSさんからのメールをご紹介いたします。
師匠バール・クリシュナさまへ
1、田野(クシェートラ)とは日本語でどう読みどういう意味? 「でんや」?場所(部位)のことですね?
2、今日のブログは読めば読むほどに味わい深いものがありますね。
「魂の修行のためにある本来の肉体の全ての器官を、意識を持って適切に利用すべき」とは、「魂の修行とは心身浄化する」ことと解釈して宜しいのですね?
心身浄化とはクリシュナを信じ、自分を信じ、廻りの雑事は無視、苦しみにも耐え、ギータを学ぶことで良いのですね。
3、昨今の小生には、何らかの導きがあり師匠に出会い、ギーターを知り、クリシュナを知り、自分の傍にパラマートマーが付き添っていることを知り得たことは神聖なる神秘的な導きが起きているのだと、素直に思っていますし、確信します。
4、神様の采配に感謝して、更に自己の精神的発展につなげようと思います。
このメールはSさんが、、私が12月9日に書いたブログの次の部分に、感激されたのです。
人間を分析すると、魂が活動するところを田野(クシェートラ)と言います。
それは人間が精神修行をするための、頭脳をはじめ手足などの身体部位や、それに視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚の、五つの感覚器官など全てを含めたものを田野(クシェートラ)言います。
そして魂はその田野をつかって、精神修行をするために心臓に宿っています。
また魂の指導やその人の行動を観察するために、魂に寄り添うように、創造主神の直接拡張体であるパラマートマーがいるのです。
つまり私たちは、全ての行動を神様に見らていると言う事なのです。
さらには、魂の浄化が進めば進むほど、魂に寄り添うパラマートマーの存在に気づくようになり、その段階になるとパラマートマーの導き、つまり神の諭しが理解できるようになるのです。
従いまして、魂に目覚めた人は、魂の修行の為にある本来の肉体全ての田野を、意識を持って適切に利用すべきでなのです。
しかし、実際には動物の肉体本能である食欲、性欲、快楽欲、そして人間の持つ物欲、支配欲、名誉欲などによって魂がゆがんだ方向に進んでいる為に、至上主神クリシュナの導きの諭が届かないのです。
もし魂が自己のやるべき責務を認識して、全身全霊の熱意、堅忍不抜の精神、そして断固たる決意をもって、心身浄化の方向に進めば、必ずパラマートマーの神聖なる神秘的な導きが起こるのです。
この様に私が書いた、ギーターの真理の素晴らしさに気づき、人間としての真理を知り、そして正しい生き方を目指そうと努力する姿勢が、私としては大変うれしく想うのです。
これこそが、私が今の時代にこの世に生を受け、使命を果たす意味がそこにあるのだと確信しております。
私は、私が教える真理を実践することで、その人が自分に自信をもって自主自立ができ、さらには自らを尊ぶことができる独立自尊を、ギーターを学ぶ人に求めています。
そしてこの世の真理を知り、独立自尊を成しとげた同志と共に集い、クリシュナマントラを唱えることを最終の目標にしています。
その為にもインド哲学バガヴァッド・ギーターを学ばなければなりません。
スカイプ仲間からの疑問 テーマ:私のエッセー
2011-12-05 07:47:52 balkrishnaの投稿
先月の11月30日に、友達の紹介でカナダに住んでいる方とインド哲学やクリシュナについて、スカイプで話をする事になりました。
その方も、精神的な話には大変興味があるようで、私の話にも素直に受け入れてくれる感じが伝わってきました。
しかし、その後メールで次のようなご質問がありました。
先生、昨日の初講義はとても楽しかったです。
毎晩夜中に目が覚めてメールをチェックしたりしているんですが、夕べはぐっすりと眠る事ができました。
「他人の心配事」に対する心構えについて教えて頂いたので、開放されたからでしょうか。
ありがとうございました。
インド哲学の講義を勉強したいと思います。
しかし私の中には固有名詞(シュリー クリシュナ)を使っての「絶対神」という観念に抵抗があります。
また主人の職場でのインド人とのトラブルを聞いたり、近所にシュリークリシュナを名乗る宗教団体が居て、そういう人達の活動を見ているとインド宗教って何だろう??という疑問が出て来ます。
こういう状態がマインドコントロールというか、正しい物を知ろうとする時の邪魔なのでしょうか??
