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            津軽三味線始祖
      仁太坊物語 
      
   
                    台本制作&語り&演奏 白井勝文

歴史の流れが大きく動き始めた,幕末から明治にかけて、

一人の坊様が,時代の変化に戸惑う民衆の中に,派手ばでしく、語り出た。

「ああ〜こらこら! 神原の仁太坊様だ。昔しゃ、まなぐさパッツリ面こい童しっ子、

今だば、あばたの坊様。ア〜〜 のうそれ、のうそれ、の〜れ のおれ。世の中変わ

った、世の中変わったあ〜。お岩木山さ女子登って、ええごとなった、虚無僧吹いて

た尺八も、坊様が吹いてもええごとなった。ア〜〜 のうそれ、のうそれ、の〜れ 

のおれ。世の中変わった、世の中変わったあ〜。

坊様とは、目の見えない男の門付け芸人のことで、津軽ではホイドと言う差別語でも

呼ばれそれは、物ごい乞食を意味するものであった。

この風変わりの坊様を通称、神原の仁太坊と人は呼んでいた。

岩木川の橋の下の、馬小屋まがいの掘っ建て小屋で一生を送ったこの、坊様こそが、

津軽三味線の始祖! 神原の仁太坊であった。

仁太坊は安政四年(1857)七月七日、北津軽郡金木新田神原村に生まれた。父は

岩木川の渡し守、そして母は,諸国をさすらっていたはぐれごぜ。

その血筋からして既に仁太坊は、子供の頃から並外れた,芸的才能を顕し村人達を、

驚かせていた。

が、そんな仁太坊も幼い時、母と死に別れまた,八才にして流行り病で失明し更に、

11才の時には父をも亡くし、天涯孤独の境遇となってしまうのであった。

仁太坊は盲目で醜い,あばたの顔となりその為、人々からはさげすまされ、しいたげら

れたがその、苛酷な物乞い生活が逆に仁太坊の、ふてぶてしく開き直った反骨精神

を造くりあげていった。

地吹雪を思わす太棹の唸り、悲しさを訴える哀切な音色、三筋の糸に命を賭けた風雪

の門付け芸人仁太坊の、想像を絶する苦境と芸人魂が、日本を代表する民俗芸能,

津軽三味線を、創り上げたのである。

昭和3年(1928)、粉雪舞うく11月2日>、北津軽郡金木新田神原村の神田橋下の,

掘っ建て小屋で仁太坊は、妻のマンに看取られ他界した。享年は71才であった。

「ああ〜こらこら! 神原の仁太坊様だ。昔しゃ、まなぐさパッツリ面こい童しっ子、

今だば、あばたのジャドコ。ア〜〜 のうそれ、のうそれ、の〜れ のおれ。世の中

変わった、世の中変わったあ〜。ジャンギリ頭のフッツ達、金から金の軍服付けて、

フッツ鉄砲稽古すた、すたばたてジャンギリ頭の仁太坊様は錦風流尺八吹いた。

ア〜〜のうそれ、のうそれ、の〜れ のおれ。世の中変わった、世の中変わったあ〜

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仁太坊の生い立ち
仁太坊は安政四年(1857)七月七日、北津軽郡金木新田十八ヶ村の一つである、神原
村に生まれた。津軽平野を流れる岩木川の渡し守りである、三太郎の一人息子として
生まれ、本名は仁太郎,と言った。
三太郎の前身は定かではないが法華宗の信者の.三太郎が,般若心経も唱えていた
事から、門立ちの出家であった様である。
筋目悪しき者という一般社会から疎外された、最下層の三太郎にとってその、法華経
の信仰と読経は,生きていくための心の、よりどころであった。
幕末の頃、一人のはぐれごぜが十三湊から船に乗り城下、弘前へ向かう途中腹痛を
起した。丁度,神原村へ差しかかった時,痛みに堪えきれずに下船した。
そのごぜを昼夜なく介抱したのが,渡し守りの三太郎であったがまもなくごぜは、恩義
を感じて三太郎の妻となった。そして生まれた一子が、仁太郎である。
仁太郎の幼児の頃は、目の奇麗な可愛い子であったと伝えられている。
夏場など、腹掛け一枚で舟場で遊ぶ姿はまるで、ネプタの鏡絵から抜け出した
金太郎のようであったという。
よちよち歩きの頃から仁太郎は、村人や舟客からは『おお〜、仁太のメゴッコ』
と可愛がられた。それは容姿もさることながらドゲづくりであったからである。
ドゲとは津軽言葉で言う道化のこと、はっきり口のまわらない仁太は、鈴木主水の
口説を真似たかと思へば、近頃流行りだした,アイヤ節を歌い出すなど舟客を、ドッテン
させた。その突飛な行動に村人達は『テンポな童だなアー』と皆、驚かされるのであた。
テンポとは無鉄砲の意味である。
仁太郎のドゲとテンポは年齢と共に,成長をしていった。だが腕白の仁太は、差別意識
のある村中の子供達からは『末ばて臭え川守の屁〜』と卑しめられ、孤独な日々を'
送っていた。ドゲとテンポはその,寂しさを紛らす為の、ものでもあった。
ドゲの仁太郎は物心がつく頃になると父の、三太郎を手こずらせた。
琵琶法師がくれば琵琶が欲しいと言い、虚無僧が尺八を吹いていれば尺八が欲しいと、
駄々をこねる。
『なんぼ、テンポな童だばあ一』と、三太郎はわが子の駄々にあきれ返った。
村人達はそような仁太郎をみて、『三太郎!血は、争えねーもんだなあ』と,
仁太に手を焼く三太郎を慰めていた。
それもそのはず,仁太郎の母は、目の不自由な三味線弾きでその芸は、評判をとって
いたからである。だがその母も、仁太郎を生んでの産後の肥立ちが悪く、仁太が乳離
れした頃には早くも、他界してしまった。
小屋の天井に皮の破れた三味線が吊されていたがその、細棹の三味線は、早くして
亡くなったった母の唯一の、形見であった。