そういう状態でも教えて頂ければ幸いです。
この様な質問をされているこの方は、クリシュナの真実を観ているのではなく、クリシュナの教えを基とする宗教団体の実態を肌で感じてその感じをもって、クリシュナのイメージとしているのです。
従ってクリシュナ自体の真理とは全く違った側面から、クリシュナを捉えているのです。
クリシュナの実態は、全知全能の真理、至高至福の歓喜、永遠不滅の存在、これら三つをすべて同時に兼ね備えた(サッチダーナンダ・ヴィグラハ)の存在なのです。
つまり、クリシュナの教えを利用してさまざまな活動をしている、宗教団体の活動自体とは全く無関係なものである、と言う事です。
クリシュナの実態と、その宗教団体の活動実態はまったく別物であり、それを混同して捉えることは完璧に間違いなのです。
事実、私とお話をしている時は初対面にも関わらず、この方にとっては時間がたつのを忘れるほど、至福の時であり、喜びに浸っていたひと時であったはずです。
そして、初対面でのお話でも、この方がもっていた疑問も晴れ、その夜は安らかに眠ることもできるようになったのです。
言うなれば、私がインド哲学バガヴァッド・ギーターの話をするのは、この方はクリシュナと直に話をしているのと同じことなのです
それはバガヴァッド・ギーターはクリシュナの御言葉であり、その話をする私はバール・クリシュナ、つまりクリシュナから使命をうけた降臨者だからなのです。
教えはその人の全人格そのものです、その人の人格によって教えはどのようにも解釈できてしまうのです。
つまり教えの教義よりも、それを説くその人物その者の精神性の真価を見抜くことが大事なのです。
私の教えの原理原則は、人を集めず、お金やお布施を求めず、去る者は追わずなのです。
そしてこの人に私は、人に頼ることなく自分で自立する自主独立と、他者に依存することなく自らを尊ぶ、独立自尊になることを求めるのです。
そんな精神的に発展する学びこそが、バガヴァッド・ギーターの真の学びなのです。
草食系男子と男系女性の出現テーマ:私のエッセー
2011-11-27 08:22:15 balkrishnaの投稿
先日、バガヴァッド・ギーターを学んでいる生徒さんから次のような質問がありました。
先生、質問です。
いま、草食男子ってよく言いますが…
細い男の子、増えているように感じます…
体形で言えば、サットゥバなんですが…。
そう言うタイプが、最近ふえていることと、世の中の流れって、何か関係があるんでしょうか…?
またお会いしたときでも良いですが、先生のご意見が聞きたいなと思いました。
この回答としては、物質次元の観点と精神的次元の視点の両方の観点から観る必要があります。
創造主神であり至上主神であるクリシュナは、この宇宙における全ての存在を、物質エネルギーと精神エネルギーの二つのエネルギーで創造されております。
自己そのものである魂は精神エネルギーであり、その魂の修行をするために創られた人間肉体は物資エネルギーなのです。
そして、それはそれぞれは、物質と精神と完璧に独立した存在なのです。
しかし、哲学的思考をもっていないほとんどの人は、肉体も魂も同一視しており、そもそもそこからして全ての真理が、理解不能の状態に置かれてしまうのです。
とうぜん生理学的にはその原因は環境ホルモンによる影響である、と言った提言も以下になされております。
最近、東京・多摩川に住むオスの鯉から精巣の中に卵を持つものが見つかっています。また、全国の海岸で見られるイボニシ(巻き貝の一種)のメスにペニスが生えるという現象も起きています。こうしたインポセックスを始めとした「生殖異常」の例が、近年世界各地より報告されています。巣を作らないワシ、孵化しないワニやカモメの卵、子供を生まないミンク等その数は非常に多くなっています。
私も調べましたが驚いた事に、環境庁が示した環境ホルモンの化合物質の一覧では、67品目もありました。
先ずは肉体における、草食系男子と男系女性の出現はこの環境ホルモン(分泌物かく乱物資)の影響が大きいと言えると思います。
しかし大事な事は、このような状況を精神的における意義としてはどんなものかを考えるべきであり、それこそがバガヴァッド・ギーターを学ぶ意義がそこにあるのです。
その点につきましては、次回に書きたいと思います。
草食系男子と男系女性の出現(U)テーマ:私のエッセー
2011-11-28 07:36:51 balkrishnaの投稿
先日、バガヴァッド・ギーターを学んでいる生徒さんから次のような質問がありました。
先生、質問です。
いま、草食男子ってよく言いますが…
細い男の子、増えているように感じます…
体形で言えば、サットゥバなんですが…。
そう言うタイプが、最近ふえていることと、世の中の流れって、何か関係があるんでしょうか…?