失明
仁太郎は貧しいながらも、村人や舟客そして三太郎の深い愛情に育まれ、豊な自然の
なかで伸び伸びと育てられていた。
しかし仁太郎は、元治元年の八才の時、金木新田一帯を襲った流行り病の庖瘡にかか
り、生死の境をさ迷うのである。
岩木川岸辺の、渡し守り小屋に住んでいた仁太郎は,神原村では初の患者であった。
村には医者もおらず,治療の方法はない、その為三太郎は、癌瘡絵馬を枕元に置き
懸命に祈った。が、それが精一杯の介抱でしかなかった。
わら布団に横たわった仁太郎は、生死の境をさ迷う幾日かを過ごし、やがて、危篤
から抜け出した時、
『おど、なんも見えねぐなったあ、なんも見えねえ一、真っ暗になっちまったあ』
と、わらぶとんの中で泣き出した。がそれでもどうにか命だけは取り止める事ができた。
けれども両眼は失明し顔面は、無残にもあばたに変わり果ててしまい、お世辞にも
『メンコイ童ツコ』とは、言えなくなっていた。
それからは、腕白だった仁太郎も河原で遊ぶこともなくなり、気が萎えたように小屋の中
に、閉じ籠もるようになってしまった。
思わず,三太郎の胸をよぎったのは,『果たしてこの子は,生きていげるのだろうか』
という不安である。渡し守りという仕事は、『身体が丈夫』と言うことが,一番大事な事、失
明した仁太郎は父親の仕事を継ぐことはできない、つまるところ仁太は,ホイドになるより
生きていくしか、道はなかった。
三太郎は好きな酒をぴたりとやめた、仁太郎がいとおしくてならなかったのである。
『仁太郎おぎろ!たまにゃ外さ出てみろ、天気はええし,抜ける様な青空だ、
夏初めの風っこはええでばなあ』
『オドウ、そうかてオラア,なんもめえねえ。外さ出ても家の中さいてもおんなじせえ』
『したばたて、草このかまり,鳥の鳴き声,暖げい陽の光、外さ出ねば判らねえべ一。
ほれ、これで,鳥の鳴き声に合わせ外さ出て、吹いてみろ』
と三太郎は小屋に閉じ籠もる仁太を元気づけようと一本の、横笛を与えた。
仁太郎は,かすれた音ながらも、鳥の鳴き声と戯れるかの様に笛を、吹き始めた。
この一本の横笛が仁太郎を蘇らせた、眠っていた天性の音感を目覚めさせたのである。
その後仁太郎は、鎮守の森から流れてくるさなぶりの笛を毎日、聴きよう聴き真似で懸
命に,吹き鳴らした。そして、瞬く間にその腕は上達し,器用に吹きこなす笛の技で舟客を
,ビックリさせるまで元気を、取り戻したのである。
今日も舟場で仁太郎は客を前に、めっきり腕を上げたさなぶりの笛を得意気に,ピーヒャ
ララー、ピーヒャララーと吹いていたが突如、その音は止まった。
尺八を吹きながら舟場へ来た虚無僧の尺八の音色に仁太郎は、好奇心をかきたてられた。
そしてその尺八を、食い人るように聴いていた仁太郎は、
『笛では出ねえ、あの低い音コはええなあ、アー』と溜息を吐いたかと思うと、
『尺八を吹いてみてえ一オラにも吹かしてケロッ』と虎無僧にせがんだ、仁太郎の境遇を
察してか虚無僧は『それなら津軽の尺八を吹いてやろう』と
錦風流の激しいコミを人れた曲を聴かせ、そして,音の出し方も教えた。
舟が向こう岸に着く頃には仁太の手にする尺八からは既に『ホーホー』と音が出ていた。
この虚無僧との出会いがあってしばらくしてから,仁太が吹く、いっものさなぶりの笛の
中に尺八の音が、聞こえるようになった。
芸能という世界との初めての出会いであり、失明以来仁太郎の,芸能的感性を覚めさせ
る明るい兆しが、見え始めたのである。

ごぜとの出会い
失明してからの仁太郎の聴覚と触角はドゲのすべてが集中したように異様に発達した。
聴覚は村人に、地獄耳と言われるほど発達し、人々の声色を聴き分けその人が誰で
あるか間違いなく、当てるのであった。
そしてまた好奇心の強い仁太は、手でさわってその物を確かめることがまるで、生き甲
斐であるかのように手当りしだい物に、さわってみるのであった。
『ああ、見える見える、よお一ぐ見える』
仁太郎には失明以来、新しい別世界がひらけていたのである。

仁太郎の渡し守り小屋は季節ごとに豊かな、自然の音に包まれる。
それは、春を告げるヒバリにはじまり、川鳥のチョチョジからウグイス、トンビ、山バト、
カッコー、フクロー、カラス、スズメなと、多くの鳥の鳴き声や、夏から秋にかけては、
草むらから湧き立つ数え切れない虫の,音であった。
仁太郎はそのような自然の音に興昧を持ち、鋭い聴覚でそれらを捕らえ楽しんでいた。

そんなある日、仁太郎の人生を決定づける音を、耳にしたのである。
渡し守り小屋に遠くから、三味線の撥音が微かに流れてきた。
仁太郎は、撥音にとりつかれたように小屋を這い出し、そして、その音に向かって杖を
頼りに追ったのである。その音は、ごぜが奏でる三味線の、撥音であった。
ごぜは夫の手引きで神原村を、流し歩いていたのだ。
そのごぜは、流行りの鈴木主水の口説きを哀しくも奇麗に、三味の音に合わせて歌って
いた。仁太郎は、鼻の頭に噴き出た汗を袖で拭い、噛み締めるようにジッとごぜの唄に、
聴き人っていた。ごぜの口説き唄は、鈴木主水から白井権八へ、そして小栗判官へと
移っていったが、間もなく仁太郎は、それまで体験したことのない津波のような激しい感
動に襲われ、涙が止めどもなく溢れ出てくるのであった。仁太は、感極まり
『うわあ、うわあ』と泣きだした。そして両手を広げ、ごぜの胸ぐらを掴むと、
『おらに一、三味線教えてけろお!、教えてけろお一!』
と、泣きじゃくり、そのままごぜの足下においおいと、泣き崩れたのである。
乳飲み子に聴いた三味線の、微かな記憶に亡き母の、面影を見たのかそれとも、ごぜ
の血筋を引く故の、三味の音に対する潜在的郷愁なのか、それは、胸の奥底から込み
上げてくる感動であり、哀しさでもあった。
このごぜとの運命的出会いがあって間もなく、三太郎は小屋の天井に吊してあった三味
線の皮を張り替えて仁太郎に、与えた。そして、
『目の見えねえ女が三味線コ鳴らして生ぎでる。女にできて男にでぎねえごとねえ!、
三味線好ぎだら三味線コで生ぎでいげばええ!』
と、三太郎は仁太を淡々と、諭したのであった。

ボサマ仁太坊の誕生
ある晩三太郎は、ごぜ夫婦を舟小屋に招き手料理で、もてなしをした。
伜の仁太郎に三味線を、教えてもらうためであった。
それからしばらくの間、渡し守りの掘っ建て小屋からは昼となく夜となく、三味線の音が
流れた。ごぜは、幾ばくかの報酬で仁太郎に三味線を、教えていたのであった。
やがて仁太郎は、ごぜの後を執拗に付いて回り,神がかり的な才能を現わし始めた。
その、物覚えの早さ記憶の良さはとても子供とは思われない、ほどであった。
ごぜに可愛がられた仁太郎は、鈴木主水、白井権八、小栗判官、さらには大江山の
酒呑童子や、岩見重太郎のヒヒ退治など次々と覚えていった。
このごぜの名も、いつ、神原村へ来たのかいつ去ったのか、誰も知る者もいなかったが、
ごぜの残した芸だけが、忘れ形見のようにしっかりと仁太郎に、伝承されていたので
あった。こうして仁太郎がようやく、一人前の芸人として歩き出そうとしていたとき、晴天
の霹靂のように不幸が、再び仁太を襲った。
こともあろうに三太郎は渡し舟から、足を滑らせ川に,転落したのである。
雨上がりで、六月の岩木川は増水していたが、河童同様の三太郎が岸へ泳ぎ着けな
い水量ではない、まるで水神隠しにあったかのように三太郎は二度と水面に、身体
を見せることはなかった。
村人達は、『河童の川流れだなあ〜』と三太郎の死を悼んだ。
なかには、『三太郎は願かけ死、したんだ、仁太が一人前の芸人になることを、自分の
命に代えて、願をかけたんだあ』と言う者もいた。
それは仁太郎が失明してから,三年目のことであり、早くも仁太は11才にして、天涯孤独
の境遇となってしまったのである。
仁太郎は父親の死に、打ちのめされていたが、悲しみに沈んでいる暇はなかった。
その日その日を、どう生きて行くかという現実が目の前にのしかかってきたからである。
このように仁太郎は、数奇で苛酷な運命を背負いながらも一人で、生きていかなければ
ならないのだ。仁太郎にとって生き延びる道はただ一つ、盲目の身でありながら三味線
を抱え、村から村へと門付けをするごぜのように、坊様になることであった。
『よお〜す、坊様になってえ、ひとりでも、自分の口は自分で食わしてく、誰の助けも借り
ねえ』と、仁太郎は決然と坊様の道を、歩み始めた。
そしてこの様な想像を絶する境遇から、類い稀な民俗芸能である津軽三味線の始祖仁
太坊が、誕生するのであった。

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平成12年1月静岡市グランシップにて