またお会いしたときでも良いですが、先生のご意見が聞きたいなと思いました。
この回答としては、物質次元の観点と精神的次元の視点の両方の観点から観る必要があります。
以上が昨日までの初頭文ですが、今日はこの問題の回答を精神的次元の観点から、考察したいと思います。
彼らの性格は、優しく、争いを好まず、控え目で、女性に対しても積極的な恋愛アプローチをしなし、この様な特徴を持っているようです。
一口でいえば、昔の男性像とはかなり離れた女性的なイメージがする、中性的な男の感じです。
それに、男性の特徴である、物事に対して勇敢、果敢、と言った攻撃的な部分が抑えられているので、余計に中性的イメージが強くなるようです。
まず哲学的に言えば、「魂には男も女もない」と言う事がその原点です。
これは、以前にも9月11日から16日に4回にわたり書きましたが魂は「一霊四魂」と言って、神の直霊と四つの魂の資質として、荒御霊、和魂、幸魂、奇魂、があります。
荒御霊と奇魂、は男性的資質であり、和魂と幸魂は女性的資質をあらわしております。
そして、人間としての魂を完成させるには、この四つの質性をバランスよく持ち合わせることが、人間の魂の完成とされているのです。
このバランスと言う事が大事であり、四魂におけるそれぞれの大きさは、その人の人間的特徴なのです。
それに精神的観点からの人間としての価値は、人に対する優しさ、思いやり、許す心、敬う心、であり、そして自分に対する実践行動は、正直であること、規則や礼儀を守ること、我慢すること、反省することなのです。
これらの事ができる人こそ精神的に高い人であり、それを知らず出来ない人を無知な人と言うのです。
一番大事な事は、肉体的には環境ホルモンの影響で男性的特徴がうすめられ、また精神的にはその根本である道徳と倫理が軽んじられている社会の中にあっては、彼らの性格が正しく評価されず、精神的自信を失ってしまっている状態が問題であると思われます。
せっかく人間として、サットヴァの高い資質に恵まれながらも、精神的学びのチャンスを得ることなく、生存競争の激しい社会で、うつや自殺や孤独でつぶされていく人が多いことは、悲しいことです。
しかし、こんな時代だからこそ、永遠真理を説いたインド哲学バガヴァッド・ギーターが必要なのです。
2011-11-26 08:47:24 balkrishnaの投稿
先日よく、質問をされてこられるS氏(69歳)と二時間ほど話をしました。
彼とは平成23年10月14日に、仕事の関係で初めてお会いしたのです。
その時は、私は「インド哲学塾」の日でしたので彼を誘いました。
するとその場で「参加させて頂きます」と即答されたのでした。
Sさんも仕事での悩みや人生の生き方に疑問をもち、苦悩していた時でした。
それでも、50キロ以上離れている沼津市まで行くことを決意をしたのは、それなりに救われたいと言った想いがあったのだとおもいました。
「本物の出会いは一瞬」と以前このブログでも書きました。
正にその出会いでした。
その後何回となく彼の疑問に、ギーター的解釈をもって、これからはインド哲学の時代であり、その必要性を説いてきました。
そして先日二時間以上、喫茶店でバガヴァッド・ギーターの話を、じっくりしたのです。
その時の感想がメールできましたので、私も100万人の一人に出会えた喜びとして、ここで御紹介させて頂きたいと思います。
バール・クリシュナ・フミオ様
本日はありがとうございました。2時間アツと言う間でしたね。
自分の縁というか、運と言うか。インド哲学の存在、バガバットギーターの
存在、最高神クリシュナであること、哲学が宗教以上に大事である等出会えたことの
運の良さ。一般的に言えば「俺はツイテル、ツイテル人間だ!」
出会うべきして出会ったか?
真摯に、謙虚に、素直にあせらず進むべきなのだなぁ! と思います。
ハレー クリシュナ ハレー クリシュナ・・・・
それから私も彼のところへ次のようなメールを送りました。
Sさんへ
おはようございます。
昨日は非常に楽しい時間を有難うございました。
「2時間アツと言う間」とありますが、私はいつもインド人のSさんやAちゃんと話をしていてもいつもアット言う間の感じで過ごしてます。
私とクリシュナの話をすると、インド人のSさんなんかは「もう酔ってしいます」と感激に浸ってしまうくらいです。
この境地は、クリシュナ意識がない人には絶対に味わえない、それこそバガヴァッド・ギーターの醍醐味なのです
物質次元にどっぷりつかっている人は、セックス、グルメ、サイトシーイング、アルコール、スモークキング、ギャンブル、ドラッグ、など、五感での感覚でしか、快楽を得ることはできないのです。
しかしこの物質次元の快楽は結局は、深みにはまったり、身体を壊したり、破滅の道に往くことになるのです。
それは、クリシュナの厳然たるグナの掟だからなのです。
これらの法則を知らず、ただ五頭の馬に引きずりまわされる感覚奴隷の人間ほど哀れな者はないと思います。
それに比べクリシュナの話であるバガヴァッド・ギーターは、魂に真理の道を悟し、全知全能(チット)、永遠(サット)、至高至福(アーナンダ)の境地に導いてくれるのです。
当然、時間という観念は無くなるのです。
Sさんも少しだけその境地を、昨日は味わえたのでないかと思います。
2011-11-25 08:30:59 balkrishnaの投稿
私のブログの読者の一人である、Sさんからご質問がありましたので、ご紹介いたします。
バール・クリシュナ・フミオ様へ
魂はそれぞれ独立し、兄弟でも別々だと何年か前から感じ、思っていました。
しかし家族、親戚付き合い等他とは違った人間(魂)関係がある。
それは血の繋がりだけでなく、むしろ精神的共有物によるのではないかと思う。
それが何であるかは判らない。
一般的な人間(魂)関係は物質的つながりがより強く、兄弟、家族等は潜在的に意識しない形のない精神的つながりが強い姿での人間(魂)関係ではないか?と。
最近特に親が子供を虐待、子供が親を殺すなど眼に見えない深層的な精神のつながり、絆が最も親しいはずの魂の間さえも薄れている為ではないかと思う。
現在世の中で生ずる事件、トラブルはやはり深層的な精神性の薄れによるのではないかと強く感じるのですか? 如何か?
確かに個々の魂は別々かもしれないが、より個々、別々になるのはそれだけ物質的欲望がより強くなっているためなのかもと、強く気付かされた今日である。
このS様への質問に対して私は、次のよう回答いたしました。
先ずは自己の魂は個別性を持っており、ほかの魂の影響は受けない絶対なるものです。
従いまして、自分の魂と両親や兄弟との魂の、遺伝的つながりは全くないのです。
それに、魂自体は精神エネルギーであり、意識であり、精神知識なのです。
それに対して、肉体は両親から遺伝的に継承される、魂の乗り物と言う物質です。
従いまして、おのずと肉体は両親や先祖の遺伝的影響を受けるのです。
ただその両親の基に生まれれ落ちたり、また兄弟として関係を持つのは、今度は魂の因縁的な縁で、関係を持つのです。
この因縁的関係は、厳然たるものであり、自分自身では全く解らないようになっているのです。
しかし、その理由は、過去の絆のやり直しだったり、供に修行する為に自ら求めてきたものであったり、また逆に争い合った間柄で再度カルマの解消の為に結び付けられたり、その他いろいろな理由があっての巡り合わせなのです。
その、理由を自らが感じ取り、与えられた間柄を自らの魂の発展の為に、積極的に向き合う事が必要です。
しかし、過去性において恨み合う関係にあった人は、さらにこの世でその苦しみを味わう羽目にもなる場合もあるのです。
その人の性質や人間性は、過去性の輪廻の積み重ねがベースにあり、それに今生での生活境遇で培われたものが加わったりして、出来上がるのです。
特に、今の生活環境はカリの時代と言って、無宗教であり、唯物志向であり、享楽的であり、競争的であり、それに好戦的な激しい時代となっております。
その為に、人間としての道徳や倫理など無視され、ただ欲望の赴くままに行動するのが自由だと、錯覚をして生きているのです。
ご指摘の通り、現代社会における、夫婦や親子や兄弟関係の相克など、昔では考えられない異常な世相だと、私も思います。
これからはますます、経済的にも厳しい状況が予測されますので、その生活の為の生存競争は一層激しくなると思います。
だからこそ、本当の人間の生き方であるバガヴァッド・ギーターを学ぶ必要があるのです。
2011-11-21 07:34:48 balkrishnaの投稿
先日ある読者から、現在の宗教に対する人々の非常に的を得た質問が来ましたのでここでご紹介いたします。
インド哲学があり、それに沿ったインド仏教がありますが、「日本の仏教はインド哲学(インド仏教)が持つ世界観、論理、認識等が切り捨てられ、念仏とか座禅の形のみが残った」という説がありますが如何思いますか?
ここが正に哲学が抜けてしまった形なんですかね?だから、人間は何のために生きるのか?生きる理由は何か?
死んだらどうなるのか?幸福とは何だ?とかを疑問に思わずに、論議もしなくなってしまったのだろうか?
だから、真理などもっと気にしなくなってしまったのだろうか?
これに対して私は、次のように回答いたしました。
さて、疑問の原点ですが、それは部分でもって宗教を捉えているからなのです。
この場合「群盲、像を撫でる」の例えが分かりやすいと思います。
ある盲人は像の足を撫でながら、像は丸太のような動物であると認識し、またある盲人は腹を撫でながら像は壁のようなものであると認識し、またある盲人は鼻を触りながら像はホースのようなものであると認識するのです。
それぞれの解答は決して間違っていないのですが、その部分だけを主張して他を知らなければ、その全体像はつかめないものです。
部分の正解は、他の部分にとっては誤解でもあるのです。
要するに全体を捉える知識が無いのに、部分の知識で他を誤認している状態なのです。
それ自体は決して間違っていないのですが、宗教は過程であり部分の詳細に過ぎません。
例えその部分の教えを詳しく知り修行しても、それがすべてと判断するのは誤認です。
従って、宗教全体の捉え方をしっかりつかんでいなければ、分部に陥って独善的な判断をしてしまう宗教の危険がそこにあるのです。
宗教の上位のカテゴリーである、哲学を学ばなくしては決して宗教の独善の罠からは逃れられない、と言う事でしょう。
五階に昇れば、四階の屋上で行われている事はすべてはっきり見えるのと同じ理屈です。
精神世界の階段は、躾、道徳、倫理、宗教、哲学のこの五つの段階があり、哲学を修しない限り宗教の全体を理解できないのです。
宗教はその人の性格に合った、また好みに適した、修行の一つの過程であり部分に過ぎないのです。
しかし、こんなに重要な哲学を学ぼうとする人はほとんどいません、哲学を深く知らなくても、宗教の全体としての体系を知るためには、絶対に哲学の初歩でも学ばなければならないのです。
つまり哲学を学ばなくして精神修行の完成はあり得ないと言う事です。